濱田 隆士(はまだ たかし、1933年2月3日 - 2011… 濱田 隆士(はまだ たかし、1933年2月3日 - 2011年1月19日)は、日本の地球科学者。東京大学名誉教授、放送大学名誉教授。
宮崎県:978人
濱田 隆士(はまだ たかし、1933年2月3日 - 2011… 濱田 隆士(はまだ たかし、1933年2月3日 - 2011年1月19日)は、日本の地球科学者。東京大学名誉教授、放送大学名誉教授。
後藤 昭八郎(ごとう しょうはちろう、1933年 - 200… 後藤 昭八郎(ごとう しょうはちろう、1933年 - 2009年12月11日)は、日本の経済学者、明治大学名誉教授。研究分野は経済政策。 1933年、宮崎県生まれ。1952年3月、宮崎県立延岡恒富高等学校(現在の県立延岡高校)卒業。1956年3月、明治大学政治経済学部経済学科卒業。1958年3月、明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻修士課程修了、経済学修士。1961年3月、明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻博士課程単位取得満期退学。赤松要門下。1976年3月25日、明治大学より経済学博士を授与される。明治大学政治経済学部専任助手、専任講師、助教授を経て、明治大学政治経済学部教授。2003年3月、明治大学政治経済学部定年退職。
青木 賢児(あおき けんじ、1932年12月19日 - 20… 青木 賢児(あおき けんじ、1932年12月19日 - 2023年8月1日)は、元日本放送協会 (NHK) 理事。 1957年(昭和32年)、NHKに入局。同局在籍時には、30年あまりにわたってドキュメンタリー番組のプロデューサーを務め、『現代の映像』『明治の群像』『NHK特集』などの制作に携わった。そして報道局次長、報道番組部長、放送総局長、NHK専務理事、1991年にはNHK交響楽団理事長を務めた。 NHKを退局後、1993年(平成5年)より宮崎県立芸術劇場館長を、2014年より名誉館長を務めた。1996年に宮崎国際音楽祭を初めて開催し、プロデューサー・徳永二男と共に総監督を2010年まで務めた。
黒木 靖夫(くろき やすお、1932年10月2日 - 200… 黒木 靖夫(くろき やすお、1932年10月2日 - 2007年7月12日 )は、日本の工業デザイナー。 ソニー株式会社宣伝部長・意匠部長・クリエイティブ本部長・取締役、ソニー企業代表取締役社長を歴任した。 1993年にソニーを退職後、株式会社黒木靖夫事務所を設立し独立。富山インダストリアルデザインセンター(現富山県総合デザインセンター)所長を務める。 東北芸術工科大学客員教授、成安造形大学客員教授、立命館大学客員教授。 宮崎県西都市に生まれる。宮崎県立妻高等学校(第5回生)、千葉大学工学部工業意匠学科卒業。 学科推薦でそごうへ入社し広告を担当。3年後に新聞でソニーの求人広告を見つけ中途入社する。
秋村 功(あきむら いさお、1932年7月24日 - 199… 秋村 功(あきむら いさお、1932年7月24日 - 1990年7月4日)は、日本の歌人・短歌評論家、環境問題を専門とする国際公務員(元国際連合環境計画(UNEP)支援措置部長)。一橋大学商学部卒。本名崎村久夫。宮崎県宮崎市出身。 未来短歌会の同人で、我妻泰(田井安曇)の「未来手帖」のあとを継ぎ、洗練された文章を記していた。その我妻泰と歌誌『河』を編む。岡井隆が吉本隆明と定型論争を繰り広げた際は、アメリカ社会学や社会心理学の知識を授けてブレーンとなった。 1958年、「短歌散文化の性格」で第3回現代短歌評論賞受賞。 晩年は環境問題に取り組み、国際湖沼委員会などの設立に尽力した。 野村総合研究所上席研究員の崎村夏彦は長男。
山本 孫春(やまもと まごはる、1932年〈昭和7年〉2月2… 山本 孫春(やまもと まごはる、1932年〈昭和7年〉2月27日 - 2026年〈令和8年〉2月3日)は、日本の政治家。宮崎県日向市長(1期)等を歴任した。 現在の宮崎県日向市に生まれる。東京農業大学農学部卒業。 日向市議会議員、宮崎県議会議員を務めた。 2000年(平成12年)の日向市長選挙に無所属、社民党支持で立候補し、赤木欣康を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:45,531人 最終投票率:69.93%(前回比:-pts) 同年3月31日に日向市長に就任した。 2002年(平成14年)7月1日にオープンした日向市の第三セクターの温泉施設「日向サンパーク温泉」からレジオネラ菌が検出され、死者7人を含む多くの感染者を出した問題が発生した。
武中 はじめ(たけなか はじめ、本名:武中肇、1932年(昭… 武中 はじめ(たけなか はじめ、本名:武中肇、1932年(昭和7年)2月15日 - 1995年(平成7年)9月7日)は、日本の歌手、タレント、ラジオパーソナリティ。元コロムビア専属歌手で、1970年代以降は宮崎放送(MRT)所属のタレントとしてMRT制作のラジオ・テレビ番組に数多く出演。宮崎県の企業CM出演や地元イベント参加など郷土に根ざした活躍で知られた。また歌謡学校などで歌手を指導・育成したり、障がい者支援の慈善活動を行うなど多岐にわたる活動を展開した。宮崎放送制作のテレビ番組「おくさま9:30」にてMRT正面玄関前レポーター担当などタレントとして活動していた武中吾子(たけなかあこ)は娘。 ※南国慕情(B面):作詞・赤城慧、作曲:山本丈晴 ※元気だしなよ(A面):作詞・山塚重人、作曲・堀川敏幸、編曲・甲斐靖文、歌・武中はじめ※四角い空(B面):作詞・はらちあき、作曲・武中アコ、編曲・甲斐靖文、歌・武中アコ この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。
北川 昌典(きたがわ まさのり、1931年(昭和6年)11月… 北川 昌典(きたがわ まさのり、1931年(昭和6年)11月20日 - 2019年(令和元年)10月25日)は、日本の政治家。位階は従四位。日本社会党衆議院議員(1期)、日南市長(2期)。 高知県・宮崎県出身。1950年、宮崎県立日南高等学校卒業。日南市職組書記長、日南市議(3期)、宮崎県議(3期)を経て、1990年の総選挙で旧宮崎2区から立候補して初当選。1993年の総選挙に落選。1996年、日南市長に当選。2期務めた。2005年、旭日中綬章受章。 2019年10月25日午前4時5分、胆管がんのため日南市の病院で死去。87歳没。死没日をもって従四位に叙される。
桑畑 和男(くわはた かずお、1931年3月25日 - )… 桑畑 和男(くわはた かずお、1931年3月25日 - )は、日本の政治家。元宮崎県北諸県郡三股町長(3期)。 宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。1957年(昭和32年)三股町役場に奉職。議会事務局長・企画開発課長・総務課長・財政課長・収入役など歴任。1998年(平成10年)より2010年(平成22年)まで三股町長を3期務めたほか、2010年4月から2012年3月まで都城圏域地場産業振興センター副理事長も務めた。 3期目となった2006年(平成18年)の町長選挙では、公約として町長専用公用車を売却するとして当選後に実現した一方で、対立候補を応援した建設業者を町発注工事の指名競争入札から外したことを認めたり、選挙前に元後援会幹部へ現金を渡したことが2009年(平成21年)に明らかになると議会に自身の給与を減額する条例改正案を提案するなど、耳目を集める人物であった。
内野 重昭(うちの しげあき、1931年〈昭和6年〉1月20… 内野 重昭(うちの しげあき、1931年〈昭和6年〉1月20日 - 2017年〈平成29年〉2月28日)は、日本の近代五種競技選手。1960年ローマオリンピック、1964年東京オリンピック日本代表選手。 宮崎県串間市鹿谷地区出身。1960年ローマオリンピックに日本人最初の近代五種競技選手として出場した。また、出身の串間市では初のオリンピック代表選手である。 近年では未来のオリンピック選手を輩出するために、平成23年度から3年間小中高生を対象に近大三種大会を串間市で開催していた。 2017年2月28日に死去。86歳没。
菅 登未男(すが とみお、1931年1月17日 - )は、日… 菅 登未男(すが とみお、1931年1月17日 - )は、日本の俳優・タレント。宮崎県出身。所属事務所はGMBプロダクション。シニアタレントとして数多くのテレビ番組・CM・プロモーションビデオなどに出演。身長155cm。かつては麗タレントプロモーション、ジンズ・キャストに所属していた。 CM制作会社太陽企画株式会社にて清掃員として勤務。職務中に個性的なキャラクターが某ディレクターの目に留まり、2001年にマツモトキヨシのCMに出演が決まる。70歳でのデビューであった。 2005年より『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』に「ピカデリー梅田」として準レギュラー出演していたことで知られる(初登場は次長課長河本準一の七変化コーナー。
渡辺 綱纜(渡邊 綱纜、わたなべ つなとも、1931年 - … 渡辺 綱纜(渡邊 綱纜、わたなべ つなとも、1931年 - 2024年10月14日)は、日本の実業家。元宮交シティ社長。元宮崎産業経営大学教授。 朝鮮半島に生まれる。宮崎県立宮崎大宮高等学校、中央大学法学部卒業。1953年、宮崎交通に入社。企画宣伝課長・観光副部長・総合センター部長・常務取締役などを歴任。1987年、株式会社宮交シティ社長に就任。 2024年10月14日、老衰のため宮崎市内の病院で死去。93歳没。
二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は… 二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は、宮崎県都城市出身の元調教師(栗東所属)・元騎手。 妻は師匠である布施文蔵元調教師の次女であり、布施正とは義兄弟の間柄に当たる。 1953年に布施文蔵厩舎から騎手としてデビューし、1219戦60勝(中央以降)をマークし、1965年引退。 引退後の1965年に調教師免許を取得して厩舎を開業し、1968年にクモムラサキでアラブ大賞典(秋)を制して重賞初制覇。1978年にアグネスホープが東京優駿(日本ダービー)2着に入り、1980年にはアラナス産駒のノースガストで菊花賞を制し、クラシック初制覇を達成。1981年にはフォルティノ産駒のテキサスワイポンで中山大障害(秋)を制覇し、1988年から1990年にかけてはウエスタンウインド産駒のシンウインドが短距離戦線で活躍。
西広 整輝(にしひろ せいき、1930年(昭和5年)6月24… 西広 整輝(にしひろ せいき、1930年(昭和5年)6月24日 - 1995年(平成7年)12月4日)は、日本の元防衛官僚。防衛事務次官、防衛庁防衛局長、山口県警察本部長、平和・安全保障研究所理事長を歴任。愛称は「ミスター防衛庁」。 父は内務官僚で官選宮崎県知事(1943年(昭和18年)7月1日~1944年(昭和19年)8月1日)や朝鮮総督府警務局長を歴任した西広忠雄。都城中学、新制大手前高校を経て、1956年東京大学文学部国史学科卒業。同年、防衛庁入庁。(プロパー組2期生)。 「ミスター防衛庁」と呼称され、生え抜き組(プロパー組)初の事務次官就任者。退官後も防衛庁生え抜き組の東大出身者のみを構成員とした「西広学校」が知られている。
長友 貞藏(ながとも ていぞう、1930年(昭和5年)5月2… 長友 貞藏(ながとも ていぞう、1930年(昭和5年)5月28日 - 1994年(平成6年)5月3日)は、日本の政治家、官僚。宮崎市長。 宮崎県宮崎郡住吉村(現・宮崎市)出身。宮崎県立宮崎中学校、宮崎大学農学部農学科卒業。1953年農林省にキャリア技官として入省。農林経済局金融課課長補佐から1971年宮崎市に出向。経済部長、総務部長を経て、1976年から1978年まで助役を務めた。 1979年から宮崎県議会議員(自由民主党)を務めるも任期途中で辞職し、1982年宮崎市長選挙に出馬し当選。1994年3期目の途中で健康上の理由で引退し、長友の任期中一貫して助役であった坂本昭三が実質的な後継者として市長選に臨んだが、津村重光に敗れた。
瀬戸山 登一(せとやま とういち、1930年5月13日 - … 瀬戸山 登一(せとやま とういち、1930年5月13日 - 1978年10月19日)は、日本の法学者。専門は、行政法・公法学。学位は、法学博士(明治大学・論文博士・1972年)(学位論文「明治憲法における予算制度」)。元八幡大学教授。宮崎県都城市出身。子息に大阪大学大学院法学研究科教授瀬戸山晃一がいる。 宇賀田順三、森三十郎、和田英夫らに師事した。存命中に32の研究論文を発表した(法学セミナー1973判例憲法等)。また福岡大学法学部、鹿児島大学法文学部の非常勤講師も勤めた。明治憲法における研究では、予算制度の研究の他、租税法律主義、予算の効力、現憲法下における思想の残存とその検討、ドイツ予算制度の導入とその矛盾、等多角的また比較論的にも考察し当時の学会に於いて一定の評価を得た。
押川 國秋(おしかわ くにあき、1930年4月24日 - … 押川 國秋(おしかわ くにあき、1930年4月24日 - 2025年10月14日)は、日本の脚本家、小説家。 宮崎県児湯郡川南町出身。実家は結婚式場兼料理店を経営。高鍋高等学校、中央大学法学部卒。 元々脚本家という仕事をよく知らず、漠然と小説家を志していたことはあったが、大学生時代に野田高梧の『シナリオ構造論』を読んだことがきっかけで脚本家を志す。 本人は人間の問題として安楽死に興味があった。24歳の時に亡くなった父親が「もし俺が倒れて半身不随になったり口が利けなくなったら、殺してくれ」と良く言っていたということで、この自身の体験を結び合わせて書いた『罪』という作品で日本新人シナリオコンクールにて佳作入選。
大戸 雄記(おおと ゆうき、1930年4月1日 - 2018… 大戸 雄記(おおと ゆうき、1930年4月1日 - 2018年6月4日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手。 宮崎大淀高校から鹿児島鉄道管理局を経て、1954年に南海ホークスへ入団。 南海では代走、守備固め要員として試合途中からの出場がほとんどで、1955年は111試合出場で110試合、1956年は97試合全て途中出場という記録だった。 1957年に引退。引退後は鹿児島鉄道管理局に指導者として復帰し、NHK鹿児島放送局の野球解説者としても活動した。
山田 精吾(やまだ せいご、1930年 <昭和5年> 3月1… 山田 精吾(やまだ せいご、1930年 <昭和5年> 3月18日 - 1996年 <平成8年> 2月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本労働組合総連合会(連合)初代事務局長。位階は従四位。 宮崎県延岡市生まれ。1946年旧制延岡中学校卒。1948年旭化成工業(現旭化成)ダイナマイト工場に入社、全旭化成労働組合連合会(全旭連)ダイナマイト労組書記長。同年の旭化成争議では青年行動隊長として活躍し、ダイナマイトを腹に括りつけて経営側と対峙したことから「ダイナマイト男」の愛称が生まれた。1950年全旭連ダイナマイト労組執行委員。1951年同労組書記長、副委員長に選出され、全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)化繊連合会に書記として出向。
松恵山 邦治(まつえやま くにはる、1929年9月1日 - … 松恵山 邦治(まつえやま くにはる、1929年9月1日 - 2001年8月31日)は、立浪部屋に所属した元力士。本名は柏谷 邦治(かしわだに くにはる)。現在の宮崎県延岡市出身。身長168cm、体重102kg。最高位は東十両17枚目。得意技は右四つ、寄り。 1950年5月場所に初土俵、1955年3月場所に十両昇進。1957年5月場所に廃業した。引退後は故郷に帰ってちゃんこ料理店を開業した。2001年8月31日に死去、71歳没。現在、宮崎県には松恵山の教え子が開いた松恵山相撲道場がある。また、佐渡ヶ嶽部屋に所属している9代尾車(元幕内・琴恵光)は孫であり、この道場の出身者である。
能島 廉(のしま れん 1929年4月19日 - 1964年… 能島 廉(のしま れん 1929年4月19日 - 1964年12月16日)は、作家、編集者。本名は野島 良治(のしま よしはる)。 宮崎市出身だが、子供の頃に親の故郷である高知市へ移ることになり、高知県立海南中学校に入学した後名古屋陸軍幼年学校へ入学したが、終戦となり海星中学に復学したのち旧制高知高等学校に進学する。 1949年に東京大学文学部ドイツ文学科へ入学すると、在学中に旧制高知高校の先輩から誘われる形で同人誌『第15次新思潮』に加わり、1952年に大学を卒業して小学館に入社した後も児童向け雑誌の編集に関わりながら短編数話を発表した。その後小学館の学習雑誌で学年別の編集長を務め、作家として梶山季之や瀬戸内寂聴らを起用している。
頼 平 (より たいら、1929年 - ) は、日本の農学者… 頼 平 (より たいら、1929年 - ) は、日本の農学者。(京都大学)。専門は、農業経済学、農政学。宮崎県出身。
甲斐 一政(かい かずまさ、1929年 - 2024年9月1… 甲斐 一政(かい かずまさ、1929年 - 2024年9月16日)は、元愛知県副知事。宮崎県西臼杵郡高千穂町出身。勲位は勲三等瑞宝章。 このほか、日本国際連合協会評議員、総務省中部管区行政苦情処理委員会座長、愛知大学理事を務めた。
寺原 伸夫(てらはら のぶお、1928年3月1日 - 199… 寺原 伸夫(てらはら のぶお、1928年3月1日 - 1998年3月30日)は、日本の作曲家。宮崎県延岡市出身。宮崎農林専門学校(現・宮崎大学)を卒業後、中学校教員として勤務する傍ら作曲を始めた。1963年来日したアラム・ハチャトゥリアンの来日歓迎パーティーで合唱曲「日本の夜明け」を披露、才能を認められモスクワ音楽院に留学、以後7年間彼のもとで学んだ。1971年、修士課程修了作品として作曲した「チェロ協奏曲」はハチャトゥリアンやカバレフスキーに絶賛された。 吉永小百合の代表作である映画『キューポラのある街』の挿入歌『手のひらの歌』の作曲者。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10… 酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10月15日)は、日本の作詞家。宮崎県出身。 宮崎県南那珂郡吾田村(現在の日南市)一里松出身。旧制飫肥中学校を卒業後、小学校教員を経て書店兼文具店を開業する。店舗は後に酒販業へ転換したが、この頃から文学に興味を持ち1964年(昭和38年)に県が再置80周年記念事業として懸賞募集した2代目「宮崎県民歌」に応募作が一等入選で採用された。 その後は主に標語の分野で活動していたが、作詞分野では都城市茶業協議会の選定で作成され都はるみの歌唱で日本コロムビアからレコードが発売された「都城茶音頭」で入選したのをはじめ、大分県立大分工業高等学校の校歌を手掛けている。
持永 和見(もちなが かずみ、1927年7月1日 - 201… 持永 和見(もちなが かずみ、1927年7月1日 - 2017年9月3日)は、日本の官僚・政治家。自由民主党宏池会所属の衆議院議員で5期務めた。宮崎県都城市出身。父は元北海道庁長官の持永義夫、弟は元自治事務次官の持永堯民。子は持永哲志。 2003年11月の第43回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界から引退。地盤の宮崎3区には、子で元経産官僚の持永哲志を自身の後継者として擁立。自民党公認争いで古川禎久との調整がつかず、双方が無所属で立候補したが、古川に敗れて落選。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、哲志が自民党公認として立候補したが、再び落選。その後、2008年6月に哲志は旅行中の沖縄で急死した。
野別 隆俊(のべつ たかとし、1927年3月30日 - 20… 野別 隆俊(のべつ たかとし、1927年3月30日 - 2014年9月16日)は、日本の政治家、日本社会党参議院議員(1期)。 宮崎県日向市出身。1948年京都長岡園芸専門学校卒。宮崎県経済連を経て、宮崎市役所に入り、農政係長、市職員労働組合委員長などを務める。1966年宮崎市議会議員に当選、5期務め、市議会副議長になる。1982年宮崎県議会議員に当選。3期務める。 1989年の第15回参議院議員通常選挙で宮崎選挙区から日本社会党公認で立候補して当選。1995年の第17回参議院議員通常選挙で落選した。 1997年4月の春の叙勲で勲三等に叙され旭日中綬章を受章する。 2014年9月16日12時31分、呼吸困難のため宮崎市の病院で死去。
岩橋 辰也(いわはし たつや、1926年(大正15年)11月… 岩橋 辰也(いわはし たつや、1926年(大正15年)11月30日 - 2024年(令和6年)1月18日)は、日本の政治家。(旧)都城市の元市長。 宮崎県立都城商業学校(現宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)卒業。1948年、都城市役所に奉職。市長公室長・人事課長・農業委員会事務局長・水道局長・建設部長などを歴任。1977年4月都城市助役に就任。1984年12月、都城市長に初当選。その後2004年12月まで市長職を5期20年務める。都城北諸合併協議会の会長を務め、2006年に市町村合併により発足した(新)都城市の発足に大きく貢献した。 2004年12月、6期目を目指した都城市長選で35歳で元宮崎県議会議員の長峯誠に敗れる。
吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日… 吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日本の競馬騎手、調教師。 1943年に日本競馬会(のち国営競馬、日本中央競馬会)で騎手デビュー。兵役を経て1947年より復帰し、1965年までに重賞3勝を含む通算276勝を挙げた。騎手引退後は調教師に転身し、1992年の阪神3歳牝馬ステークスを制したスエヒロジョウオーらを手がけた。1999年に定年引退。調教師通算成績は7493戦670勝、うちGI競走1勝を含む重賞13勝。 同じく中央競馬騎手・調教師であった吉永忍は従弟。自身の門下生であった川村禎彦は娘婿。 宮崎県北諸県郡高城町出身。近郊の三股町には競馬場があり、農家であった父と叔父は飼養する馬をそこで走らせていた。
江藤 隆美(えとう たかみ、男性、1925年〈大正14年〉4… 江藤 隆美(えとう たかみ、男性、1925年〈大正14年〉4月10日 - 2007年〈平成19年〉11月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。自由民主党の衆議院議員として建設大臣、運輸大臣、総務庁長官を歴任した。 宮崎県日向市梶木の小作農の家に生まれる。福治の二男。世界恐慌の影響もあって家計は苦しく、小学5年生で出稼ぎに出され、1日55銭の肉体労働をした。 旧制富高実業学校(現在の宮崎県立門川高等学校)を経て、1947年に旧制宮崎農林専門学校(現在の宮崎大学)を卒業。同年には宮崎県富島町農業会技手となり、翌年6月には宮崎県南臼杵畜産農業協同組合参事に就任した。 1955年、宮崎県議会議員選挙に出馬し当選。
永峰 肇(ながみね はじめ、1925年4月1日 - 1944… 永峰 肇(ながみね はじめ、1925年4月1日 - 1944年10月25日)は、大日本帝国海軍軍人。 1925年4月1日に宮崎県住吉村の貧しい農家に長男として生まれる。家計が貧しかったことから学費をかけずに勉強し、地元では優秀な生徒として知られていた。1942年5月に佐世保第二海兵団へ入団し、同年8月に駆逐艦「初春」へ乗り組む。同年12月1日には三重海軍航空隊へ入隊(丙飛15期)、1943年3月27日には谷田部海軍航空隊(第31期飛行練習生)を経て、同年9月20日には徳島海軍航空隊(戦闘機専修)を終えている。1944年1月29日には築城海軍航空隊を経て、同年2月11日には南方方面へ行くよう命令を受けている。
八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1… 八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1975年4月7日)は、宮崎県小林市出身の作詞家。 宮崎県小林市内にある老舗金物問屋「八反金物店」の長男として生まれる。幼いころ母を亡くし寂しい少年時代を過ごした。地元の小林高校を卒業後、父・留男の奨めもあり、医師を目指し上京、日本大学医学部に進んだ。太平洋戦争の最中ではあったが、医学生のため徴兵が猶予されていた。1945年3月10日の東京大空襲では医学生として負傷者の手当および遺体の収容作業に動員され、悲惨な光景を目の当たりにしている。終戦直前に召集令状が届き、本土決戦に備え満州から小林町に移駐してきていた山砲連隊に軍医として入営するも程なく終戦となり、部隊が連合軍と交戦することはなかった。
堀之内 久男(ほりのうち ひさお、1924年11月10日 -… 堀之内 久男(ほりのうち ひさお、1924年11月10日 - 2010年3月31日)は、日本の政治家。郵政大臣(第62代)、農林水産大臣(第13代)、衆議院議員(8期)、宮崎県都城市長(2期)等を歴任。
大原 一三(おおはら いちぞう、1924年7月1日 - 20… 大原 一三(おおはら いちぞう、1924年7月1日 - 2005年11月3日)は、日本の政治家、大蔵官僚。衆議院議員(7期)、農林水産大臣(第23代)を務めた。位階は従三位、勲等は勲一等。 宮崎県東臼杵郡北方村(後の北方町、現延岡市)出身。に生まれる。北方小学校、宮崎県立延岡商業学校(現宮崎県立延岡商業高等学校)、旧制台北高等学校、旧制第一高等学校を経て、1951年、東京大学法学部政治学科卒業。東大法学部政治学科4年次に国家公務員六級職試験(行政職、法律職)を合格。大蔵省に入省。主税局に配属。 1957年6月、御坊税務署長。1958年6月、沼津税務署長。1961年8月、東京国税局総務部総務課長。
日高 啓(ひだか ひろし、1924年4月19日 - 2018… 日高 啓(ひだか ひろし、1924年4月19日 - 2018年9月9日)は、日本の経営者。髙島屋社長を務めた。宮崎県宮崎市出身。 1948年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に髙島屋に入社した。1976年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1986年2月に副社長に就任し、1987年4月には社長に昇格。1996年7月に取締役相談役に就任し、1997年2月に相談役、2000年5月に特別顧問を経て、2001年5月から顧問を務めた。 2018年9月9日に脳梗塞のために死去。94歳没。
黒木 淳吉(くろき じゅんきち、1924年 - 2009年)… 黒木 淳吉(くろき じゅんきち、1924年 - 2009年)は日本の小説家。宮崎県西都市出身。 1947年、宮崎県工業専門学校 (旧制)土木科を卒業。学校教員を経て宮崎県立博物館、宮崎県立図書館、社会教育課に勤務。県立図書館副館長・県総合博物館館長・県美術館顧問、宮崎県芸術文化協会会長などを歴任。1996年、退職。この間、「龍舌蘭」「群青派」「九州文学」などで創作活動をおこなう。作品集『帯の記憶』で宮日文化賞、『夏草』で宮崎県文化賞、長編『夕映えの村』で九州文学賞を受ける。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
橋元 親(はしもと ちかし、1923年1月15日 - 200… 橋元 親(はしもと ちかし、1923年1月15日 - 2000年1月29日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会錬士)。 天理大学柔道部や旭化成柔道部の師範のほか、全日本柔道連盟参与、近畿地区柔道連盟評議委員、関西学生柔道連盟会長等を歴任した。 宮崎県延岡市出身。県立延岡中学校入学と同時に、幼少からの病弱を案じた両親の意向に従い剣道部に入部した。2年生になり柔道部へ移ると、武道専門学校出身の平野直の手ほどきを受けて成長したほか、家から学校までアップダウンのある片道15kmを自転車で毎日通学し、これにより強靭な足腰が出来上がっていったという。3年生で大日本武徳会の初段、翌年に2段、卒業時には当時少なかった3段にまで昇段している。
出口 辰夫(でぐち たつお、大正12年〈1923年〉- 昭和… 出口 辰夫(でぐち たつお、大正12年〈1923年〉- 昭和30年〈1955年〉1月30日もしくは昭和30年(1955年)1月10日)は、日本のヤクザ。稲川組(組長:稲川角二)幹部。宮崎県西諸県郡飯野町出身。通称「モロッコの辰」。 大正12年(1923年)、宮崎県西諸県郡飯野町(現:宮崎県えびの市)で生まれる。実家は農家で、5人兄弟の四男だった。 昭和13年(1938年)、加久藤尋常小学校高等科2年を卒業後、すぐ上の兄とともに、横浜市鶴見区潮田に住む次兄夫婦のもとに預けられ、ここで夜学の工業高校に進学した。在学中、川崎の「薄田拳闘クラブ」に通い、本格的にボクシングを始めた。この頃から喧嘩三昧の生活を送るようになり、愚連隊の世界に入っていくこととなる。
青木 秀(あおき しげる、1922年5月17日 - 2011… 青木 秀(あおき しげる、1922年5月17日 - 2011年9月12日)は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。 宮崎県延岡市出身。1946年に東京産業大学(現在の一橋大学)を卒業し、1947年に西日本新聞社に入社。1973年に取締役に就任し、1975年に常務、1977年に専務、1983年に副社長を経て、1985年6月に社長に就任。1995年6月に会長に就任し、2000年6月に取締役相談役を経て、2001年6月には相談役に就任した。 テレビ西日本会長、テレビ宮崎取締役も務めた。 2011年9月12日肺炎のために死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒木 正憲(くろき まさのり、1922年 - 2008年5月… 黒木 正憲(くろき まさのり、1922年 - 2008年5月4日)は東京出版創業者。 宮崎県西都市出身。広島高等師範学校を経て東京大学法学部卒業。予備校で数学講師をしていたが、母校である妻中学の数学授業の内容に危機感を覚えたことがきっかけで、都市圏以外に在住する学生が受験関連の情報にアクセスしやすくなることを目的に出版界に入った。1957年、東京出版を創業し、受験雑誌「大学への数学」を創刊。日本数学オリンピックにも携わった。 2008年5月4日、肺炎のため死去。 弟は工業デザイナーの黒木靖夫。「大学への数学」の表紙デザインを担当した。 20世紀日本の実業家
秋月 龍珉(あきづき りょうみん、1921年10月1日 - … 秋月 龍珉(あきづき りょうみん、1921年10月1日 - 1999年9月13日)は、日本の仏教学者、倫理学者。埼玉医科大学名誉教授。成城大学講師。 宮崎県宮崎市出身。東京帝国大学文学部哲学科卒。居士身(在家)で禅の修行を行い、50歳を過ぎた1972年に臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。臨済正宗『真人会』師家、埼玉医科大学教授、花園大学教授、雑誌『大乗禅』主幹を務めた。
杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年)10月2… 杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年)10月20日 - 平成29年(2017年)11月21日)は、囲碁棋士。宮崎県出身、日本棋院所属、井上一郎五段門下。主な実績はタイトル獲得2回(日本棋院早碁名人戦優勝、囲碁選手権戦優勝)、本因坊挑戦2回など。常に囲碁一筋であることから「囲碁の神様」と呼ばれた。夫人は杉内寿子九段。 昭和12年(1937年)に入段してから平成29年(2017年)に死去するまでの現役棋士生活は80年を超え、97歳の最年長現役棋士(当時)として最終対局を打ったのは死去の19日前であった。90歳を超えても打ち分けに近い年間成績を維持し、死去した2017年にも2勝を挙げるなど、その実力は最後まで健在であった。
村山 利雄(むらやま としお、1920年9月23日 - 20… 村山 利雄(むらやま としお、1920年9月23日 - 2020年9月24日)は、日本の経営者。日立造船社長を務めた。宮崎県都城市出身。 1941年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日立造船に入社。1975年5月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1983年6月から1988年6月までに社長を務めた。 2020年9月24日急性肺炎のために死去。100歳没。
宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6… 宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6月20日)は、日本の詩人・評論家・仏文学者・翻訳家。本名は古賀 照一(こが てるいち)。法政大学名誉教授。文芸誌『同時代』同人。 福岡県遠賀郡戸畑町(後の北九州市戸畑区)に生まれる。天籟寺小学校、戸畑小学校、宮崎第二小学校、宮崎中学(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)、小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)を経て上京。旧制一高を卒業後、1942年、東京帝国大学哲学科に入学した。1945年4月、召集により横須賀海兵隊に入隊したが、精神錯乱を装い除隊というエピソードもある。 同年5月25日の東京大空襲により、母を亡くす。母と一緒に逃げ込んだ墓地の中で炎に取り囲まれた彼が「炎の一本道」(『絆――ドキュメント・わが母』)を通って脱出しようと走り去った時、母が転倒。
弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 20… 弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 2024年5月16日)は、宮崎県内で活動した日本の画家。西都市にて生まれ、在住も死没地も同市であった。珍しい名前だが、本名である。宮崎県立都農高等学校講師、宮崎県美術協会理事。息子はテレビ宮崎役員の弥勒猛。 精力的に活動を続け、350回を越える個展を開いた。自宅の近くに展示室『神楽館』を設けており、作品を見ることができるほか、アートカフェや美術館で作品展示を行った。主に神楽や桜をテーマにする画家として有名。代表作に、銀鏡神楽(しろみかぐら)で舞われた「山の神」を描いた百二十号の大作など。
折小野 良一(おりおの りょういち、1919年1月25日 -… 折小野 良一(おりおの りょういち、1919年1月25日 - 1986年10月20日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期)、延岡市長(2期)。 鹿児島県薩摩郡宮之城町(現さつま町)出身。1935年旧制宮崎県立妻中学校(現:宮崎県立妻高等学校)卒業。1938年第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)卒業。1941年京都帝国大学法学部卒。延岡市総務課長を経て、同市長三浦虎雄によって助役に起用。1960年の延岡市長選挙に立候補。現職の青木善祐を1139票差で破り初当選。延岡市長を戦後初めて2期務める。1965年、助役に房野博(後に延岡市長)を起用。1966年、衆議院議員総選挙立候補のため延岡市長退任。
島津 久厚(しまづ ひさあつ、大正7年(1918年)10月8… 島津 久厚(しまづ ひさあつ、大正7年(1918年)10月8日 - 平成26年(2014年)8月2日)は、日本の実業家。第23代学習院院長、丸十産業社長、島津茶園会長、島津山林会長。都城島津氏28代当主。宮崎県都城市出身。位階は正五位。 戦前における爵位は男爵。その他、栄典として紺綬褒章、藍綬褒章、旭日重光章受章。宮崎県公安委員会委員長、日本赤十字社理事などの公職を歴任した。宗派は神道 始祖・資忠は島津氏4代当主忠宗の六男にあたる。代々日向都城3万9千6百余石を領する。明治24年(1891年)12月、特旨を以って華族に列し男爵を授けられた。 男爵島津久家の長男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学農学部卒業。
郷田 實(ごうだ みのる、1918年 <大正7年> 9月26… 郷田 實(ごうだ みのる、1918年 <大正7年> 9月26日 - 2000年 <平成12年> 3月21日)は、日本の政治家。元宮崎県東諸県郡綾町長。在任期間は6期24年(1966年~1990年)。位階は従五位。 宮崎県綾町出身。拓殖大学南方専門科卒業。兵役から復員後、綾町農協に就職。1954年に綾町助役、1966年から1990年まで綾町長を務めた。 自然を生かした町おこしの成果で全国的に知られる。長女の郷田美紀子は薬剤師、環境保護団体代表。 1996年、勲四等旭日小綬章を受章。2000年3月21日、心不全のため死去。死没日付をもって従五位に叙された。 死後、ドキュメンタリー映画『未来からの町づくり先駆者 郷田實』が製作された。
松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2… 松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2007年8月23日)は、日本の政治家、官僚。 宮崎県知事(公選第10‐15代)、林野庁長官を歴任。 宮崎県えびの市出身。宮崎県立小林中学校(現・宮崎県立小林高等学校)、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)、九州帝国大学農学部卒業。1942年農林省に入省。林野庁長官などを歴任後、1976年の参議院議員補欠選挙に宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補したが落選。1979年当時の宮崎県知事黒木博の任期途中での辞職により同県知事選に立候補し当選、2003年まで宮崎県知事を6期務めた。6期目では全国で最高齢の知事であった。2004年旭日大綬章受章。
金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月… 金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月1日 - 1942年(昭和17年)12月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍中尉。 1916年(大正5年)10月1日、宮崎県宮崎市に生まれる。1934年(昭和9年)2月、陸軍少年飛行兵の第1期生として所沢陸軍飛行学校に入校した。1935年(昭和10年)11月に卒業すると、ついで明野陸軍飛行学校で戦闘機の戦技教育を受け、1936年(昭和11年)2月に飛行第8連隊(台湾・屏東)へ配属された。 1937年(昭和12年)7月に支那事変が勃発、8月中旬に戦火が上海に拡大すると、飛行第8連隊の1コ戦闘機中隊を基幹に独立飛行第10中隊(九五式戦闘機装備)が編成され上海戦線に投入された。