葛西 森夫(かさい もりお、1922年〈大正11年〉9月29… 葛西 森夫(かさい もりお、1922年〈大正11年〉9月29日 - 2008年12月8日)は、青森県市浦村(現・五所川原市)生まれの小児外科医。旧制第二高等学校・東北帝国大学(現・東北大学)出身。胆道閉鎖症に対する手術・肝門部腸吻合術(英語版)を開発したことで知られ、この術式は葛西の名前を取って葛西手術(英: Kasai's procedure)とも呼ばれる。 葛西は1922年に青森県市浦村(現・五所川原市)で生まれ、函館で育った。1935年に旧制函館中学校(現北海道函館中部高等学校)に進学し、1940年に卒業した。葛西の父は近代教養を重んじる敬虔なクリスチャンであり、この影響を受けた彼は、グリム童話やアンデルセンに親しんで育ったのだという。
勝見 嘉美(かつみ よしみ、1922年〈大正11年〉9月29… 勝見 嘉美(かつみ よしみ、1922年〈大正11年〉9月29日 - 2005年〈平成17年〉6月15日)は、日本の裁判官、法務官僚。主に民事裁判を担当した他、司法行政にも携わり、最高裁判所事務総長、名古屋高等裁判所長官を歴任した。位階は正三位。 山形県生まれ。東京帝国大学卒業。1949年(昭和24年)に司法修習生となる。1951年(昭和26年)に甲府地裁・家裁で裁判官実務を経験した後で、1955年(昭和30年)に最高裁行政局付。1960年(昭和35年)に福岡地裁・家裁へ転出を経て、1963年(昭和38年)に最高裁行政局課長となる。最高裁経理局総務課長などを経て、1971年(昭和46年)に法務省に出向し、法務省参事官や司法法制調査部長等を務める。
吉田 哲也(よしだ てつや、1922年9月29日 - 199… 吉田 哲也(よしだ てつや、1922年9月29日 - 1991年3月7日 )は、日本の経営者。筑邦銀行頭取を務めた。 佐賀県出身。1949年に東京大学法学部を卒業し、同年4月に日本勧業銀行に入行した。1972年11月に筑邦銀行常務を経て、1977年12月に副頭取に就任し、1981年6月には頭取に昇格した。1990年12月には会長に就任。 1991年3月7日、心不全のために死去。68歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
丸井 文男(まるい ふみお、1921年9月29日 - 199… 丸井 文男(まるい ふみお、1921年9月29日 - 1996年3月17日)は日本の精神医学者。専門は精神発達障害に関する研究。 長野県小県郡丸子町(現上田市)出身。昭和22年(1947年)東北帝国大学医学部卒業。昭和26年(1951年)名古屋大学医学部付属病院助手、同30年(1955年)同教育学部講師、同34年(1959年)助教授、同43年(1968年)教授。同58年(1983年)愛知教育大学学長、平成2年(1990年)長野大学学長。同7年(1995年)勲二等旭日重光章。昭和34年(1959年)名古屋大学より医学博士を取得(論文タイトルは『TATに関する研究』)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
平野 龍一(ひらの りゅういち、1920年〈大正9年〉9月2… 平野 龍一(ひらの りゅういち、1920年〈大正9年〉9月29日 - 2004年〈平成16年〉7月16日)は、日本の法学者。専門は刑事法。学位は、法学博士(東京大学、1962年〈昭和37年〉、学位論文は「刑事訴訟法」)。東京大学名誉教授。元東京大学総長。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章。文化功労者。熊本県熊本市出身。 父は鹿本選出の県会議員、のち熊本市長の平野龍起。同郷(熊本県鹿本町来民)の内閣総理大臣清浦奎吾(内務官僚、検事、司法次官、司法大臣、総理大臣、戦前の刑事訴訟法策定)の影響を受け、刑事法研究の世界に入り、小野清一郎に師事する。その後、アメリカ合衆国に留学。 かつて自著で「欧米の裁判所は有罪か無罪かを判断する所であるのに対して、日本の裁判所は有罪を認定するだけの所である」という痛烈な司法行政批判を行った事がある。
松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日… 松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日 - 1987年5月7日)は、日本の脚本家、小説家。 埼玉県秩父郡大滝村大血川(現・秩父市)出身。1942年日本大学専門部国文科中退、満州映画協会に入社。1944年東宝に移籍し、黒澤明、山本薩夫らの助監督を務める。1948年脚本家に転向、代表作に「風速40米」(1958年)、「電光石火の男」(1960年)、「青年の椅子」(1962年)など。弟子に雪室俊一、曽田博久がいる。1966年からは小説も書いた。 生涯に映画脚本を約170本、テレビなどの脚本を含めると約340本を手掛けた敏腕だったが、その作業は弟子との共同作業が多く、作成の多くが弟子たちに口述筆記、清書させるものであった。
柿沼 幸一郎(かきぬま こういちろう、1919年9月29日 … 柿沼 幸一郎(かきぬま こういちろう、1919年9月29日 - 2010年8月16日)は日本の行政官。元公正取引委員会委員、元公正取引委員会事務局長。新日鉄合併事件の独占禁止法的処理にあたった。神戸税関長や日本銀行理事等も歴任。1989年勲二等瑞宝章受章。 栃木県出身。旧制足利中学校(のちの栃木県立足利高等学校)を経て、1941年12月旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を繰り上げ卒業。大学では田中誠二ゼミナールに所属。卒業論文は「法律社会学の諸問題」。 1942年1月大蔵省入省、会社部勤務(六給俸)。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年同月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業し東京監査官付となる。
竹本 正男(たけもと まさお、1919年〈大正8年〉9月29… 竹本 正男(たけもと まさお、1919年〈大正8年〉9月29日 - 2007年〈平成19年〉2月2日)は、日本の体操選手。日本体育大学副学長、日本体育大学名誉教授。1952年ヘルシンキオリンピック・1956年メルボルンオリンピック銀メダリスト、1960年ローマオリンピック金メダリスト。島根県浜田市出身。旧制浜田中(島根県立浜田高等学校)、日本体育会体操学校高等師範科(現・日本体育大学)卒業。「体操の神様」とも言われていた。浜田市名誉市民でもあった。 ローマ五輪を最後に引退。日本体育大学教授として後進の指導、研究に従事した。 ほかに、日本体操協会副会長、日本体操協会顧問、日本体育大学理事、日本体育大学女子短期大学副学長などの要職を歴任した。
中川 順(なかがわ すなお、1919年9月29日 - 201… 中川 順(なかがわ すなお、1919年9月29日 - 2010年5月22日)は、日本の実業家。テレビ東京(TX)元社長。広島県出身。
鈴木 亨(すずき とおる、1918年9月29日 - 2006… 鈴木 亨(すずき とおる、1918年9月29日 - 2006年12月9日)は詩人。神奈川県横浜市出身。 慶應義塾大学文学部国文科卒業、同大学院修士課程修了。第2次『四季』に寄稿、のち編集に当たる。1939年『山の樹』を創刊、主宰。90年より詩誌「木々」を主宰。98年「火の家」で丸山薫賞受賞。明治大学教授、跡見学園女子大学教授、宇都宮文星短期大学教授。 2006年に肺炎のため死去した。享年88。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
八幡野 平八郎(やはたの へいはちろう、1917年9月29日… 八幡野 平八郎(やはたの へいはちろう、1917年9月29日 - 1994年5月9日)は、伊勢ヶ濱部屋に所属した元力士。9代谷川。本名は西内 平八郎(にしうち へいはちろう)。現在の高知県須崎市(当時は高岡郡須崎町)出身。182cm、86kg。最高位は西十両5枚目。得意技は右四つ、上手投げ、うっちゃり。 米穀・肥料を商う「西亀」の八男として生まれ、生家は裕福な家庭だった。実父は須崎町議を6期努める有力者で、長兄が神戸高等商業(現神戸大学経済学部)、本人を除く他の7人が京都帝国大学卒という家系で、本人も子供の頃から体格よく頭脳明晰だった。県立城東中学に進学すると柔道部に籍を置き、部員不足の相撲部の試合にも参加し、堺の大浜相撲場で行われた全国中等学校相撲大会にも出場したのを機に、親友の父から強く勧められたため、学業を続けるのを条件として1935年3月に伊勢ヶ濱部屋に入門、5月場所に八幡野の四股名で初土俵を踏んだ。
赤谷 源一(あかたに げんいち、1917年9月29日 - 1… 赤谷 源一(あかたに げんいち、1917年9月29日 - 1987年9月1日)は、日本の外交官。日本人初の国際連合事務次長。チリ駐箚特命全権大使。 千葉県旭市鎌数出身。父親は天津や上海の次席税関長を務めた赤谷由助(あかたに よしすけ)。1939年、英・オックスフォード大学政治学科卒業。1942年、上智大学商学部経済学科(現・経済学部)を卒業後、外務省に入省。戦後日本の税制改革を連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に対して勧告するために、カール・シャウプが1949年に日本に税制使節団長として訪れた際、外務省事務官として通訳を担当している。「シャウプ使節団日本税制報告書」(「シャウプ勧告」)の序文に謝辞が記載されている。
庭山 慶一郎(にわやま けいいちろう、1917年9月29日 … 庭山 慶一郎(にわやま けいいちろう、1917年9月29日 - 2012年12月7日)は、日本の実業家。茶道家。中国古典研究家。文人。国内証券市場に公社債投資信託を導入した。経営者時代は「ミスター住専」と称された。父は「船場の絵描き」と呼ばれた庭山耕園で、画業顕彰のため画集や遺作展に尽力したほか、地元の大阪市立美術館に作品を寄贈している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
柴田 南雄(しばた みなお、1916年〈大正5年〉9月29日… 柴田 南雄(しばた みなお、1916年〈大正5年〉9月29日 - 1996年〈平成8年〉2月2日)は、日本の作曲家、音楽評論家、音楽学者。 東京府東京市神田区駿河台袋町(現:東京都千代田区神田駿河台)に生まれ、1945年まで東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現:新宿区百人町)で暮らす。 1921年、東京女子高等師範学校附属幼稚園(現:お茶の水女子大学附属幼稚園)に入る。1923年、暁星小学校入学。1932年、暁星中学校から成城高等学校尋常科(現:成城大学)に編入。1933年、成城高等学校高等科理科甲類(英語クラス)に進んだ頃から、ピアノを岩井貞麿、ジェームス・ダンに、チェロを鈴木二三雄に、作曲を細川碧、諸井三郎に、指揮法を斎藤秀雄に師事。
間垣 洋助(まがき ようすけ、1916年9月29日 - 19… 間垣 洋助(まがき ようすけ、1916年9月29日 - 1990年10月19日)は、日本のプロテスタントの神学者。 台湾出身。青山学院大学大学院修了。1983年「ヨハネ福音書のキリスト論」で立教大学神学博士。日本ルーテル神学大学教授、1979年から1984年まで図書館長、学長。
島田 正郎(しまだ まさお、1915年9月29日 - 200… 島田 正郎(しまだ まさお、1915年9月29日 - 2009年11月23日)は、日本の東洋史学者・法制史学者。学位は、法学博士(明治大学・論文博士・1951年)(学位論文「遼令の研究」)。元明治大学総長。東京市麹町区生まれ。 旧制明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校)を卒業し、1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。北京に留学し、41年に帰国。 1942年、東方文化学院(東京研究所)研究員。1947年、東京大学東洋文化研究所所員。1948年、明治大学専門部法律科講師。明治大学専門部法律科助教授。1951年、明治大学法学部教授。同年、「遼令の研究」で法学博士(明治大学)の学位を取得。
毛利 圭太郎(もうり けいたろう、1915年9月29日 - … 毛利 圭太郎(もうり けいたろう、1915年9月29日 - 2009年5月19日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。 兵庫県神戸市出身。1938年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業し、同年に気象庁に入庁。1970年に札幌管区気象台長、1973年に予報部長を経て、1974年から1976年までに長官を務めた。1976年には国立国会図書館専門調査員に就任。 2009年5月19日に老衰のために死去。93歳没。
高橋 誉冨(高橋 譽冨、たかはし たかよし、1913年9月2… 高橋 誉冨(高橋 譽冨、たかはし たかよし、1913年9月29日 - 2003年5月13日)は、日本の政治家。参議院議員(1期、自由民主党)。 千葉県出身。1937年千葉県師範学校(現千葉大学教育学部)卒。卒業後は千葉県内の小学校で教鞭を執り、その後は、習志野市立津田沼小学校校長や船橋市立二宮中学校校長を務めた。[要出典]1963年千葉県議会議員(八千代市)を経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙(千葉地方区)で初当選、当選1回。福田赳夫内閣で北海道開発政務次官を務めた。1980年に引退。1984年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。 2003年5月13日午前2時39分、肺炎のため千葉県八千代市の病院で死去、89歳。
2代目根津 嘉一郎(2だいめ ねづ かいちろう、1913年(… 2代目根津 嘉一郎(2だいめ ねづ かいちろう、1913年(大正2年)9月29日 - 2002年(平成14年)2月15日)は、日本の実業家。根津財閥の二代目総帥。東武鉄道社長。日本陶磁協会第6代理事長。戦前から平成にかけて東武鉄道の社長を約53年務め、会長になった後も同社の経営を指揮してきた。「東武鉄道中興の祖」と称される。 初代根津嘉一郎の長男。初代嘉一郎が数え54の年に生まれた初の男子で唯一の実子である。出生名は根津 藤太郎(ねづ とうたろう)。 山梨県に生まれ、青南小学校から父の設立した武蔵高等学校へ進学。在学中は剣道部に在籍し、同期に佐々木陽信、広瀬真一がいた。その後東京帝国大学に進学、1936年(昭和11年)3月に経済学部を卒業した。
田辺 元三郎(たなべ もとさぶろう、1913年9月29日 -… 田辺 元三郎(たなべ もとさぶろう、1913年9月29日 - 1997年5月2日)は、日本の経営者。東京田辺製薬(現在の田辺ファーマ)2代目代表取締役社長を務めた。東京都出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鈴木 圭介(すずき けいすけ、1912年9月29日 - 19… 鈴木 圭介(すずき けいすけ、1912年9月29日 - 1998年5月31日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。 愛知県渥美郡渥美町(現・田原市)生まれ。1937年3月、立教大学経済学部卒業。 1937年4月、立教大学助手、1939年4月、立教大学教授。1948年3月、病気のため立教大学を辞職。 1953年3月、東京大学経済学部研究員、1954年10月、東京大学社会科学研究所専任講師、その後助教授を経て、1968年5月、東京大学教授、1973年4月、東京大学を定年退官、名誉教授。1974年4月、東京都立商科短期大学教授。その後、愛知大学教授を歴任。 専門はアメリカ経済史。
麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月… 麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月29日 - 1980年〈昭和55年〉12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。衆議院議員(3期)。第92代内閣総理大臣麻生太郎の父。 1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町(現・飯塚市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を卒業し、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現・九州大学)法文学部聴講生。1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年(昭和9年)に社長となる。1935年(昭和10年)、帝国軍人後援会福岡県支会経費として2000円寄付により1937年(昭和12年)褒状下賜。
酒井 暊(さかい あきら、1911年(明治44年)9月29日… 酒井 暊(さかい あきら、1911年(明治44年)9月29日 - 1993年(平成5年)11月28日)は、日本の政治家。元小松島市長(4期)。徳島県小松島市出身。 1933年(昭和8年)、早稲田大学専門部商科卒業。同年に徳島県庁に就職。県庁では秘書課長・労政課長・福祉課長・建築課長・板野地方事務所長・農政課長を歴任。 1957年(昭和32年)に小松島市長に当選。1973年(昭和48年)まで4期を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
畑 和(はた やわら、1910年〈明治43年〉9月29日 -… 畑 和(はた やわら、1910年〈明治43年〉9月29日 - 1996年〈平成8年〉1月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(4期)、埼玉県知事(5期)を歴任。 埼玉県北埼玉郡礼羽村(現・加須市)出身。礼羽村立礼羽尋常小学校、旧制不動岡中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学教養学部)、東京帝国大学法学部卒業。 弁護士を経て、埼玉県議会議員を2期務めた後、1960年の第29回衆議院議員総選挙に旧埼玉1区から日本社会党公認で立候補し当選(4期連続当選)。社会党右派の有力議員として活動した。 1972年(昭和47年)の埼玉県知事選挙で自由民主党公認の前川口市長・大野元美と反共全国遊説隊公認の高田がんの両候補を破って初当選、以後連続5期。
秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1… 秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1991年8月27日)は、評論家、哲学者。本名は秋津賢一(あきつ けんいち)。 静岡県沼津市の鼈甲商の長男に生まれた。沼津市立沼津尋常高等小学校(現・沼津市立第一小学校)卒。静岡県立沼津中学校(第24期、現・静岡県立沼津東高等学校)を4年生で中退。中学卒業検定試験に合格し、専門学校入学資格(専検)を取得。1928年早稲田大学高等学院文科に入学。早稲田では新稲会に所属。1930年早稲田大学文学部哲学科に進んだが、同年8月学資納入が困難なため中退。 1930年2月頃にプロレタリア科学研究所(プロ科)所員となり、哲学部門の唯物弁証法研究会に所属。
正田 富美子(しょうだ ふみこ、1909年〈明治42年〉9月… 正田 富美子(しょうだ ふみこ、1909年〈明治42年〉9月29日 - 1988年〈昭和63年〉5月28日)は、20世紀の日本人女性。日清製粉社長・正田英三郎の妻。上皇后美智子の母。今上天皇の外祖母に当たる。旧姓:副島。旧名:富美。 中支那振興の常務理事であった副島綱雄の長女として生まれる。上海の日本人北部小学校に通学していた。その後、麹町区の雙葉高等女学校を卒業した。 1929年(昭和4年)春、19歳のときに後の日清製粉会長となる正田英三郎と結婚。英三郎との間には2男2女をもうける。1959年(昭和34年)に長女の美智子が、民間人として初めて皇太子明仁親王と結婚して皇族となった。1988年(昭和63年)5月28日、入院していた聖路加国際病院で腎不全のため死去(満78歳没)。
小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐198… 小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐1982年6月13日)は、キリスト教徒の医師で、信徒伝道者、信徒神学者、聖書研究者。 北海道釧路生まれ。1927年北海道帝国大学医学部入学。同年に洗礼を受け両親が所属していた札幌独立キリスト教会の会員として奉仕活動を始め、札幌市東端のスラムで伝道及び無料診療を行なう(召集を受ける1937年までの10年間)。 1934年北海道帝国大学医学部卒業、附属医院第二内科に入局し結核の研究に従事。太平洋戦争開始の1941年札幌市で医院を開業するも召集と解除の繰り返しの中で終戦を迎え、本格的な開業医としての生活は戦後になる。 1945年終戦により札幌独立キリスト教会の再建に努め礼拝の証詞を担当するなど信徒伝道者としての働きを本格化させる。
茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 195… 茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 1956年11月2日)は、昭和時代に活躍した日本の童画家。 その素朴でいながら独特の雰囲気に絵本愛好家の間では知られる作家である[要出典]。素朴で大胆なデフォルメが特徴で谷内六郎、山本夏彦も絶賛している[要出典]。江國香織の『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』の表紙絵にもなっている。 東京日本橋の旅館「越喜」に生まれる。1923年、関東大震災で生家が全焼、翌1924年には母を病で亡くす。1926年旧制赤坂中学校卒業。その後、太平洋画会研究所、川端画学校、本郷絵画研究所に学ぶ。アテネ・フランセで中原中也と出会う。 1930年にハルピンからシベリア鉄道でパリへ渡り、働きながら独学で絵を書き続ける。
四本 潔(よつもと きよし、1908年9月29日 - 198… 四本 潔(よつもと きよし、1908年9月29日 - 1981年4月14日)は、日本の実業家。川崎重工業社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1932年に京都帝国大学工学部を卒業し、川崎汽船に入社した。1966年に川崎航空機社長に就任し、川崎重工業副社長を経て、1969年11月に川崎重工業社長に就任した。1977年6月に会長に就任日本初のヘリコプターの生産を手掛けたり、アメリカのボーイング社との提携によるYX開発に携わるなど日本の航空機技術の発展に大きな功績を残した。 民間輸送機開発協会理事長、日本航空宇宙工業会会長なども歴任した。 1971年11月に藍綬褒章を受章。 1981年4月14日心筋梗塞のために死去。
藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29… 藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29日 - 1933年 (昭和8年)4月24日)は、日本の詩人。ボードレールの影響を受けた耽美的な詩を書き、詩集に『夜の聲』がある。 1908年9月29日に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
島 清(しま きよし、1908年(明治41年)9月29日 -… 島 清(しま きよし、1908年(明治41年)9月29日 - 1997年(平成9年)5月15日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、うるま新報(現琉球新報)社長。 沖縄県糸満町に生まれる。1938年(昭和13年)、法政大学法文学部を卒業する。戦前は、社会運動家として、日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党などで活動する。 1945年(昭和20年)、ウルマ新報(後にうるま新報に社名変更)の初代社長に就任する。 1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に日本社会党候補として東京都選挙区より出馬し、当選する。また、全国戦災者事業団副理事長に就任する。1954年(昭和29年)、日本社会党(社会党右派)中央執行委員に就任。
斎藤 信治(齋藤 信治さいとう しんじ、1907年9月29日… 斎藤 信治(齋藤 信治さいとう しんじ、1907年9月29日 - 1977年1月1日)は、西洋哲学研究者。山形県酒田市出身。 1925年酒田市甲種商業学校卒、山口銀行東京支店勤務、1931年早稲田大学文学部西洋哲学科卒、1934年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1935年同副手、1936年同法学部助手、1939年大東協会調査員嘱託、1940-1942年イスラム研究のためエジプト大学に学ぶ。1947年北海道帝国大学法文学部助教授、1951年7月北海道大学文学部教授、12月神戸大学文理学部教授、1954年中央大学文学部教授。 1957年「イロニーの研究」で北海道大学文学博士。1961-1962年渡欧しマルティン・ハイデッガーに面会している。
磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月2… 磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月29日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の実業家、登山家。元明治屋代表取締役社長。元日本商品学会顧問。 東京出身。磯野長蔵の長男。1931年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。同大学山岳部出身で、在学中冬の鹿島槍ヶ岳登頂に成功。1933年からイギリスで商社実務研修を受け、ウォルター・ウェストンと交流を持った。明治屋取締役を経て、1944年、明治屋取締役副社長。1950年、日本商品学会顧問。1959年、明治屋代表取締役社長、キリンビール監査役。1966年6月27日、膀胱癌のため慶應義塾大学病院で死去。 1987年、磯野文庫創設。
鄭 鎮瑾(チョン・ジングン、朝鮮語: 정진근/鄭鎭瑾、190… 鄭 鎮瑾(チョン・ジングン、朝鮮語: 정진근/鄭鎭瑾、1907年9月29日 - 1984年7月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、農家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道梁山郡(現・梁山市)出身。早稲田大学政経科卒(中退という情報もある)。中国にて長い間民族運動を行った後に帰国し、農家を営んだ。また、安熙済が経営する白山商会を通じ朝鮮独立運動のための資金的な支援などを行った。1948年の初代総選挙に梁山郡選挙区より無所属で出馬し当選した。国会では懲戒資格委員会委員を務めた。 1984年7月25日に梁山郡上北面の自宅で老衰により死去。享年79。 1950年の第2代総選挙では梁山郡選挙区から従兄弟の安鐘石と同時に出馬したが、2人を含む計10人の候補者がいた混戦で共倒れして徐璋珠に敗れた。
石渡 達夫(いしわた たつお、1906年〈明治39年〉9月2… 石渡 達夫(いしわた たつお、1906年〈明治39年〉9月29日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。財務官僚。 神奈川県三浦郡浦賀町大津(現横須賀市大津)に生まれる。台北第一中学校、水戸高等学校文科甲類を経て、1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格した。1932年(昭和7年)7月、警務局警務課に奉職し、府巡査懲戒予備委員に任じ、1936年(昭和11年)9月、府地方警視として基隆水上署長となり、3か月後に新竹警察署長に転じた。ついで1938年(昭和13年)1月、台中州豊原郡守となり、1939年(昭和14年)4月、花蓮港庁勧業課長に転じた。
田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 19… 田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 1986年1月28日)は、日本の経営者。テレビ西日本社長を務めた。熊本県熊本市出身。 1930年に早稲田大学高師部英語科を卒業し、1935年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社した。 1958年3月にテレビ西日本専務に就任し、1963年に副社長を経て、1967年から1971年までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1986年1月28日肺炎のために死去。79歳没。
大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月2… 大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月29日 - 1987年(昭和62年)12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期、自由民主党)。弁護士。 新潟県中頸城郡頸城村(現・上越市頸城区)出身。1930年(昭和5年)東京帝国大学独法科卒。弁護士となり、陸軍主計大尉、頸城運送倉庫社長を経て、新潟県議となる。1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で旧新潟4区から自由民主党公認で立候補して初当選する。第3次佐藤内閣法務政務次官、衆議院法務委員長を歴任する。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。1983年(昭和58年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲五等からの昇叙)。
松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月… 松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月29日 - 1997年 <平成9年> 3月25日)は、日本の都市計画家、都市計画研究者。土木技術官僚。位階は正四位。 早稲田大学教授を務めた。このほか、帯広市市計画立案委員会委員長(帯広の団地のうち柏林台団地は昭和38年マスタープランを担当)、土木学会関東支部長、島根県庁周辺整備委員会委員、八王子土地利用計画研究委員会委員・幹事長、川崎市都市計画審議委員長、 南多摩地方計画策定委員会委員、 帝都高速度交通営団管理委員会委員、庵原地区総合開発調査委員会委員長、 港北ニュータウン計画に関して日本都市計画学会検討委員会委員長、 双葉原子力地区調査委員会委員長、 原子力委員会地帯整備専門部会都市計画小委員会主査 など、要職を多数歴任した。
四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年… 四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年(明治37年)9月29日 - 1981年(昭和56年)7月24日)は、主に関西歌舞伎で活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は向い菊、替紋は裏菊菱。俳名に幸菊がある。本名は渡辺 良雄(わたなべ よしお)。 二代目坂東彦十郎の次男。東京・築地出身。1910年(明治43年)4月帝国劇場『心中天網島』「紙治」の勘太郎で坂東子鶴を名のって初舞台。1919年(大正8年)6月帝劇『一谷嫩軍記』の熊谷の遠見で四代目坂東竹三郎を襲名する。その後も帝国劇場で活躍するも大正12年から市村座に入り六代目尾上菊五郎に弟子入りして活躍するうち才能を認められ、1924年(大正13年)5月、市村座での『義経千本桜』の小金吾と『娘道成寺』所化で名題昇進。
川口 篤(かわぐち あつし、1902年9月29日 - 197… 川口 篤(かわぐち あつし、1902年9月29日 - 1975年6月25日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 栃木県栃木市生まれ。旧制宇都宮中学・旧制一高を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒。戦後、東京大学教養学部教授、1958年から1960年まで教養学部学部長、1961年まで評議員。1963年定年退官、学習院大学教授を務めた。 アンドレ・ジイド、エミール・ゾラをはじめ翻訳多数がある。
深町 弘三(ふかまち こうぞう、1902年(明治35年)9月… 深町 弘三(ふかまち こうぞう、1902年(明治35年)9月29日 - 1967年(昭和42年)5月22日)は、大正時代から昭和時代の日本の英文学者、翻訳家。 石川県金沢市にて旧加賀藩士の深町家に生まれる。1925年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。山形高等学校の教師となった。戦後は引き続き山形大学の教授となり42年間同校で教鞭をとった。翻訳にスウィフトの『奴婢訓』や『樋物語』、『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』などがある。墓所は世田谷区の円光寺にある。妻は伊都子。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年 <明治34年… 岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年 <明治34年> 9月29日 - 1991年 <平成3年> 7月18日)は、日本の官僚、経営者。商工次官、北海道電力社長を歴任。位階は従三位。勲二等旭日重光章。 東京府出身。父は京大法科教授・岡松参太郎。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部卒業。1928年、商工省入省。特許局属。1940年、総力戦研究所員、以後、東北地方鉱山局長、軍需省管理局長、商工省商務局長、燃料局長などを経て、石炭庁次長兼総務局長に。1947年に商工次官に就任。 退任後は、日本商工会議所専務理事、北海道電力社長を3期6年務め、江別火力発電所や送電・変電の整備に尽くした。
大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 … 大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 - 1987年12月7日)は、日本の建築家・建築史学者。修理技術者でもある。 木造古建築の不燃化を目指し、RC造で日本の伝統様式の再現を試みている。 主要作品には浅草寺本堂(1958)や川崎大師平間寺本堂(1964)、聖光寺本堂(1970)などや、松前城本丸跡に立地する松前城資料館(1960)が確認される。 東京出身。1926年東京帝国大学工学部建築学科卒。1941年「興福寺伽藍配置ノ我伽藍制度史上ニ於ケル地位ヲ論ズ」で工学博士(東京帝大)。1927年文部省宗務局嘱託となり、のち文部技官、国立博物館保存修理課課長、法隆寺国宝保存工事事務所所長。
原 弘(はら ひろむ、1899年〈明治32年〉 9月29日 … 原 弘(はら ひろむ、1899年〈明治32年〉 9月29日 - 1974年〈昭和49年〉8月14日)は、日本の経営者。清水銀行頭取を務めた。 静岡県出身。1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1930年3月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年7月に常務、1947年2月に専務を経て、1971年4月には頭取に就任。 1974年8月14日に膵臓炎のために在任中に死去。74歳没。
小島 徹三(こじま てつぞう、1899年9月29日 - 19… 小島 徹三(こじま てつぞう、1899年9月29日 - 1988年1月10日)は、弁護士、日本の政治家。法務大臣。帝国弁護士会理事、 第一東京弁護士会常議員。位階は正三位。 自由党衆議院議員(1946年から10期)。日本自由党では政務調査会理事、司法部部長、民主党では総務委員、政務調査会理事、議員運営部部会長を務めた。自民党では芦田均派→岸信介派→福田赳夫派に所属した。 兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)出身。造り酒屋の小島久右衛門の三男として生まれる。八鹿小、豊岡中、第一高等学校、東京帝国大学法学部仏法科卒業。 1922年(大正11年)、高等文官試験外交科及び行政科に合格。その後弁護士を開業。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に兵庫2区から初当選。
正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月… 正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月29日 - 1975年〈昭和50年〉12月6日)は、日本の弁護士。 第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に発生した八海事件の弁護を担当。同事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化された。 敬虔なキリスト教徒としても知られていた。 本名は旲(ひろし)であるが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いた。 1896年(明治29年)、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)林町に生まれる。
松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月2… 松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。妻コマは詩人丸山薫の妹。 1896年(明治29年)9月29日、熊本県菊池郡加茂川村大字菰入(現・七城町菰入)に生まれる。旧制熊本県立鹿本中学校を経て、1913年(大正2年)9月3日、海軍兵学校44期に100名中89番の成績で入学。同期に柳本柳作、西田正雄、朝倉豊次、黒島亀人らがいる。1916年(大正5年)12月11日、95名中14番の成績で卒業。少尉候補生となり装甲巡洋艦「常磐」に乗り組み、練習艦隊近海航海に出発し、1917年(大正6年)3月3日に帰着。
桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29… 桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29日 - 1962年〈昭和37年〉6月27日)は、日本の政治家。鹿児島県谷山市(現・鹿児島市の一部)初代市長(市制施行時の町長)。 鹿児島県谿山郡谷山村(のち鹿児島郡谷山村→谷山町→谷山市、現・鹿児島市)和田(のち和田町、現・和田)森山出身。鹿児島商業学校(現・鹿児島商業高等学校)を経て、日本大学を卒業する。東京府の職業補導所の助手となり、その後、渡米し、コロンビア大学で社会科学を学んだ。39歳で帰国し、理化学研究所に勤務し、理研朝鮮鎮南浦(現・南浦特別市)工場の総務部長となり、同地で終戦を迎えた。引き揚げ後は、米軍政部の経済技術員となり、理研の搾油機械の販売を行っていた。
三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治2… 三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治27年)9月29日 - 1947年(昭和22年)5月10日)は、明治・大正・昭和時代の歌舞伎役者。屋号は高島屋。本名は高橋 道之助(たかはし みちのすけ)。 東京新富町生まれ。初代市川左團次の次男。長男の二代目市川左團次の異母弟。1898年(明治31年)二代目市川ぼたんとして初舞台をふみ、1915年(大正4年)に三代目市川莚升を襲名した。実兄二代目市川左團次につき、脇役を務め、女形の義兄二代目市川松蔦と共に、二代目左團次の演劇革新運動を援けた。当たり役は「太功記」十段目の十次郎、「吃又」の修理之助など。 近年、書籍、インターネットなどで、二代目市川左團次を初代市川左團次の一人息子とし、三代目市川莚升を初代左團次の養子とする記録が多々散見されるが、高橋家の戸籍原簿に拠れば、これは全くの誤謬である。
三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1… 三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1979年7月14日)は、日本の経営者、銀行家。常陽銀行頭取を務めた。東京都出身。 1914年に東京高等商業学校を卒業。 川崎銀行での勤務を経て、後に常盤銀行(のちの常陽銀行)に転じ、1929年に取締役に就任し、1935年に常務、1948年に専務を経て、1948年10月に副頭取に就任し、1958年6月には頭取に昇格。1967年11月には会長に就任。 その他、茨城県商工会議所連合会会長、茨城県商工経済会会長、茨城文化団体連合会会長なども務めた。 1979年7月14日冠硬化症のために死去。87歳没。