牧内 良平(まきうち りょうへい、1938年4月 - )は、… 牧内 良平(まきうち りょうへい、1938年4月 - )は、日本の新聞記者、実業家。元テレビ神奈川社長。前学校法人神奈川大学理事長。神奈川県海老名市在住。 長野県飯田市出身。飯田高校卒業後2年間浪人したのち、早稲田大学政治経済学部に入学。1965年、神奈川新聞社に入社。 1985年、社会部長に就任。1986年6月1日付の神奈川新聞に霊感商法の被害状況を取材した記事が掲載されると、その日の夕方から神奈川新聞社本社には、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の信者からの無言電話および抗議の電話が殺到。電話は3日夜までに8,400件を超え、会社の通信機能は麻痺した。牧内は6月4日付の同紙のコラムに実名で「暴力は、どんな形にしろ絶対に容認できない。
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林 道義(はやし みちよし、1937年1月12日 - ) は… 林 道義(はやし みちよし、1937年1月12日 - ) は、日本の経済学者・心理学研究者・評論家。日本ユング研究会会長。 1937年、長野県飯田市生まれ。東京大学法学部に進み、在学中は1958年から1961年まで学生運動に加わり、全学連組織部長として60年安保闘争に参加した。1962年に東京大学を卒業し、同大学大学院経済学研究科に進んだ。指導教官は大塚久雄であった。1968年に博士課程単位取得満期退学。 1970年、東京女子大学専任講師となった。1971年にマックス・ウェーバーについて論じた学位論文『ウェーバー社会学の方法と構想』で経済学博士号を取得。1975年から1976年までドイツ・テュービンゲン大学に留学し、帰国後にカール・グスタフ・ユングの研究に転じてユングの著作の翻訳を手がける。
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光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、… 光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、長野県飯田市出身の野球選手(投手、外野手)・監督・解説者、ブラインドゴルフ選手。 終戦翌年の1946年に小学4年生で野球を始め、中学時代は投手のほか、様々なポジションをこなした。 飯田長姫高時代は授業中もゴムまりで鍛えた握力で鋭いドロップを投げ、2年春に、3年生のエースが受験勉強のために退部し、代わりにエースとなった。 3年次の1954年、登録身長160cm、実際の身長は157cm、体重51kgの短躯ながら左腕エースとして春の選抜に初出場。1試合平均で12個の三振を奪うなど、剛球投手として注目されたが、完全な光沢のワンマンチームで、チーム自体はそれほど注目されていなかった。
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奥村晃作(おくむら こうさく、1936年6月14日 - )は… 奥村晃作(おくむら こうさく、1936年6月14日 - )は、日本の歌人。歌誌「コスモス」選者。 長野県飯田市生まれ。長野県飯田高等学校を経て、1962年東京大学経済学部卒業。三井物産に入社後、2年程で退職し学士入学して教員免許を取得。のち芝中学校・高等学校社会科教諭に着任。大学在学中に『コスモス』に入会、宮柊二に師事する。1967年、「荒涼たる風景」で第13回角川短歌賞候補。1985年には「コスモス」の仲間である桑原正紀や高野公彦らと同人誌『棧橋』を創刊。 橘曙覧などの近世和歌を消化し、現代短歌の一領域として「ただごと歌」を認知させた。教師時代の奥村に短歌の手引きを受け、後に『コスモス』に入会した教え子に、影山一男や大松達知がいる。
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梓 林太郎(あずさ りんたろう、1933年1月20日 - 2… 梓 林太郎(あずさ りんたろう、1933年1月20日 - 2024年1月27日)は、日本の小説家。本名は林 隆司。 長野県下伊那郡上郷村(現:飯田市)生まれ。 父の仕事の都合で静岡県清水市(現:静岡市清水区)に一家3人で転居。その後、父の出征のみならず、第二次世界大戦の戦況悪化もあって上郷村の母の実家に戻った。その翌年(1945年)、小学6年生の時に終戦を迎える。中央アルプスに連なる山村にあった母の実家では、家業の農家の手伝いなどで毎日のように山に入った。進学のため18歳で上郷を離れたが、本格的に山登りを始めたのは東京に出てからという。 貿易会社、調査会社、経営コンサルタント会社などを経て、1980年『九月の渓で』で小説宝石エンタテインメント小説大賞を受賞し、デビュー。
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塩沢 実信(しおざわ みのぶ、1930年11月29日 - )… 塩沢 実信(しおざわ みのぶ、1930年11月29日 - )は、出版ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
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長谷川 善和(はせがわ よしかず、1930年3月12日 - … 長谷川 善和(はせがわ よしかず、1930年3月12日 - )は、日本の古生物学者。専門は古脊椎動物学。横浜国立大学名誉教授、群馬県立自然史博物館名誉館長。 長野県飯田市出身。長野県飯田高松高等学校卒業。1955年横浜国立大学学芸学部卒業。1975年国立科学博物館地学研究部主任研究官、1979年横浜国立大学教授、1996年群馬県立自然史博物館館長を経て、群馬県立自然史博物館名誉館長。日本哺乳類学会特別会員。 1972年に、「The Naumann's elephant, Palaeoloxodon naumanni (Makiyama) from the Late Pleistocene off Shakagahana, Shodoshima Is. in Seto Inland Sea, Japan(瀬戸内海小豆島の釈迦ヶ鼻沖合から産出した最新世後期のナウマン象)」により、東京大学から理学博士を取得。
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萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7… 萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7日 - 2001年(平成13年)9月4日)は、日本のテレビ制作者、音楽プロデューサー、実業家。テレビマンユニオン初代社長。 長野県飯田市出身。父・萩元隼人は、労働運動家で日本社会党→左派社会党公認で長野4区から総選挙に出馬したが、1953年の総選挙公示直前に急死した。このため身代わりとして母・萩元たけ子が立候補。トップ当選を果たし、衆議院議員を1期務めた。 1937年に一家で上京し、自由学園に学ぶ。幼少のころは虚弱児童で、小学校は病気がちで欠席が多かった。しかし勉学の方は大変早熟であり、小学校1年生のときに6年生までの漢字はほとんど読めた。
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井上 正(いのうえ ただし、1929年(昭和4年)1月12日… 井上 正(いのうえ ただし、1929年(昭和4年)1月12日-2014年(平成26年)6月14日)は、日本の美術史家。佛教大学教授、京都造形芸術大学教授を歴任。専門は日本彫刻史。 長野県飯田市出身。奈良時代の僧行基の巡錫伝承を持つ寺院の仏像を丹念に調査し、上代日本の彫刻史に根本的な見直しを迫る「霊木化現仏」の概念を提唱。それまで9世紀作とみなされてきた木彫仏の制作年代を、50 - 100年引き上げる学説を提示した。
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桑田 昭三(くわた しょうぞう、1928年12月29日 - … 桑田 昭三(くわた しょうぞう、1928年12月29日 - 2016年3月31日)は日本の教育者・教育評論家。学力偏差値を用いた進路指導を行ったことで知られる。 長野県下伊那郡鼎村(現:飯田市)生まれ。旧制中学校在学中に海軍予科練に志願し、敗戦で復員する。旧制上田蚕糸専門学校卒業後、14年間教員生活を送る。長野県や東京都の公立中学校の理科教員を務める(1950年4月~1963年3月)。 東京都港区立城南中学校に勤務していた1957年(昭和32年)、別の学校の先生から偏差値について聞き、進路指導のために学力偏差値を使用し始めた。 1963年にテスト業者の進学研究会に転職。1976年の自著には「私は偏差値の生みの親とされている」と記しており、1981年の自著のタイトルでは「ミスター偏差値(Mr.HENSACHI)」と名乗っている。
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林 建彦(はやし たけひこ、1928年11月3日 - )は、… 林 建彦(はやし たけひこ、1928年11月3日 - )は、日本のジャーナリスト、東海大学名誉教授。韓国現代史専攻。 長野県飯田市出身。名古屋大学経済学部卒。1953年サンケイ新聞入社。ソウル特派員、 政治部次長、編集委員。1977年東海大学文学部教授。94年定年退任、名誉教授。
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近藤 廉治(こんどう れんじ、1927年5月3日 - 202… 近藤 廉治(こんどう れんじ、1927年5月3日 - 2023年3月6日)は、精神科医、南信病院理事長。 長野県飯田市出身。1952年信州大学医学部卒。同放射線医学教室勤務。1957年「篩照射に関する基礎的研究」で信州大学医学博士、同年神経科へ移る。国立武蔵療養所、1970年長野県立駒ケ根病院長、1972年開放病棟の南信病院を設立、院長、理事長。
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後藤 道夫(ごとう みちお、1927年(昭和2年) - 20… 後藤 道夫(ごとう みちお、1927年(昭和2年) - 2017年12月22日)は、日本の科学ジャーナリスト・サイエンスプロデューサー、科学教育研究家。平成記念かざこし子どもの森公園初代公園長、飯田市少年少女発明クラブ会長、東京の科学実験グループ「ガリレオ工房」名誉会員。 長野県飯田市生まれ。東京理科大学理学部物理学科卒業。工学院大学附属高等学校で教諭を、工学院大学、東京都立大学 (1949-2011)、上智大学、明治大学などで講師を務める。 1992年に「青少年のための科学の祭典」を設立。科学技術館を中心とし、日本各地の80都市で行った。第1~4回、9回の全国大会実行委員長を務めた。 現在はサイエンスプロデューサーとして、各地で「親子科学教室」など開催するほか、飯田市科学教育ボランティアグループ「おもしろ科学工房」(平成13度組織化)スタッフとともに市内および下伊那郡内の小・中学校を対象に「巡回科学実験教室」(平成11年度スタート)を開設している。
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本島 健三(もとじま けんぞう、1926年3月8日 - 20… 本島 健三(もとじま けんぞう、1926年3月8日 - 2014年1月30日)は、日本出身の測量技師、慈善家及びギニア国地図作成事業に尽力した人物である。彼のギニアに対しての慈善活動は、ギニアの発展に大きく貢献し、彼の死後にはギニアの最高位の勲章・コラティエ勲章がギニア政府により授与された。彼は1977年から1982年のギニアの基本地図作成事業以外にも、ギニアの難民への慈善活動や、寄付活動を生涯かけて行い、NGOギニア会の初代会長に任命された人物である。 長野県飯田市(旧名・鼎村)の農家の家系で生まれる。8人兄弟の3男で、兄弟全員男という珍しい兄弟構成だった。幼い頃は体を動かすことが大好きで、木登りや水泳などをしていたという。
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篠田 義一(しのだ ぎいち、1924年(大正13年)12月2… 篠田 義一(しのだ ぎいち、1924年(大正13年)12月26日 - 2010年(平成22年)1月26日)は、日本の陶芸家。長野県下伊那郡川路村(現在の飯田市大字川路)出身。 家は祖父の代より篆刻家で、表札や旅館の看板、寺社の扁額などを手掛けていた。生地は川路村だったが、父の篠田弼は松本市浅間温泉に移って土産物の陶芸を営み、篠田もその下で育つ。これにより旧制中学校在学中に陶芸家を志望した。 開智尋常小学校、1942年(昭和17年)に松本第二中学を卒業後、京都の陶芸家伊東陶山の門を叩くが断られ、代わりに紹介された近藤悠三に師事した。1944年(昭和19年)、福知山の陸軍に召集され、幹部候補生試験を経て沖縄派遣を控える中で軍曹で終戦を迎えた。
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前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、… 前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、日本の教育者、教育学者。 長野県飯田市出身。1944年旧制第一高等学校卒。戦後中学校教師を務めた。1977年退職後、長野県下伊那郡上郷町(現飯田市)に転居。1961年より全国生活指導研究協議会(全生研)中央常任委員を務める。
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毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) -… 毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) - 2016年(平成28年)7月18日)は、飯田市旧南信濃村出身の日本の教育者、著述家。 1943年(昭和18年)長野県師範学校男子部本科卒業(現在の信州大学教育学部)。 教壇に立った後に校長職などを歴任。その後も、長野県教育委員会指導主事、信濃教育会研究調査部主任、信濃教育会研究図書部主任、下伊那教育会長、下伊那校長会長、長野県中学校長会長、全日本中学校長会理事などを歴任し教育行政の発展に尽力する。1988年(昭和63年)に教職を退職。 その後、結婚を機に移り住んでいた豊丘村にて20年間豊丘村教育委員(うち17年間は教育長)を務める。豊丘村では恒例となった満1歳児と小中学生を対象にした誕生日本贈呈事業を始めた。
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古島 和雄(ふるしま かずお、1921年10月11日 - 2… 古島 和雄(ふるしま かずお、1921年10月11日 - 2004年4月26日)は、日本の歴史学者。専門は中国史。東京大学名誉教授。大東文化大学名誉教授。 1921年、長野県飯田市生まれ。1942年、旧制飯田中学を卒業。1943年、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)を卒業。東京帝国大学文学部入学したが、徴兵により兵役に就いた。 1945年、太平洋戦争終結にともなって復員。東京帝国大学文学部に復学し、1948年に卒業した。東京大学大学院(旧制)に進んだが、1949年に退学して東洋文化研究所助手となった。1954年、東京大学社会科学研究所助教授に就任。1967年、同研究所教授に昇格。1978年から1983年まで、現代中国学会代表幹事を務めた。
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米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1… 米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1985年6月9日)は、日本の鍼灸師。大阪府鍼灸師会副会長。 1915年長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に生まれる。高等小学校卒業後、1935年に鍼灸師資格を取得し、1936年に東方医学会(大阪)に所属。1946年に刀根山鍼灸医学会を設立し、1950年から1971年まで日本鍼灸師会代議員を務めた。1958年には明治鍼灸専門学校の講師。1960年から1971年、1974年から1975年の4回に渡って、大阪府はりきゅう師試験委員を歴任。1963年から1975年まで大阪府鍼灸師会理事。このほか、1960年に結成された日本針灸皮電研究会(現・日本臨床鍼灸懇話会)理事、大阪府鍼灸師会副会長、大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)校長などを務めた。
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代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年… 代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年6月7日)は、日本の陸軍軍人・作詞家。最終階級は中尉。 戦後の死刑囚時代に「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞を手がけたことで知られる。 長野県下伊那郡松尾村(現在の飯田市)出身。第二次世界大戦の勃発に伴い陸軍に召集され、憲兵としてフィリピン・セブ島を転戦。終戦時は少尉であったが、ポツダム宣言により中尉に昇進。 その後、戦犯死刑囚としてフィリピンのモンテンルパにある刑務所に収容された。1951年、自身と同じ死刑判決をうけた日本兵が処刑されたのを契機に、同僚たちを勇気付けるため「ああモンテンルパの夜は更けて」を作詞。代田と同じく死刑囚となっていた伊藤正康大尉が曲をつけた。
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オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。
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藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月2… 藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月25日 - 2006年8月19日)は、日本の写真家。古美術を撮影した写真作品で知られる。兄は美術雑誌・美術本編集者の藤本韶三。
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松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
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戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月… 戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月30日 - 1975年(昭和50年)3月22日)は、日本の法学者。専門は民法。早稲田大学教授、旧東京都立大学教授などを歴任。弁護士。 1908年、長野県飯田市生まれ。本籍は愛媛県。父は旧制飯田中学教師として飯田に赴任した。1927年、第五高等学校卒、1930年、東京帝国大学卒。法学博士。 師は穂積重遠、末弘厳太郎。在学中セツルメント法律相談部に参加。 満鉄調査部の宮崎正義が率いる日満財政研究会に、当時、東京帝国大学経済学部助手だった古賀英正(後の作家南條範夫)らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
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座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月… 座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県駒ヶ根市長。 長野県下伊那郡上飯田村(現・飯田市)で、座光寺和作、ゆきの二男として生まれた。上飯田高等小学校卒業後、飯田の松濤義塾に学ぶ。1924年(大正13年)4月、上飯田町役場に入り、1933年(昭和8年)長野県庁に転じ長野県書記となり、学務部社会課勤務、飯田職業紹介所勤務、長野県職業課勤務、知事官房秘書課勤務、下伊那地方事務所兵事厚生課長、同総務課長を歴任した。1947年(昭和22年)6月、飯田市助役に就任し、1956年(昭和31年)6月、駒ヶ根市助役に転じた。
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太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 19… 太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 1984年7月5日)は、日本の文部官僚、図書館情報学者。図書館短期大学(現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長を務めた。 長野県飯田市出身。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科卒業。文部省(現・文部科学省)入省。教科書調査官を務めた。 旧制浪速高等学校教授、群馬大学教授、獨協大学文学部教授を歴任し、1969年図書館短期大学(のちの図書館情報大学を経て、現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長に就任。時代に即した文献情報学科の新設、筑波移転に伴う四年制大学昇格(図書館情報大学)の基礎固めに尽力した。
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羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月… 羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉12月30日)は、大正、昭和期の日本の政治家、社会運動家。日本社会党参議院議員。「参議院の良心」と呼ばれた論客であった。 明治37年(1904年)1月13日長野県下伊那郡鼎村(現・飯田市)に米屋の長男として生まれる。飯田の松濤義塾に学び、家業のかたわら青年運動に参加する。山川均と出会い社会主義運動に加わるようになる。大正11年(1922年)秋、「下伊那文化会」を発展させ、自由青年連盟(Liberal Younger's League)を結成し、機関誌『第一線』を発行する。大正13年(1924年)治安警察法違反で検挙、起訴され、禁固4か月の判決を受ける。
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原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3… 原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3月26日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。 ヨーロッパで開花した近代タイポグラフィー運動『ノイエ・ティポグラフィー』の理念を支持しながら、日本の活字文化で独自の表現の確立を志し、原はこれを『僕達の新活版術』と呼んだ。原のデザインスタイルは理論的に組立てるもので、作家性のあるものではなく、依頼者側に立ち、装幀、ポスター、パッケージなどを数多く手がけた。生涯に手がけた出版物の総数は、雑誌の表紙デザインなども含めれば、おおよそ3000点近くにもおよぶ。 特に装幀において高く評価されており、1940年代末から1970年代半ばまで装幀者として第一線で活躍。
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印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2… 印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本の演出家、演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。 長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。 演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。
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清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20… 清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20日 - 1999年〈平成11年〉1月6日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県飯田市長。男性。位階は従六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、清水宗一、あき の長男として生まれた。1916年(大正5年)3月、長野県組合立竜東農学校卒業。1919年(大正8年)公立実業学校教師となる。1939年(昭和14年)長野県技師に転じ、県立農業講習副所長を務め、1952年(昭和27年)長野県経済部農業改良課長、1954年(昭和29年)南佐久地方事務所長を歴任。1955年(昭和30年)飯田市助役に就任し、13年間在任した。 松井卓治市長の後継者として1968年(昭和43年)10月、飯田市長選挙に当選し、1972年(昭和47年)10月まで1期務めた。
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宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2… 宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。警察官・宮崎岩太郎の長男として生まれる。豊橋中学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第17連隊付となる。陸士予科区隊長などを経て、1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し歩兵第17連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)2月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(外国戦史課)に異動。1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進。
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保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年… 保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年10月6日)は、日本の看護師、厚生官僚、幼稚園経営者である。日本の訪問看護、公衆衛生、保育事業の先駆者の1人である。 長野県飯田市出身。東京市の東京慈恵医院看護婦教育所卒業後、1921年に女性伝道師として渡米。アメリカ合衆国コロラド州の看護師資格を得る。コロラド病院看護学校、コロンビア大学などで学び、ニューヨーク市で公衆衛生看護やセツルメントの訪問看護に携わる。 1929年に帰国後は大阪市の「大阪朝日社会事業団」(朝日新聞社)の「公衆衛生訪問婦協会」で主任として働きつつ、1931年から1943年まで看護専門雑誌「看護婦」を発刊し続けた。
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野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993… 野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993年4月30日)は、日本の経営学者、元成蹊大学学長。 長野県飯田市生まれ、北海道旭川市育ち。旧制北海道立上川中学、旧制第一高等学校卒業。1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後、1921年に同経済学科を卒業した 同年三菱財閥合資会社に入社する。のち三菱経済研究所研究員となり、東京帝国大学工学部の講師も務めた。1946年(昭和21年)に三菱重工業企画室調査役となるが、翌1947年(昭和22年)に政府の経済安定本部に迎えられ生産局長となる。物価庁次長(1948年)を経て、1949年には経済安定本部副長官を務めた。 1949年に成蹊大学政治経済学部教授となり、1958年から1969年まで学長を務めた。
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市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月… 市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月15日 - 1964年(昭和39年)6月23日)は、日本の野球選手(捕手)・監督、プロ野球球団経営者。日本競輪学校初代校長。
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横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22… 横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22年〉5月 - 1965年〈昭和40年〉10月11日)は、日本の洋画家。 戸籍名は「ひろぞう」だが、「こうぞう」と呼ばれることも多い。別名に銀河、釣月、耕雲など。丹念に描かれた素朴な印象の作品から、「日本のアンリ・ルソー」と呼ばれた。 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)に生まれ、3歳ごろ家族で上京し、東京下町で育った。私立大成中学校在学中から東京美術学校への進学を希望していたが、父の強硬な反対にあい断念、早稲田大学商学部に進む。 しかし、画家への夢を諦めることができず、2年で大学を中退して東京電燈に就職。独学で油絵を学ぶ。そして彗星の如く26歳で中央画壇に登場。
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林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日… 林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日)は、長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)出身の教育者。本名は林 芳弥(はやし よしや)。 1886年(明治19年)長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)に生まれた。父は芳平、母はとみ。四男だった。千代村立千代尋常小学校(現・飯田市立千代小学校)、農工補習学校を卒業し、徴兵検査で甲種合格となったことで近衛兵として入隊した。除隊後には役場の吏員として働いていたが、1915年(大正4年)28歳の時に波合村の尋常小学校(現・平谷村立平谷小学校)で代用教員となった。1922年(大正11年)12月、尋常科正教員資格を取得。平谷湖の近くに住み、年老いた母親や子どもとともに暮らした。
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伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
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市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 19… 市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 1963年11月28日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県下伊那郡米川村(現飯田市)生まれ。1902年長野県師範学校講習課修了後、県下の小学校等で教諭を歴任し、1919年山本尋常小学校の校長に就任。1921年から1932年まで旧制飯田高等女学校の教諭を務めた。 1912年に下伊那郡役所から松尾多勢子に関する研究を嘱託されたのを皮切りに、長野県や県下各教育会の依頼を受けて、史論の執筆や調査研究に従事し、「信濃史料」「伊那史料叢書」「長野県史」「下伊那史」等の編纂に携わる傍ら、飯田図書館副館長を務めた。研究対象は考古学、史跡、建築、仏教美術等、多岐にわたる。
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市瀬 泰一(いちのせ たいいち、1876年(明治9年)8月1… 市瀬 泰一(いちのせ たいいち、1876年(明治9年)8月14日 - 1950年(昭和25年))は、日本の実業家、政治家。長野県飯田市長。初名は市瀬 俊太郎。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)生まれ。明治20年代から家業の飯田水引(元結)の製造販売業を承継。全国各地への出張販売に当たった後、1913年(大正2年)飯田に元結の原紙会社を設立した。1930年(昭和5年)家督を相続し世襲名の泰一を名乗った。 下伊那郡会議員、飯田町会議員を経て、1937年(昭和12年)飯田市会議員となり、初代議長を務めた。1939年(昭和14年)11月、飯田市長に推挙された。在任中は日中戦争下で、飯田銀座商店街商業組合での栄養食の共同炊事の実現、食糧増産のための野菜の種子無償配布、飯田百七銀行・信産銀行・伊那銀行の統合による飯田銀行の設立などを実現させた。
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樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - … 樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。
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菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月2… 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
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本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7… 本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7月9日) - 昭和21年(1946年)3月29日)は、日本の小説家。本名は本田 浜太郎。 信濃国伊那郡山村(現長野県飯田市)生まれ。明治維新後、一家で上京。貧困により小学校を中退して丁稚奉公し、1881年砲兵工廠の職工となる。1887年砲兵工廠の火工科を卒業して熊本の第6師団野戦砲兵隊付へ赴任。「熊本忠愛新報」へ投稿するうちに認められ、1891年には同社に文芸記者として入社した。日清戦争の従軍記者をした後、1897年に内藤湖南に招かれて「台湾日報」の編集者となる。1905年「大阪新報」に「日本丸」が入選したのを機に作家生活に入り、結核の療養生活をしながら多くの大衆小説を大手新聞社やキングなどに掲載した。
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北原 阿智之助(きたはら あちのすけ、1868年3月26日(… 北原 阿智之助(きたはら あちのすけ、1868年3月26日(明治元年3月3日) - 1947年(昭和22年)11月29日)は、衆議院議員。号は痴山。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)に庄屋の北原稲雄の次男として生まれ、明治20年(1887年)同郡上郷村の同族北原家の養子となる。 明治14年(1881年)に上京し、渡辺重石丸の道生館に学び、一旦帰郷、同18年(1885年)に再び上京して成立学舎、築地の英学校に学ぶ。和歌を海上胤平、俳句を正岡子規に師事する。同23年(1890年)雑誌「正気」を発行、子規の「日本新聞」俳句欄に投稿し、同30年(1897年)飯田で「松声会」を結成した。同35年(1902年)には伊那史料刊行会を設立し「伊那名勝志」を発行、菱田春草が挿絵を担当した。
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牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月… 牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月21日) - 大正10年(1921年)1月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、長野市長。 信濃国伊那郡鼎村(現在の長野県飯田市)出身。漢学を学び、1882年(明治15年)に下伊那郡全部町村聯合会議員に、1884年(明治15年)に鼎村戸長に就任した。1890年(明治23年)より長野県会議員を務め、1893年(明治26年)には県参事会員に、1899年(明治32年)に県会副議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第8回、第9回と連続当選を果たした。 1910年(明治43年)、長野市助役に就任。
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伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5… 伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5年11月15日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家・実業家。帝国議会衆議院議員(5期)。 信濃国伊那郡、のちの長野県下伊那郡上殿岡村(伊賀良村を経て現在の飯田市上殿岡)出身。上京し中江兆民の仏学塾で学び陸軍幼年学校の通訳などを経験した後、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で初当選。自由党→憲政党→政友会と籍を置きつつ通算5期衆院議員を務め、この間逓信省鉄道局長(1898年/明治31年)・政友会幹事長(1910年/明治43年)を歴任。1913年(大正2年)に政友会総裁の原敬の意向によって南満州鉄道株式会社(満鉄)の副総裁に就任するも、創設以来行なわれていた合議制を廃止しようとして犬塚信太郎理事らの激しい抵抗を受け、野村龍太郎総裁・犬塚理事ともども罷免に追い込まれた。
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安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9… 安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9月21日〈嘉永6年8月19日〉- 1932年〈昭和7年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、第6代台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。勲功により男爵に叙爵された。 信濃国伊那郡南部の飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚。長男欽一郎を儲けたが、志記が早世したため、貞美の生母である島地菊子を娶った。貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(柳田家に養子、柳田國男の義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
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中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
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皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は… 皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は日本の実業家。旧姓は岩崎。幼名は馬之助。 信濃国伊那郡中村(現長野県飯田市)に生まれ、飯田城下の皆川家の養子となる。維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。 代言人時代は、明治12年に植木鋼二郎と京橋区銀座四丁目十五番地に法律事務所を開き、その翌年明治13年、司法省附属代言人 星亨の組合加入に対し、楠木鋼二郎、田村成義などと反対運動を展開した。また、明治11年、幕末の豪商伊藤八兵衛の八女信子と結婚する。信子の姉は渋沢栄一の妻兼子で、この結婚により渋沢ファミリーの団体竜門社の一員となった。 その後明治15年4月 長野県警部兼典獄(警部長に次ぎ監獄係としては最高責任者)として長野県警に入り、6月に警部長となる。
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12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん… 12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん、1849年10月26日(嘉永2年9月11日)- 1923年(大正12年)9月2日)は、日本の地主・実業家・政治家。衆議院議員、長野県下伊那郡飯田町長。旧名・久嗣、幼名・益太郎。 信濃国伊那郡飯田伝馬町(長野県下伊那郡飯田町を経て現飯田市伝馬町)で、酒造業・10代上柳喜右衛門の二男として生まれる。和漢学、算術を修めた。兄・喜一(久休〈ひさしげ〉、11代喜右衛門)の養子となり、その後、12代喜右衛門を襲名した。 1879年(明治12年)飯田町会議員に選出され(8期在任)、1891年(明治24年)下伊那郡会議員(2期在任)、1899年(明治32年)飯田町長(2期在任)にそれぞれ選出された。
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北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) … 北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) - 明治34年(1901年)11月4日)は、日本の政治家(衆議院議員、長野県会議員)。初名は森太郎、通称は東五郎、諱は信允。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)の庄屋北原稲雄の長男に生まれる。父に倣い、平田篤胤の没後門人となる。明治元年(1868年)の戊辰戦争では鎮撫副総督澤為量に従軍して奥羽地方を転戦した。翌年帰郷し、官軍から太刀一振りと金若干を賜り、信濃飯田藩主堀親広から士族に列せられた。同6年(1873年)村戸長、学校学事掛となり、同9年(1876年)名古屋裁判所に出仕し、翌年(1877年)山梨県属となったが、辞職し帰郷した。
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