佐分純一(さぶり じゅんいち、1923年9月9日-1999年… 佐分純一(さぶり じゅんいち、1923年9月9日-1999年12月13日)は、日本のフランス文学者。 東京生まれ。画家佐分眞の長男。幼くして母をなくし、12歳で父が自殺。開成中学校から、1949年慶應義塾大学文学部仏文科卒。1950年慶應義塾高等学校教諭、1958年慶大法学部講師、1963年助教授、1970年教授、1988年定年、名誉教授、杏林大学教授。ジュリアン・グリーンを主として研究した。菊池英博は母の甥。法号 法覺院博譽慶純居士 多磨霊園に葬る。
岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 20… 岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 2013年9月16日)は、日本の作曲家。 富山県富山市生まれ。1947年、東京音楽学校(現:東京藝術大学)声楽科卒業。後に作曲家となり平井康三郎、池内友次郎に師事。日本童謡協会理事、山口大学教授を歴任。日本作曲家協議会会員。 合唱作品の作曲家として知られている一方、NHKでも放送・レコード関係の作曲・編曲などを手がけた。吹奏楽作品も全日本吹奏楽コンクール用に多く作曲し、作曲家グループ「ニュー・エイトの会」の一員で、意欲的に吹奏楽曲の作曲を行った。また、作曲のみならず作詞も数作手がけている。 次女は岩河智子(いわかわともこ、作曲家、札幌室内歌劇場音楽監督)墓は富山市の長岡墓地。
森 雅功(もり まさのり、1922年9月9日 - 没年不明)… 森 雅功(もり まさのり、1922年9月9日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手。
赤松 燎(あかまつ りょう、1922年9月9日 - 1996… 赤松 燎(あかまつ りょう、1922年9月9日 - 1996年5月31日)は、昭和・平成期の日本画家。 1922年9月9日、岡山県倉敷市に生まれる。 1947年に京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学。卒業後、晨鳥社に入塾し山口華楊に師事する。その後、京都を拠点に作家活動に専念する。土地柄もあってか、舞妓を描いた作品や陶工を描いた作品を残す。 1956年に日本美術展覧会に初入選し以後、生涯で日本美術展覧会に25回の入選をしている。1978年4月に自身のもと京都の伝統産業に携わるものが中心となり燎友会を結成。赤松燎本人の死亡後も燎友会は存在している。 1996年5月、圓徳院の襖絵「白龍の図」を制作中に逝去。
森岡 敬一郎(もりおか けいいちろう、1922年9月9日 -… 森岡 敬一郎(もりおか けいいちろう、1922年9月9日 - 2020年7月29日)は、日本の西洋史学者。慶應義塾大学・創価大学名誉教授。イングランド中世制度史に関する論文・著作がある。 1947年慶應義塾大学文学部卒業。 1956年慶應義塾大学文学部 助教授、1959年ハーバード燕京研究所 Visiting Scholar、1965年から1988年慶應義塾大学文学部教授、1971年慶應義塾大学大学院研究科委員。 1985年から1987年にかけて三田史学会会長。1986年Royal Historical Society Fellow。 1988年慶應義塾大学名誉教授、創価大学文学部教授。1998年創価大学名誉教授など。
能坂 利雄(のうさか としお、1922年9月9日 - 199… 能坂 利雄(のうさか としお、1922年9月9日 - 1991年8月1日)は、富山県氷見郡氷見町(現氷見市)生まれの小説家・歴史研究家。書や日本画もよくし、李鷗と号して個展も開いた。日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、日本紋章学研究所長。王貞治ははとこに当る(王貞治の母・登美が能坂の祖母の姪という間柄)。 1922年9月9日、富山県氷見郡氷見町に生まれる。能坂が富山新聞に寄稿した自叙伝によれば、早熟な少年だったようで、15歳の時に早くも「吐血」と題する時代小説を「どこかの雑誌」に投稿。さらに富山新聞の前身に当たる越中新聞にも「旅笠街道」という股旅物を投稿。こちらは全5回の連載だったという。 1944年、富山青年師範学校(現富山大学)卒業。
藤井 桑正(ふじい そうしょう、1920年9月9日 - 20… 藤井 桑正(ふじい そうしょう、1920年9月9日 - 2000年8月5日)は朝日放送(ABC)元会長・社長。 大阪府泉南市出身。大阪府立岸和田高等学校、東京帝国大学経済学部卒業後、朝日新聞社へ入社。その後、朝日放送へ中途入社。営業局長、編成局長、総務局長、1974年常務、1979年専務、1983年副社長を経て、1990年6月社長に就任。1995年6月会長へ就任。1999年に相談役へ退く。その他には日本民間放送連盟副会長も務めた。2000年8月5日、胃ガンのため79歳で死去。 社長時代の1992年頃、やしきたかじんが警備員の態度の悪さに腹を立て、ラジオ番組内で「(朝日は)アホから偉くなる放送局」と発言し、当時の副社長が激怒した事件があり、副社長は口論の末、たかじんに一生立ち入り禁止処分を下した。
杉山 茂樹(すぎやま しげき、1920年9月9日 - 199… 杉山 茂樹(すぎやま しげき、1920年9月9日 - 1992年12月20日)は、日本の映画プロデューサー。松竹大船撮影所で活躍後、国際放映に転じ、テレビ映画を手がけた。 静岡県立静岡中学校、京都大学文学部哲学科卒業。松竹京都撮影所で日活出身の市川哲夫監督の映画『我輩は探偵でアル』(1949年(昭和24年)5月23日公開)を、マキノ正博監督の『非常線』(1947年)のプロデューサー・小倉浩一郎のもとで製作、プロデューサーとしてデビュー。1960年(昭和35年)11月30日に公開された番匠義彰監督の映画『浮気のすすめ 女の裏窓』で初めて松竹大船撮影所作品を手がけた。1961年(昭和36年)8月6日に公開された、酒井辰雄監督の映画『ひとり寝』を最後に、12年間で79本を製作してきた松竹京都を去り、大船撮影所へ異動。
浜本 万三(はまもと まんそう、1920年9月9日 - 20… 浜本 万三(はまもと まんそう、1920年9月9日 - 2008年1月21日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。 参議院議員(3期)、日本社会党参議院議員会長、参議院社会労働委員長、労働大臣(第60代)などを歴任した。 広島県尾道市出身。向東高等小学校卒業。 広島電気(現:中国電力)に入社後、労働運動に参加した。日本電気産業労働組合広島県支部委員長や広島県労働組合会議議長などを歴任した。 1974年の第10回参議院議員通常選挙で日本社会党から立候補し、初当選を果たした。以来、通算18年(2回落選)の国政生活を送る。社会党右派の系譜に連なる政権構想研究会に所属した。在任中は社会党参議院議員会長や参議院社会労働委員長などを歴任。
高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 20… 高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 2002年4月11日)は、日本のアナウンサー、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 呉服店の三男として生まれる。作家の宮沢賢治とは遠縁にあたる。幼い頃は病弱な子供であったという。花城尋常小学校(1931年3月)、組合立花巻中学校(1938年3月)、高千穂高等商業学校を卒業後、富士電機へ就職。 1942年10月、アナウンサー募集の新聞広告に目が止まったのがきっかけでNHKに入局。入社試験面接官・養成所校長は和田信賢(後に『話の泉』の和田の後任を引き受けた)。1944年5月27日、結婚。1948年1月19日、長女・光が誕生。1950年1月から1954年9月まで慶應義塾大学病院で療養。
深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 200… 深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 2003年)は、日本の歯学者。 東京慈恵会医科大学専門部卒、1953年「乳歯並びに乳歯列の統計的研究」で慶応義塾大学・医学博士。日本大学歯学部小児歯科学教室教授。89年定年退職。小児歯科学。
小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - … 小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - 1996年〈平成8年〉11月8日)は、日本の小説家、英文学者。位階は従四位。本名は小沼 救(おぬま はじめ)。日本芸術院会員。 「大寺さんもの」など、日常を題材とした小説のほか、随筆の名手としても知られる。また、英文学者としても知られており、早稲田大学では文学部教授として教鞭を執った。 東京府東京市下谷区下谷町に父邁(すぐれ)、母涙子(るいこ)の長男として生まれる。明治学院中学部、高等学部英文科を経て、1942年(昭和17年)に、早稲田大学文学部英文科を卒業した。後年、1958年(昭和33年)から、母校早稲田大学文学部で教授を務めている。
釣 常雄(つり つねお、1917年9月9日 - 1996年7… 釣 常雄(つり つねお、1917年9月9日 - 1996年7月25日)は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手。 飾磨小学校在学中から、周囲では名が知られた存在だった。そこに目をつけた姫路中学が、野球部強化のため、釣を含む飾磨小学校の選手複数人に入学を働きかける。しかし、当時の姫路中学は進学校として知られており、全員が不合格となってしまう。困り果てた姫路中学側は、その中で最も点数が高かった釣だけを強引に入学させたという。 姫路中学時代は1936年の選抜にチームを導く。初出場ということもあり姫路市民からの期待は大きく、当時姫路の連隊に所属していた賀陽宮恒憲王からも激励の言葉を受けたという。同大会は、初戦で平安中学に惜敗した。
比留木 虎雄(ひるき とらお、1917年9月9日 - )は長… 比留木 虎雄(ひるき とらお、1917年9月9日 - )は長崎県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。
山本 博(やまもと ひろし、1916年9月9日 - 1993… 山本 博(やまもと ひろし、1916年9月9日 - 1993年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 大阪府布施市域(現・東大阪市)出身で、生家7人姉弟のうち唯一の男児であった。逆七福神と言われ過保護の中で育ち、幼少時代からの病弱・泣き虫を見かねた父の取り計らいにより中学は大阪市内ではなく、勉学よりもスポーツを志して府下の旧制四條畷中学校(現・府立四條畷高校)に入学。50番目中32番目という小柄な体格であった山本が、いじめに遭わないようにと自らの意志で柔道部に入部したのが柔道との出会いであった。中学校の柔道教員は山本が生涯の師と仰ぐ事となる浜野正平(のち大阪府警師範)で、山本は浜野の元で“道場の虫”とあだ名されるほど稽古に打ち込んだ。
大山 梓(おおやま あずさ、1916年9月9日 - 1992… 大山 梓(おおやま あずさ、1916年9月9日 - 1992年3月2日)は、日本の歴史学者(日本近代政治史)、海軍軍人(短期現役士官)。軍人時代の最終階級は海軍主計大尉、学位は法学博士。広島大学法学部教授、帝京大学法学部教授。大山巌の孫(大山柏の長男)。長女に由美子。
奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日… 奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日 - 2001年〈平成13年〉11月19日)は、日本の実業家、政治家。元広島県呉市市長。呉信用金庫理事長。寿工業相談役。 広島県呉市出身。1931年、阿賀高小卒、同年に広島海軍第十一航空廠に勤務。1935年、東亜航空工業に転じ、のち取締役。 1945年、寿組社長。1946年、寿農機具製作所社長。1947年、奥原商店取締役。寿工業取締役、常務顧問をつとめた。 1951年、呉市議会議員に当選。1952年、同市議会議長。1961年11月に呉市長に当選。1978年、呉信用金庫入庫、同理事長。 趣味は囲碁、読書、ゴルフ。住所は呉市西中央5丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
塩田 剛三(しおだ ごうぞう、1915年(大正4年)9月9日… 塩田 剛三(しおだ ごうぞう、1915年(大正4年)9月9日 - 1994年(平成6年)7月17日)は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。合気道の流派養神館合気道設立者。本名・塩田剛(しおだ たけし)。身長154cm、体重46kgと小柄な体格ながら「不世出の達人」と評され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。 医師・塩田清一の次男として生まれる。自伝[要文献特定詳細情報]によると父は小児科医として名高く、貧しい人からは治療費を取らず、金持ちからはがっちり頂いていたという。また軍人や政治家とも親交が深く、様々な知己を得ていたという。かなり裕福な家庭に育ち、不自由は何一つなかった。
岡谷 康治(おかや やすはる、1915年9月9日 - 199… 岡谷 康治(おかや やすはる、1915年9月9日 - 1996年3月21日)は、日本の実業家。岡谷鋼機創業家十二代目当主で、同社代表取締役社長や、中部経済同友会代表幹事、名古屋商工会議所副会頭等を務めた。 愛知県名古屋市出身。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1937年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。1941年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、鉄鋼統制会に入る。 1945年鉄鋼統制会を退職し、岡谷鋼機取締役に就任。1948年常務。1958年社長。1982年からはキタン会会長も務め、1990年から岡谷鋼機会長となった。 中部経済同友会代表幹事、名古屋商工会議所副会頭、愛知県日韓協会副会長などを歴任し、大隈鐵工所取締役、中部日本放送取締役、旭精機工業監査役、愛知時計電機監査役、名古屋鉄道監査役、東邦瓦斯監査役を兼務した。
尾形 典男(おがた のりお、1915年9月9日 - 1990… 尾形 典男(おがた のりお、1915年9月9日 - 1990年1月18日)は、日本の政治学者。専攻は政治学・政治思想史。立教大学名誉教授。第10代・11代立教大学総長。 千葉県生まれ。1937年第二高等学校 (旧制)卒業。1941年東京帝国大学法学部政治学科卒業。 1941年同法学部助手。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、同年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業し愛宕に配属。経理学校指導官付、京城武官付、経理学校付学生隊指導官、同練習生隊分隊長を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。1944年(昭和19年)2月、京城武官付に転じ物資動員計画主務を務めた。
森鼻 武芳(もりはな たけよし、1915年(大正4年)9月9… 森鼻 武芳(もりはな たけよし、1915年(大正4年)9月9日 - 1998年(平成10年)10月6日)は日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行頭取を17年間務めたほか、全国地方銀行協会副会長や日本カーリング協会会長、北海道公安委員会委員長等も務めた。 東京出身。1941年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、大蔵省入省。理財局属。入省同期には柏木雄介(東京銀行頭取、財務官)、加治木俊道(関西電力副社長、証券局長)、塩崎潤(総務庁長官、経済企画庁長官、主税局長、国税庁次長)らがおり、のちにこれらのメンバーとともに太平洋戦争開戦に備えた敵産管理法案の策定作業をおなこなった。1942年2月、ジャワ軍政監部財務部に転任。
今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日… 今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉11月15日)は、日本の登山家。元日本山岳会会長。マナスル世界初登頂に成功。記念切手も発行された。 奈良県出身。旧制浪速高等学校を経て、1941年、京都帝国大学農学部卒業。 旧制高校在学時代より登山を始める。1953年、京大学士山岳会ヒマラヤ・アンナプルナ2峰遠征隊隊長としてアンナプルナ登頂に挑戦するが撤退。1956年、槇有恒率いる日本山岳会第三次マナスル登山隊に参加し、シェルパのギャルツェン・ノルブとともにマナスル世界初登頂に成功した。この快挙は戦後の日本人に誇りと自信を取り戻させるニュースとして大きく伝えられ、さらにネパールと日本との国交が結ばれるきっかけとなった。
金子 裕(かねこ ひろし、1914年9月9日 - 没年不明)… 金子 裕(かねこ ひろし、1914年9月9日 - 没年不明)は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日 -… 石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日 - 1986年1月18日)は、日本の歴史学者。法政大学法学部名誉教授。専攻は古代史および中世史で、多数の著作・論文がある。 1912年、北海道札幌市の母方の実家で生まれ、宮城県石巻市で育った。父・石母田正輔は旧仙台藩出身で、石巻の町長・市長を長く務めた。二高を経て、東京帝国大学文学部哲学科に入学。後に国史学科へ転科し、1937年に卒業。 冨山房、日本出版会に勤務の後、朝日新聞記者を経て、1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授。この間、1963年から法学部長、1967年から附属図書館長などの役職にあり、1981年に定年退職、名誉教授となる。
吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 -… 吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 - 2000年11月7日)は、昭和期の映画監督である。兄はフランス文学者の吉村正一郎。4人の子供を儲け、長男は元NHK解説委員の吉村秀實。映画監督の西村昭五郎は、いとこ。 滋賀県大津市膳所生まれ。吉村家は、同県坂田郡山東町の中山道で代々脇本陣を営んでいた。父・吉村平造は大阪朝日新聞社の政治記者から、保険会社重役などを経て、大阪市助役、第11代広島市長(在任1915年1月~1916年12月)を務めたため、これに伴い2歳から京都市下京区で、4歳時は広島市大手町で育った。広島を発つ前の晩、家族で万代橋のたもとにあった映画館で映画を初体験。チャップリンの映画に感銘を受けたことが映画を志す切っ掛けだったという。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 -… 森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。
児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9… 児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9日 - 平成3年(1991年)7月15日)は鳥取ガス株式会社の第3代社長。昭和52年(1977年)に黄綬褒章受章。 鳥取県の文化活動の中心として活躍した実業家。文化人。著書『黙堂閑話』。鳥取市出身。 昭和7年(1932)合名会社児嶋商店を継ぐ。昭和28年(1953)に鳥取ガス株式会社代表取締役社長、同年鳥取ガス産業株式会社代表取締役社長に就任し、ガス供給事業に尽力。昭和49年(1974)に日本ガス協会理事に就任し、ガス業界の発展に寄与した。昭和50年(1975)に君司酒造株式会社、昭和62年(1987)に鳥取ガス株式会社、昭和63年(1988)に鳥取ガス産業株式会社のそれぞれ代表取締役会長に就任。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明… 雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明治42年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉8月25日)は、日本の皇族。秩父宮雍仁親王の妃。旧名は松平節子(まつだいら せつこ)。身位は親王妃。お印は菊(きく)。 旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。 父の任地イギリスのロンドンで生まれる。生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1925年(大正14年)に渡米し、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという。
小川 半次(おがわ はんじ、1909年9月9日 - 1994… 小川 半次(おがわ はんじ、1909年9月9日 - 1994年12月26日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。 京都予備学校(のちの京都商業)を経て、1932年、立命館大学法学部卒業。京都市議会議員(1936-1939年の3期)、京都府議会議員(左京区選出、1940年より1期)を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党より出馬し初当選。以後衆議院(京都1区)10回、参議院(京都府選挙区)1回当選。改進党、日本民主党を経て保守合同で自由民主党に参加。所属派閥は岸派→福田派。 厚生大臣秘書官、衆議院予算委員長・文化委員長、自民党副幹事長、全国組織委員長、中央政治大学院学長、国民運動本部長、参議院予算委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任。
嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月… 嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月9日 - 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の海軍軍人。空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 本籍は大分県。鉄道局技師・澤重元の三男として奈良市で生れ、嶋崎家の養子となる。上野中学校(現・三重県立上野高等学校)、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を経て、1929年(昭和4年)3月、海軍兵学校(第57期)を卒業。1930年(昭和5年)12月、海軍少尉任官。高橋赫一の薦めにより、高橋の妻の妹と結婚する。 1932年(昭和7年)12月から翌年7月まで、第23期飛行学生として訓練を受けた。
逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 194… 逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 1946年5月17日)は日本の詩人、童話作家。本名は大野四郎。画家としては、士路と号する。新聞記者の和田日出吉は兄、その妻の木暮実千代は兄嫁にあたる。また、弟の大野五郎は画家。 詩は寡作。没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作。『詩と詩論』、『文藝汎論』、『歴程』などの雑誌に寄稿する。『歴程』創刊時の同人の1人である。 1907年、茨城県猿島郡古河町(現・古河市)に生まれる。祖父と父は、ともに足尾銅山鉱毒事件対策の渡良瀬遊水地用地として強制廃村になった栃木県下都賀郡谷中村で村長を務めていた。1908年、東京府北豊島郡岩渕町(現・東京都北区)に移住[要出典]。
前田 勝(まえだ まさる、1907年9月9日 - 2003年… 前田 勝(まえだ まさる、1907年9月9日 - 2003年1月1日 )は、日本の経営者。紀陽銀行頭取を務めた。 和歌山県出身。1929年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に伊那合同銀行(のちの紀陽銀行)に入行した。1948年に取締役に就任し、1959年に常務、1961年に専務を経て、1974年に副頭取に就任し、1981年4月には頭取に昇格した。1985年6月から1987年6月までに会長を務めた。 1985年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2003年1月1日、老衰のために死去。95歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - … 福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - 2000年11月3日)は、日本の気候学者・自然地理学者。東京教育大学名誉教授。門下から多数の気候学者を輩出した「日本の気候学の父」。 1905年、福岡県福岡市に生まれ育った。旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地理学科で学んだ。1928年に卒業。 卒業後は、日本大学、立正大学、東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)などで教鞭を執った。1930年4月、東京文理科大学の助手に採用。1933年、学位論文『日本気候論』を東京帝国大学に提出して理学博士の学位を取得。 1939年1月、大日本帝国陸軍気象部嘱託を兼ねるようになり、同年4月には東京文理科大学専任講師に昇任した。
ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 197… ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 1971年〈昭和46年〉5月27日)は、日本の俳優。埼玉県草加市出身。本名・旧芸名は大川 平八郎()。娘婿に俳優の小松英三郎がいる。 1905年、草加宿開拓者のひとりである大川図書の子孫、大川家13代頭首である大川十三代の三男として産まれる。 草加尋常小学校を卒業後、郁文館中学5年進級の際に「操行丙」で落第してしまったため[要出典]、アメリカで実業家になるために1923年に渡米。ペンパル・クラブで知り合ったフロリダ大学の教授を頼って行ったゲインズヴィルで1年過ごす。翌年アトランタへ移り住んで中華料理店で1年5ヶ月間働いた後、さらにニューヨークへ移ってクラブの皿洗いのアルバイトを始める。
植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975… 植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975年8月13日)は、東洋外交史を専門とする学者。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1945年)(学位論文「支那に於ける租界の研究」)。東京大学名誉教授。 1904年、東京生まれ。1928年、東京帝国大学法学部を卒業。 卒業後は、大阪毎日新聞社に入社した。1930年、東亜同文書院教授に着任。1937年より東方文化学院研究員。1939年外務省嘱託、1942年東京大学東洋文化研究所嘱託。1945年に学位論文『支那に於ける租界の研究』を東京大学に提出して法学博士の学位を取得した。 太平洋戦争後は、1948年より東文研研究員、1949年東大東文研教授。
神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983… 神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983年9月24日)は、愛知県渥美郡牟呂村(現・豊橋市)出身の実業家。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)社長。豊橋市名誉市民。 神野新田を開発した初代神野金之助の孫であり、豊橋市名誉市民である神野三郎の長男である。西春日井郡清洲村の旧家に生まれた三郎は、18歳の時に新田開発を行うために渥美郡にやってきて、1898年(明治31年)に義兄神野金之助の三女りきと結婚した。 1903年(明治36年)9月9日、神野太郎は愛知県渥美郡牟呂村大字牟呂字松島44番地(現・豊橋市神野新田町)に生まれた。1908年(明治41年)には豊橋市大字花田字城海津の借家に転居し、1910年(明治43年)に豊橋市立狭間尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)に入学した。
牛島 辰弥(うしじま たつや、1903年9月9日 - 197… 牛島 辰弥(うしじま たつや、1903年9月9日 - 1975年7月16日)は、日本の鉄道官僚。 牛島辰五郎の三男横浜二中、一高を経て昭 3.3 東京帝国大学法学部法律学科(仏法)卒 3.10 高等試驗行政科試験合格 4.4 鉄道属・大臣官房勤務 4 . 6 鉄道局書記・東京鉄道局勤務・大崎駅助役 5.5 新橋運輸事務所運輸課庶務掛勤務 7.4 水戸運輸事務所営業 神奈川県横浜市出身。1925年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に鉄道省に入省。大崎駅助役。 鉄道省業務局総務課長、名古屋鉄道局長、運輸通信省鉄道総局職員局長、運輸省自動車局長などを経て、1952年1月から1954年8月3日まで運輸事務次官を務める。
赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 197… 赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 1973年12月4日)は、日本の経営者。長野県出身。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。東邦電力での勤務を経て、1951年6月に九州電力理事に就任し、取締役、常務、副社長を経て、1960年5月に社長に就任。1967年5月には会長に就任。福岡商工会議所会頭、福岡証券取引所理事長、日本放送協会経営委員、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。 1961年10月に藍綬褒章を受章し、1965年12月に紺綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1973年12月4日に急性肺炎のために死去。
坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9… 坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9日 - 1982年(昭和57年)11月19日)は日本の男性地球物理学者、随筆家。東京大学名誉教授。理学博士で、寺田寅彦の弟子として知られている。
馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 … 馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 - 1979年(昭和54年)6月4日)は、日本の政治家・日本社会党衆議院議員(1期)。行田市長。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1922年東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科卒。卒業後は東京日日新聞の記者となり、モスクワ特派員、外国通信部副部長、ロシア課長、出版局編集部長、毎日新聞社出版局長などを歴任した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で埼玉県から日本社会党公認で立候補するが、次点となった。同年5月に鴻巣町長に就任する。翌1947年町長を辞任し、4月の第1回埼玉県知事選挙に社会党公認で立候補したが落選。同月末の第23回衆議院議員総選挙で埼玉4区から社会党公認で立候補して当選した。
小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940… 小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940年11月20日)は、日本の詩人、小説家、漫画原作者、画家である。筆名に、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。 1901年(明治34年)9月9日、北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1923年、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し、作品や取材記事を書いた。
池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 19… 池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 1979年10月18日)は、日本の法制史学者、教員。 愛媛県生まれ。広島高等師範学校で新見吉治に学び、1923年卒業。高知師範学校で教員を務めた後、1927年京都帝国大学文学部史学科に入学し、卒業論文「武士発生史の研究」をまとめ、1931年3月に卒業。京都府立第一高等女学校、兵庫県立第二神戸中学校、大分県立宇佐中学校等の教員を勤め、愛媛県立松山北高等学校校長等を歴任する。その傍ら、中世法制史研究を行い、佐藤進一と共に「中世法制史料集」(岩波書店)の編纂を行う。また、特に御成敗式目の研究を専門として、1971年に「式目傅寫本の系譜に関する研究」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治3… 渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治32年)9月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。渡邊工業社長。名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者。息子は作曲家の渡辺宙明。孫は、映画・ドラマ・アニメ等の音楽やさだまさしのアレンジャーとして知られる渡辺俊幸。曽孫(俊幸の娘)は芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。 新潟県長岡市出身。旧家・渡邊毅夫の長男として生まれる。父・毅夫は教育界で活躍し、女学校校長や渡邊工業取締役を務めた。 長岡中学を卒業後、九州の明治専門学校機械科に入学。1923年(大正12年)首席で同校を卒業後、豊国セメント株式会社に入社し、名古屋工場に勤務する。
伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 196… 伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 1969年1月9日)は、奈良県北葛城郡新庄町生まれの宗教家。浄土真宗華光会の創始者、真宗興正派学頭。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大石 光之助(おおいし こうのすけ、1896年(明治29年)… 大石 光之助(おおいし こうのすけ、1896年(明治29年)9月9日 - 1971年(昭和46年)2月8日)は、日本の実業家。静岡新聞社初代社長。静岡放送創設者。 静岡県静岡市出身。浅吉の三男、あるいは磯吉の男。上京して徳富蘇峰の書生になる。徳富の国民新聞社に入社。欧米業界を視察する。 経営不振に陥っていた静岡民友新聞社の再建にあたる。1928年に総支配人となる。1941年に戦時新聞統合により県下6紙を統合して「静岡新聞」が創立されると初代社長に就任。 放送界にも進出し、1952年に静岡放送を設立、社長となる。1971年、駿府博物館設立。趣味は庭球、家庭菜園。住所は静岡市紺屋町、東京都目黒区平町。
中村 敬之進(なかむら けいのしん、1895年(明治28年)… 中村 敬之進(なかむら けいのしん、1895年(明治28年)9月9日 - 1978年(昭和53年)4月12日)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選愛媛県知事、厚生次官。 山口県出身。中村藤左衛門の二男として生まれる。山口県立山口中学校、第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、内務省に入省し福岡県属となり内務部庶務課勤務となる。 1927年5月、福岡県警視・警察部保安課長に就任。以後、神奈川県警察部勤務、兵庫県警察部特別高等警察課長、地方事務官・京都府勤務、内務事務官・警保局勤務、警務官、内務書記官・警保局図書課長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、同次長心得、企画院内政部長、同第三部長、内務事務官・警保局保安課長を歴任。
曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen … 曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen 1893年9月9日 - 1994年12月21日)は、日本の洋画家、随筆家、歌人。 東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれた。本名は下田 喜七(しもだ きしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受ける。東京美術学校卒業後は山下新太郎に師事し、中村彝に兄事する。1914年、文展で褒状、1925年、二科展で樗牛賞を受賞、二科会、独立美術協会所属ののち1946年に国画会会員となる。1945年に度々作品の題材を得ていた静岡県富士宮市に移住して以降、同地で過ごした。1965年、視力障害のため国画会を退く。1971年、両眼失明のため画家を廃業。
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月… 須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月9日 - 1970年〈昭和45年〉4月30日)は、日本の外交官、政治家。スペイン特命全権公使・衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎新城町(現秋田市)生まれ。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。 外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蔣介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。 この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。