高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 201… 高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は、日本の映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。 1929年(昭和4年)に満洲の大石橋に生まれた。太平洋戦争終戦前の1945年(昭和20年)5月、父親の郷里である富山県下新川郡桜井町(現・黒部市)に引き揚げ、魚津高等女学校(現・富山県立魚津高等学校)を卒業した。16歳の時に映画『キュリー夫人』を見て感銘を受け、職業を持って自立する決心をする。日本女子大学社会福祉学科に入学し、南博主任教授の下で「マスメディアと映画」を研究テーマとし、日本映画の観客の反応と内容分析と映画企業分析を行い、各新聞・雑誌に発表した。
岩崎 馨(いわさき かおる、1929年5月29日 - 202… 岩崎 馨(いわさき かおる、1929年5月29日 - 2025年2月22日 )は、日本の労働運動家。 京都市生まれ。1948年12月日本鋼管に入社し、電機課に配属となる。1953年明治学院大学経済学部卒業。1964年9月日本鋼管製鉄労働組合連合会中央執行委員調査担当を経て、のち同労組調査部長。1976年政策推進労組会議事務局次長。1978年日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)調査部長。1978年4月明治学院大学経済学部講師(1981年3月まで)。1982年全日本民間労働組合協議会(全民労協)調査局長(2002年まで)。1985年社団法人国際産業・労働研究センター事務局長。2000年財団法人社会経済生産性本部(2009年より日本生産性本部)社会労働部参与、労働研究センター事務局長。
佐藤 勝(さとう まさる、1928年〈昭和3年〉5月29日 … 佐藤 勝(さとう まさる、1928年〈昭和3年〉5月29日 - 1999年〈平成11年〉12月5日)は、日本の作曲家。北海道留萌市出身。 生家の近くに映画館があり、母親が映画好きだった事を受け勝は映画に興味をもち、そこから流れる音楽に心打たれた彼は将来映画音楽を担当する作曲家になろうと心に決める。旧制留萌中を経て国立音楽学校にて音楽を学び、岡本敏明に師事。卒業後は映画音楽家を志して卒業1週間前に知り合った作曲家の早坂文雄の門下に入り、音楽学校の講師やバンドマンで生計をたてながら早坂に師事する。また、同じ北海道出身の作曲家・伊福部昭の作品にも大きな影響を受けた。 1952年(昭和27年)、映画『三太と千代ノ山』(新理研映画)で映画音楽を初担当。
垂水 悟郎(たるみ ごろう、本名:垂水 五郎、1927年〈昭… 垂水 悟郎(たるみ ごろう、本名:垂水 五郎、1927年〈昭和2年〉5月29日 - 1999年〈平成11年〉1月21日)は、日本の俳優。岡山県新見市出身。岡山県立新見高等学校卒。 長男は俳優・モデルの垂水藤太。 劇団民藝で演劇をしていたが、退団後は映画やテレビドラマに出演していた。 1999年(平成11年)1月21日午後5時55分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去、71歳没。
盛田 正明(もりた まさあき、1927年5月29日 - )は… 盛田 正明(もりた まさあき、1927年5月29日 - )は、日本の実業家。ソニー副社長、ソニー・アメリカ会長、ソニー生命保険社長・会長を歴任した。 愛知県名古屋市出身。実家は江戸時代創業の老舗造り酒屋『盛田』。三人兄弟の末子で、長兄にはソニー創業者のひとりである盛田昭夫、次兄には盛田を引き継いだ盛田和昭(和昭の妻は大日本紡績常務田代重三の四女)がいる。義兄(姉の夫)はソニー元社長の岩間和夫。母方の祖父は旧大垣藩家老家で大垣共立銀行頭取の戸田鋭之助で、母方の伯父には実業家の戸田直温・戸田良直兄弟がおり、早川種三は母の従兄弟にあたる。 愛知県立第一中學校(旧制愛知一中・現 愛知県立旭丘高等学校)時代はバレーボール部に入り、セッターとしてプレーしていた。
宮沢 澄也(みやざわ すみや、1926年5月29日 - 没年… 宮沢 澄也(みやざわ すみや、1926年5月29日 - 没年不明)は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 20… 木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 2015年2月19日)は元プロ野球選手(内野手)。愛知県一宮市出身。
倉本 初夫(くらもと はつお、1923年5月29日-2013… 倉本 初夫(くらもと はつお、1923年5月29日-2013年12月15日)は、日本の経営評論家、「商業界」主幹。 経営評論家・倉本長治の子。1944年、東京帝国大学文学部卒業。倉本長治の後を継いで商業について評論・講演活動を行う。
森 幹郎(もり みきお、1923年5月29日 - )は、日本… 森 幹郎(もり みきお、1923年5月29日 - )は、日本の老年学・ハンセン病史学者。専門は老年学(比較老年学及び政策老年学)。 名古屋大学経済学部卒業。邑久光明園(国立ハンセン病療養所)、国立東京光明寮(視力障害者リハビリテーションセンター。現・国立身体障害者リハビリテーションセンター)、厚生省社会局(老人福祉専門官)勤務、長野大学産業社会学部教授、奈良女子大学生活環境学部教授、花園大学社会福祉学部教授。1991年退職。
能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - … 能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者。 1922年(大正11年)生まれ、市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)を卒業。1946年(昭和21年)、「能村縫工所」を設立し、リュックサックや船舶用シートを製造する。1947年(昭和22年)、株式会社に組織を変更、太陽工業と改称し社長となる。1977年(昭和52年)、会長に就任。各種テントを中心に業績をのばし技術開発を進め、東京ドームの屋根膜などの施工を担う。1985年(昭和60年)のつくば博では、テント製パビリオンの9割、大阪万博のアメリカ館などのパビリオンを手がける。その他、関西経済同友会の幹事を務め、1995年(平成7年)には大阪文化賞を受賞する。
志場喜徳郎(しば きとくろう、1920年5月29日 - 19… 志場喜徳郎(しば きとくろう、1920年5月29日 - 1994年7月5日)は日本の大蔵官僚。 和歌山県出身。1942年7月 高等試験行政科を合格。東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年9月に大蔵省入省。主税局国税課。主に税制(主税、国税)畑を歩む。1964年7月3日 国税庁調査査察部長。1966年7月22日 大臣官房財務調査官(証券局担当)。1967年8月4日 東京国税局長。1968年6月15日 日本銀行政策委員会大蔵省代表理事。1969年8月6日 証券局長。1971年6月11日 退官。1972年2月8日 市況情報センター(現:QUICK)社長(〜1984年)。1984年 同会長。1987年1月 QUICK会長(〜1992年)。
鬼塚 喜八郎(おにつか きはちろう、1918年〈大正7年〉5… 鬼塚 喜八郎(おにつか きはちろう、1918年〈大正7年〉5月29日 - 2007年〈平成19年〉9月29日)は、日本の実業家で、アシックスの前身のひとつである鬼塚商会の創業者、アシックス社長。 鳥取県気高郡明治村大字松上(現・鳥取市松上)に農業・坂口伝太郎 かめの3男2女の末子として生まれた。喜八郎の名は、大倉財閥を興した大倉喜八郎にちなむという。 坂口家は、もとは小作人だったが祖父・伝十郎の代に地主となった。祖父は農業の傍ら和紙、因幡紙の仲買人なども行っていたという。長兄の坂口伝三郎は後に明治村村長を務めている。 1936年(昭和11年)に鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。
門前 貢(もんぜん みつぐ、1918年5月29日- 2000… 門前 貢(もんぜん みつぐ、1918年5月29日- 2000年11月12日 )は、日本の経営者。 鹿児島県出身。1940年に麻布獣医専門学校を卒業し、同年に森永乳業に入社。1968年に取締役に就任し、1972年に常務、1976年6月に専務を経て、1979年6月に社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1989年6月から取締役相談役を務めた。 2000年11月12日、急性心筋梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年… 宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年11月12日)は、日本の実業家。東洋紡績社長や関経連会長を務めた。 1917年、京都市上京区(現・左京区)東丸太町の野村家で3人兄妹の次男として生まれる。2歳の時に妹の出産時の産褥熱が原因で母が亡くなり、錦林小学校4年生の時に銀行員だった父も逝去した。その後は父の遺産の貸家で生計を立てた継母に育てられ、京都三中に進学。成績は校内で上位だったが受験の直前に肺尖カタルにかかって一年間浪人し、旧制三高に入学した。 自宅から三高までは徒歩20分程度の距離だったが兄の勧めで学生寮に入り、水泳部で選手やマネージャーを務めた。北村久寿雄と一緒に泳いだ事もあったという。
丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29… 丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29日 - 1982年〈昭和57年〉7月23日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期)。環境庁長官(第7代)を歴任した。所属派閥は福田派。青嵐会の結成にも参加した。陸軍軍医大尉。 1916年(大正5年)、群馬県吾妻郡坂上村(現・東吾妻町)の出身。出生地は坂上村とも長野県とも。高崎市に移り住み、1934年(昭和9年)旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業、1940年(昭和15年)東京医学専門学校卒業。医師免許取得後日本鋼管病院に勤務するが、同年10月軍医として応召。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年(昭和21年)7月に復員、群馬県群馬郡滝川村で内科医として開業。
上原 喜八郎(うえはら きはちろう、1916年〈大正5年〉5… 上原 喜八郎(うえはら きはちろう、1916年〈大正5年〉5月29日 - 2009年〈平成21年〉3月25日)は、日本の生化学者、薬学者(生物系薬学)。理学博士。大阪大学名誉教授、日本薬学会有功会員。 新潟県新潟市新島町通4ノ町(現 新潟市中央区新島町通4ノ町)の実業家・上原有三の八男として出生、1922年(大正11年)3月に新潟県新潟市旭町通2番町(現 新潟市中央区旭町通2番町)に転居。 1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に第四高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に大阪帝国大学理学部化学科を卒業。 1942年(昭和17年)に大阪帝国大学理学部化学教室助手に就任、赤堀四郎のもとで研究、1943年(昭和18年)に大阪帝国大学理学部大学院に特別研究生として入学、1947年(昭和22年)に大阪帝国大学理学部化学教室講師に就任、1951年(昭和26年)2月に大阪大学理学部化学教室助教授に就任、1952年(昭和27年)7月に大阪大学から理学博士号を取得、大阪大学医学部薬学科生化学教室助教授に就任、1955年(昭和30年)に大阪大学薬学部生化学教室助教授に就任、1958年(昭和33年)11月に大阪大学薬学部生物薬品化学講座初代教授に就任、1977年(昭和52年)6月に大阪大学薬学部第12代学部長に就任、1980年(昭和55年)4月に大阪大学を定年退官、大阪大学名誉教授の称号を受称、同月に摂南大学教養科教授に就任、1981年(昭和56年)9月に退職。
森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 19… 森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 1966年9月1日)は、愛知県一宮市出身のプロ野球選手(投手)。
五味 彰(ごみ あきら、1914年5月29日 - 1991年… 五味 彰(ごみ あきら、1914年5月29日 - 1991年11月6日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を務めた。 北海道出身。1935年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に北海道拓殖銀行に入行。取締役、東京支店長、常務、副頭取を経て、1977年10月に東条猛猪の後任として頭取に就任した。拓銀にとって、永田昌綽以来30年ぶりの生え抜き出身の頭取であった。1983年から会長を務めた。 北海道経済連合会副会長や札幌エレクトロニクスセンター理事長を歴任した。 1991年11月6日、心不全のために死去。77歳没。
鈴木 永二(すずき えいじ、1913年5月29日 - 199… 鈴木 永二(すずき えいじ、1913年5月29日 - 1994年10月11日)は日本の経営者。位階は正三位。三菱化成元・社長。第6代日経連会長。
上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月… 上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月29日 - 2001年 )は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務。戦後は出版業界に入り、芙蓉書房社長や会長を務めた。 秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。 弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。 仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。 主計将校として近衛歩兵第3連隊、歩兵第59連隊、第2師団、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、階級は陸軍主計少佐に昇る。 1945年8月15日、陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月2… 戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月29日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、市民運動・農民運動活動家、政治家(元成田市議会議員)。特に三里塚芝山連合空港反対同盟委員長を務めた三里塚闘争(成田闘争)での活動で知られ、画家・彫刻家でもあった。 1909年5月29日、千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)三里塚に生まれる。 1925年に私立成田中学校に入学し、教員であった中野好夫や中山義秀の薫陶を受けた。 成田中学卒業後、父が三里塚で営んでいた鍬・鋤・鎌などの販売店「戸村農機」で働き、25歳の時に結婚した。夫人が健康を害して北海道に帰郷すると、戸村もその後を追って北海道で暮らした。
金 来成(キム・ネソン、1909年旧暦5月29日 - 195… 金 来成(キム・ネソン、1909年旧暦5月29日 - 1957年2月19日)は、大韓民国の小説家。平安南道(ピョンアンナムド)生まれ。 1935年に日本の探偵小説専門誌『ぷろふいる』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家、大衆文学作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。 大韓帝国末期の1909年旧暦5月29日、平壌(ピョンヤン)近郊の平安南道(ピョンアンナムド)大同郡(テドンぐん)に生まれる。1925年、平壌公立高等普通学校(ko)に入学。当時この学校では、のちに翻訳家となる龍口直太郎が英語教師をしており、金来成はその授業でアーサー・コナン・ドイルやエドガー・アラン・ポー、江戸川乱歩についての話を聞き、探偵小説の魅力を知った。
木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985… 木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985年)は、昭和時代日本の作曲家、音楽研究者。 青森県出身。兄は作曲家・民俗音楽収集家の木村弦三。 1908年(明治41年)、弘前市に生まれる。東奥義塾再興後の1回生であり、1933年(昭和8年)に法政大学英文科を卒業した後は小松耕輔、近衛秀麿らの師事を仰ぐ。 1947年(昭和22年)から1969年(昭和44年)まで県立弘前高校の音楽教諭を務める傍ら津軽地方の民謡を採譜・収集し、その成果を合唱曲「津軽の旋律」として1958年(昭和33年)に陸奥新報社より刊行した。作曲家としては元青森県副知事の横山武夫が作詞したものが多く、2代目「青森市民歌」をはじめ県内各地の校歌を数多く手掛けている。
服部 四郎(はっとり しろう、1908年〈明治41年〉5月2… 服部 四郎(はっとり しろう、1908年〈明治41年〉5月29日 - 1995年〈平成7年〉1月29日)は、日本の言語学者。東京大学名誉教授。 1908年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。津中学校卒業。第一高等学校時代に読んだ安藤正次の『言語学概論』で、日本語の起源が不明であることを知り、言語学を志すようになった。 1931年、東京帝国大学文学部言語学科卒業。言語学、国語学、アイヌ語、朝鮮語、モンゴル語、満洲語、トルコ語、中国語などを、藤岡勝二、橋本進吉、金田一京助、小倉進平らに教わる。大学での同期には有坂秀世がいた。また、学部時代に、琉球(沖縄)出身の仲宗根政善をインフォーマントとして言語調査を行っている。
坂本 元雄(さかもと もとお、1908年5月29日 - 20… 坂本 元雄(さかもと もとお、1908年5月29日 - 2003年1月31日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。神奈川県出身。 1931年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。 1961年に取締役を経て、1962年に井関農機副社長に就任し、1966年から1970年までに社長を務めた。三菱電機監査役も務めた。 2003年1月31日肺炎のために死去。94歳没。
中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(… 中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(明治40年)5月29日 - 1991年(平成3年)12月18日)は、三重県出身の政治家。三重県上野市(現在の伊賀市)の市長だった。日本社会党に所属して衆議院議員を6期務めた。長男の中井洽も衆議院議員となった。 三重県立上野中学校、第八高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験合格。 満洲にわたり全満洲の電気供給事業を統制して電力・電燈の供給事業を独占的に行う満洲電業株式会社に入社。企画主計課長、文書課長を歴任した後、長男の洽が満洲で誕生した。終戦で三重県に引揚げた。 1947年(昭和22年)に全国で最初の日本社会党の公認候補者として三重県上野市長に当選し、以後2期、革新的な市政を行った。
中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - … 中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - 1978年5月18日)は、日本の障害者福祉活動家。光道園創設者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
酒詰 仲男(さかづめ なかお、1902年〈明治35年〉5月2… 酒詰 仲男(さかづめ なかお、1902年〈明治35年〉5月29日 - 1965年〈昭和40年〉5月31日)は、日本の考古学者、文学博士。 東京出身。東京開成中学校に入学し、3年時に両親の不仲から母の地縁で京都へ移り、京都府立京都第一中学校に転入。同志社大学文学部英文科卒。筆名は土岐仲雄。東京開成中学校教諭、大山史前学研究所所員、東京帝国大学助手、1954年同志社大学教授。 開成中学の英語教員時代、同僚石田外茂一と親交を結び、佐野学『日本歴史』をテキストとして日本史の共同研究を進める。社会主義シンパとなった酒詰は、1933年「6.15研究グループ」参加を理由に特別高等警察から検挙される。この時の拷問で酒詰は前歯が数本欠けている。
坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5… 坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる。
青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 19… 青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 1971年12月15日、男性)は、日本の仏文学者、詩人、美術評論家、翻訳家。骨董品収集・随筆でも著名であった。 山梨県西八代郡高田村印沢(現・市川三郷町)にて、四男五女の末子として生まれる。生家はかつて質屋を営んだことがある富裕な地主の旧家だった。幼い頃から書画骨董の詰まった質倉で遊び、骨董に対する鑑賞眼を培った。 1917年に山梨県立甲府中学校(旧制)を卒業後、詩作やフランス語独習に熱中。永井荷風と堀口大學に憧れ、1919年に慶應義塾大学仏文予科に入学。このとき蔵原伸二郎と知り合い、無二の親友となる。1920年、出席時間不足のために留年し、新入生と奥野信太郎と終生の親交を結ぶ。
大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月… 大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月29日 - 昭和37年(1962年)3月19日)は、日本の画家。大山町教育長。 美術教師を務める傍ら画業に励み、日本画、水彩画、油彩画など多くの作品を残した。代表作に、第9回帝展で入選した『枯れたる向日葵』がある。
黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29… 黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1991年〈平成3年〉6月26日)は、日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王の第2女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、茂子女王(しげこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1897年(明治30年)5月29日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2女子(第3子)として誕生。1914年(大正3年)1月21日、黒田長礼(黑田長禮、黒田長成侯爵の嫡男)に降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に夫・長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年… 周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年4月28日〉 - 1948年〈民国37年〉2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。汪兆銘政権の有力者。 湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蔣介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。
菊池 仁康(きくち にこう、1895年〈明治28年〉5月29… 菊池 仁康(きくち にこう、1895年〈明治28年〉5月29日 - 1967年〈昭和42年〉9月14日)は、大正から昭和中期の青森県の実業家でロシア文学者。実業家としては板柳銀行頭取を務め、合併後の青森銀行では取締役となったほか、菊屋百貨店社長としても活躍した。 その一方で、ドストエフスキーやプーシキンの翻訳を行うなどロシア文学者としても知られ、詩人福士幸次郎の地方主義運動に参加するなど文化人としても足跡を残した。 青森県北津軽郡板柳村(現・同郡板柳町)出身。父・菊池仁了、母・たかの長男として生まれる。(旧制)県立青森中学校卒業後、上京し、明治大学政治経済科を中退した後、ニコライ露西亜神学校、東京外国語学校(現・東京外国語大学)でロシア語を学ぶ。
中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月… 中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月29日 - 1956年〈昭和31年〉1月6日)は、日本の政治家。愛知県挙母市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)、挙母町長、愛知県会議員などを歴任した。 挙母町長在職中、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の工場誘致、土地買収に尽力したことで知られる。 愛知県八名郡下条村(現・豊橋市)出身。農業を営む中村桂次郎の長男として生まれる。下川村第一尋常高等小学校卒業。父の死をきっかけとして1906年(明治39年)、14歳のときに家を出て農業試験場養蚕部に入る。養蚕教師として西三河の農家の指導にあたった。 1912年(明治45年)、第15師団に入隊。
長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月2… 長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月29日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・音楽教育者。日本の洋楽の黎明期に優れた門下生を数多く育てた。 愛知県名古屋市出身。1914年(大正3年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)卒業。三浦環に師事。 1915年(大正4年)下半期だけでも5回の演奏記録があり、同年10月29日に神田青年会館にて「二十世紀社主催 音楽会」に出演。1916年(大正5年)11月16日には「皇后行啓演奏会」にて御前演奏をする。1920年(大正9年)12月3、4日 東京音楽学校第39回定期演奏会、11日 南葵樂堂「ベートーヴェン[生誕]百五十年紀念 音樂會」に出演(指揮:グスタフ・クローン ソプラノ:長坂好子 ピアノ:小倉末子)。
矢島 杉造(やじま すぎぞう、1889年(明治22年)5月2… 矢島 杉造(やじま すぎぞう、1889年(明治22年)5月29日 - 1948年(昭和23年)5月9日[要出典])は、朝鮮総督府官僚。 新潟県長岡市出身。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。朝鮮総督府試補、内務部第二課長、内務局社会課長、地方課長、京畿道内務部長、全羅南道知事を歴任。1935年(昭和10年)には農林局長に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、朝鮮林業開発株式会社社長となった。1939年(昭和14年)に退任した後は、朝鮮米穀市場株式会社社長を務めた。 1948年(昭和23年)5月9日、東京都練馬区にて死去[要出典]。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29… 渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29日 - 1955年〈昭和30年〉1月28日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。朝鮮農地開発営団理事長。 新潟県岩船郡関谷村(現在の関川村)出身。渡辺善俊の長男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同日高郡長、福井県理事官、神奈川県事務官を務めた。 1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道内務部長、黄海道内務部長、平安南道内務部長、全羅北道知事、京畿道知事を歴任。1931年(昭和6年)、殖産局長兼山林部長となり、翌年に農林局長に転じた。 1935年(昭和10年)に退官し、東洋拓殖理事、日魯漁業(現在のマルハニチロ)取締役、南洋興発監査役、海外興業監査役、朝鮮農地営団理事長、朝鮮食糧営団理事長などを務めた。
岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947… 岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947年10月3日)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。川名兼四郎門下。 愛知県碧海郡知立町(現・知立市)出身。1906年(明治39年)第一高等学校卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。東京高等商業学校(現一橋大学)教授。1920年(大正9年)フランス・ドイツ・スペイン・イギリス・イタリアに文部省在外研究員として、研究留学( - 1923年)。
野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月2… 野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 本名・野口英吉。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。 4年制尋常小学校・4年制高等小学校を終了後に上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退し詩作を始める。このとき1901年(明治34年)、英吉は19歳であった。 1904年(明治37年)、父の事業失敗と死により故郷に帰り家督を継ぐ。
岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月… 岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。 1881年岩倉具視の四男として生まれる。1896年分家して、同年12月3日、父の勲功により男爵を叙爵。学習院を経て、東京帝国大学文科大学修了。1909年欧米視察。1911年7月10日、貴族院議員となる。福徳生命保険、大成漁業各取締役、十五銀行監査役。1932年以降米穀対策調査会、石油業委員会、液体燃料委員会、帝国石油、台湾拓殖、樺太開発その他各設立委員、川崎造船所、千代田火災保険各取締役を務め、翼賛政治会常任総務を歴任した。 戦後の1946年5月8日に貴族院男爵議員を辞職し、その後公職追放となり、間もなく死去した。
山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月… 山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月29日 - 1950年(昭和25年)1月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・平沢。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)で平沢家に生まれる。1903年6月、東京高等商業学校を卒業。外交官を目指したが、同年8月、北海道松前郡福山町の富豪、3代山本久右衛門の養子となる。1906年、一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計まで昇進して除隊。その後、養父が小樽区に移りその事業を補佐。小樽区会議員、小樽市会議員、小樽商工会議所顧問、小樽倉庫社長、小樽商船社長、北日本汽船取締役、北海道製綿取締役、大正製麻取締役、小樽新聞取締役、北海道練乳監査役、定山渓鉄道監査役、松前造林 (資) 社長などを歴任。
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈… 岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日)は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。 1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる。 父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。 1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。 旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した。
山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5… 山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5月29日(明治4年4月11日) - 1955年(昭和30年)10月18日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員、南邸山内家3代当主。 土佐藩南邸山内家2代当主・山内豊積(10代藩主山内豊策五男・山内豊著の三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)1月8日に男爵を襲爵した。 学習院高等科、和仏法律学校(現・法政大学)を修了。1896年(明治29年)12月、一年志願兵として歩兵第22連隊に入隊し、1899年(明治32年)2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1905年(明治38年)後備役となる。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
花村 覚三郎(はなむら かくさぶろう、1867年5月29日(… 花村 覚三郎(はなむら かくさぶろう、1867年5月29日(慶応3年4月26日) - 1952年(昭和27年)4月8日)は、明治から昭和時代の政治家。衆議院議員。 美濃国武儀郡、のちの岐阜県武儀郡東武芸村(武芸村、武芸川町を経て現関市)出身。普通学を修める。 農業を営み(注:戦後の「農業」ではなく、豪農・大地主による農地・山林経営である。特筆すべきは、その所有する山林の広大さであった)、岐阜県会議員、相続税審査委員、所得税調査委員を歴任した。 1908年(明治41年)5月の(満25歳以上で直接国税10円以上を納める男子のみが選挙権を有した)第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29… 井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29日(慶応元年5月5日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の弁護士、政治家・衆議院議員(憲政本党)、実業家。松山商工会議所会頭。早稲田大学評議員。松山高等商業学校理事。北予中学会理事。族籍は愛媛県士族。号は不去庵。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)3代・5代社長。 伊予国喜多郡菅田村(現在の愛媛県大洲市)の庄屋の家に生まれた。有友平衛の長男。のちに井上家の養嗣子となる。地元の小・中学校を経て1882年(明治15年)に上京して丸山作楽塾、岡松甕谷塾で学び、翌年漢学者鈴村譲の海南書院(松山)で学ぶ。法学を独習して代言人(弁護士)試験に合格。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1… 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1864年5月29日) - 昭和15年(1940年)6月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→純正国民党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 伊予国宇和島出身。宇和島藩士村松喜久造の長男。1884年(明治17年)に同人社を卒業後、高野山大学林で英学講師を務めた。その後、関西日報、国会新聞、中央新聞、東京朝日新聞、大阪朝日新聞などで記者を務めた。やがて雑誌「大国民」を創刊し、また日刊大東通信社の社長を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は5回(第10回、第11回、第13回、第16回、第17回にて当選)を数えた。
玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安… 玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安政5年4月17日) - 1915年(大正4年)6月27日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。 大和国添上郡奈良町(現・奈良県奈良市)生まれ。弁護士試験に合格し、その業務に従事する。奈良市会議員、同参事会員、同議長、奈良県会議員、宅地貸借価格調査委員、大阪電気軌道(株)取締役となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において奈良1区から自由党所属で立候補するが次点で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で独立倶楽部から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して落選した。