石垣 守一(いしがき もりいち、1928年4月8日 - 没年… 石垣 守一(いしがき もりいち、1928年4月8日 - 没年不明)は、日本の俳優。北海道和寒町出身。本名は中塩 幸雄。 1935年、和寒町立和寒小学校に入学し、6年生時に歌志内市に転居。 1951年、東洋大学経済学部経済科に入学。大学在学中から演劇サークルで活動しながら演劇学校で演技を学ぶ。大学卒業後の1956年4月、劇団手織座に入団。1962年12月、『どん底』のクレーシチ役で劇団演技賞を受賞した。 劇団では総務と制作を担当し幹部俳優として活躍した。
山口 孝(やまぐち たかし、1927年4月8日 - )は、日… 山口 孝(やまぐち たかし、1927年4月8日 - )は、日本の会計学者、明治大学名誉教授、学校法人東京家政学院理事長、公益財団法人政治経済研究所理事長。専門は、会計学、経営分析論、会計監査論。 愛知県生まれ。明治大学大学院(旧制)商学研究科に学び、愛知県立松蔭高等学校教諭を経て、1952年、明治大学商学部助手補。1956年に専任講師、1959年に助教授、1965年に教授へと昇任。その後、商学部産業経営学科長、学生部長、学務常勤理事などを歴任した。 2008年6月、利谷信義の後任者として、学校法人東京家政学院(東京家政学院大学、筑波学院大学、東京家政学院中学校・高等学校などを経営)理事長に就任した。
日下 喜一(くさか きいち、1926年4月8日 - )は、日… 日下 喜一(くさか きいち、1926年4月8日 - )は、日本の政治学者。青山学院大学名誉教授。 北海道出身。早稲田大学卒業。東京都立大学大学院社会科学研究科政治学科博士課程修了、法学博士。拓殖大学助教授、青山学院大学法学部助教授、教授。94年定年退職、名誉教授、関東学院大学教授。2000年退職。
戸部 新十郎(とべ しんじゅうろう、1926年(大正15年)… 戸部 新十郎(とべ しんじゅうろう、1926年(大正15年)4月8日 - 2003年(平成15年)8月13日)は、日本の小説家。 石川県七尾市生まれ。祖先は戦国時代に今川義元に属した尾張笠寺城主の戸部新左衛門政直である。この「戸部新左衛門」という名は、尼子騒兵衛の漫画「落第忍者乱太郎」の登場人物「戸部新左ヱ門」(忍術学園の教師)の由来になっている。また、「新十郎」という名は戸部新左衛門政直の息子の名であり、戸部の父が祖先の名にあやかって命名したそうである。スポーツライターの戸部良也は弟。 金沢一中(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業、早稲田大学政治経済学部中退。北国新聞社記者を経て、作家となる。クラブ雑誌に多岐流太郎の筆名で時代小説を書きはじめていたが、昭和四十年代に入ると長谷川伸創始の「新鷹会」の同人となり、筆名を本名の「戸部新十郎」に改めた。
青木 薪次(あおき しんじ、1926年4月8日 - 2015… 青木 薪次(あおき しんじ、1926年4月8日 - 2015年11月6日)は、日本の政治家。愛称はシンちゃん。 参議院議員(4期)、参議院建設委員長、参議院逓信委員長、日本社会党参議院議員会長、労働大臣(第60代)。 静岡県庵原郡庵原村(のちの静岡県静岡市清水区)出身。東海大学科学技術専門学校を中退。国鉄労働組合を経て、1974年7月の第10回参議院議員通常選挙にて日本社会党から立候補する。静岡県選挙区で初当選を果たし、以後、連続4回当選。 1994年6月、自社さ連立政権の村山内閣において、日本社会党参議院議員会長の浜本万三が労働大臣に就任したため、その後任として日本社会党参議院議員会長に就任した。
宮間 満寿雄(みやま ますお、1924年〈大正13年〉4月8… 宮間 満寿雄(みやま ますお、1924年〈大正13年〉4月8日 - 1994年〈平成6年〉5月15日)は、日本の政治家、千葉県松戸市長(6期)。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 千葉県出身。旧制千葉県立東葛飾中学校(現千葉県立東葛飾中学校・高等学校)卒。卒業後は松戸市雇となる。その後書記、教育、建設、企画調査、企画財政の各課長を歴任し、松戸市長松本清の下で助役に就任する。 1973年、松戸市長松本清が死去し、松本の後継者として松戸市長選挙に立候補し、初当選する。市長を6期務め、在任中は「計画行政」を推進した。6期目途中の1994年に死去した。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。
中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日 - 194… 中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日 - 1945年1月29日)は長崎県出身のプロ野球選手。
竹松 哲夫(たけまつ てつお、1921年4月8日 - 200… 竹松 哲夫(たけまつ てつお、1921年4月8日 - 2006年1月17日)は日本の農芸化学者。専門は農薬化学。宇都宮大学名誉教授。 長野県上伊那郡富県村(現伊那市)生まれ。旧制上伊那農業学校を経て宇都宮高等農林学校卒業。1942年応召、1946年復員。1947年宇都宮高等農林学校講師、1951年宇都宮大学助手、1964年助教授、1967年教授。1968年宇都宮大学雑草防除研究施設長を併任。1985年東京農工大学連合大学院教授を兼任。 除草剤の土壌中における処理層理論を世界で初めて発表し、除草剤開発の基礎を構築した。またPCP処理法、カヤツリクサ科高度選択除草剤、ウリベスト除草剤などを発明し、イネ科属間選択性DCPAの発見など、雑草防除研究の発展に貢献した。
今福 将雄(、1921年〈大正10年〉4月8日 - 2015… 今福 将雄(、1921年〈大正10年〉4月8日 - 2015年〈平成27年〉5月27日)は、日本の俳優。本名及び旧芸名は今福 正雄(読み同じ)。 福岡県飯塚市出身。旧制福岡県立嘉穂中学校(現福岡県立嘉穂高等学校)卒業。文学座映画放送部に所属していた。 1940年に旧制中学校を卒業し、九州飛行機の技師となる。 終戦直後、たまたま闇市で知り合いになった人にラジオドラマの効果音の手伝いを頼まれ、1946年NHK福岡放送劇団に入る。 ラジオドラマ『コメロンの貧乏神』で踏み切りの番人をしている老人役を演じ、テレビドラマへも進出。 1965年に第5回日本放送作家協会男性演技賞を受賞した。 1966年に福岡放送劇団の廃止を受け、文学座に研究生として入る。
池辺 陽(いけべ きよし、1920年4月8日 - 1979年… 池辺 陽(いけべ きよし、1920年4月8日 - 1979年2月10日)は、日本の建築家。長く東京大学教授として、工業化という方向から建築をとらえた作品を残した。 戦後すぐの日本における住宅問題に対し「立体最小限住宅(1950年)」と呼ばれる住宅を発表し、同じ50年代に発表された増沢洵の「最小限住宅」、清家清「森邸(1951年)」、広瀬鎌二「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案した。工学博士。東京都出身。 1920年釜山(現・大韓民国釜山広域市)生まれ。父は内務省の官僚。 東京豊島師範小学校、東京高等学校を経て、1942年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、同大学大学院に進学する。
鄭 喜沢(チョン・ヒテク、朝鮮語: 정희택/鄭喜澤、1919… 鄭 喜沢(チョン・ヒテク、朝鮮語: 정희택/鄭喜澤、1919年4月8日 - 2000年2月10日)は、大韓民国の政治家、検察官、弁護士。第11代韓国国会議員、第10代監査院長。 本貫は延日鄭氏(朝鮮語版)。資産家の鄭雲漢は父、第4代国会議員の鄭南沢は兄、1950年の第2代総選挙に出馬した実業家の鄭春沢も兄弟である。 日本統治時代の慶尚北道高霊郡高霊面出身。1942年に中央大学法学部卒、米国コロンビア大学にて国際法修学、日本高等文官試験司法科合格。1946年以降は司法部監察官、ソウル地方検察庁検事・部長検事、大邱地方検察庁次長検事、釜山地方検察庁次長検事、大邱高等検察庁次長検事、ソウル高等検察庁次長検事、大検察庁(朝鮮語版)検事、中央捜査局長、連合情報委員会議長、統一主体国民会議運営委員(1972年〜1980年)、第5共和国憲法改正審議委員会委員、国家保衛立法会議法制司法委員長、民主正義党結党発起人、第11代国会議員、第10代監査院長(1982年9月21日〜1984年4月7日)、放送委員会委員長(1984年〜1986年)、言論仲裁委員会委員長(1986年〜1993年)を歴任した。
池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 199… 池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 1997年1月6日 )は、日本の経営者。日本旅行社長を務めた。 岡山県出身。旧制矢掛中学(現:岡山県立矢掛高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に高文行政科に合格。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1966年9月に日本旅行専務に就任し、1977年1月には社長に昇格した。1984年5月に取締役相談役を経て、1988年4月から顧問を務めた。 1997年1月6日脳梗塞で死去。78歳没。
浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 198… 浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 1987年2月1日)は、愛知県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 愛知一中時代は陸上選手として活躍。卒業後はアマチュア野球の大連実業団でプレーし、愛知県警を経て1936年に名古屋軍へ入団。秋季リーグ途中に大東京軍へ移籍し、翌年は4番打者として活躍した。途中、満州化学工業へ移籍するが、のち朝日軍(大東京から名称変更)でプロに復帰。1943年途中で応召された。戦後の1946年7月に外地から引き上げ社会人野球の強豪チーム熊谷組で選手兼任監督に就任し、2年連続で都市対抗野球にも出場した。1952年に35歳という年齢で東急フライヤーズでプロに復帰し、5番打者として活躍。
森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 -… 森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 - 1998年(平成10年)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家(懐メロ解説)。愛知県出身。弟にアニメーション評論で知られる映画評論家の森卓也。 幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。
山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日… 山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、広島県広島市出身の実業家。 マツダ5代目社長。元広島商工会議所会頭。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)創設者、初代監督。 広島県安芸郡仁保島村大河(現・広島市南区北大河町)生まれ。生家は広島の旧家、父も技術者。 広島高等師範学校附属小学校(現広島大学附属小学校)5年生からサッカーを始め、広島県立第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)でもサッカー部に所属する。二浪した後、広島高等工業学校機械工学科(現広島大学工学部)に入学。 1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。
岩野 見斉(いわの けんせい、1911年(明治44年)4月8… 岩野 見斉(いわの けんせい、1911年(明治44年)4月8日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、第13代四日市市長。三重県員弁郡(現:いなべ市)出身。 1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学法学部卒業。戦前は旧満州国官吏として勤務。戦後に東海財務局津財務部に奉職。1949年(昭和24年)以降、四日市市役所商工課長、庶務課長、秘書課長、総務部長、水道局長を歴任。 1964年(昭和39年)に市長平田佐矩から四日市市助役に任命され、次代の九鬼喜久男の元でも助役を務めた。1972年(昭和47年)に四日市市長選挙に無所属で立候補し、日本社会党の前川辰男候補と日本共産党の稲垣重郎候補と安藤素滋(無所属)候補との保守革新の3分裂の選挙となった末、当選する。
マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 19… マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 1932年6月7日)は、日本の俳優である。本名は林 喜一郎()、マキノ家の人間ではない。当初は片岡 十六()を芸名とし、マキノ 十六()、嵐寛寿郎プロダクションでは片岡 市太郎()と名乗った。 1910年(明治43年)4月8日、京都市に生まれる。下京区中立売通猪熊通下ルの京都市立聚楽小学校(1997年に西陣中央小学校に統合されて廃校)を卒業、旧制東山中学校に在学、天然色活動写真を経て、1923年(大正12年)に牧野省三のマキノ映画製作所に入社した。まだ13歳のときであった。 「マキノ・プロダクション」設立後の1926年(大正15年)には、井上金太郎のオリジナル脚本による監督作『喧嘩日記』で、主演のマキノ正唯(のちのマキノ正博)の友人役を、「片岡十六」名義で、滝沢憲(のちの映画監督滝沢英輔)や玉木潤一郎(のちの映画プロデューサー)とともに演じている。
信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - … 信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - 1992年10月10日)は、日本の政治学者・歴史学者。日本政治学会理事長。名古屋大学名誉教授。 外交官で国際法学者の信夫淳平の三男として、父の任地である韓国の仁川で生まれる。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞社代表取締役専務)は兄。1934年、九州帝国大学を卒業し、マルクス主義的な立場から在野で日本近代史の研究を行う。唯物論研究会に所属し、1938年には治安維持法違反容疑で、特別高等警察に逮捕されたこともある。 1943年9月に出版した『ラッフルズ――イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』(日本評論社)は、発売一週間で内務省により敵国のイギリスを褒めているという理由で発売禁止の処分を受けた。
伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004… 伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004年10月31日)は、日本近代文学研究者。 東京生まれ。1933年東京帝国大学文学部国文科卒。36年同大学院修了(旧制)。島根大学法文学部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授、鶴見大学女子短期大学部教授。主として俳句を研究した。
大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 … 大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 - 1959年(昭和34年)1月12日)は、日本の政治家である。
入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4… 入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4月8日 - 1999年(平成11年)6月8日)は、日本の日本経済史学者、早稲田大学名誉教授。 早大卒、早大商学部教授を1978年まで務め、徳川時代の経済史、および幕末土佐藩史を研究した。兄は坂本龍馬の銅像を建てた入交好保。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月… 山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月8日 - 1980年(昭和55年)2月10日)は、満州国で活動した日本人の翻訳家・文芸評論家。主な筆名は大内隆雄(おおうち たかお)。その他の筆名には矢間恒耀、徐晃陽、大藤巍がある。 1925年、長春商業学校を卒業すると、20人に1人という満鉄派遣留学生試験に首席で合格し上海の東亜同文書院に入学、4年間学業は常に首位だったという。 東亜同文書院の教育の特徴であった学生による中国調査旅行では、森本辰治、日高清磨瑳、中崎一之とともに「華南、滇越南沿線経済調査班」として1928年5月29日から7月25日にかけて上海、汕頭、廈門、香港、広東、仏印、雲南、台湾を巡っている。
前田 義雄(まえだ よしお、1906年(明治39年)4月8日… 前田 義雄(まえだ よしお、1906年(明治39年)4月8日 - 1996年(平成8年)11月30日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、岐阜県議会議員。 岐阜県大野郡清見村大字大原(現高山市清見町大原)で生まれる。1928年(昭和3年)日本大学法文学部法科を卒業した。 特定郵便局飛騨大原郵便局長、岐阜県議会議員、同副議長、岐阜県労働委員会委員、岐阜県山林協会理事、高山建設業協会長などを務めた。 1960年(昭和35年)11月の第29回衆議院議員総選挙で岐阜県第2区で自由民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、自民党全国組織委員会社会保障部長、同岐阜県支部連合会幹事長などを務めた。
倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982… 倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982年4月6日)は、昭和時代の日本の外交官。 鳥取県出身。東京帝国大学法学部在学中の1928年(昭和3年)、外交官試験に合格。翌年外務省入省。米国、中華民国、興亜院、本省政務局勤務などを経て、1942年(昭和17年)11月、中華民国駐在大使館の1等書記官で赴任。1945年(昭和20年)2月、大臣官房会計課長。同年8月より終戦連絡中央事務局第4部長・名古屋事務局長等を務めた後、1948年(昭和23年)1月より本省管理局長として引揚げ推進のためGHQなどとの折衝に尽力した。 アジア局の復活に伴い1951年(昭和26年)12月、同局長。1953年(昭和28年)11月、特命全権公使に任命され、同年12月より日本・インドネシア国交樹立、賠償、その他懸案事項の処理交渉を行う。
中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日… 中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日 - 1932年(昭和7年)9月24日)は、日本の天文学者、京都帝国大学天文台の職員。滋賀県出身。 1904年(明治37年)4月8日、滋賀県滋賀郡真野村(現大津市真野)に生まれる。父は真野村長などを勤めた中村与、6人兄弟の次男として誕生した。1910年(明治43年)4月、真野小学校に入学し、1916年(大正5年)3月同校を卒業、同年4月同志社中学に入学した。1920年(大正9年)に京都帝国大学理学部教授山本一清により天文同好会(略称・OAA)が発会すると、同会同志社支部に入会した。1921年(大正10年)同志社中学卒業後、第三高等学校を受験するが、天体観測に身を入れ過ぎて失敗。
永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985… 永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985年2月7日)は、日本の作家、英文学者。熊本女子大学(現・熊本県立大学)名誉教授。熊本県玉名郡出身。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部を卒業した。在学中、上林暁らと同人誌『風車』を創刊して創作活動をおこなった。 1930年、伊藤整・辻野久憲とともにジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を初めて邦訳する。三好達治・北川冬彦の『詩・現実』に連載し、単行本として刊行する。このほか『ダブリンの人々』『万有引力』『ロレンス芸術論』などを出版した。 1937年強烈な神経衰弱に陥り、熊本県へ帰郷する。1940年、母の死をきっかけに英語教師として働く。
都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日… 都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日 - 没年不詳)は、大韓民国の植物学者、薬学者。北朝鮮の政治家。第2期最高人民会議代議員。本貫は星州都氏。妻は画家の鄭燦英。 本籍はソウル市東大門区回基洞。 咸鏡南道出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部薬学科卒。1945年11月から1946年10月まで初代朝鮮生物学会(現・韓国生物科学協会)会長を務め、1946年から1949年まで初代朝鮮薬学会(現・大韓薬学会)会長を務めた。朝鮮戦争中の1950年9月26日午前ごろ、大学へ出勤後に行方不明になった。北朝鮮側の関係者2名によって拉致されたと見られる。以後平壌医科大学の教授、第2期最高人民会議代議員を務めた痕跡がある。
横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年… 横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年(平成4年)5月10日)は、日本の実業家。朝日新聞社で経理部門を歩み、代表取締役ののち、日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)第5代社長を務めた。三重県出身。 旧制第二高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、東京朝日新聞社入社。 会計、経理各部長、業務局次長、総務経理などを歴任し、1953年(昭和28年)12月、取締役に選任される。 1963年(昭和38年)の村山事件の際、矢島八洲夫(常務、総務・労務担当)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。同事件収束後の翌年1月、代表取締役に就任したが、3月、元社長で大株主の村山長挙は、横田ら復職した5人の取締役の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出した。
奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日 … 奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日 - 1965年(昭和40年)7月19日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・成田。 青森県北津軽郡六郷村胡桃館(現鶴田町)で、成田治の二男として生まれる。1923年(大正12年)青森県立弘前中学校(現青森県立弘前高等学校)を卒業した。 中津軽郡新和村(現・弘前市)種市の奈良家の養子となる。新和村農業会長、(有) 北隆造船鉄工所取締役社長、北日本化学工業取締役社長、新和村農業協同組合長、同村農業共済組合長、青森県農業共済保険組合理事、同県利用農業協同組合連合会長などを務めた。 政界では1930年(昭和5年)新和村会議員に選出された。
河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 19… 河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 1984年7月30日)は、日本の数学者。北海道大学名誉教授。専門は微分幾何学、特にフィンスラー幾何学。日本の微分幾何のパイオニアの一人。師は窪田忠彦、弟子に桂田芳枝がいる。 1903年4月東京に生まれ、母河口愛子の独自の教育方針の下に高校検定試験に合格し、1922年 東北帝国大学数学科に入学、1925年 卒業後、同大学院に進む。1927年 東北帝国大学大学院在学中に1930年開講が決まった北海道帝国大学理学部数学科の教授候補に内定。準備期間中2年間の留学が定められていたため、文部省在外研究員となり1928年から1930年にかけて、ドイツ(ベルリン、ハンブルグ)に留学。
宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年… 宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年11月29日)は、日本の数学者。 千葉県佐倉市生まれ。旧制千葉県立佐倉中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)理学部数学科卒業。理学博士(東北帝國大学)。1928年東京商船学校教授、1941年京城帝国大学教授。戦後、1949年東京都立大学 (1949-2011)教授、1959年日本大学教授を歴任。「コンピュータ黎明期のコンセプトメーカー」と『計算機屋かく戦えり』では書かれている。手計算や機械式計算機といった計算力が限られていた時代からの数値解析・計算科学の第一人者として、電子計算機のパイオニアであったと同時に、その経験から誤差の扱い等についても注意を与えていた先駆者であった。
青山 道夫(あおやま みちお、1902年4月8日 - 197… 青山 道夫(あおやま みちお、1902年4月8日 - 1978年7月9日)は、日本の法学者。民法学者で家族法の権威。九州大学名誉教授。西南学院大学教授、東京経済大学教授を歴任。 宮城県出身。1927年に東京帝国大学法学部卒。大倉高等商業学校(現東京経済大学)教授、1944年九州帝国大学教授。1963年に九州大学を定年退官は、西南学院大学教授、東京経済大学教授を歴任。1972年には弁護士登録を行った。マリノフスキー、モルガンらの文化人類学的研究を翻訳。戦後の家族法の改正にあたり、民主的な改革を主張した。 1978年7月9日、肺炎のため東京都武蔵野市の武蔵野総合病院にて死去。76歳。
内村 清次(うちむら せいじ、1902年(明治35年)4月8… 内村 清次(うちむら せいじ、1902年(明治35年)4月8日 - 1964年(昭和39年)11月22日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 熊本県飽託郡春日村(春日町、熊本市春日町を経て現:熊本市西区春日)で、内村政平、ノトの息子として生まれる。古町小学校を経て、1918年(大正7年)3月、西部高等小学校を卒業した。 1918年4月、鉄道院(のち鉄道省)熊本機関区の機関夫試傭試験に合格。1919年(大正8年)2月、機関科教習所に入所し、同年5月に卒業。1922年(大正11年)4月、機関士見習に合格し、1923年(大正12年)4月、機関士科を卒業。同年6月、機関士に任じられた。1924年(大正13年)1月、徴兵され歩兵第13連隊に入隊し満洲に派遣され、1925年(大正15年)11月に除隊した。
清水 博春(しみず ひろはる、1901年〈明治34年〉4月8… 清水 博春(しみず ひろはる、1901年〈明治34年〉4月8日 - 1931年〈昭和6年〉3月1日)は、日本の戦前の華族。男爵、備中清水氏。 1901年(明治34年)4月、公爵伊藤博邦の二男として生まれる。男爵清水資治の養子となり、1923年(大正12年)に家督を相続する。1926年(大正15年)に法政大学法学部を卒業し、王子製紙に勤める。 1931年(昭和6年)2月28日に神奈川県逗子町の自宅から家出して行方不明となり、翌3月1日に愛知県名古屋市の熱田神宮神域の瓢箪池畔の古木で縊死しているところを発見された。また、同日には夫人と弟の伊藤博通宛てに遺書が郵送されていた。遺体は一旦身元不明として仮埋葬されていたが、後に家族が引き取って火葬し、遺骨は東京に持ち帰られた。
大門 義雄(だいもん よしお、1901年 <明治34年> 4… 大門 義雄(だいもん よしお、1901年 <明治34年> 4月8日 - 1975年 <昭和50年> 5月1日)は、昭和時代の労働運動家。全国一般労働組合委員長。位階は従六位。 富山県西砺波郡戸出町(現高岡市)生まれ。旧姓は安田。幼少時に大門家の養子になった。法政大学専門部中退。1926年上京、1927年東京瓦斯会社(現東京ガス)に入社、東京瓦斯工組合に加盟。1931年東京瓦斯工組合教育出版部長。争議を指導してたびたび検束された。1935年東京瓦斯工組合書記長、1938年執行委員長。1941年東京瓦斯会社を退社、1942年日本曹達勤労部に入社、1942年化学工業統制会に勤務。この間、1929年新労農党創立に参加、1931年全国労農大衆党、1932年社会大衆党の結党で中央委員。
木村東介(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992… 木村東介(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992年3月11日)は美術商。本名は文雄。山形県米沢市出身。建設大臣などを務めた木村武雄は弟。 山形県議会議員を務めた木村忠三の長男として生まれる。 米沢商業学校を中退して上京。やくざな生活や院外団暮らしを続け、一時は憲政公論社に入社。乱闘で片腕を失う。法廷で出会った裁判官の人格と気骨に打たれ改心する。 柳宗悦の指導を受け、1936年、東京・湯島天神下に羽黒洞を創立。肉筆浮世絵、大津絵、泥絵などの民族美術を取り上げる。1960年、上野池之端に不忍画廊(しのばずがろう)を開く(2012年日本橋に移転)。 放浪の画家である長谷川利行の絵画、米沢出身の東洋思想家宮島詠士の書を世に紹介した。
吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8… 吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8日 - 1970年(昭和45年)9月17日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県知事(官選第42代、公選初代)。参議院議員(3期)、衆議院議員(1期)。号は知山。 京都府愛宕郡八瀬村(現京都市左京区)に吉江四郎の長男として生まれる。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校)のとき、教師から「スッポン」の漢字を知っているかと聞かれ、教室で自分だけが手を挙げて黒板に「すっぽん」と平仮名で書いてみなを唖然とさせ、それ以来、あだ名が「すっぽん」になった。 第三高等学校文科時代は柔道部で主将だった。1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部英法科を卒業。
小野 哲(おの あきら、1900年(明治33年)4月8日 -… 小野 哲(おの あきら、1900年(明治33年)4月8日 - 1978年(昭和53年)9月21日)は、日本の鉄道官僚、政治家。千葉県知事(官選第34代)、参議院議員(1期)。 小野禎一郎の二男として京都府乙訓郡向日町(現:向日市)で生まれる。第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。鉄道省に入り神戸鉄道管理局書記となる。 以後、鉄道局副参事、鉄道事務官、在外研究員(欧米留学)、門司鉄道局鳥栖運輸事務所長、東京鉄道局運輸部庶務課長、鉄道省運輸監理官、東京鉄道局運輸部長、大臣官房人事課長、門司鉄道局長、運輸通信省鉄道総局勤労局長、運輸省自動車局長、同企画局長などを歴任。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8… 小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8日 - 1973年(昭和48年)12月22日)は、日本の政治家。三郷村会議員、三郷村長(2期)、高田市議会議員(2期)、高田市長(2期)、上越市長(1期)。 新潟県中頸城郡三郷村(高田市を経て、現在の上越市)出身。1927年明治大学政経学科卒。1934年三郷村会議員となり、1947年まで務め、同年4月三郷村長に就任した。三郷村長は高田市に合併されるまでの1955年まで務め、同年5月に高田市議会議員に当選し、2期務めた。1963年高田市長選挙に立候補して当選、2期務めた。在職中、高田市は隣接の直江津市との合併が成立し、1971年に上越市が発足し、初代市長に就任した。
禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが … 禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが ながはる)、1898年4月8日 - 1959年8月10日)は、農学者(農学博士)、育種学者。 韓国農業の父と呼ばれる。 父は乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に参加した軍人・禹範善。範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春である。出生地については東京赤坂説と広島説がある。育ったのは広島県呉市である。父の範善は閔妃を暗殺したため、1903年11月24日、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。 同じく父が親日派とされ日本に逃れてきた具鎔書(のちに初代韓国銀行総裁、第10代大韓民国商工部長官などを歴任)ら、酒井の下に送られてきた親日派の子女6人で日本で育ち、禹は、広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業。
東浦 庄治(ひがしうら しょうじ、1898年(明治31年)4… 東浦 庄治(ひがしうら しょうじ、1898年(明治31年)4月8日 - 1949年(昭和24年)9月2日)は、日本の農業指導者、政治家。参議院議員。三重県度会郡城田村中須(現伊勢市)出身。 自作農の家に生まれる。1923年、東京帝国大学経済学部を卒業。 当時ようやく本格的な農政運動を開始していた帝国農会(帝農)に入り、農政調査を行いながら農政論の提唱をする。 1936年、帝国農会に幹事として復帰。1943年の農業団体統合直前までは帝農を全国機関とする系統農会の事実上の指導者として活躍する。 終戦後は全国農業会副会長となる。政界に進出し、1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1… 加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1982年9月24日)は、レストラン聚楽の創業者で、昭和時代に飲食業で成功した実業家。小さな洋食店から、第二次世界大戦までに数十店舗を抱える一大チェーングループに育て、「食堂王」とまで呼ばれた。 新潟県中蒲原郡白根町(現・新潟市南区)の商人の子として生まれる。小学校卒業後、新潟市の海産物屋「島二」に丁稚奉公に出る。実業雑誌を愛読し、安田善次郎の「学問より実地が大切」を拠り所に、3年間奉公する。年季を終えたあと志願兵となり、2年ののち除隊。相場に手を出して失敗し、親族・縁者に迷惑をかける。肩身の狭い実家住まいをしているとき、樺太の軍事占領によりひと儲けした商人が出ていることを知り、親に金を借りて24歳で樺太に渡ったものの、商機を逃し、当地で軍役夫となる。
加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 197… 加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 1977年11月1日)は、日本の画家、詩人、小説家、イラストレーター。本名は正男。別名、藤枝春彦、蓮芳夫。立教大学在学中の1919年(大正8年)に刊行した『アンデルセン童話』、『花の精』などの絵はがきで一躍有名となり、大正末期から昭和初期にかけて、竹久夢二、高畠華宵、蕗谷虹児らとともに抒情画の全盛時代を築いた。童謡『月の沙漠』の作詞家としても知られる。 1897年(明治30年)4月8日、静岡県志太郡西益津村田中(現・藤枝市大手)に生まれる。幼少期を祖父母と共に藤枝で過ごす。父は浦和中学の教師を務めたが、後に東京の小学校校長を務めた。西益津尋常高等小学校(現在の藤枝市西益津小学校)3学年を終了後、1910年(明治43年)に父母のもとに上京し、早稲田中学校に入学。
林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 … 林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 - 昭和39年(1964年)12月12日)は、日本の医学者、医学博士(千葉医科大学)。放射線による内科的診断・放射線医学の先駆者。従五位・勲四等・旭日小綬章。 山形県鶴岡市出身。
鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月… 鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月8日 - 1975年〈昭和50年〉5月4日)は、日本の政治家。小田原市長(5期)。歌舞伎研究家 。位階は正五位。 現在の神奈川県小田原市出身。 1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる牧野信一(のち小説家)がいた。早稲田大学英文科中退。早大時代、同人誌「金と銀」「象徴」などを主宰した。読売新聞、朝日新聞、歌舞伎座支配人、松竹系の役員を務めた。 1949年(昭和24年)に小田原市長に初当選し5期務めた。この間、全国市長会副会長、関東市長会会長、国保中央会理事などを務めた。1969年に市長を引退。
萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年… 萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年(明治29年)4月8日 - 1981年(昭和56年)9月5日)は、日本の農業関係者、実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県出身。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業した。 産業組合中央会主事補、全国購買農業協同組合連合会(現・全国農業協同組合連合会)主事、同肥料部長、同常任理事、農林省一般農林水産物価格形成専門委員会専門委員、神奈川県農業会長、同県蚕糸業会長、同県販売農業協同組合連合会長などを務めた。全国購買農業協同組合連合会の創立に加わった。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
富田 芳郎(とみた よしろう、1895年4月8日 - 198… 富田 芳郎(とみた よしろう、1895年4月8日 - 1982年1月8日)は、日本の地理学者。冨田 芳郎とも綴る。 1895年(明治28年)、北海道札幌市で名護屋家の子としてに生まれる。石狩川下流域の花川小学校尋常科六年を経て、公立白石尋常高等小学校の高等科を卒業する。さらに、札幌の北海道師範学校附属小学校高等科3年に入学し、一年間で修了する。その後は、小学校の準訓導の資格を取るため同校の講習所へ通いながら独学した。17歳の時北海道師範学校に入学した。1915年(大正4年)に東京高等師範学校理科3部に入学し、地理学と博物学を専攻した。東京高等師範では地形学を山崎直方・辻村太郎に、地質学を大関久五郎に、人文地理学を内田寛一に学んだ。
金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 198… 金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。 秋田県秋田市土崎港古川町の舟問屋の四男として生まれる。本名・吉太郎。15歳で一旦上京して電気工事の仕事をするが帰郷し、19歳で秋田工業学校機械科を卒業。母校の助手を経て土崎小学校の代用教員を務める。1916年、上京して武者小路実篤の書生となる。 1921年、尋常小学校の同級生だった小牧近江や今野賢三とともに、社会主義思想の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。『解放』に発表した「地獄」が出世作となる。1924年からは『種蒔く人』の後継誌『文藝戦線』を創刊。戯曲、脚本も書いた。
三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963… 三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963年7月28日)は、日本の女優である。東京市出身。夫は映画プロデューサーの森田信義。黒澤明映画をはじめ多くの東宝映画に出演した。出生名は宮田 ハル(みやた はる)、結婚後の本名は森田 ハル(もりた はる)。 東京市神田区神保町出身。1912年、跡見高等女学校を卒業後、島村抱月が結成し、松井須磨子らが所属する芸術座の演劇学校に入校する。1915年、三好栄子の芸名を名乗り、浪花座での大阪公演『清盛と仏御前』で初舞台を踏む。トルストイ作の『復活』や『アンナ・カレニナ』などの舞台に立ち、着実にキャリアを積むが、松井須磨子と衝突して芸術座を脱退し、同じく芸術座を脱退していた沢田正二郎に誘われて、1917年、新国劇結成に参加する。