今村 充夫(いまむら みちお、1921年6月25日 - 20… 今村 充夫(いまむら みちお、1921年6月25日 - 2015年8月27日)は、日本の民俗学者、歌人。 朝鮮京畿道京城府(現・大韓民国ソウル特別市)生まれ。京城公立中学校(現・ソウル高等学校)卒。旧制國學院大學予科から学部国文学科卒。旧制福井県立小浜中学校教諭、新制若狭高校、石川県立各高等学校の教諭、教頭を経て、石川県立郷土資料館副館長、分館長。国立石川工業高等専門学校講師(1996年当時)。 加能民俗の会会長、石川県歌人協会会長、石川県立郷土資料館(石川県立歴史博物館の前身)副館長、日本民俗学会名誉顧問、金沢市文化財保護審議委員。国立民族学博物館国内資料調査委員。折口信夫に師事。1983年(62歳)の時に『日本の民間医療』弘文堂を公刊する。
福富 久夫(ふくとみ ひさお、1921年(大正10年)6月2… 福富 久夫(ふくとみ ひさお、1921年(大正10年)6月25日 - 没年不明)は、日本の造園学者、造園教育者。千葉大学名誉教授。元日本大学教授。工学博士(1973年5月 、東京大学) 。 東京の品川に生まれ、荏原郡大井町(現・品川区)で育つ。 1939年3月に東京府立化学工業学校(現・首都大学東京)を卒業後、翌年4月に千葉高等園芸学校園芸学科に入学、1942年9月に卒業する。その後、軍に招集された。 1945年12月、戦災復興院計画局施設課に入る。1947年4月に内務省国土計画課に移り、内務省の解体に伴い1948年7月からは建設省計画課勤務となる。 1949年9月、文部教官として千葉大学に出向する。
森田 俊男(もりたとしお、1921年6月25日 - 2010… 森田 俊男(もりたとしお、1921年6月25日 - 2010年8月29日)は、日本の教育研究者。平和・国際教育研究会代表。 戦後日本における平和教育をリードした。元国民教育研究所所長。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。
内山 喜久雄(うちやま きくお、1920年〈大正9年〉6月2… 内山 喜久雄(うちやま きくお、1920年〈大正9年〉6月25日 - 2012年〈平成24年〉12月20日)は、日本の臨床心理学者。筑波大学名誉教授、医学博士。正四位勲三等瑞宝章受章。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)生まれ。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、東京高等師範学校文科第3部を経て、1944年(昭和19年)東京文理科大学心理学科卒業。海軍予備少尉となる。 1945年(昭和20年)10月、群馬師範学校助教授となる。1951年(昭和26年)群馬大学助教授。1959年(昭和34年)「小児緘黙症に関する研究」で群馬大学より医学博士の学位を取得。1964年(昭和39年)東京教育大学助教授、1970年(昭和45年)同教授。
定永 両一(さだなが りょういち、1920年6月25日 - … 定永 両一(さだなが りょういち、1920年6月25日 - 2002年1月27日)は、日本の鉱物学者・結晶学者。専門は、結晶学・鉱物学。大阪生まれ。 日本鉱物科学会、日本結晶学会などに所属。1972年−1974年に日本鉱物学会会長、1976年−1977年に日本結晶学会会長を歴任。 1984年に島崎英彦らによって、愛媛県上島町の弓削島からシリカに乏しい角閃石の一種である新鉱物が発見され、定永両一に因んでカリ(第一鉄)定永閃石(Potassic-(ferro-)sadanagaite)と命名された。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 20… 中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 2010年6月24日)は、日本の地理学者(地形学・地図学)。(旧)東京都立大学名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。 台湾にて生まれる。台北高等学校を卒業後、上京する。1942年東京帝国大学地理学科卒業後、地理調査所技官に任官。 1962年10月、(旧)東京都立大学教授就任。1984年3月定年退職。 第四紀学の諸分野のうち、地形とくに平野の地形学を発展させ、さらに災害・土地保全研究を行った。 1984年6月 東京都立大学名誉教授。 1994年11月 勲三等旭日中綬章受章。 平成22年6月24日没。享年90。墓所は青山の梅窓院。
津田 清子(つだ きよこ、1920年6月25日 - 2015… 津田 清子(つだ きよこ、1920年6月25日 - 2015年5月5日)は、俳人。奈良県生。奈良女子師範(現在の奈良教育大学)卒。卒業後は小学校教師として勤務。当初は前川佐美雄のもとで短歌を学んでいたが、1948年、橋本多佳子の七曜句会に出席したことをきっかけに俳句に転向。多佳子に師事し「七曜」同人となるとともに、多佳子の師である山口誓子にも師事し誓子の「天狼」に投句。1951年に天狼賞を受賞、1955年「天狼」同人。1971年「沙羅」を創刊、主宰。1986年同誌を「圭」に改称。2000年、第六句集『無方』で第34回蛇笏賞受賞。2012年、「圭」を8月号で終刊。 代表句に「虹二重神も恋愛したまへり」など。
岩波 雄二郎(いわなみ ゆうじろう、1919年〈大正8年〉6… 岩波 雄二郎(いわなみ ゆうじろう、1919年〈大正8年〉6月25日 - 2007年〈平成19年〉1月3日)は、日本の実業家。岩波書店社長・会長・相談役。神奈川県出身。 岩波書店の創業者である岩波茂雄の次男として生まれる。東京府立第一中学校、旧制成城高校を経て、東京帝国大学文学部を卒業。 1946年(昭和21年)1月16日に岩波書店に入店する。1949年(昭和24年)4月25日、同社が株式会社に改組されたおり社長に就任した。1949年(昭和24年)9月3日、東京青年商工会議所(現・東京青年会議所)の発足に参画し、発足当初のチャーター・メンバー48名のひとりとなる。およそ30年に渡って社長を務め、社長在任中には広辞苑を刊行している。
鈴木 広(すずき ひろし、選挙時の通称:すずきひろし、191… 鈴木 広(すずき ひろし、選挙時の通称:すずきひろし、1919年6月25日 - 不詳)は、日本の政治運動家。社団法人日英協会終身会員等。 東京市本郷区(現文京区)出身。慶應義塾大学文学部卒業後、スタンフォード大学、ブリガムヤング大学、コロンビア大学に留学。 敗戦直後に香港で豪州軍の戦犯法廷で通訳を務めたのを始め、進駐米陸軍、八幡製鐵、三菱レイヨン、日興証券、大日本インキ化学工業勤務を経て、東京外国語大学、日本大学講師。 片山哲の影響を受け、1969年の第32回衆議院議員総選挙(旧京都府第1区)から旺盛な選挙闘争に着手。 主要公約は諸外国との友好、教育の充実、未成年労働者への非課税、交通網の整備、少数意見の尊重、清潔な選挙など、実直な人柄を忍ばせる常識的なもので、諸派候補の中にあって毎回上位で健闘したが、立候補した総ての国政選挙で落選し供託金を没収された。
中林 仁良(なかばやし ひとよし、1919年(大正8年)6月… 中林 仁良(なかばやし ひとよし、1919年(大正8年)6月25日 - 2007年(平成19年)7月15日)は、日本の実業家、軍人。百貨店「丸物」社長、京都近鉄百貨店会長・取締役 相談役、旧 近鉄百貨店取締役 相談役などを歴任した。父は丸物(京都物産館)創業者の中林仁一郎。 1919年(大正8年)6月25日、中林仁一郎の長男として生まれる。父・仁一郎は弟(仁良の叔父)・谷政二郎と東本願寺から現在の京都ヨドバシ東南隅に当たる場所を借り、仁良が生まれた翌年に京都物産館を創業したが、中林一家はその隣の家に住んでいた。仁良は京都物産館の北側にあった空き地を突っ切って幼稚園へ通った。慶應義塾大学経済学部に入学して大学時代は東京で過ごしたが、この頃麴町に丸物の東京出張所があったという。
西嶋 定生(にしじま さだお、1919年6月25日 - 19… 西嶋 定生(にしじま さだお、1919年6月25日 - 1998年7月25日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。京都大学の宮崎市定、東京大学の堀敏一、一橋大学の増淵龍夫等と共に戦後の中国古代史研究をリードする存在であった。 岡山県阿哲郡本郷村(現・新見市)で生まれた。第六高等学校を経て、1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。六高・東京帝大共に同級生であった中央アジア史学者の山田信夫とは終生を通じて親友であった。 修了後は、東方文化学院研究員に就いた。東京大学東洋文化研究所研究員を経て、1949年より東京大学文学部東洋史学科助教授。1967年に教授昇格。1961年に学位論文『二十等爵制の研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。
丸谷 金保(まるたに かねやす、1919年〈大正8年〉6月2… 丸谷 金保(まるたに かねやす、1919年〈大正8年〉6月25日 - 2014年〈平成26年〉6月3日)は、日本の政治家。従四位。 北海道中川郡池田町町長、参議院議員(2期)などを歴任した。コンビニエンスストアチェーン・セイコーマート会長の丸谷智保は長男。 北海道中川郡池田町で理髪店の長男として生まれる。1942年、明治大学専門部法科を卒業した。在学中には哲学研究部に入り、穂積五一が運営する私塾で学生寮の「至軒寮」に出入りして、小林與三次、村山富市など保守革新を問わない幅広い人脈を築く。この時の人脈はのちに十勝ワインの販路拡大にも生かされる。 十勝日日新聞の編集長を務める傍ら農民運動に携わり、日本社会党に入党した。
塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1… 塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1991年3月20日)は日本の政治家。日本社会党(以下、社会党)における炭鉱労組出身政治家として北海道議会議員(4期)や道議会副議長、衆議院議員(4期)を歴任した。 1918年(大正7年)6月25日、北海道浦河郡浦河町に生まれる。1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業後、北海道炭礦汽船(北炭)に入社した。その後水戸航空通信学校に入校。戦後は北炭職員組合連合会(北炭職連)委員長、全日本石炭労働組合(全石炭)副委員長を務めた。北炭職連委員長在任中の1950年(昭和25年)6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に民主戦線候補として立候補したが、15名中9位で落選した。
石田瑞麿(いしだ みずまろ、1917年6月25日 - 199… 石田瑞麿(いしだ みずまろ、1917年6月25日 - 1999年11月17日)は、日本の仏教学者。学位は、文学博士。東海大学教授。北海道生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 20… 古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 2001年3月3日)は日本の植物学者である。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で働いた。
大西 三良(おおにし さぶろう、1915年 <大正4年> 6… 大西 三良(おおにし さぶろう、1915年 <大正4年> 6月25日 - 1996年 <平成8年> 9月16日)は、日本の経営者。日本ゼオン社長、会長を務めた。位階は従四位。 滋賀県出身。1936年に彦根高等商業学校を卒業し、1942年10月に横浜護謨製造に入社。 1951年3月に日本ゼオンに転じ、1966年11月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1973年5月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。1987年6月に会長に就任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1996年9月16日胃癌のために死去。81歳没。
北野 善朗(きたの よしろう、1915年(大正4年)6月25… 北野 善朗(きたの よしろう、1915年(大正4年)6月25日 - 1975年(昭和50年)5月30日)は、日本の実業家である。日本ビクター(現在のJVCケンウッド)社長を務めた。 和歌山県の生まれ。1936年(昭和11年)に和歌山高等商業学校(現在の和歌山大学)を卒業し、松下無線に入社する。その後は福岡営業所を経て東京営業所、大阪本社に勤務し、1950年(昭和25年)には親会社の松下電器産業(現在のパナソニック)に転勤した。同年には同社の第1事業本部営業部長に就任し、1953年(昭和28年)には経営破綻に陥った日本ビクターに転勤し経営再建のために同社の専務に就任する。 1969年(昭和44年)には当時の社長であった百瀬結の元で副社長となり、翌1970年(昭和45年)には会長となった百瀬の後継者として代表取締役社長を務めた。
雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2… 雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2001年1月7日)は日本の映画プロデューサー、実業家。ペンネームは福 閑太郎(フク カンタロウ)。山梨県出身。 松本高等学校文科乙類を経て、1939年に東京帝国大学文学部美術科を卒業、東宝に入社した。 1941年の太平洋戦争中は将校となり、ジャワ島に派遣された。1945年10月から12月頃、クマヨラン(英語版)飛行場作業隊副官陸軍大尉だった彼はジャカルタ治移動演芸隊の演技指導も行った。 戦後、1949年12月28日に東宝取締役として復帰した。1952年1月25日に交通事故で亡くなった森田信義に変わって東宝撮影所所長となる。1955年9月20日に支配人制となり辞任。
桑木 務(くわき つとむ、1913年6月25日 - 2000… 桑木 務(くわき つとむ、1913年6月25日 - 2000年2月15日)は日本の哲学者。
高良 鉄夫(たから てつお、1913年6月25日 - 201… 高良 鉄夫(たから てつお、1913年6月25日 - 2014年5月17日)は、日本の動物学者。第8代琉球大学学長(就任期間:1970年7月1日 - 1973年6月30日)。農学博士。専攻は応用動物学。沖縄県本部町出身。 ハブの研究で知られ、「ハブ博士」と呼ばれた。 イリオモテヤマネコの発見につながる幼獣の捕獲を果たしたことでも知られる。 沖縄の本土復帰に伴う国立大学化の際の学長であった。 戦後の1950年から1968年にかけて5回に渡り、調査団を結成して尖閣諸島に上陸して学術調査を実行。この時のメンバーには後に沖縄社会大衆党委員長となる瑞慶覧長方がいる。 紫綬褒章、勲二等瑞宝章、沖縄県功労者、沖縄タイムス賞などを受賞。
伊藤 英吉(いとう えいきち、1911年(明治44年)6月2… 伊藤 英吉(いとう えいきち、1911年(明治44年)6月25日 - 2011年(平成23年)8月30日)は、日本の実業家。伊藤忠商事元会長。 伊藤竹之助、ときの長男として生まれる。父・竹之助は伊藤忠兵衛 (初代) の長女・ときの婿養子。弟は伊藤順吉。 旧制甲南高等学校を経て、旧制神戸商業大学(現・神戸大学)、ケンブリッジ大学を卒業し、1940年に伊藤忠商事へ入社した。1954年からニューヨークに駐在する。1959年に帰国し、常務、専務、副社長を経て、1968年に会長に就任した。 妻・英子は子爵加納久朗の次女。 2011年8月30日、老衰のため死去。100歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25… 中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25日 - 1996年〈平成8年〉8月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将補。 1910年6月25日、熊本県に生まれる。福岡県三池中学校入学。何度も展覧会に絵を出展するなど、最初は画家志望だったが、従兄弟に勧められて海軍兵学校(第58期)を受験。1930年11月、卒業。その後の遠洋航海では船酔いして寝込み、船乗りがこれではと海軍をやめようかと思っていたところ、帰国後の術科講習で「航空最適、甲の上」という適性検査の結果を知らされ、それ以降航空畑を歩むことになる。1932年4月、少尉。 1933年11月、海軍中尉。
梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25… 梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25日 - 1987年(昭和62年)10月8日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中佐。名は「覬」と表記される場合がある。 1908年(明治41年)6月25日、現在の広島県江田島市鷲部に、父・藤市と母・スギの9人兄弟の末っ子として生まれる。旧制呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)を経て、1925年(大正14年)4月、海軍兵学校に第56期生として入学、1928年(昭和3年)3月卒業。 装甲巡洋艦「八雲」、重巡洋艦「青葉」、航空母艦「赤城」その他に乗組、1930年(昭和5年)中尉に任ぜられる。その後、駆逐艦「菊」砲術長、駆逐艦「朝顔」、防護巡洋艦「対馬」、吹雪型駆逐艦「白雪」への乗組を経て、1934年(昭和9年)、海軍水雷学校高等科に学び、同年大尉に任ぜられる。
辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 … 辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 - 1993年7月2日)は、服飾史研究者。 大阪府出身。大阪天王寺師範学校卒、関西大学法文学部哲学科卒。1959年「日本上代文様の研究」で関西大学文学博士。大阪市立大学家政学部助教授、教授、京都府立大学教授。72年定年退官、琉球大学教授、帝国女子大学教授。
樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 19… 樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 1980年1月7日)は、日本の政治家。元衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)6月25日に生まれる。京都市立商工専修学校(後の京都市立堀川高等学校専修夜間部)卒業。 1963年に京都市議会議員選挙に立候補し当選、1期務める。 1967年1月29日、第31回衆議院議員総選挙に、京都1区から公明党公認候補として立候補し、初当選する(以降、連続2期)。 1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に落選。選挙地盤を公明党の竹内勝彦に譲り、政界から引退する。 1980年1月7日、死去。72歳没。同月11日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正五位勲三等に叙され、旭日中綬章を追贈された。
片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月2… 片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月25日 - 1979年(昭和54年)4月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 福井県今立郡鯖江町(現鯖江市)出身。生家は織物業を営んでいたが5歳の時に破産し一家で上京した。働きながら独学し、1924年(大正13年)東京市神田区の電機学校(現東京電機大学)電気科を卒業した。 1924年、東京電燈に入社し、横浜支店に配属された。1945年(昭和20年)11月、関東配電労働組合の結成に従事。1946年(昭和21年)5月、関東配電労組中央執行委員に就任。日本電気産業労働組合協議会(電産)関東地方本部副委員長であった1949年(昭和24年)10月、電産の退職金闘争の際に電産本部が要求を下回る内容で妥結したことに抗議して同副委員長を辞職した。
笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 196… 笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 1960年〈昭和35年〉4月4日)は、日本の俳優である。本名は春野 武雄(はるの たけお)。及川 武夫と表記に揺れがある。日本初のテレビ時代劇『半七捕物帳』の主役として知られる。妻は元松竹の舞台女優で、村田嘉久子、村田竹子と共に「帝劇三姉妹」といわれた村田みね子である。 1905年(明治38年)6月25日、東京府東京市芝区南佐久間町に生まれる。芝愛宕小学校を経て旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)に入学。卒業後、海軍兵学校の入学試験を受けるも不合格となり、早稲田大学に進学する。しかしそれでも諦められず、再び海軍兵学校を受験して合格したが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で実家及び学校は全焼した。
与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は… 与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ) - 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一、与田準一の表記もある。日本ペンクラブ会員。 1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。
上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 198… 上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 1988年10月22日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1929年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1952年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1970年11月に会長に就任し、1978年6月には相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1988年10月22日に心不全のため死去。84歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 … 坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 - 1990年〈平成2年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。財政政策に詳しく衆議院大蔵委員会理事、大蔵政務次官(第1次岸改造内閣)、自由民主党税制調査会長、厚生大臣(第44代)、大蔵大臣(第81代)などを歴任。 和歌山県伊都郡出身。旧制第六高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、都新聞、東京日日新聞記者を経て、大政翼賛会財務部副部長を務める。東日の大蔵省詰め記者時代に福田赳夫と知り合い、肝胆相照らす仲となる。1942年旧和歌山1区より翼賛政治体制協議会推薦で第21回衆議院議員総選挙に出馬するも落選する。
増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - … 増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - 1982年11月15日)は日本の法学者。第二次世界大戦前に台北帝国大学の助教授をつとめた頃に得た知見をもとにした台湾研究で知られる。法学のみならず、台湾における宗教関連の著作もある。 1903年6月25日に新潟県中頸城郡高田町に生まれた。第一高等学校文科甲類を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年3月に同大学院を満期退学(法理学)。 大学院を卒業後、台湾総督府嘱託として台湾へ渡った。どういうわけか法学ではなく、現地の宗教調査を任務とした。ただし、この調査は早々に中断され、1930年5月からは台北帝国大学講師となった。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈… 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。兄に昭和天皇、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。 宮家の一つである秩父宮の家祖。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。大日本帝国陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はいない。 東京・赤坂の青山御所(東宮御所)で誕生し、兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)とともに、生後4カ月で皇孫御養育掛・枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 196… 山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 1961年8月27日)は、日本の小説家。徳田秋聲、竹久夢二などの愛人として知られる。 本名ユキ。秋田県由利郡本荘町(現由利本荘市)に廻船問屋の長女として生まれる。山田家は明治維新以前は本荘藩に仕える士族だったが、明治期に炭の商いから成功して金貸しなども手がけ、父親の代に廻船業に転じた。気丈で美貌の祖母を慕っていたが、順子が7歳のころにその祖母が投身自殺し、精神的に多大な影響を受ける。 秋田県立秋田高等女学校(現秋田県立秋田北高等学校)を卒業し、1920年に19歳で東京帝国大学出の弁護士増川才吉と結婚して小樽に住む。長女出産後、病で片方の乳房を失う。
竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月… 竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月25日 - 1984年〈昭和59年〉3月21日)は、日本の実業家、政治家。掛合町名誉町民。島根県議会議員、掛合村長、竹下酒造代表取締役などを務めた。旧姓は武永(たけなが)。 第74代内閣総理大臣・竹下登の実父。漫画家・影木栄貴、ミュージシャン・DAIGOの曾祖父。 島根県簸川郡今市町(現:出雲市)出身。武永貞一の弟。掛合町(現:雲南市)竹下儀造の養子となった。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、1923年(大正12年)早稲田大学専政科(現、政治経済学部)卒業。 竹下家は日本三大山林王の一家として出雲一円に権勢を誇っていた田部家の傘下で庄屋を務めており、掛合一の旧家であった。
酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25… 酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25日 - 1982年(昭和57年)8月5日)は、愛知県津島市出身の弁護士。衆議院議員を2期務めた。 愛知県名古屋市東区生まれ。1918年(大正7年)、岡崎師範学校(現・愛知教育大学)を卒業。1929年(昭和4年)中央大学専門部法律科卒業、小学校訓導となる。その後、高等試験司法科試験に合格して、1934年(昭和9年)弁護士となり、税務代理士(現税理士)も務めた。 愛知県臨時社会調査員、同方面委員を務めた。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛知県第2区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に愛知県第4区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)… 長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)6月25日 - 昭和37年(1962年)11月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。第3代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1951年-1955年)。日本エアウェイ開発社長(在任1961年-1962年)。 秋田県南秋田郡川尻村(後の秋田市川尻上野町)で村長の長崎惣太郎の長男として生まれる。幼少の頃から成績優秀で長身でもあり、川尻小学校・牛島高等小学校を経て秋田中学校へと入る。中学校ではボート部に所属し、その後第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 1920年鉄道省入省。1926年在外研究員として欧米に派遣され、その後1930年に設置された国際観光局の庶務課長に任命され、1932年経理局会計課長となる。
有元 史郎(ありもと しろう、1896年(明治29年)6月2… 有元 史郎(ありもと しろう、1896年(明治29年)6月25日 - 1938年(昭和13年)5月30日)は、日本の教育者、政治家。芝浦工業大学創設者。第4代岡山県津山市長(1937年)。広島県尾道市土堂町出身。本姓は菅原氏。諱は頼忠。 広島県尾道市土堂町出身。船具を扱う尾道の名家有元益太郎季久の四男として生まれるが、会社が廃業し3歳のとき、兄2人とともに叔母に引き取られる。14歳のとき、家出同然に兵庫県西宮市の叔父のもとへ向かう。奉公の後、独力で大阪天王寺の桃山中学校に編入、しかし腸チフスに感染し同校退学。一年間兵役に服した後、検定試験で中学を卒業。兄の援助を受け1919年、鹿児島の第七高等学校理科甲類入学。
鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月2… 鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月25日 - 1979年〈昭和54年〉12月14日)は、日本のジャーナリスト、労働運動家、政治家。岩手県出身。第2次世界大戦前にベルリン特派員であった時はナチスを批判して国外退去させられ、帰国後は戦争を批判して軍部から執筆禁止処分を受け、敗戦後は読売新聞労働組合の委員長として読売争議を闘ったがGHQの命令により解雇された。釜石市長となってからは釜石製鉄所の公害を規制して闘った。 1895年6月25日、釜石市唐丹町川目で生まれる。旧制遠野中学校を経て、1920年に第二高等学校を卒業後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業する。1920年初冬、東大赤門前にあった文信社という謄写版印刷屋で、宗教上の対立で実家から家出同然に上京していた宮沢賢治と知り合う 。
武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 198… 武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。 収集癖があり、日本全国の郷土玩具や郷土菓子を集め、郷土菓子169点について『日本郷土菓子図譜』(3巻)をまとめている。
外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - … 外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - 1944年4月22日)は、日本の美術評論家。中外商業新報社学芸部長、参事を歴任。本名は外狩 顕章。愛知県安国寺第15代住職。 明治26年、愛知県生まれ。曹洞宗大学(駒澤大学の前身)、1913年(大正2年)二松学舎卒業。同年、中外商業新報社入社。美術記者となる。1924年学芸部長、1928年(昭和3年)参事を歴任。1943年嘱託。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に造詣が深く、美術骨董界に貢献した。書道と南画(文人画)をよくし、また漢詩、俳句にも親しんだ。 1930年、中川紀元らにより設立された「六潮会」に参加。洋画から牧野虎雄、木村荘八、中川紀元、日本画から中村岳陵、山口蓬春、平八郎、評論家の横川殻一郎が加わる。
実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月2… 実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月25日 - 1967年(昭和42年)9月4日)は東京都出身の実業家。日揮の創業者。 学習院初等科・中等科、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後、株式会社横浜正金銀行(現在三菱東京UFJ銀行)、株式会社島商店を経て、1928年(昭和3年)10月25日に日揮株式会社の前身日本揮発油株式会社を創立。 1928年(昭和3年)10月から1966年(昭和41年)5月まで社長を務めたのち会長に就任。翌1967年(昭和42年)9月4日病気のため急逝(享年74)。 その後、遺産を寄附し、日揮・実吉奨学会前身の実吉奨学会を、1968年(昭和43年)、人材の育成と科学・技術の発展に貢献するため、理工系の学科を専攻する大学生・大学院生に対する奨学金の貸与(日本の学生対象)ならびに給与(日本国外から日本国内の学校への留学生のみを対象)、および、若手研究者への研究費助成を行うことを目的として、設立した。
石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 195… 石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。731部隊の創設者として防疫活動や細菌戦の研究・実戦、人体実験を中国で行った。
牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6… 牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6月25日 - 昭和50年1975年)12月31日)は、栃木県出身の画家で、日本ハリストス正教会の自給伝道者。本名は省三(せいぞう)、聖名はパウェル・ペートロイチ。若いころの号は朝陽、1926年(昭和元年)頃から如鳩、1962年(昭和37年)からは如九と名乗った。伝道の傍らイコンも手がける一方、観音や達磨など仏画や日本の八百万神のみならず、両者を習合した仏耶一如とも言える独特の絵を描いた。 1892年、栃木県梁田郡御厨村字上渋垂(現在の足利市上渋垂町)に、南画家で正教徒の牧島百祿の長男として生まれる。百祿は地元の日本画家・田崎草雲の弟子でもあった。
高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月2… 高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村大字福万(のち伯仙町、現・米子市)出身。高田繁太郎の二男。1918年、家督を相続、12代の主となる。農業、金融業、不動産業を営む。マルタ商会代表取締役、雲陽実業銀行、山陰土地各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。高額所得者である。 村内に28町歩の土地を66人に小作させた。村外には約64町歩の土地があった。年の小作米も3000俵といわれ、広大な邸内に米蔵が棟を並べた。別に山林原野が村内に70町歩、村外にも同じ位あった。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
竹腰 健造(たけこし けんぞう、明治21年〈1888年〉6月… 竹腰 健造(たけこし けんぞう、明治21年〈1888年〉6月25日 - 昭和56年〈1981年〉7月28日)は、建築家。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の長谷部鋭吉と共に創業者の1人である。 健造は明治21年(1888年)6月25日、石川県金沢市で生まれた。当時、父親の岩村高俊は石川県知事であった。健造が竹腰姓を名乗るようになったのは、福岡にいた10歳のとき、旧小倉藩出身の名家である竹腰家の養子になったからである。 学業においては優秀で、豊津中学校から一高、東京帝国大学工科大学へと順調に進む。建築を専攻したが、希望というわけではなく、選択肢が土木、機械、採鉱、建築しかなかった。
古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月2… 古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1942年〈昭和17年〉12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県萩市長。 山口県美祢郡伊佐町伊佐(現・美祢市伊佐町伊佐)出身。学歴は不明。1909年(明治42年)、普通文官試験に合格。1914年(大正3年)6月、山口県属に任じ、1923年(大正12年)8月、岡山県属に転じる。1924年(大正13年)3月、島根県鹿足郡長に就任し、同年7月に地方事務官となり、島根県総務部庶務課長などを経て、1937年(昭和12年)7月24日、萩市長に就任した。1942年(昭和17年)12月29日、心臓麻痺により急逝、享年55歳。
古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月… 古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月25日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、明治から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京で工学者・古市公威の長男として生まれた。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)3月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科を卒業。同年、住友総本店に入社。以後、別子鉱業所採鉱課主任、住友合資技師長、住友本社技師長、住友鉱業取締役、昭和鉱業取締役、帝国鉱業開発副社長、同社長、東北亜鉛鉱業社長、藤田組会長、日本鉱業会会長などを務めた。 1942年(昭和17年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25… 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧氏名は、九条 節子(くじょう さだこ)。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。 1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)で誕生。
南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月2… 南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月25日 - 昭和5年(1930年)1月1日)は、戦前日本の華族。南部家第43代当主で、最後の盛岡藩主南部利恭の次男、先代当主南部利祥の弟。爵位は伯爵。 明治38年(1905年)、日露戦争で戦死した兄利祥の跡を継ぎ、南部家第43代当主となる。東京帝国大学在学中の明治40年(1907年)に旧鳥取藩主池田輝知侯爵の三女嚴子と結婚し、一男一女をもうける。 利淳夫妻は芸術に造詣が深く、利淳は彫刻や書道、嚴子は日本画や竹細工などをたしなんだ。また、夫婦で黒田清輝、五味清吉、石川寅治などの画家から洋画を習っている。大正3年(1914年)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。