栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月… 生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月6日)は、日本の随筆家、評論家。政治・社会への風刺を得意とし、太平洋戦争中も軍部に対する皮肉の手を緩めることがなかった。 群馬県利根郡沼田町上之町(現・沼田市上之町)に生まれる。旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)、明治学院中学を経て早稲田大学英文科を卒業。在学中からトルストイに傾倒し、アナトール・フランスやドーミエの影響も受けた。 大学卒業の翌1907年(明治40年)に渋川玄耳の紹介で東京朝日新聞記者となる。さらにやまと新聞、大正日日に転じ、早稲田文学記者でもあった。当時のほとんどの雑誌・新聞に随筆、翻訳、評論、小説、雑文を書き、その風刺の効いた文章は読者の支持を集めた。
生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月… 生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家・翻訳家・劇作家・小説家。 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。 本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
岡本 鶴松(おかもと つるまつ、1882年2月7日 - 19… 岡本 鶴松(おかもと つるまつ、1882年2月7日 - 1945年7月10日)は、明治後期から昭和前期のジャーナリスト、新聞記者、評論家、小説家、翻訳家。大阪朝日新聞社(現・朝日新聞社)外報部長。号は九皐。『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を著し、明治時代の日本の高校生に最も人気の英語圏の作品となった。 1882年2月7日、東京生まれ。大阪・英和学舎(現・立教大学)卒業。その後、東京へ戻り、東京英語専修学校(現・立教大学)で学ぶ。 1903年(明治36年)には、ハリー・ポッターシリーズに影響を与えたトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を『英国学校生活』として出版。発行は鶴松の号から名付けた九皐社で、印刷は築地・明石町にあった立教学院活版部で行われ、本訳書の序文を立教学院総理であったヘンリー・セントジョージ・タッカーが寄稿した。
正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月… 正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月5日 - 1920年(大正9年)3月24日)は、日本の評論家、ジャーナリストである。芸陽は筆名で、本名は猶一。 広島県に生まれる。10歳で父を失い、翌日に母を失った。12歳で広島監獄の給仕となる。その傍ら、濱名眞金(はまなまがね)に漢学を学び、同時に三浦某に英語を学ぶ。13歳(明治27年)キリスト教を受洗し布教に従事していたが、14歳で東京に出て苦学し、15歳から16歳にわたって伊豆湯河原温泉近在、泉村の小学校で教鞭を執った。同校を辞して再び東京に出て青山学院大学に学ぶものの幾ばくもせずに退学し、17歳の時に北海道の新聞社に記者として赴き、半年間在職後に帰京しやまと新聞社に入社。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 -… 厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 - 1923年9月2日)は、日本の英文学者・文芸評論家。本名・辰夫。 『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代の恋愛論ブームを起こした。夏目漱石『虞美人草』の小野のモデルとも言われる。 1880年(明治13年)、京都市柳馬場押小路生まれ。養父の厨川磊三(らいぞう)は元津山藩士で蘭学を修め、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めた人物。子がなかったため、実弟の子だった白村を養子とした。 大阪市の滝川尋常小学校、盈進高等小学校を経て、大阪府第一尋常中学校から京都府立第一中学校に転校後、第三高等学校を経て1901年(明治34年)、東京帝国大学英文科入学。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2… 丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1955年〈昭和30年〉8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 長野県埴科郡清野村(現長野市)の農家に生まれる。1901年東京専門学校(現・早稲田大学)邦語科行政科卒業、日本新聞に入社、翌年青森新聞主筆となり、日露戦争中に日本新聞に復帰し従軍記者となる。1906年京城日報編集長を務め、1909年大阪朝日新聞社入社。「天声人語」を執筆。のちニューヨーク特派員、通信部長を歴任。1918年には白虹事件のため、長谷川如是閑らとともに退社。 1928年大阪毎日新聞社に入社し、コラム「硯滴」を担当。まもなく東京日日新聞に移り、1953年まで短評論「余録」を担当。
高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 19… 高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 1948年2月2日)は、明治期から昭和期の日本の文芸評論家、評論家。 大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。為替貯金管理所勤務から1898年に上京して、早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また佐藤義亮が創刊した『新声』の編集に加わり、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄など。その後、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。1901年、『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士。
櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10… 櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1933年〈昭和8年〉9月10日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。第八高等学校第二語学科主任教授。会津八一の先輩で義弟。本名は櫻井 政隆(さくらい まさたか)。 新潟県南蒲原郡中野原新田村(現 三条市中野原)出身。1893年(明治26年)4月に新潟県尋常中学校に入学、「九泉童子」と号し、文芸雑誌『文庫』に投稿。 1898年(明治31年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1901年(明治34年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学、カール・フローレンツに師事。 1903年(明治36年)6月から「天壇」と号し、『帝國文學』に評論を発表、1904年(明治37年)7月に東京帝国大学文科大学を最優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月2… 片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月29日 - 1933年〈昭和8年〉12月18日)は、明治から昭和前期にかけての日本のドイツ文学者・評論家。本名は正雄(まさお)。 1897年、山口県佐波郡八坂村(現:山口市)で生まれた。山口高等学校在学中に登張竹風の影響を受けてドイツ文学を志し、東京帝国大学文科大学独文科に進んだ。1902年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授などを務めた。1905年に「神経質の文学」を発表して評論家として注目を集め、1907年にはオットー・ワイニンゲルの『男女と天才』の翻訳、1908年に『最近獨逸文学の研究』を著してドイツ文学の紹介にも努めた。1909年から1913年にかけてドイツに留学し、帰国後はドイツ語辞書の編纂に専念した。
松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月… 松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月8日 - 1904年(明治37年)7月23日)は、詩人、評論家。本名・悟、別名・暗濤蒼浪庵。最初の 「君が代」批判論者として知られる。西川文子の前夫。 1879年(明治12年)、熊本県八代郡高田村(現・八代市平山新町)にて松岡喜三(蔵)の五男(9人兄弟の末子)として生まれる。本名は悟(さとる)。同志社尋常中学校ついで同志社高等学部を卒業し、早稲田大学に入学。北村透谷、田中正造、安部磯雄らの影響を受け、詩や評論を雑誌「社会主義」に発表した。貧困問題、足尾銅山鉱毒事件などに強い関心を持ち、社会主義運動の先駆けとして活動する。1904年(明治37年)、25歳で結核により没した。
坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - … 坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - 1938年2月5日)は、日本の能楽評論家、国文学者。号・天邪鬼。能楽評論で活躍した。 福岡県柳川出身。旧姓は白仁、本名は三郎。坂元家の養子となる。父は柳川藩士で、幼少から喜多流の能を学ぶ。第五高等学校で夏目漱石に師事、以後漱石の弟子格となる。1907年東京帝国大学文科大学を首席で卒業、東京朝日新聞社に入社。独協中学校教諭、1928年日本大学教授。昭和13年2月5日没。墓所は青山霊園立山墓地。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3… 正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師。岡山県生まれ。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。
米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12… 米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12月7日 - 1948年1月9日)は、大正から昭和前期の日本の新聞記者、ジャーナリスト、外交評論家、国際法学者、外交史学者。東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)論説委員長、同社編集顧問、同社初代外報部長。明治大学、立教大学で教授を務め、東京商科大学(現・一橋大学)、法政大学等でも講じた。専門は外交史。法学博士。別名(筆名)米田切水。20世紀前半の日本を代表する国際問題評論家である。 1878年(明治11年)12月7日、福岡県久留米に生まれる。 1893年(明治26年)、中学明善校を中退して上京する。立教学校(現・立教大学)、国民英学会で学ぶ。
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10… 中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1… 中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 長野県北佐久郡三井村(現佐久市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1899年東京専門学校(現早稲田大学)卒業。坪内逍遥の門下生としてシェイクスピアを研究し、文学評論や海外文学の紹介などを新聞や雑誌に執筆した。『明星』『新小説』『読売新聞』等に文学評論を書き、1904年小説「新気運」を発表。1909年後藤宙外らと文芸革新会を組織して反自然主義をとなえ、島村抱月と対立。のち児童もの・歴史ものに移った。 グリム童話『赤ずきん』において「赤ずきん」という邦題を初めてつけたのは中島孤島であろうと言われている。
千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日… 千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の作家、評論家、ジャーナリスト。 山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。 死後、小説家の登竜門として「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖、沙羅双樹、黒岩重吾らを輩出した。
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう… 斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう しんさく)、1878年〈明治11年〉4月14日 - 1909年〈明治42年〉8月6日)は、日本の評論家。 高山樗牛(林太郎)は兄にあたり、その死後に兄の著作をまとめて全集として発表したが、病弱だったこともあり、その兄と同じ数え32歳で生涯を閉じた。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月… 近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。 露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる。 1876年(明治9年)、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に農家の四男として生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。
野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)… 長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本金蔵(幼名・徳治郎)・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、金蔵の代からは材木商を営んでいた。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年… 水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)は、日本海軍の軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - … 樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 19… 田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。 1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。。 角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。 1903年(明治36年)朝報社に入社。1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。
生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22… 生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22日 - 1944年7月11日)は、明治後期から昭和前期の新聞記者、ジャーナリスト、評論家、翻訳家。報知新聞社調査部長や芸備日日新聞主筆兼編集長を務め、相撲記者の長老として、角界の批評、随筆等に活躍した。将棋界の発展にも貢献し、東京将棋連盟(現・日本将棋連盟)名誉顧問・評議委員を務めた。別名、翺翔(こうしょう、ごうしょう)。聖公会信徒。 1874年(明治7年)7月22日生まれ。1896年(明治29年)、東京・築地の立教大学卒業。 1899年(明治32年)、東京毎日新聞社に入社。明治35年、藝備(芸備)日日新聞主筆兼編集長を経て、報知新聞社に入社。
三浦 銕太郎(みうら てつたろう、1874年3月20日 - … 三浦 銕太郎(みうら てつたろう、1874年3月20日 - 1972年5月8日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。東洋経済新報社代表社員・主幹を務め、帝国主義批判の論客として小日本主義を唱え、石橋湛山・高橋亀吉らを鍛え上げた。旧姓、山下。 地主・山下太左衛門の次男として生まれる。静岡県志太郡相川村(後の大井川町、現・焼津市)出身。 1892年、国民英学会で修学。1893年、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、天野為之に師事する。東京専門学校卒業後、同校教授の井上辰九郎の書生をしながら立教学校(現・立教大学)、青山学院などで英語を勉強する。 1897年、三浦貞と結婚、この時、三浦家の養子となる予定であったが、すぐには実父の承諾を得られなかった(正式入籍は1906年)。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月2… 桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月20日 - 1941年〈昭和16年〉9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は桐生 政次(きりゅう まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。 金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、1892年(明治25年)には小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科(現在の東大法学部)に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ。
横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5… 横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5年11月5日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の評論家。 山口県出身。本名は達三。東京帝国大学卒。明治41年(1908年)から黒頭巾の名で『読売新聞』に「新人国記」を連載した。維新史などの評論を書き、のち駒澤大学教授。子は俳人・医師の横山白虹。孫は俳人の寺井谷子。 長州藩に伝わる専當流を学んでいた。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治… 高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1902年〈明治35年〉12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎(りんじろう)。 1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士斎藤親信。翌1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務した。 福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学。井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3… 戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1939年(昭和14年)7月9日)は、日本の評論家、英文学者、教育者、翻訳家、随筆家。別号は秋骨のほか、棲月・早川鴎村、早川漁郎・蒼梧桐・長帆・かげろふなど。 明治3年、等照とジュンの長男として、肥後国玉名郡岩崎村(現:熊本県玉名市)に生まれた。生まれ年から、明三と名付けられた。等照は熊本藩の支藩高瀬藩の藩士で、家老の原家から養子入りしていた。1877年、一族と上京し、東京師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に入り、巴町の鞆絵小学校(現:港区立御成門小学校)に転じた。 世を捨てた父よりは、その実弟に躾けられ、1883年(12歳)、大阪へ伴われて大阪中学校(旧制三高の前身)に学ぶかたわら、漢訳の聖書や英語を習った。
笹川 臨風(ささかわ りんぷう、1870年9月2日〈明治3年… 笹川 臨風(ささかわ りんぷう、1870年9月2日〈明治3年8月7日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月13日)は、日本の歴史家、評論家、俳人。本名は種郎(たねお)。 1870年、東京府神田末広町(現・千代田区外神田)で生まれた。父の義潔は旧幕臣で、後に内務省土木局に勤務し、大阪、名古屋などで勤務したため、一家は各地を転々とした。旧制愛知県立中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第三高等中学校を経て、帝国大学(現東京大学)国史科を卒業。 卒業後は教員となり、旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)校長等を経て明治法律学校教授(のち明治大学に昇格)となったが、1920年に学長木下友三郎と田島義方学監の退任を求めた植原・笹川事件が起こり、学生を扇動した罪により解職された。
柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月… 柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月24日) - 1920年(大正9年)6月25日)は、日本のキリスト教伝道者、キリスト教史学者、キリスト教思想家、文明評論家である。大正時代の日本基督教会の指導者であった。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年… 馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。 孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。 1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治… 北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名、北村 門太郎(きたむら もんたろう)。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 相模国小田原(現:神奈川県小田原市浜町)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。 1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現:早稲田大学政治経済学部)政治科に入学し、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。