岩波 剛(いわなみ ごう、1930年(昭和5年)3月26日 … 岩波 剛(いわなみ ごう、1930年(昭和5年)3月26日 - 2023年(令和5年)10月15日)は、昭和・平成期の演劇評論家・編集者。 東京大学文学部卒業。新潮社に編集者として勤務しつつ、外部媒体に演劇評論を執筆。 2023年10月15日、肺炎のため東京都の自宅で死去。93歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
芝田 進午(しばた しんご、男性、1930年3月26日 - … 芝田 進午(しばた しんご、男性、1930年3月26日 - 2001年3月14日)は、日本の哲学者・社会学者。広島大学名誉教授。 石川県金沢市出身。金沢一中、第四高等学校を経て、東京大学文学部哲学科を卒業、法政大学助教授、1967年教授、1976年広島大学教授、1986年唯物論研究協会委員長。1993年定年退官、名誉教授、聖泉短期大学教授。 2001年、胆管癌により死去。
綾部 仁喜(あやべ じんき、1929年3月26日 - 201… 綾部 仁喜(あやべ じんき、1929年3月26日 - 2015年1月10日)は、東京出身の俳人。 八王子生まれ。國學院大學文学部卒業。1953年「鶴」に入会、石田波郷、石塚友二に師事。1974年、小林康治創刊の「泉」に入会。1977年より「泉」編集を担当、1980年から「泉」編集長。1990年、石田勝彦より「泉」主宰を継承。1994年『撲簡』により第34回俳人協会賞、2008年『山王林だより』により第23回俳人協会評論賞、2009年『沈黙』により第9回俳句四季大賞受賞。2014年「泉」主宰を藤本美和子に譲り同顧問となる。「かたくりの花の韋駄天走りかな」(『樸簡』所収)など、韻文性が強く余情の深い句風が特徴。
小林 芳規(こばやし よしのり、1929年〈昭和4年〉3月2… 小林 芳規(こばやし よしのり、1929年〈昭和4年〉3月26日 - )は、日本の言語学者(国語学)。学位は、文学博士(東京教育大学・論文博士・1970年)(学位論文「平安鎌倉時代における漢籍訓読の国語史的研究」)。広島大学名誉教授。日本学士院賞・恩賜賞受賞。文化功労者。勲三等旭日中綬章受章。 東洋大学文学部助教授、広島大学文学部教授、徳島文理大学文学部教授などを歴任。 山梨県出身の国語学者である。角筆の文献による国語学の研究を行ったことで知られている。東京文理科大学を卒業後、東洋大学、広島大学、徳島文理大学にて教鞭を執った。1991年に日本学士院賞と恩賜賞を同時受賞し、2019年には文化功労者として顕彰された。
秋山 紀夫(あきやま としお、1929年3月26日 - 20… 秋山 紀夫(あきやま としお、1929年3月26日 - 2025年12月9日)は、日本の指揮者、吹奏楽指導者、吹奏楽史研究家。 1956年、戦後初の第4回全日本吹奏楽コンクール全国大会に埼玉県立大宮工業高等学校の指揮者として出場する。その後、大宮市立桜木中学校とソニー吹奏楽団の指揮者としても全日本吹奏楽コンクール全国大会に出場する。1963年に教員を1年間休職し渡米する。アメリカ各地の吹奏楽を視察し、イーストマン音楽学校へ留学したり、ミッドウェスト・クリニック(英語版)に日本人として初めて参加する。その後、ヨーロッパ各地の吹奏楽を視察する。帰国後、教職を務めながら海外で見聞した吹奏楽指導法を書籍や教則本にまとめたり、アメリカの吹奏楽専門書の翻訳をする。
武田 国久(たけだ くにひさ、1929年3月26日 - 20… 武田 国久(たけだ くにひさ、1929年3月26日 - 2001年9月21日)は、日本の俳優、声優。東京放送劇団4期生。明治学院大学卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:芸能人)。
宮岸 泰治(みやぎし やすはる、1929年3月26日 - 2… 宮岸 泰治(みやぎし やすはる、1929年3月26日 - 2006年6月10日)は、日本の演劇評論家。 朝鮮生まれ。1956年早稲田大学文学部国文科卒業、東京新聞記者となって演劇批評を書き、特に木下順二の「夕鶴」を見続けた。1987年退社。1996年『木下順二論』でやまなし文学賞受賞。妻は日本舞踊家の手島かつ子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
濱田 徳昭(はまだ のりてる、1929年(昭和4年)3月26… 濱田 徳昭(はまだ のりてる、1929年(昭和4年)3月26日 - 1986年(昭和61年)11月18日)は、日本の音楽理論家、指揮者、音楽教育者、作曲家。姓は浜田と表記されることがある。 山口県山口市出身。1951年(昭和26年)文化学院卒業。 齋藤秀雄、諸井三郎らに幼時から音楽を学び、ピアノ・作曲・指揮法を個人教授で習得。1956年(昭和31年) - 1959年(昭和34年)成蹊グリークラブ指揮者。1958年(昭和33年)谷桃子バレエ団10周年記念公演で東京ジングアカデミーを指揮。1959年(昭和34年) - 1961年(昭和36年)広島大学音楽科交響楽団を指導。1961年(昭和36年)東北大学交響楽団を指揮。
山上 達人(やまがみ たつんど、1928年3月26日 - 2… 山上 達人(やまがみ たつんど、1928年3月26日 - 2004年)は、日本の会計学者。商学博士(論文博士・1971年)(学位論文「生産性会計論」)。大阪市立大学名誉教授、奈良産業大学名誉教授。 大阪市出身。大阪商科大学卒業。1960年大阪市立大学大学院経済学研究科博士課程満期退学。1971年「生産性会計論」で商学博士の学位を取得。関西大学商学部講師、助教授、大阪市立大学商学部助教授、教授。1991年定年退官、名誉教授、奈良産業大学教授。2003年退任、名誉教授。
藤井 昭彦(ふじい あきひこ、1927年3月26日 - 20… 藤井 昭彦(ふじい あきひこ、1927年3月26日 - 2020年9月26日)は、日本の物理学者、上智大学名誉教授。 東京都生まれ。1953年東京大学理学部物理学科卒業。1958年ロチェスター大学大学院修了、Ph.D。その後パデュー大学講師、1958年パデュー大学助教授、1960年ロンドン大学インペリアルカレッジ研究員、1961年フラスカティ国立研究所(英語版)研究員、1963年上智大学理工学部助教授、1969年上智大学理工学部教授。1997年定年退任、名誉教授。主な研究分野は中間エネルギー核物理の理論、弱い相互作用の理論。 妻は英米文学者の藤井かよ。 この項目は、物理学に関連した書きかけの項目です。
宮鍋 幟(みやなべ のぼる、1927年3月26日 - 201… 宮鍋 幟(みやなべ のぼる、1927年3月26日 - 2014年8月20日)は、日本の経済学者。専門は、ソ連経済論・社会主義経済論。一橋大学名誉教授。比較経済体制学会代表幹事、日本学術会議会員等を歴任。 東京生まれ。1947年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1953年に同大学部卒業後、旧制の大学院に進学。1956年野々村一雄や岡稔の下で一橋大学経済研究所ソ連経済部門の助手に就任。 一橋大学経済研究所助教授を経て、1967年度には外務省在ソ連邦日本国大使館とソ連邦対外文化連絡国家委員会の合意に基づき、松井啓及び茂田宏らとモスクワ大学派遣研究員を務めた。1973年から一橋大学経済研究所教授を務め、久保庭眞彰とともに米欧ソ経済部門でソ連経済を担当。
中山 英一(なかやま えいいち、1926年3月26日 - 2… 中山 英一(なかやま えいいち、1926年3月26日 - 2010年7月8日)は長野県出身の部落解放運動家。 長野県南佐久郡栄村(現・佐久穂町)の被差別部落に生まれる。父は小作農兼ぞうり売りだった。生家は地元の部落40戸の中で立場も経済力もナンバー2だったという。 小学校に入って間もなく、被差別民としての出自を知る。郷里の小学校を出てから東京の上級校に入ったが、当時は部落出身と知られることを恐れ、当時の苗字(被差別部落に固有の三文字の稀姓)や郷里の住所をたびたび偽っていた。「私は様々な名字を使った。『近衛』と『徳川』は一回だけ使ったが、比較的多用したのは『井出』と『篠原』、これは村の医者の名字で、次いで『倉沢』と『阿部』、これは村長の名字で、三番目は『木内』、『中山』、これは地主の名字であった。
中根 寛(なかね ひろし、1925年3月26日 - 2018… 中根 寛(なかね ひろし、1925年3月26日 - 2018年1月17日)は、日本の洋画家。繊細で清澄な点描が特徴である。東京芸術大学名誉教授。 愛知県額田郡豊富村夏山(現・岡崎市夏山町)に生まれた。額田郡本宿村(現・岡崎市本宿町)で少年時代を過ごす。1931年(昭和6年)4月、父親が校長を務めていた本宿尋常小学校(現・岡崎市立本宿小学校)に入学。高等科を経て、1937年(昭和12年)に愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学。中学で東京美術学校(現・東京芸術大学)出身の図画教師の山本鍬太郎と出会い、山本から絵を描くことの楽しさを教えられる。 1939年(昭和14年)、愛知県岡崎師範学校(愛知教育大学の前身)に入学。
石川 栄吉(いしかわ えいきち、1925年3月26日 - 2… 石川 栄吉(いしかわ えいきち、1925年3月26日 - 2005年3月27日)は、日本の人類学者。専攻は社会人類学。東京都立大学名誉教授。 1925年、東京都生まれ。京都大学文学部史学科卒業。卒業後は神戸大学助教授、立教大学教授を経て、1972年より東京都立大学教授。1988年に定年退職して名誉教授となる。その後は中京大学教授を務めた。日本民族学会会長(現・日本文化人類学会)を務めた。 人文地理学を専攻し、オセアニアなど南太平洋を中心にフィールドワークを進め、研究活動を行った。
保昌 正夫(ほしょう まさお、1925年3月26日 - 20… 保昌 正夫(ほしょう まさお、1925年3月26日 - 2002年11月20日)は、日本の国文学者・文芸評論家。専門は近代文学。武蔵野美術大学教授・相模女子大学教授・立正大学文学部教授を歴任。 東京出身。早稲田大学高等師範部卒。早稲田高等学院教諭、早稲田大学講師をしながら同人誌『銅鑼』などに評論を発表。横光利一を中心に、牧野信一や結城信一など昭和文学を研究し、『定本横光利一全集』の編集校訂にあたる。日本近代文学館の設立にも関与。1968年武蔵野美術大学助教授、教授、1979年相模女子大学教授、1989年立正大学文学部教授、1995年退職。
城崎 進(じょうさき すすむ、1924年3月26日 - 20… 城崎 進(じょうさき すすむ、1924年3月26日 - 2017年8月1日)は、日本の神学者。専門は旧約聖書学。関西学院大学名誉教授、名誉神学博士。 兵庫県西宮市出身。1946年関西学院大学商経学部卒業。同大学院に在籍後、文学部神学科に編入学。相浦忠雄教授の下で、旧約聖書学を専攻した。1951年に文学部神学科助手に就任、その際神学部開設のための実務に当たった。1954年よりアメリカのユニオン神学校に留学。1963年に関西学院大学神学部教授。1969年の大学紛争時に学長代行代理として学内正常化に努力する。その後、院長代行代理、学長代理、院長代理などを歴任し、1977年に神学部長、1981年から学長を務めた。
二瓶 英雄(にへい ひでお、1924年 <大正13年> 3月… 二瓶 英雄(にへい ひでお、1924年 <大正13年> 3月26日 - 1999年 <平成11年> 8月9日)は日本の柔道家(講道館9段)。北海道柔道連盟副会長、北海道警名誉師範等を務めた。位階は正六位。 樺太の豊原市(現・ユジノサハリンスク)に出まれ、樺太庁豊原中学校在学中に柔道を始めた。記録上の講道館入門は1939年3月付で卒業後は樺太鉄道局に勤め、太平洋戦争に伴う兵役と終戦後1947年6月までの抑留生活を経て、北海道へ引き揚げ後は札幌鉄道局(現・JR北海道鉄道事業本部)に復職。 1948年5月2日に戦後初の柔道日本一を決める全日本選手権が講道館で開催され、当時5段位の二瓶は北海道代表で出場したが初戦で徳島代表の湊庄市5段に敗れた。
河西乾二(かさい けんじ 1923年3月26日 - 1995… 河西乾二(かさい けんじ 1923年3月26日 - 1995年6月8日)は、日本の実業家。
吉野 和男(よしの かずお、1923年(大正12年)3月26… 吉野 和男(よしの かずお、1923年(大正12年)3月26日 - 2020年(令和2年)2月21日)は、第3代東京都府中市長。東京都市長会会長、全国市長会副会長を歴任。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
大石 修平(おおいし しゅうへい、1922年3月26日 - … 大石 修平(おおいし しゅうへい、1922年3月26日 - 1991年5月25日)は、日本の近代文学研究者。元東京都立大学人文学部教授。 富山県氷見郡氷見町(現氷見市)出身。父は農政家で氷見農業学校校長、衆議院議員の大石斎治。富山県立氷見中学校 (現・富山県立氷見高等学校)、富山高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部国文科に進学するが、文系学生に対する徴兵免除停止に伴い、1943年に繰上卒業して軍務に服する。 出征から帰還後、1947年に富山県立富山師範学校助教授となる。同年度に附属中学校国語担当講師も務めた。1949年東京都立高校(東京都立大学附属高等学校)教諭。高岡市在住の和田侃が自らの戦中戦後の体験から、作文をとおして「自分で見て自分でものを考えることができる人間に」育てるために発行した『中学作文』に、指針となる著作を多数寄稿。
玄 梧鳳(ヒョン・オボン、朝鮮語: 현오봉、1922年3月2… 玄 梧鳳(ヒョン・オボン、朝鮮語: 현오봉、1922年3月26日または1923年3月26日 - 1982年10月16日)は、大韓民国の政治家。第4・6・7・8・9・10代大韓民国国会議員。本貫は延州玄氏(朝鮮語版)。 済州島の南済州郡で生まれた。日本の興國商業学校(現・興國高等学校)卒業。1969年ソウル大学校経営大学院修了。光復後、左翼が活発だった済州島でしばらく警察に籍を置いて、済州警察署通信課長・公報室長を務めたが、1947年に商工部鉱務局に移った。 1956年に大明鉱業開発の専務を務め、その後1958年5月2日に行われた第4代総選挙で初当選し国会議員となり、自由党院内副総務・院内総務を務めた。
伊達 邦春(だて くにはる、1922年3月26日 - 200… 伊達 邦春(だて くにはる、1922年3月26日 - 2000年4月24日)は、日本の経済学者。 東京出身。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院経済学研究科修了。1950年早稲田大学政治経済学部専任講師。助教授、教授となり、1992年定年、名誉教授となる。1997年勲三等旭日中綬章受勲。
大木 正吾(おおき しょうご、1922年〈大正11年〉3月2… 大木 正吾(おおき しょうご、1922年〈大正11年〉3月26日 - 2004年〈平成16年〉3月17日)は、昭和から平成初期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 千葉県山武郡松尾町(現・山武市)出身。 1937年(昭和12年)東京浅草寿町郵便局勤務。その後、日本大学法律科に入るが、1943年(昭和18年)に中退し軍務に就いた。 1948年(昭和23年)全逓信従業員組合中央執行委員。1950年(昭和25年)日本電信電話公社関東電気通信局に移り、1953年(昭和28年)に全電通書記長になる。1958年(昭和33年)委員長に就任。1962年(昭和37年)総評幹事。1970年(昭和45年)から6年間事務局長を務めた。
矢崎 源九郎(やざき げんくろう、1921年(大正10年)3… 矢崎 源九郎(やざき げんくろう、1921年(大正10年)3月26日 - 1967年(昭和42年)2月23日)は、日本の言語学者、北欧文学者、翻訳家。善隣外事専門学校教授、大阪外事専門学校教授、東京教育大学助教授。 1921年、山梨県生まれ。静岡県、東京府と各地を移りながら幼少期を過ごし、成城高等学校に入学。高等学校卒業後は東京帝国大学言語学科でビルマ語を専攻した。1943年に東京帝国大学を卒業し、副手となった。1944年、善隣外事専門学校教授に着任。1945年からは大阪外事専門学校教授。 戦後の1950年、東京教育大学助教授となった。1966年、胃がんの手術を受ける。翌1967年2月16日に教授に昇進したが、その7日後に45歳で死去した。
菊池 三男(きくち みつお、1920年(大正9年)3月26日… 菊池 三男(きくち みつお、1920年(大正9年)3月26日 - 2017年(平成29年)11月4日)は、昭和から平成時代の土木工学者、内務官僚、建設省技監。 1945年(昭和20年)東京帝国大学工学部第二工学部土木工学科を卒業し、1947年(昭和22年)内務省に入省。建設省道路局、有料道路課長、国道第一課長、関東地方建設局長、道路局長を経て、1974年(昭和49年)建設省技監となる。1976年(昭和51年)退官。 退官後は、首都高速道路公団副理事長・理事長、日本高速通信代表取締役社長、立体道路推進機構理事長、土木学会副会長・会長など要職を歴任した。2017年(平成29年)11月4日、神奈川県藤沢市鵠沼藤が谷の自宅にて老衰のため死去した。
鈴木 正長(すずき まさなが、1920年 <大正9年> 3月… 鈴木 正長(すずき まさなが、1920年 <大正9年> 3月26日 - 1988年 <昭和63年> 3月5日)は、日本の経営者。日本水産社長、会長を務めた。神奈川県出身。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 1946年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本水産に入社。 1966年に取締役に就任し、1970年5月に常務を経て、1973年5月に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1975年12月から1978年6月までに会長を務め、1981年には小田原信用金庫理事長に就任。 1978年4月に藍綬褒章を受章。。 1988年3月5日胃癌のために死去。67歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。
野々川 美寿子(ののがわ みつこ、みづこ、1920年〈大正9… 野々川 美寿子(ののがわ みつこ、みづこ、1920年〈大正9年〉3月26日 - 1987年〈昭和62年〉7月)は、日本の実業家。日本メナード化粧品創業者。 愛知県東春日井郡篠岡村大字大草において、稲垣美寿子として生まれる。1942年(昭和17年)、野々川大介と結婚。名古屋市中村区上米野町に文具および事務用品を商う店を構えた。 1959年(昭和34年)には「メナード」と称する総合化粧品会社を設立。メナードは訪問販売による化粧品販売であり、当初は理解されず苦労した。 女性の美との関連で多くの美術品を収集。社会還元のために美術館設立に奮闘したが、実現を見ることなくこの世を去った。
海原 幸夫(かいはら ゆきお、1919年3月26日 - 没年… 海原 幸夫(かいはら ゆきお、1919年3月26日 - 没年不詳)は、日本の録音技師である。戦前の日活京都撮影所、および戦時統合による大映の成立後も引き続き戦後も大映京都撮影所で技師を務めた。 1919年(大正8年)3月26日、京都府京都市に生まれる。 京都市立商工専修学校(現在の京都市立堀川高等学校)を卒業し、1935年(昭和10年)、日活京都撮影所に入社する。録音技師として記録に残るもっとも古い作品は、1937年(昭和12年)6月17日に公開された池田富保監督の『唐人お吉 黒船情話』であり、同作公開時に海原は満18歳であった。同年は、剣戟スター俳優の阪東妻三郎が阪東妻三郎プロダクションを解散、映画監督のマキノ正博(のちのマキノ雅弘)がマキノトーキー製作所を解散し、それぞれ同撮影所に入社した年で、海原は同年末に公開された阪東主演・マキノ監督による正月映画『血煙高田の馬場』の録音技師に抜擢されている。
上野 公夫(うえの きみお、1919年〈大正8年〉3月26日… 上野 公夫(うえの きみお、1919年〈大正8年〉3月26日 - 2007年〈平成19年〉11月17日)は、日本の経営者。中外製薬第2代社長を務めた。位階は従四位。中外製薬創業者上野十蔵の娘婿。公夫の娘婿に永山治(同社第4代社長)、息子に上野幹夫(同社副会長)らがいる。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1953年11月に中外製薬に転じ、1955年5月に取締役、1956年11月に専務、1958年6月に副社長を経て、1966年4月に社長に就任。1987年3月に会長に就任し、2000年6月には名誉会長に就任。 1990年10月に勲三等旭日中綬章を受章。 2007年11月17日に肺炎のために死去。
北城 真記子(きたしろ まきこ、1918年3月26日 - 1… 北城 真記子(きたしろ まきこ、1918年3月26日 - 1995年2月24日)は、日本の女優。東京府出身。本名は北城 ます子。 東洋高等女学校中退。1943年(昭和18年)文学座研究所に入り「怒潯」出演。戦後、1947年(昭和22年)神協劇団研究生で入り「タルチュフ」初舞台。1949年(昭和24年)に文学座に戻り「娼婦マヤ」、「道遠からん」。1953年(昭和28年)文学座自主映画「にごりえ」で杉村春子を助演。1957年(昭和32年)東映「純愛物語」「越後つついし親不知」。1960年(昭和35年)文学座の「女の一生」「メアリー・スチュアート」に出演した。 1995年(平成7年)、直腸がんのため死去。
笠原 隆(かさはら たかし、1918年3月26日-没年不明)… 笠原 隆(かさはら たかし、1918年3月26日-没年不明)は、日本の元サッカー選手。大学生の時にサッカー日本代表として出場経験があり、現役時代のポジションはミッドフィールダー。 笠原は神戸一中サッカー部及び慶應義塾体育会ソッカー部に在籍し、1937年の全日本蹴球選手権大會(現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、慶応義塾大学の初優勝を成し遂げた。彼はまた、慶應義塾大学の選手と卒業生で構成される母校の慶應BRBでもプレイし、津田幸男、二宮洋一、篠崎三郎と共に、1939年と1940年の天皇杯でも優勝した(以後、天皇杯は戦争で1941-1945年まで中断となる)。1941年慶應義塾大学経済学部卒業。
徐 廷学(日本語読み: じょ ていがく、朝鮮語読み: ソ・ジ… 徐 廷学(日本語読み: じょ ていがく、朝鮮語読み: ソ・ジョンハク、서정학、1917年3月26日 - 2005年7月2日)は、大韓民国の警察公務員、ソウル市警察局長、第11代内務部治安局長、第6代江原道知事、大韓剣道会会長などを歴任した。 日本統治時代の京畿道の漣川郡に生まれる。日本名では大島陽輝(おおしまはるき)と名乗った。北陽商業学校(現・関西大学北陽高等学校)を経て、関西大学専門部第二部法律学科(現・関西大学法学部)に入学。大学では剣道部に所属して大阪代表選手として活躍すると共に、関西大学剣道部の部長に就任した。当時、朝鮮半島出身者が内地の大学で剣道部部長に就任するのは初めてであった。1940年(昭和15年)に卒業後、大阪府庁に入庁。
柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3… 柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名齋藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。代表作に『眠狂四郎』シリーズ、『赤い影法師』『御家人斬九郎』『三国志 英雄ここにあり』などがあり、剣客ブームを巻き起こし、時代小説に新風を送った。「シバレン(柴錬)」の通称でも呼ばれた。 岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。3歳で父を亡くしたが、遺された漢籍に親しみ、唐宋詩人の詩を愛吟して育った。 鶴山尋常小学校を卒業後、1929年に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。
天野 春一(あまの しゅんいち、1917年 <大正6年> 3… 天野 春一(あまの しゅんいち、1917年 <大正6年> 3月26日 - 1985年 <昭和60年> 11月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 東京都出身。1939年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井物産に入社。 1945年に日本車輌製造に転じ、取締役に就任し、1949年4月に専務を経て、1955年1月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1982年8月から1983年6月までに高橋宏社長の急逝により、社長も兼任した。 1985年11月23日肝腫瘍のために死去。68歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
牧 真一(まき しんいち、1917年3月26日 - 1977… 牧 真一(まき しんいち、1917年3月26日 - 1977年)は、1952年ヘルシンキオリンピックに日本人として初めて出場したフェンシング選手(個人フルーレ、エペ、サーブルの3種目に出場)。戦後の日本フェンシング界の礎を築いた先駆者であり、実業家としても活躍した。 京都府京都市伏見区出身。慶應義塾大学経済学部を卒業。 1952年、ヘルシンキオリンピックに日本人として初めてフェンシング個人種目に出場した。戦後の混乱期、海外渡航が極めて困難だった時代に、フルーレ、エペ、サーブルの全3種目に単身で挑んだその足跡は、後の日本フェンシング界に多大な影響を与えた。語学に堪能で国際的なマナーにも精通していたことから、競技者としてだけでなく、スポーツ外交官として海外賓客の接待や国際会議への出席など、日本のスポーツ団体を代表して外交的役割を担うことも多かった。
羽賀 忠利(はが ただとし、1917年〈大正6年〉3月26日… 羽賀 忠利(はが ただとし、1917年〈大正6年〉3月26日 - 2010年〈平成22年〉3月7日)は、日本]の剣道家。剣道・居合道範士八段。羽賀準一の実弟。 広島県比婆郡東城町[要出典]に生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、準一の世話になりながら[要出典]、国士舘中学(旧制)に入学した。 1937年(昭和12年)、準一が学資を出す形で[要出典]、国士舘専門学校に進学した。専門学校時代は斎村五郎・小野十生・岡野亦一・小城満睦・小川忠太郎・大島治喜太らに指導を受けた。卒業後は、国士舘中学、中野学園中学、東京市立芝商業学校などで指導した。太平洋戦争中には、三重海軍航空隊で海軍飛行予科練習生(予科練)の剣道教師を務めた。
日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 … 日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 - 2006年(平成18年)2月28日)は、日本の彫刻家。1933年(昭和8年)の日展初入選を皮切りに日彫賞など数多くの賞を受賞。日本美術家連盟会員、日本彫刻倶楽部会員、日本彫刻会会員として文展4回、日展22回の入選を重ね、日展無鑑査彫刻家として多くの作品を残した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浜口 隆一(はまぐち りゅういち、1916年3月26日 - … 浜口 隆一(はまぐち りゅういち、1916年3月26日 - 1995年1月2日)は、日本の建築評論家・建築史家。東京大学助教授等を経て、日本大学理工学部教授に就任。 東京生まれ。1938年東京帝国大学工学部建築学科卒業。丹下健三と共に前川國男建築設計事務所に入所。その後東京帝国大学大学院岸田研究室に進み、1943年に大学院修士課程修了。建築史の講師任用になるがいったん辞し、1948年東京大学助教授となるが、のち退官して評論家。1966年から1977年まで日本大学理工学部建築学科教授。
谷村 裕(たにむら ひろし、1916年(大正5年)3月26日… 谷村 裕(たにむら ひろし、1916年(大正5年)3月26日 - 1996年(平成8年)10月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、公正取引委員会委員長、東京証券取引所理事長等を歴任。 東京に生まれる。旧制暁星中学4年生修了、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。採用試験20科目全てで優を取り、トップで大蔵省に入る。大臣官房文書課属。 1938年(昭和13年)短期現役海軍主計科士官(1期)を志願。同年7月、海軍経理学校に入学し、同年12月に卒業。海軍主計中尉に任官。名取に配属。第五艦隊司令部付妙高乗艦、呉海軍工廠会計部購買課勤務を歴任。1940年(昭和15年)11月、主計大尉に昇進。
黄 順元(ファン・スンウォン、ファン・スノン、1915年3月… 黄 順元(ファン・スンウォン、ファン・スノン、1915年3月26日 - 2000年9月14日)は韓国の小説家、詩人。淡い同性愛とサディズム、マゾヒズムを抱く「落胆したロマンチスト」を描写する黄の作風は、詩人として出発した抒情的感性から来るのかもしれない。50年代以降、党派文学に対する批判が起こる韓国文壇で、感受性で美学を形象化してきた黄は純文学のひとつの頂きをなしている。 1915年3月26日、平安南道大同郡在京面氷庄里175番地に生まれる。父は黄賛永。母は張賛朋。三人兄弟の長男。1919年、黄が4歳のとき、三・一運動に父が関わり、日帝当局に逮捕される。それは後に『父』を書く土台になった事件である。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
今野 忠一(こんの ちゅういち、本名:今野 忠市、1915年… 今野 忠一(こんの ちゅういち、本名:今野 忠市、1915年3月26日 - 2006年4月15日)は、山形県天童市出身の日本画家。埼玉県在住。故郷の蔵王や月山を始め、多くの山岳や巨木を題材に、前景から背景まで分厚く塗る重厚な作風で知られた。 1931年南画家の後藤松亭に入門し、松石と号す。1934年高嶋祥光を頼って上京し、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。1940年には新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。1940年第27回院展に「菜園」が初入選。 戦後も院展に入選を続け、1954年「晩彩」、1956年「残雪」、1959年「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞。
公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 … 公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 - 1995年〈平成7年〉7月25日)は、日本の数学教育者。「公文式」学習指導法の考案と普及に尽力した。 高知県長岡郡大津村(現:高知市大津)の農家に生まれる。下知尋常小学校(現:高知市立昭和小学校)から土佐中学校を経て1933年に高知高等学校を卒業。1936年、大阪帝国大学理学部数学科を第1期生として卒業。高知県立海南中学校(現:高知県立高知小津高等学校)の数学教師となるが、翌年の1937年、召集令状により退職をして同県の朝倉連隊に二等兵として入隊し、満洲国に出兵。3年後の1940年に召集解除となって帰国。海軍兵学校海軍文官海軍教授の試験に合格し、茨城県の土浦海軍航空隊で教鞭を執るが、後に奈良県の天理海軍航空隊に勤務し、1944年に高知県の浦戸航空隊に転属をして、終戦を迎える。
篠田 治男(しのだ はるお、1914年3月26日 - 201… 篠田 治男(しのだ はるお、1914年3月26日 - 2011年7月28日)は、日本の経営者。岐阜県岐阜市出身。 1936年に秋田鉱山専門学校燃料学科を卒業し、同年に日本揮発油(のちの日揮)に入社。1958年に取締役に就任し、1966年に常務、1972年に専務を経て、1978年に副社長に就任し、1980年には社長に昇格。1984年に取締役最高顧問に就任。 2011年7月28日心不全のために死去。97歳没。
杉全 直(すぎまた ただし、1914年3月26日 - 199… 杉全 直(すぎまた ただし、1914年3月26日 - 1994年1月23日)は、日本の洋画家。浦和画家。元東京芸術大学教授、多摩美術大学教授。東京都品川区出身。 洋画家であるが、東京美術学校系統のシュルレアリスムのグループで目立った活動をしていた「貌」に参加し、平面作品のみではなく、立体作品を中心に制作した時期もある。現代日本美術展、日本国際美術展などで優秀賞を受賞し、日本の抽象絵画をリードする一人となった。 2021年1月9日から3月28日まで三重県立美術館にて「ショック・オブ・ダリ ― サルバドール・ダリと日本の前衛」展が開催されサルバドール・ダリに影響を受けた日本の作家として杉全直他、 靉光、浅原清隆、池田龍雄、石井新三郎、小牧源太郎、斎藤長三、島津純一、白木正一、高山良策、難波架空像(香久三)、浜田浜雄、早瀬龍江、尾藤豊、福沢一郎、藤田鶴夫、古沢岩美、森堯之、矢崎博信、山下菊二、山本昌尚、吉井忠、米倉壽仁、渡辺武の24人とダリの作品が展示され、同年4月24日から6月27日まで諸橋近代美術館でも同展覧会が開催された 。
梅本 克己(うめもと かつみ、1912年3月26日 - 19… 梅本 克己(うめもと かつみ、1912年3月26日 - 1974年1月14日)は、日本の哲学者。
高木 正(たかぎ ただす、1912年3月26日 - 2000… 高木 正(たかぎ ただす、1912年3月26日 - 2000年4月1日)は、日本の経営者。日立化成工業社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1935年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1936年に日立製作所に入社。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1973年11月に日立化成工業副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1981年6月に会長、1985年6月に相談役を経て、1995年6月には名誉相談役に就任。 1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年4月1日、死去。88歳没。
金 達鎬(キム・ダロ、キム・ダルホ、朝鮮語: 김달호、191… 金 達鎬(キム・ダロ、キム・ダルホ、朝鮮語: 김달호、1912年3月26日 - 1979年3月4日)は、日本統治時代の朝鮮、満州国および大韓民国の検察官、裁判官、弁護士、政治家。第3代韓国国会議員。号は端斎。 日本統治時代の慶尚北道尚州郡(現・尚州市)出身。中央大学法学部卒業または中退、大学1年時高等試験合格。司法官試補、朝鮮総督府の光州・清津地方法院の判事を経て、満州国で弁護士をしていたが神社参拝拒否と抗日行為を理由に退職させられた。解放後はソウル高等検察庁次長検事、法興編纂委員、考試委員を経て、1954年の第3代総選挙で国会議員に当選し、1956年に進歩党副委員長を務めた。1958年の進歩党事件により入獄したが、大法院による無罪判決を経て4・19革命で釈放された。
水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3… 水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3月26日 - 1980年(昭和55年)6月30日)は、日本の彫刻家、版画家。広島県呉市草里町(現東中央2丁目)出身。本名は田中六洲。なお、本名の名前読みは漢字「六洲」を「むつくに」と読む。実兄に洋画家水船三洋があり、実父も書家だった。 作風は版画にも彫刻のような力強さを求め絵画的彩色を施す独自技法を駆使したほか、1960年代以降は魚、鳥などの動物を主なモチーフに選んで制作を行った。 1912年、広島県呉市草里町(現東中央2丁目)に生まれる。中学の頃に高村光太郎訳『ロダンの言葉』(ASIN B0093E7YYY)を読み感動し彫刻家を目指した。
高田 富之(たかだ とみゆき、1912年3月26日 - 19… 高田 富之(たかだ とみゆき、1912年3月26日 - 1999年10月14日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(10期)。埼玉県深谷市出身。 実業家・高田良平の長男として生まれる。旧制松江高等学校を経て1937年に東北帝国大学法文学部を卒業後、宇野弘蔵の元で東北大学法文学部経済学教室副手となる。 繊維需給調整協議会調査課長・全国商工経済会企画部主事・日農県連会長・全国連書記長を歴任。 人民戦線事件で宇野と共に逮捕されるが起訴猶予となる。 戦後、日本共産党に入党し、1949年の第24回衆議院議員総選挙で埼玉3区で当選する。しかし、1951年に共産党が51年綱領を出して武装闘争に舵を切り、翌年の第25回衆議院議員総選挙ではそのあおりで落選(共産党の全議員が落選した)。