小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 19… 小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 1992年)は、日本の水泳選手。 和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身。紀の川で泳いだ。近代水泳黎明期を代表する名選手として知られた。ロサンゼルスオリンピック、ベルリンオリンピックの競泳日本代表として活躍した。ベルリンでは400メートル自由形で6位入賞。この順位は、自由形女子としては千葉すずが後に並ぶまで日本選手団の最高位だった(のちにアテネオリンピックにて柴田亜衣が800メートル自由形で優勝したことで最高位を更新)。 日本選手権では女学校時代に200メートル自由形で7-9回大会まで3連覇、100メートル自由形でも7回大会に勝っている。同郷の前畑秀子と親交が厚かった。
高木秀玄(たかぎ しゅうげん、1916年10月30日 - 1… 高木秀玄(たかぎ しゅうげん、1916年10月30日 - 1987年7月12日)は、日本の統計学者。 富山県出身。関西大学経済学部卒、1959年「統計と推計の理論」で経済学博士。関西大学経済学部助教授、教授を経て関西大学経済政治研究所長、日本学術会議会員を歴任。87年定年、名誉教授。。
中村 伝三郎(なかむら でんざぶろう、1916年(大正5年)… 中村 伝三郎(なかむら でんざぶろう、1916年(大正5年)10月30日 - 1994年(平成6年)8月23日)は、日本の美術評論家。兵庫県出身。東京帝国大学卒。1947年国立博物館付属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)入所、美術部第二研究室長。彫塑史専門、91年『明治の彫塑』で毎日出版文化賞受賞。
安井 吉典(やすい よしのり、1915年(大正4年)10月3… 安井 吉典(やすい よしのり、1915年(大正4年)10月30日 - 2012年(平成24年)11月6日)は、日本の政治家(日本社会党)。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院副議長(第57代)、衆議院議員(11期)を歴任。 1915年(大正4年)、北海道東神楽村(現東神楽町)にて生まれる。1940年(昭和15年)に東北帝国大学法学部を卒業し、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社、秋田県の尾去沢鉱業所に勤務した。1944年(昭和19年)に吉田貞次郎衆議院議員(元上富良野村長)の娘の弥生と結婚。1945年(昭和20年)、父で東神楽村長代理助役だった安井吉太郎の死去を受け、翌1946年(昭和21年)に家業の農業を継ぐため退社。
森 昭(もり あきら、1915年10月30日 - 1976年… 森 昭(もり あきら、1915年10月30日 - 1976年12月17日)は、日本の教育学者、教育哲学者、文学博士、大阪大学教授。 大正4年(1915年)10月30日鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市)で生まれる。 鹿児島県立第一中学校 (旧制)および旧制第七高等学校造士館 (旧制)(理科乙から文科乙に転科)を経て京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院教育学専攻修了。京都学派第一世代である田邊元に哲学を師事し、西田幾多郎門下の木村素衛の下で大学院において教育学を修める。 森は京都学派第二世代でこの学派の教育学領域において傑出した業績を残した。ドイツ留学以前、カントやヘーゲル等のドイツ観念論哲学・ハイデッガーやヤスパース等のドイツ系の実存主義哲学を基礎に、戦後新教育の思想的背景となったジョン・デューイの経験主義教育哲学の解釈に努めた。
曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30… 曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30日 - 1992年(平成4年))は、元体操選手。 新潟県中頸城郡高士村上曽根(現・上越市)に生まれる。高田中学校から日本体育会体操学校に進み、1935年(昭和10年)に卒業する。翌年の1936年ベルリンオリンピックに出場した。 その後は、本郷中学校教諭、東京警視庁工場課嘱託を経て、1941年(昭和16年)郷里に戻り、高士村役場に勤務した。
富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月… 富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月30日 - 1987年7月15日)は、日本の小説家、詩人、版画家。多くの有名作家を輩出した『VIKING (同人誌)』の創刊同人であり、3度の芥川賞候補、直木賞候補となり、晩年は竹やぶに囲まれた自宅に引きこもって活動し、「竹林の隠者」と呼ばれた。毎日出版文化賞、大阪芸術賞、関西大賞大詩仙賞受賞。 徳島県三好郡山城谷村(現三好市)出身。両親はともに小学校の訓導をしていた。家族と神戸に転居し、神戸第三中学校卒業。 1931年旧制第三高等学校理科甲類に進学。志賀直哉を訪問したところ、竹内勝太郎を紹介されて師事する。1932年、野間宏(のちに富士の妹と結婚して義弟となる)や桑原静雄とともに、詩の同人誌『三人』を創刊。
加藤 吉郎(かとう よしろう、1913年10月30日 - 1… 加藤 吉郎(かとう よしろう、1913年10月30日 - 1985年3月23日)は、日本の実業家。南海電気鉄道の社長を務めた。岐阜県出身。 1944年、京都帝国大学法学部を卒業し、南海電気鉄道の前身である南海鉄道に入社。1964年に熊野交通に出向し、専務を務め、瀞八丁の観光船にジェット船を採用した。1966年に南海電鉄に戻り、自動車計画部長、取締役、常務、専務を歴任し、1975年12月から副社長を務め、社長の川勝傳を支えた。1983年6月に川勝傳の後任として社長に就任する。しかし体調不良で1985年1月に社長を辞任し、同年3月23日、すい臓がんのために大阪府堺市の自宅で死去。71歳没。なお社長は川勝傳が会長と兼任する形で一時的に社長を務め、1985年6月に吉村茂夫が社長に就任した。
野口 啓祐(のぐち けいすけ、1913年10月30日 - 1… 野口 啓祐(のぐち けいすけ、1913年10月30日 - 1975年4月27日)は、日本の英文学者。 早稲田大学英文専攻卒業、上智大学外国語学部英語学科教授を務めた。 カトリック作家のグレアム・グリーン、またマルティン・ブーバーなどユダヤ系の思想家を研究、翻訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
吉田 新吾(よしだ しんご、1912年10月30日 - 19… 吉田 新吾(よしだ しんご、1912年10月30日 - 1966年10月28日)は、日本の英文学者。 広島高等師範学校卒。旅順の中学校で英語教師を務めたのち、1942年京都帝国大学文学部英文科入学、46年卒業。64年「チョーサー研究」で京都大学文学博士。大阪市立大学文学部助教授、英文科主任教授。専門はチョーサー。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911… 老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911年(明治44年)10月30日 - 2001年(平成13年)3月24日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。富山県東礪波郡出町(現・砺波市)出身。1932年レークプラシッドオリンピック、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは日本選手団の旗手。日本初のフィギュアスケートのオリンピック代表選手の一人。 中学2年の時、大阪でスケートを始める。1930年(昭和5年)、第1回全日本選手権に最年少で出場し5位に入る。翌1931年、第2回全日本選手権では優勝する。1932年(昭和7年)には北米に遠征し、1932年レークプラシッドオリンピックで9位、世界選手権で7位となった。
梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年… 梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年(明治44年)10月30日 - 2003年(平成15年)6月23日)は、日本の元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士44期卒(歩兵)、陸大51期(恩賜)。最終階級は中佐、陸将。 山形県米沢市出身。梅沢力助少将(11期)の長男。東京府立第六中学校(3回生)より陸軍幼年学校(29期)に転じ、陸軍士官学校を卒業。原隊は近衛歩兵第1連隊。少尉任官後、第51代連隊旗手を拝命。幹部候補生専任教官や歩兵学校教官を経て、陸軍大学校卒業後は第6師団参謀として中支に出征。参謀本部部員、陸大教官、大本営参謀を経て、陸軍省人事局で終戦を迎える。 戦後は第一復員局総裁秘書官を経て、保安隊に入隊。
油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 199… 油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 1992年7月21日)は日本の実業家(美術商)。 長野県北佐久郡三井村香坂(現佐久市香坂)出身。小学校高等科卒業後に上京し、昭和6年(1931年)東亜美術協会の絵画出張販売員となる。同9年(1934年)共同出資により日東美術協会を創立するが、同12年(1937年)から14年(1939年)まで、日中戦争に従軍した。同16年(1941年)、上野広小路に美術店を開いたが、東京大空襲で焼失した。戦後は武者小路実篤の知遇を経て、その作品を扱った。同40年(1965年)「美術年鑑」の権利を創刊者の山田正道から買い取り、「美術年鑑社」として株式会社を設立し、代表取締役社長となった。
大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1… 大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1970年5月27日 )は、日本の作家。本名は小池忠雄(こいけ ただお)。 宮城県柴田郡船岡町(現在の柴田町)出身。仙台第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科甲類卒、東北帝国大学文学部中退。 東北初の直木賞作家。幕末や明治維新など、歴史に題材を求めた短編を多く残している。社会教育にも力を注ぎ、槻木公民館長、柴田町公民館長などを歴任。船岡中学校校歌の作詞も手掛けた。1939年、「兜首」「秋田口の兄弟」で、第8回直木三十五賞受賞。 1970年5月27日に死去。告別式は同月30日、柴田町立船岡小学校体育館で町の教育委員会葬として行われた。
鈴木 秀丸(すずき ひでまる、1907年10月30日 - 1… 鈴木 秀丸(すずき ひでまる、1907年10月30日 - 1984年11月24日)は、日本の元ラグビー選手。 世田谷学園中学から法政大学へと進学。法大では主将を務めた。 卒業後は富士箱根自動車(後の小田急箱根。現・箱根登山バス)に進む。1930年のカナダ戦で日本代表初キャップを獲得。法大初の日本代表選手である。 1949年に法大ラグビー部監督に就任。1964年度の第1回全国大学ラグビー選手権大会で法大を優勝に導いた。
伊藤 俊夫(いとう としお、1907年10月30日 - 19… 伊藤 俊夫(いとう としお、1907年10月30日 - 1998年5月25日)は、日本の農業経済学者。北海道大学名誉教授。元日本学術会議会員。北海道文化賞受賞。 1907年、北海道札幌市で生まれた。1925年、高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1928年、北海道帝国大学予科修了し、北海道帝国大学農学部農業経済学科に進んだ。1931年に卒業した後、同大学大学院へ進学。1936年に修了し、同大学助手に採用された。1941年、京城帝国大学法文学部助教授に就任。 戦後帰国し、1946年より帯広獣医畜産専門学校教授。翌1947年、北海道帝国大学法文学部助教授となった。1948年、北海道大学に学位論文を提出して農学博士。
中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月3… 中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月30日 - 昭和60年(1985年)5月1日)は日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 妻は日本初の女性弁護士で、鳥取県弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを歴任した中田正子。 鳥取県八頭郡若桜町根安出身。竹次郎の長男。 1933年京都帝国大学農学部農林経済学科卒。1938年東亜研究所勤務、1945年若桜町農業会専務理事(以降農業関係の役職を歴任)、1947年4月鳥取県議会議員当選、1947年5月鳥取県議会議長。 1950年6月参議院議員(第2、3、5回通常選挙当選)、1954年参議院地方行政委員長、1955年日本社会党参議院副会長(1959年6月の第5回通常選挙では39票差で当選。
須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月… 須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月30日 - 1982年(昭和57年)10月18日)は、日本の教育者・児童文学者。 教員、編集者を経て山形新聞社論説委員兼文化部長を歴任。また山形県芸術文化会議会長、山形県県民芸術祭運営委員長などを務め、戦後の同県における教育文化活動の主軸を担った。さらに無着成恭を見いだした。 山形県宮内町(現:南陽市)出身。郵便局員でホトトギス派の俳人である流陰と号した父・多蔵と母・ていの三男として生まれる。幼いころから読書家として過ごす。1923年(大正12年)に山形県師範学校に入学すると文芸部委員になり、校友会雑誌『真琴』で短歌や文章を発表した。卒業後、宮内小学校訓導に就くが自身の力量不足を実感し、より一層学問を修めようと決意。
榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 -… 榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 - 1979年7月6日)は、日本文学研究者。 愛知県生まれ。1931年早稲田大学文学部国文科卒。日本俳優学校講師、1936年大阪に移住、中学校教員となる。戦後、愛知学芸大学教授、帝塚山大学教授。1977年定年退任、名誉教授となる。近藤忠義、石山徹郎、野坂昭如と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鈴木 知太郎(すずき ともたろう、1905年10月30日 -… 鈴木 知太郎(すずき ともたろう、1905年10月30日 - 1977年12月5日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1960年)。日本大学名誉教授。 愛知県渥美郡高松村(現・田原市)出身。1930年(昭和5年)、日本大学国文科卒業。1939年(昭和14年)成城高等学校教授、1943年(昭和18年)日本大学助教授を経て、1949年(昭和24年)日本大学教授に就任。1960年(昭和35年)、論文「土佐日記の研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)までは日本大学櫻丘高等学校校長を兼任。 1976年(昭和51年)、日本大学教授を定年で退職した。
吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没… 吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[4][5][6][7][8][9]。本名石井 清一(いしい せいいち)、旧芸名市川 喜有利(いちかわ きうり)。松竹蒲田撮影所が1920年代に推進した「短篇喜劇」の主演俳優として知られる。
渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 19… 渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 1984年4月2日)は日本の病理医、医学者。登山家。広島大学病理学第二講座初代教授、第4代医学部長。広島大学原爆放射能医学研究所初代所長。広島大学名誉教授。「雪山讃歌」作詞者の一人。東京都出身。 1921年(大正10年)静岡県立静岡中学校卒業。1922年(大正11年)第三高等学校 (旧制)入学。浪人中に西堀栄三郎と知り合い、揃って合格したところに今西錦司が落ちてきて、三人一緒になり、のちに高橋健治、桑原武夫、四手井綱彦らが加わり三高山岳部(のちの京都大学山岳部)が出発した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学医学部進学、東大ではスキー部に所属。
新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年… 新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年〉10月30日 – 1984年〈昭和59年〉12月16日)は、日本の政治家、官僚。郵政大臣、運輸大臣を歴任。 新谷寅蔵の三男として、奈良県高市郡八木町(現・橿原市)で誕生。畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)4年修了、1922年3月第一高等学校文科甲類、1925年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 逓信省に入省。灯台局長、海務院総務局長を経て、運輸通信省海運局長時代に東條英機首相から木造船の増産を命じられるも、「船釘を作る鉄が不足? 隠匿物資を探して来い」式のむちゃな指示にたまりかね辞職する。 戦後の1945年、同期入省の松前重義の要請により、逓信院次長となる(総裁は松前)。
中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10… 中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月22日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第21代全国銀行協会会長。 長野県東筑摩郡朝日村に中村愛治の長男として生まれる。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年日本勧業銀行入行。 1955年監査役に就任。常務、副頭取を経て、1961年に頭取に就任する。 頭取時代は、特殊銀行から普通銀行に転換する多難な時期にあたり、積極的な経営を展開、特に預金の吸収に力を入れて業績を伸ばし、「預金の神様」と言われた。また、金融界に対しては利子課税、融資ルールなどの問題に対処して功績があった。
友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10… 友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10月30日 - 1937年(昭和12年)10月6日)は、日本の新劇俳優。本名は伴田五郎。 1899年(明治32年)、東京市日本橋区(現 : 東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学校へと進んだ。中学生の頃に土方与志と知り合い、伯母の住む神奈川県茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。1917年(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡の指導を受けて、1919年(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。
竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1… 竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1978年7月3日)は、日本の経営者。三重県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に三井倉庫に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年5月に常務、1959年11月に専務、1965年5月に副社長を経て、1968年5月に社長に就任。1972年5月には会長に就任。 1978年7月3日心筋梗塞のために死去。78歳没。
臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月3… 臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月30日 - 1941年(昭和16年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)に臼井恕助の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1928年(昭和3年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、ポーランド・ソビエト連邦駐在、ポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官、参謀本部員、参謀本部付などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進。
中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 198… 中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 1986年3月21日)は、日本の医師、医史学者、陸軍軍医。 京都府出身、京都府立医専卒。 1938年杏林温古会を設立、大阪赤十字病院に勤務後、周防町、阿倍野晴明通で開業した。戦後に大阪で開業した。 『増補医事年表』を編纂し、機関誌『医譚』を発行するなど、大阪の医学史研究につとめた。 中野は、1552年(天文21年)の『黄素妙論』や室町時代に遡る医学書、日本最古のオランダ文法書で蘭方医新宮涼庭(1787年 - 1854年)が写した1733年の『セウユリルスフラーカコンスト』、江戸時代大阪の医事年表など、日本医史学の比類ない歴史資料を蔵書しており、これらは2012年に13,461点が一括で大阪市の指定有形文化財となった。
川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)1… 川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)10月30日 - 1964年(昭和39年)11月14日)は、大正から昭和時代の政治家。公選初代北海道花咲郡歯舞村長。 北海道花咲郡珸瑤瑁村(現・根室市)に生まれる。高等尋常小学校を卒業後、昆布採取業、カニ漁業に従事する。1947年(昭和22年)歯舞村長選挙に民主党から出馬し、日本社会党の佐野信に圧倒的な大差をつけ当選した。その後、3期連続当選した。 3期目は、根室市への合併反対を貫いたものの村議会の反発にあい、1957年(昭和32年)10月の選挙で合併賛成派の竹村幸太郎に敗れ落選した。その後、1961年(昭和36年)根室市議会議員選挙に当選し、厚生常任委員長、総務常任委員などを務めた。
関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 … 関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 - 1981年7月21日)は、日本の造園家。造園研究者、林学者。名古屋市生まれ。 1925年(大正14年)、京都帝国大学農学部林学科に助教授として赴任。日本で初めて造園学を名乗る講座が誕生する。戦後も京都大学農学部林学科で造園研究室を主宰。多くの人材を育成した。 1955年以降は本務の京都大学のほか、西京大学時代の京都府立大学や農科大学時代の島根大学農学部、高知大学農学部など、他大学でも講義を行っている。 第八高等学校を経て東京帝国大学林学科に入学。1912年4月 東京帝国大学農学部林学科卒業。1924年東京帝国大学農学部講師となる。1923年4月京都帝国大学農学部助教授。
石丸 敬次(いしまる けいじ、1896年〈明治29年〉10月… 石丸 敬次(いしまる けいじ、1896年〈明治29年〉10月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月27日)は、日本の内務官僚、国会職員。官選第34代富山県知事。 福岡県出身。1916年3月、小倉師範学校本科第一部を卒業し、福岡県遠賀郡内平小学校訓導、小倉師範学校訓導、東京市小石川高等小学校訓導を歴任。1925年3月、日本大学法文学部政治学科英語部を卒業。愛媛県吉田町立吉田中学校教諭となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1926年、内務省に入省し長崎県属となる。 以後、長崎県学務部社会課長、沖縄県課長、長野県農商課長、大阪府地方課長、同議事課長、文部省普通学務局庶務課長、同国民教育局中等教育課長、岐阜県経済部長、宮崎県警察部長、同内政部長、内閣参事官などを経て、東北地方行政事務局長となる。
原 淳一郎(はら じゅんいちろう、1894年〈明治27年〉1… 原 淳一郎(はら じゅんいちろう、1894年〈明治27年〉10月30日 - 1975年〈昭和50年〉6月2日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(2期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県安芸郡田野村(現田野町)で生まれた。1919年明治大学法律科卒。弁護士となる。兵庫県議、同参事会員、神戸市議、同参事会員、神戸弁護士会副会長となる。高知電気工業、国策化学工業、神戸機械工作所各(株)取締役、(株)播磨造船所監査役、神陽汽船、大陸鉱業、秋岺鉱業、三陽工業、三陽精機、太平金属各(株)社長、ラジオ高知初代社長、高知放送取締役となる。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選。
小松原 久治(こまつばら きゅうじ、1892年(明治25年)… 小松原 久治(こまつばら きゅうじ、1892年(明治25年)10月30日 - 1967年(昭和42年)1月17日)は、日本の元造幣局研究所所長、工学博士。
赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 … 赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 - 1953年4月6日)は大正時代から昭和時代初期に活動した日本の社会学者、経済学者、教育者。良譲は僧名で旧名は外蔵、別名崇弘。戦後は教蔵院住職も務めた。 新潟県三島郡寺泊町(現 長岡市)に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文学部社会学科、1923年(昭和12年)に法学部政治学科を卒業。同大助手を経て1922年(大正11年)5月に明治大学教授となった。 1934年(昭和9年)、北陸日日新聞(現北日本新聞)に主筆として迎えられ、新聞統制で他の3紙と統合となる1940年(昭和15年)まで在職した。 ソビエト連邦の政治やマルクス経済学の研究を進めていたが、第二次世界大戦以前は国家主義者としても活動。
田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月3… 田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30… 木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30日 - 1969年〈昭和44年〉2月12日)は、日本の政治家、内務・外務官僚・外交官。京都府知事を務めた。 1891年10月、宮城県で平民・木村精造の長男として生まれる。旧制第二高等学校を経て、1915年に京都帝国大学法科大学政治科を卒業。 1914年に高等文官試験に合格し、1915年に内務省に入省。東京府内務部農商課長を務めたのち、外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、外務省に転じ、欧米局第一課事務官、在アメリカ合衆国大使館三等書記官・二等書記官、亜細亜局事務官、文化事業部事務官、文化事業部第一課長、第二課長、文化事業部文部書記官、シカゴ領事、マニラ総領事、在ポーランド公使館一等書記官、在ポーランド大使館一等書記官、フィリピン協会常務理事を務めた。
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10… 小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。 17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。
森 律子(もり りつこ、1890年10月30日 - 1961… 森 律子(もり りつこ、1890年10月30日 - 1961年7月22日)は、日本の女優。最初期の女優として、また元代議士を父に持つお嬢様女優として話題を集め、喜劇を得意とした。 東京府東京市京橋区日吉町(現・東京都中央区銀座8丁目)生まれ。父は愛媛県松山出身の弁護士・衆議院議員の森肇(1864年-1927年)。肇は長髪がトレードマークの熱血漢であると同時に、癇癪を起こすと自宅で銃や日本刀を振り回すような暴君でもあり法曹界の名物男として有名だった。 跡見女学校卒業後、築地のサンマース、女子語学校専科で英語を学ぶ。1908年川上貞奴の帝国女優養成所に入り、帝劇女優第一期生となる。当時、芸人は卑しい職業とされていたため、跡見女学校の同窓会から除名されたとの説を福田和也らが書いているが、実際にはその後も同窓会に出席している。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月… 佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。
須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日… 須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1898年(明治31年)9月、士官候補生(12期)として陸軍に入る。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 佐賀連隊区司令官、歩兵第55連隊長、第16師団参謀長等を経て、1927年(昭和2年)3月、陸軍少将に進む。同年7月、歩兵第3旅団長に就任し、1928年(昭和3年)8月、予備役に編入された。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月… 藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 - 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。
下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)1… 下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)10月30日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の実業家。大阪府平民。 大阪府下・下河辺俊斎二男。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組の小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業が日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。 戦後、公職追放となった。
南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - … 南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - 1975年10月2日)は、日本の実業家。 兵庫県灘(現・神戸市)に生まれる。父は元加賀藩士の南郷茂光、兄に講道館2代館長の南郷次郎、弟に画家の九里四郎がいる。 1900年(明治33年)、高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。高商在学中は柔道部を創設するなどスポーツ面でも活動した。卒業同年に日本綿花(現・双日)に入社。1932年(昭和7年)に日本綿花社長に就任する。その後、尼崎土地をはじめ複数の企業で社長を歴任した。団体役員としては、日中輸出入協会理事長、日本貿易振興会会長、貿易統制会長、財団法人日本貿易振興協会副会長などを務めた。 1918年(大正7年)にアキレス腱断裂の怪我を負い、そのリハビリとしてゴルフを始める。
北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日… 北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日 - 1940年(昭和15年)8月31日)は、日本の衛生学者。医学博士。 石川県石川郡旭村(現在の白山市)出身。1897年(明治30年)、第四高等学校医学部を卒業し、一年志願兵として入隊。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学衛生学選科に入学した。1900年(明治33年)、陸軍三等軍医となり、翌年に東京帝国大学医科大学助手となった。1902年(明治35年)、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学で衛生学・細菌学を学んだ。1904年(明治37年)に帰国後、日露戦争に召集され、陸軍二等軍医に昇進した。1906年(明治39年)、大阪市技師となり衛生試験所長に就任した。
上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 … 上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 - 1916年(大正5年)7月9日)は、日本の英文学者・詩人・翻訳家。学位は、文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。 外国文学、とくに西欧の象徴詩の紹介と翻訳を精力的に行った。名訳詩集『海潮音』(1905年)は、日本の詩壇を覚醒させ、「パンの会」結成などに影響を与えた。作品に訳詩集『牧羊神』(1920年)など。 1905年(明治38年)に本郷書院で刊行された訳詩集『海潮音』で知られ、日本にベルギー文学や南仏プロヴァンス文学、象徴派や高踏派の詩を紹介した。 『海潮音』に収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』より「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。
佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年1… 佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年10月30日) - 昭和25年(1950年)3月4日)は、日本の医学者。府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)学長。 鹿児島県出身。佐多直隆の四男として生まれる。鹿児島医学校を経て、1890年(明治23年)に帝国大学(現・東京大学)選科を卒業。同大学助手、市立富山病院医員を務めた後、1894年(明治27年)に府立大阪医学校教諭となった。1897年(明治30年)よりドイツに留学し、1900年(明治33年)に帰国。帰国とともに医学博士の学位を得た。 1902年(明治35年)、府立大阪医学校校長・同病院長に就任し、医学校が大阪医科大学に改組されると引き続き学長を務めた。
石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治… 石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治2年9月26日)- 1950年(昭和25年)7月8日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。福岡県若松市長。旧姓・山崎。 肥前国杵島郡武雄村下西山(現佐賀県武雄市)で山崎又七の三男として生まれる。1884年6月、武雄中学校を卒業して九州鉄道に入社。1887年11月、石井宗直の婿養子となり石井に改姓。 九州鉄道では福岡、博多、小倉、門司の各駅長、門司運輸事務所長、本社調査係長などを務め、1907年7月、鉄道国有化後に帝国鉄道庁参事となる。1910年9月、植村俊平大阪市長に迎えられ大阪市主事となり、さらに大阪市電気鉄道部長を務めた。 1914年から1922年まで福岡県若松市長を務め、この間、武雄に株式会社蓬莱銀行を設立して頭取となった。
後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文… 後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文久3年9月18日) - 1913年(大正2年)12月4日)は、明治時代、日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた。 1863年(文久3年)、土佐藩士(上士・馬廻格)後藤象二郎の二男として、高知城下に生まれる。母は寺田剛正(左右馬)の二女(磯子)。象二郎の長男の後藤貞馬が夭逝した為、猛太郎は、事実上の長男として育てられた。 1870年(明治3年)、8歳より外国人宅に出入りして外国語を学ぶ。オランダへ留学するが、放蕩して多額の借金を負ったことなどから、1888年(明治21年)6月、父・象二郎から廃嫡・分籍を受け、佐藤の姓を名乗らされた。
須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈… 須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈文久3年9月18日〉- 1937年〈昭和12年〉4月10日)は、明治から昭和初期の畜産家、実業家、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡本荘町長。幼名・広太郎。雅号・寿堂、松園。生涯、馬産改良に尽力した。 出羽国由利郡本荘中町(秋田県由利郡本荘町、本荘市を経て現由利本荘市中町)で、大地主・須藤善太郎、ナオの長男として生まれた。長安寺の寺子屋、本荘藩藩校を経て、1877年(明治10年)小学校を卒業した。以後、自宅に招いた教師から歴史、漢学、英語を修めた。1879年(明治12年)9月、父が死去して家督を相続し善一郎に改名した。1880年(明治13年)ころに同志を募って夜学講習会を立上げ会長に就任した。
持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30… 持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日)- 1931年(昭和6年)2月28日)は、明治から昭和初期の神職・政治家・実業家。衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した。 下野国都賀郡高椅村(栃木県下都賀郡絹村字高椅、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め、栃木県中教院を終えて上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ。 1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた。