本山 博(もとやま ひろし、1925年12月15日 - 20… 本山 博(もとやま ひろし、1925年12月15日 - 2015年9月19日)は、日本の超心理学者、心理学者、宗教家。国際宗教・超心理学会(IARP)初代会長、宗教心理学研究所初代所長、玉光神社名誉宮司、カリフォルニア人間科学大学院大学(CIHS)創設者。 香川県小豆郡(小豆島)出身。東京文理科大学(現筑波大学)卒業。 本山は、のちに玉光神社を開いた母の指導の下で、幼少の頃より滝行や断食、般若心経の読誦などの修行をしていた。 クンダリニー・ヨーガの研究者であり、立花隆によればその研究は世界的に有名であり、ユネスコ本部は、本山を世界の著名な超心理学者十人の一人に選出したという[要ページ番号]。心霊手術やユリ・ゲラーの超能力、外気功、福来友吉の念写の研究、霊の憑依現象、輪廻転生等に肯定的な発言をしている。
大沼 正則(おおぬま まさのり、1925年12月15日 - … 大沼 正則(おおぬま まさのり、1925年12月15日 - 2001年7月16日)は、日本の科学史家、東京経済大学名誉教授。化学史を研究。マルクス主義の立場から反科学・反技術主義を批判した。 東京府出身。東京工業大学卒業。東京経済大学助教授、1966年教授。1997年定年退任、名誉教授。
菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2… 菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2010年)は、日本の仏教学者、著述家、翻訳家、作曲家、作詞家、音楽プロデューサー、東京シャンソン協会初代会長。 「菊村紀彦」は書籍を執筆したり、音楽を作曲したりするときの筆名であるが、弟子たちからも「菊村先生」としか呼ばれておらず、事実上の名前にも等しい。戸籍名は、椎名重胤。 東京出身。東洋大学大学院仏教学研究科修士課程修了。浄土教学空性論専攻。日本仏教思想研究所長、日本仏教学院長、寂光山檀林寺管主、日本仏教書道研究会長を務めた。 先祖は高松藩の椎名氏。明治時代に財を成した椎名秀胤の子孫筋に当たり、父の長兄・椎名芳胤は、大正時代の日本鉱業株式会社の営業部長から幹部にのぼりつめた実業家で、のちに久原房之助、鮎川義介らと共に日本鉱業の実権を握っていた人物の一人であった。
伊藤 善市(いとう ぜんいち、1924年12月15日 - 2… 伊藤 善市(いとう ぜんいち、1924年12月15日 - 2007年2月16日)は 日本の経済学者。息子は伊藤真市(宮城大学准教授、デザイン情報学)。キリンHD社長の磯崎功典は次女潤子の夫。 1924年(大正13年)に山形県酒田市に生まれ、1929年(昭和4年)より同県余目町で育つ。余目小学校、酒田商業学校、横浜高等商業学校を経て、1947年(昭和22年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業する。1950年(昭和25年)に山形大学文理学部助手、1952年(昭和27年)に同学部講師、1955年(昭和30年)に同学部助教授となる。 1956年(昭和31年)に東京女子大学文学部助教授、1965年(昭和40年)に同学部教授、1970年(昭和45年)に経済学博士(慶應義塾大学)、1975年(昭和50年)に文理学部長、1990年(平成2年)に東京女子大学比較文化研究所長となる。
朱里 みさを(しゅり みさお、1924年12月15日 - 1… 朱里 みさを(しゅり みさお、1924年12月15日 - 1999年3月9日)は、日本の舞踊家、振付家。専門ジャンルはジャズダンス。宝塚歌劇団で振付を担当した。本名:田辺藤枝。朱里エイコの母。 島根県簸川郡乙立村大字東村(現・出雲市佐田町東村)生まれ。代々神官の家で、幼い頃から巫女舞いを習っていたが、7歳のとき、父が大きな借金を残して急死し、人生が暗転。人質として債権者の家に預けられ、一日中、牛の世話や草履作りなどをする。その後今市町の叔母宅で子守奉公。女学校の夜学に通いながら東洋レーヨンの今市工場で女工などをし、16歳のとき上京。転がり込んだ叔父宅の前の家がたまたま橘秋子のバレエのレッスン場で、女中として住み込みバレエを習う。
大熊 一郎(おおくま いちろう、1923年12月15日 - … 大熊 一郎(おおくま いちろう、1923年12月15日 - 1986年12月1日)は、日本の経済学者。 東京市浅草区(現台東区)浅草生まれ。1948年慶應義塾大学経済学部卒、大蔵省理財局調査部・大臣官房調査部勤務。1950年健康保険連合会勤務。1954年慶應義塾大学経済学部専任講師となる。同助教授を経て、1963年「フィスカル・ポリシーの理論構造」で経済学博士の学位を取得。同年慶大教授。62歳で在職中に死去した。
福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - … 福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - 2004年3月12日)は、日本の建築工学/建築構造学者、建築材料/建築生産学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(東京大学)。 専門は、建築工学・建築構造、建築材料・建築生産(特にコンクリート工学)。 福島 万沙塔(読みは本名と同じ)の俳号で俳人としても活動した。 鹿児島県に生まれる。1940年に旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を、1942年9月に旧制第七高等学校造士館理科を、それぞれ卒業した。1945年、東京帝国大学第二工学部(現:東京大学工学部)建築学科を卒業する。のちに、東京大学より論文「南九州産軽量骨材の利用に関する研究」にて工学博士号を取得している。
申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月… 申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月15日 - 1989年2月29日)は、大韓民国のジャーナリスト、教授、政治家、独立運動家。第5・9・10・11代韓国国会議員。本貫は平山申氏、号は月崗(ウォルガン、월강)。 平安北道定州出身。1935年に新義州高等普通学校を卒業。1942年に福岡高等学校の文科を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部に入学した。1944年に学徒出陣により中国戦線に配置されたが、済南の部隊より八路軍地区に脱走し、同じく徐州の部隊より脱走した厳永植(엄영식)らと朝鮮義勇軍の一員として抗日活動に参加した。解放後の1946年に朝鮮義勇軍東満洲支隊から帰郷したが、北朝鮮共産当局によって逮捕され、17ヶ月間に監獄で過ごした。
平林 栄治(ひらばやし えいじ、1920年12月15日 - … 平林 栄治(ひらばやし えいじ、1920年12月15日 - 戦死)は長野県出身のプロ野球選手。
楠岡 豪(くすおか たけし 1920年12月15日 - )は… 楠岡 豪(くすおか たけし 1920年12月15日 - )は、日本の通産官僚。元通産省繊維雑貨局長。
嶋 清一(しま せいいち、本名:島 清一[1]… 嶋 清一(しま せいいち、本名:島 清一[1]、1920年12月15日 - 1945年3月29日)は、和歌山県出身の野球選手(投手)。
大崎 平八郎(おおさき へいはちろう、1919年12月15日… 大崎 平八郎(おおさき へいはちろう、1919年12月15日 - 2005年4月5日)は、日本の経済学者。横浜国立大学名誉教授。 1919年、福岡県飯塚市生まれ。横浜高等商業学校(現横浜国立大学)を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。しかし太平洋戦争のため1942年9月に同大学を繰上げ卒業となり、入隊。機関砲中隊に配属されるが、病気のため現役免除となり、満鉄調査部に勤務。 戦後、横浜国立大学経済学部助教授となる。後に教授に昇進。1973年経済学部長。1985年に横浜国立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関東学院大学教授、神奈川大学教授として教鞭をとった。ユーラシア研究所名誉顧問。
柴山 廣(しばやま ひろし、1919年12月15日 - )は… 柴山 廣(しばやま ひろし、1919年12月15日 - )は、日本の電気工学者。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。工学博士(京都大学)。電気学会関西支部元評議員。 専門は、電気工学・電力工学(電動機含む)・パルス工学、非線形理論。 京都府出身。1942年京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。のちに、工学博士(京都大学)。三菱電機研究所(現:先端技術総合研究所)に技師として入社。1946年京都市立第一工業学校教諭などを経て、1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任し、電気工学教室を担当。その後、1957年に助教授、1962年に電気工学科教授。1975年同大学図書館長。1992年大阪工業大学名誉教授。
いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:… いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供の水彩画に代表される日本の画家、絵本作家。岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロで発表された作品もある。父は陸軍勅任建築技師の岩崎正勝。母・文江は大日本連合女子青年団(のちの大日本青少年団)主事。前夫は東洋拓殖職員、後夫は日本共産党元衆議院議員で弁護士の松本善明。孫は絵本作家の松本春野。 1918年、雪の降る師走の朝にちひろは日本帝国陸軍築城部の建築技師の父親、女学校の教師の母親という当時としては珍しい共働き家庭における三姉妹の長女として福井県武生町(現在の越前市)橘で生まれた。
小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15… 小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15日 - 1984年(昭和59年)3月4日)は、日本の実業家。伊勢丹社長、日本百貨店協会会長を務めた。旧名:小菅利雄。 東京・神田に2代小菅丹治・ときの長男として生まれる。姉の喜子(尾上清レナウン理事長の妻)と弟振作(レナウン監査役)の3人きょうだいである。 東京女子高等師範学校の付属幼稚園に入り、小学校、中学校は東京高等師範学校の付属に通った。中学4年修了で慶應義塾大学の予科を受験して合格。慶大経済学部を卒業。1941年三井物産に入社し、1944年には東京帝国大学医学部教授細谷省吾の娘・悠と結婚した。 終戦後、三井物産がGHQの財閥解体命令で解散したため退社。
和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 … 和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 - 1985年9月6日)は、日本の会計学者。 東京市向島区(現・墨田区)生まれ。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、千代田生命保険相互会社に入社。1948年に退社し、同年から1951年まで経営研究所に勤務。1955年慶大経済学部講師、1958年助教授、1963年教授、1980年退職。1982年松阪大学教授となる。在任中、66歳で死去した。
土田 帆山(つちだ はんざん、1918年12月15日 - 2… 土田 帆山(つちだ はんざん、1918年12月15日 - 2008年2月6日)は、日本の書家、福井県越前市出身。本名は土田 修(- おさむ)。代表作は『剛』、『驪』、『春 一生青春』、『閑古錐』、『天上十分月』。地方文化功労による文部科学大臣賞を受賞。 死去直前の役職は、独立書人団参事、毎日書道展名誉会員、全日本書道連盟評議員、洗心書道会代表、若越書道会薫事、越前市書道連盟会長、武生書作家協会名誉会長、越前市文化協議会顧問、丹南芸術家協会常任顧問。 1940年杉本長雲に師事、高志書道会に入会。1948年文部省主催の書道講習会に福井県代表として小林抱牛(独立書人団元代表)、稲村雲洞、木村蒼岳とともに受講。
馬場 移公子(ばば いくこ、1918年12月15日 - 19… 馬場 移公子(ばば いくこ、1918年12月15日 - 1994年2月17日)は、埼玉県出身の俳人。本名は新井マサ子。第25回俳人協会賞受賞。 埼玉県秩父生まれ。実家は蚕種屋。旧制秩父高等女学校(現秩父高等学校)卒。1940年結婚。1944年、夫の戦死により実家に戻り、養蚕をして暮らした。1946年、金子兜太の父、金子伊昔紅の指導を受け「馬酔木」に投句、水原秋桜子に師事。馬醉木賞を受賞。「馬酔木」を代表する女性俳人として活躍した。代表句「いなびかり生涯峡を出ず住むか」など。秩父のひそやかな暮らしのなかで独特の孤独感のある句を作った。1985年『峡の雲』により第25回俳人協会賞受賞。1994年、75歳で没。
田谷 鋭(たや えい、1917年12月15日 - 2013年… 田谷 鋭(たや えい、1917年12月15日 - 2013年11月6日)は、昭和から平成にかけての日本の歌人。国鉄マンの労働現場を詠んだ歌がよく知られ、歌風はつつましさ、はじらいを特徴とする。 千葉県千葉市寒川町生まれ。2歳で父を、7歳で母を結核で失い、4人の兄のうち3人をやはり結核で奪われる。貧苦の中、夜学の千葉関東商業学校(現敬愛学園高等学校)を卒業し、国鉄に勤務。 1934年(昭和9年)に北原白秋顧問、村野次郎主宰の「香蘭」に入会。1935年(昭和10年)、白秋が新たに創刊した「多磨」に移る。1939年(昭和14年)4月に応召、習志野陸軍病院に衛生兵として勤務。1942年(昭和17年)1月召集解除、国鉄に復帰。
安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月1… 安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月15日 - 1989年(平成元年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。鳥取県議会議員、境港市長(第3代)。 元鳥取県議会副議長永井貞録の四男。元米子今井書店社長永井準の実弟。鳥取県議会議員安田優子の実父。 鳥取県西伯郡中浜村出身。永井貞録の四男として生まれ、叔母に子供がなかったため安田家の養子となる。実父貞録の「貞」と養父栄の「栄」をとって「貞栄」と命名された。 学期末通信簿を持って帰って、成績が一番になったことを言うと「百姓の跡取りにならなくなるぞ」と叱られた。部落の長老百太郎じいさんは特に説教の名人で「百姓の跡取りは百姓となるべきである。
入江伸(いりえ しん、1917年12月15日 - 2006年… 入江伸(いりえ しん、1917年12月15日 - 2006年2月20日)は、かつて存在した学習塾伸学社(入江塾)の塾頭。本名は入江功二。なお、入江伸を「いりえ のぶる」と読ませていた時期もあった。
竹内 歌子(たけうち うたこ、1915年12月15日 – 没… 竹内 歌子(たけうち うたこ、1915年12月15日 – 没年不明)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。 岡山県牛窓町(現瀬戸内市)生まれ。山陽高等女学校(のち山陽女子中学校・高等学校、現・山陽学園中学校・高等学校)卒。都新聞に入り記者となり、その後国際通信社に移る。報知新聞社監査役、1942年東京第一服装女学院長に就任。1944年に退任し、王子産業(株)取締役になる。1946年に房総産業(株)代表取締役社長になり、同年に行われた第22回衆議院議員総選挙に千葉県から新日本青年党公認で立候補して当選する。翌1947年の総選挙で埼玉1区から民主党公認で立候補して落選した。その後は再び選挙に出ることはなかった。
阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1915年〈大正4年〉12月… 阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1915年〈大正4年〉12月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月1日)は、日本の柔道家、合気道家、剣道家である。柔道7段(1960年代末に8段を授与されたとする情報もある)、合気道6段、剣道6段。 日本では戦前の著名な柔道家として知られる。戦後は日本の柔道界と対立して1955年にイギリスに渡った。イギリスではKenshiro Abbeの名で、1960年代のイギリスに合気道・剣道などを紹介した人物として知られる。1960年代にイギリス柔道カウンシル(BJC)を設立した。求心道(英語版)(Kyūshindō)を創始し、その理論に基づいて武道を教える道場が現在も多くある。
広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 198… 広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 1982年10月11日)は、日本の柔道家(講道館九段)。 身長170cmに満たない小柄な体格ながら、戦前の明治神宮競技大会、昭和天覧試合、日本選士権大会、全日本東西対抗大会、戦後の全日本選手権大会等の主要大会で永く活躍。後に大阪府警察の柔道師範として後進の指導に当たり、今日の府警柔道の礎を築いた。 宮崎県出身。身長150cm・体重70kgの小躯ながら支釣込足や巴投、肩車の名手として名を馳せた尾崎伊助8段に柔道の手ほどきを受け、旧制都城中学校(のちの県立都城泉ヶ丘高校)を経て武徳会武道専門学校に進学すると、磯貝一や田畑昇太郎ら範士、阿部謙四郎等の先輩に学び、終生の得意技となる払腰・釣込腰・一本背負投等に磨きをかけた。
佐古 一(さこ はじめ、1915年12月15日 - 2010… 佐古 一(さこ はじめ、1915年12月15日 - 2010年1月13日)は、広島県出身の実業家。大成建設社長、日本建設業団体連合会会長などを務める。
古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - … 古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - ?)は、日本の水球選手。1936年ベルリンオリンピックの水球競技に出場した。 熊本県出身。熊本県立商業学校、早稲田大学卒。クリーニング企業のシロヤパリガン創立者。
続 有恒(つづき ありつね、1914年12月15日 - 19… 続 有恒(つづき ありつね、1914年12月15日 - 1972年9月25日)は、日本の教育心理学者。 甥(姉の子)に、医学者で東京大学名誉教授の黒川清、都市工学者で東京工業大学名誉教授・筑波大学名誉教授の黒川洸、元NECインターチャネル代表取締役社長・会長の黒川湛がいる。 宮城県出身。1938年東京帝国大学文学部心理学科卒。国立教育研究所員、東北大学助教授、52年名古屋大学教育学部教授、70年「教育評価」で名大教育学博士。57歳で死去。
伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月1… 伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家、農林官僚。 衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。 1913年、福島県若松市(現・会津若松市)に生まれる。祖父の伊東健輔は会津藩士、父の伊東秀三郎は旧制会津中学校(現・福島県立会津高等学校)の一回生で同校教諭となった。 旧制会津中学校、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託。その後、間もなく興亜院に出向する。
武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 199… 武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 1992年7月29日)は日本の民俗学者。香川県出身。また、多度津町長も務めた。 1913年(大正2年)、香川県仲多度郡多度津町にて武田亮太郎、ハナの次男に生まれる。実家は、江戸末期からの北前船回船問屋を起源とする事業家。当時は県内の電力、金融等、社会資本関連企業の経営に広く携わっていた。 旧制香川県立多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)5年の時、柳田国男の『石神問答』を読み民俗学を志す。 1931年(昭和6年)、中学を卒業し、慶應義塾大学に入学。予科3年の時、初めて採集した昔話が関敬吾の編集する『昔話研究』第二巻に「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介で柳田を自宅に訪ねる。
大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 … 大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 - 2001年3月2日)は、日本の経営者。北海道文化放送社長を務めた。北海道上川郡剣淵町出身。 1931年に旧制名寄中学校を卒業。旭川新聞社、小樽新聞社での勤務を経て、1964年に北海道新聞社取締役に就任し、1968年に代表専務を経て、1974年に顧問に就任。1971年には北海道文化放送初代社長に就任し、1978年から1980年までに会長を務めた。 2001年3月2日急性肺炎のために死去。88歳没。
滝田 実(たきた みのる、1912年 <大正元年> 12月1… 滝田 実(たきた みのる、1912年 <大正元年> 12月15日 - 2000年 <平成12年> 12月9日)は、昭和から平成時代の労働運動家。ゼンセン同盟名誉会長。全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)第3代会長、全日本労働組合会議(全労)初代議長、全日本労働総同盟(同盟)第2代会長。位階は従三位。 富山県射水郡小杉町(現射水市三ケ)生まれ。1931年富山県立工芸学校機械電気科卒、日清紡績に入社。戦後、松岡駒吉と出会い労働運動に入る。1946年4月日清紡績労働組合結成とともに副組合長。同年7月全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)結成に参加、中執委員。1948年5月全繊同盟会長。同年日清紡績労働組合組合長。
金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月1… 金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月15日 - 1962年(昭和37年)10月6日)は、日本の実業家、サンスターの創業者。広島県安芸郡坂町出身。 大阪に出て1932年、金田兄弟商會を設立し自転車や履物用ゴム糊の製造を開始。1941年、4社のゴム製造業者統合により帝國合同護謨工業が設立され、翌年社長に就任。太平洋戦争期の空襲で工場の大半を焼失したが戦後1946年、金田軽金属チューブ工業所(同年改組し金田金属工業)を設立し、焼け残ったゴム糊を金属チューブに充填する機械を活かし、金属チューブ容器の開発に成功。その後取引先であった星光社からの相談によりチューブに歯磨剤を充填し、金属チューブ入り練歯磨剤を開発し発売した。
石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 19… 石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 1998年6月7日)は、講談の定席として知られた東京・上野の寄席「本牧亭」の経営者。 寄席「鈴本亭」(鈴本演芸場)の席亭であった鈴木孝一郎の三女として、東京・上野に生まれる。東京府立第一高等女学校(後の東京都立白鷗高等学校・附属中学校の前身)を卒業した。 曲芸師であった春本助次郎(2代目)と結婚し、娘2人をもうけるが、5年で死別する。 父・鈴木孝一郎は、戦後1948年に再開した本牧亭の経営を英子に委ね、席亭とした。1950年以降、本牧亭は40年にわたって講談の定席として維持されたが、1990年に閉場した。 1992年には、池之端の料理屋の2階に場所を移し、「池之端本牧亭」として、定員30人の小規模な形で本牧亭を再開したが、以降の経営は娘夫婦に委ね、長女の清水孝子を席亭とし、その夫清水基嘉を本牧亭社長として、自らは会長となって「隠居」を自称していた。
田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月1… 田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月15日 - 1988年(昭和63年)10月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 鹿児島県揖宿郡頴娃村(頴娃町を経て現南九州市)で生まれる。1938年(昭和13年)陸軍士官学校(少尉候補者19期)を卒業した。1944年(昭和19年)勲五等瑞宝章受章。 戦後、頴娃町議会議員、頴娃町農業振興会長、青戸農業協同組合長、鹿児島県信用農業協同組合連合会監事、同農業信用基金協会監事、同農民政治連盟副委員長、同経済農業協同組合連合会会長、全国農業協同組合連合会理事、全国茶生産団体連合会会長、えい農業協同組合長、鹿児島県農業協同組合連合会理事、同県茶振興会会長、熊本果実連合会理事、南栄糖業監査役などを務めた。
初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年… 初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年〉12月15日 - 1993年〈平成5年〉12月24日)は日本の作曲家・箏曲家。本名は宮下 哲郎(みやした てつろう)。三十絃箏の開発者。 群馬県高崎市(当時の群馬郡倉渕村)生まれ。旧制高崎中学を卒業後、熱病が原因で失明。箏曲家をこころざして、東京盲学校師範部音楽科に入学。古曲を初代萩岡松韻、新曲を宮城道雄、作曲を田辺尚雄から学んだ。1948年の「双調の曲」で三曲新作コンクール1位入賞。1953年の「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で 第8回音楽部門芸術祭奨励賞を受賞した。その後も芸術祭で受賞を繰り返した(大賞2回、入賞8回)ことから、「芸術祭男」とのあだ名で呼ばれた。
宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> … 宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> 12月15日 - 1996年 <平成8年> 11月13日)は、日本の朝鮮総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 長野県埴科郡埴生村(現千曲市)出身。旧制長野中学(現、長野県長野高等学校)を経て早稲田大学法学部卒業。朝鮮総督府、貴族院事務局、文部省を経て参議院事務局に奉職。1965年第5代参議院事務総長に就任。1972年に退任し、同年国立国会図書館長に就任。1980年勲一等瑞宝章を受勲した。1996年死去。死没日付をもって従六位から正三位に進階した。
田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15… 田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15日 - 2002年(平成14年)8月10日)は、日本の政治家で、三重県知事(5期)、衆議院議員(1期)を務めた。三重県四日市市塩浜地区出身。学歴は東京帝国大学卒業である。元四日市市長の加藤寛嗣は従兄弟である。1944年(昭和19年)佐藤喜代子と結婚して、2女をもうける。喜代子と死別後の1975年(昭和50年)には元総理大臣三木武夫の妻睦子の妹である三重子と再婚した。元衆議院議員の松崎哲久は義理の息子、映画監督として人気のあった藤田敏八は甥(姉の子)である。 1909年(明治42年)12月15日、三重県四日市市蔵町の母の実家で生まれる。塩浜尋常小学校、塩浜高等小学校、三重県立第二中学校(現・四日市高校)から東京府立第五中学校(現・小石川高校)へ転校して、第八高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業した。
三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月1… 三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月15日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術少佐。爆撃機「銀河」、特攻機「桜花」特攻機、新幹線の開発者。 1909年12月15日、香川県高松市生まれ。香川県立高松中学校、第六高等学校を経て、1938年、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船官となって海軍造船中尉に任官し、海軍航空技術廠に配属された。 アジア・太平洋戦争中に陸上爆撃機「銀河」、特攻兵器「桜花」などの機体設計を担当した。 1944年(昭和19年)6月前後、大田正一少尉が航空技術廠長和田操中将に特攻兵器桜花を提案した。三木によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。
山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月1… 山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月15日 - 1977年(昭和52年)7月7日)は日本画家。父は日本画家山田敬中。 父 敬中、母 はな の次男として東京府滝野川村(現・東京都北区)田端に生まれる。1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科へ入学。同学年に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいる。1930年(昭和5年)第11回帝展で《水辺初夏》が初入選。1931年(昭和6年)東京美術学校を卒業。卒業制作は《武蔵野》。その後、結城素明に師事する。 1944年(昭和19年) 私立麻布中学教諭となる。後に日本画家となる野田修一郎は麻布中学校時代に山田に師事している。 1950年(昭和25年) 第6回日展へ出品した《馬」》で特選、白寿賞を受賞する。
山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)1… 山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。
手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1… 手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1981年12月1日)は、日本の文学研究者、作家である。 山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。維新の英蘭学者手塚律蔵は曾祖父の弟にあたる。 旧制徳山中学から慶應義塾大学に進学する。徳山中学在学中に19世紀ロシア文学を愛読、特にトルストイの影響を受ける。慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の新人作家であったこの時期の作品に1932年に発表した「虱」がある。 1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年… 伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年5月6日)は、日本の俳優。
松崎 啓次(まつざき けいじ、1905年〈明治38年〉12月… 松崎 啓次(まつざき けいじ、1905年〈明治38年〉12月15日 - 1974年〈昭和49年〉10月10日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家、作詞家。本名の青木 義久でも活躍した。梶井基次郎らの『青空』にも参加した。 京都府生まれ。京都府立医科大学出身。ソ連・ロシア文学の翻訳家として活躍し、1929年(昭和4年)に結成されたプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)に参加していたが、次第に商業映画との関わりを強め、PCLから東宝、中華電影公司でプロデューサーを務めた。 戦後は東映や自ら設立した独立プロの「松崎プロダクション」(前身は内外映画社)で、劇場向け劇映画や『鉄腕アトム』、『鉄人28号』(いずれも実写ドラマ)などのテレビ番組、記録映画などを制作した。
大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12… 大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12月15日 - 1974年(昭和49年)8月14日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員。 三重県、現在の桑名市で生まれる。1931年、早稲田大学商学部を卒業した。名古屋運搬合資会社に入社後、1941年、会社統合により日本通運に移籍した。 戦後、全日通労働組合(全日通)中部地区書記長、同中央執行委員長、全交通副議長、中央労働基準委員、中央職業安定委員などを務めた。 1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から社会党左派所属で出馬して当選したが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、大倉を含めた6名が失格した。
田中 尭平(堯平、たなか ぎょうへい、1904年(明治37年… 田中 尭平(堯平、たなか ぎょうへい、1904年(明治37年)12月15日 – 1963年(昭和38年)11月2日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 山口県豊浦郡、のちの豊田町(現下関市豊浦町)で生まれる。豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、山口高等学校を卒業。山高在学中から社会主義の研究を始め、東京帝国大学に進学してから実際の活動に加わった。1932年(昭和7年)東京帝大法学部政治学科を卒業。山口市で弁護士を開業した。 1945年(昭和20年)日本共産党に入党し、労働組合の法律顧問を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から共産党公認で出馬して落選。
有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1… 有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1995年2月22日)は、日本の官僚(文部事務次官)・教育者。1974年勲一等瑞宝章受章。1989年名誉都民受賞。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県生まれ。旧制高知県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。1927年、文部省に入省した。1932年に宗教局保存課長、1934年に専門学務局学務課長、1941年に大臣官房文書課長、1942年に大臣官房秘書課長兼大臣秘書官、1945年6月に科学局長、1945年9月に体育局長、1945年10月に教科書局長を経て1947年に文部事務次官に就任した。 教育基本法の制定、小学校6年、中学校3年の六・三制の実施などの戦後の教育改革に携わる。
十三代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1903年(… 十三代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1903年(明治36年)12月15日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は松嶋屋、定紋は七ツ割丸に二引。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は片岡 千代之助(かたおか ちよのすけ)。 昭和後期の歌舞伎界を支えた立役の名優。最晩年は完全に盲目だったにもかかわらず、立役として舞台活動を続けた。 子に五代目片岡我當、日本舞踊家花柳寿々、二代目片岡秀太郎、十五代目片岡仁左衛門、新劇女優片岡静香らがいる。 温厚篤実な性格で屈折したところがなく、高貴な役どころがぴたりとはまった。由良助役者としても知られたが、七段目では、豪遊ぶりがいかにも自然で、卑屈な部分を見せることがなかった。
萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)… 萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)12月15日 - 2001年(平成13年)8月8日)は、日本の実業家。北海道炭砿汽船(北炭)、札幌テレビ放送(STV)社長などを務めた。 埼玉県蕨町(現:蕨市)で生まれる。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業。在学中は吉田茂内閣の文相となる高橋誠一郎教授に認められ、学校に残ることを勧められたほどであった。 卒業後、三井合名に入社。常務理事から北炭会長に転じる島田勝之助の目に留まり、1940年、島田に同道する。1889年に創業の北炭は、当初、道内の炭鉱開発と鉄道敷設に関わっており、北海道開発の中心だった。その後、鉄道は政府に買い上げられ、炭鉱開発と海運に集中する。
横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1… 横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1989年8月22日)は昭和時代日本の歌人、作詞家。元青森県副知事、青森県立図書館館長。 1901年(明治34年)、青森市で日本鉄道(のち鉄道院→鉄道省を経て国鉄)職員の家庭に生まれる。1915年(大正6年)に有志で短歌誌『樹焔』を創刊し若山牧水、太田水穂らの寄稿・指導を受けた。旧制青森中学校を経て1924年(大正13年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。青森へ帰郷後、県内の旧制中学校各校で教員を務める傍ら1928年(昭和3年)に短歌誌『羅漢柏』(アスナロ)を創刊、自ら主宰する。 1946年(昭和21年)に旧制青森中学校校長を退職後、県教育次長を経て津島文治知事に請われ、副知事に就任する。
大澤 喜代一(おおさわ きよいち、1901年12月15日 -… 大澤 喜代一(おおさわ きよいち、1901年12月15日 - 1985年3月11日) は、青森県出身の労働運動家。日本社会党衆議院議員(1期)。筆名は大沢 久明(おおさわ きゅうめい)。 青森県青森市の出身。1919年(大正8年)青森県立青森商業学校(後の青森県立青森商業高等学校)を卒業後に上京し、市谷監獄に勤務するが、同人誌発行の件で解雇される。社会主義運動の活動家となり、帰郷して北部無産社、青森合同労組を結成。労働運動を指導し、逮捕される。1927年に労働農民党青森県連を結成し、1929年(昭和4年)には日本共産党に入党。同年に起きた四・一六事件で検挙され、懲役5年の刑を受けた。各地の刑務所を転々としたが、青森刑務所で隣の房にいたのが脱獄王として知られた白鳥由栄だったという。