園田 天光光(そのだ てんこうこう、1919年1月23日 -… 園田 天光光(そのだ てんこうこう、1919年1月23日 - 2015年1月29日)は、日本の政治家。日本初の女性代議士の一人。夫は園田直。旧姓は松谷。
1月23日生まれ:330人
園田 天光光(そのだ てんこうこう、1919年1月23日 -… 園田 天光光(そのだ てんこうこう、1919年1月23日 - 2015年1月29日)は、日本の政治家。日本初の女性代議士の一人。夫は園田直。旧姓は松谷。
矢野 純一(やの じゅんいち、1919年1月23日 - 20… 矢野 純一(やの じゅんいち、1919年1月23日 - 2002年12月22日)はプロ野球選手(野手)、元横浜大洋ホエールズ取締役球団代表。山口県出身。
三井 美代子(みつい みよこ、1919年1月23日 - 20… 三井 美代子(みつい みよこ、1919年1月23日 - 2007年4月28日)は、日本の陸上競技選手。結婚後の姓は井上(いのうえ)。走高跳から始めて障害走(ハードル)に転向し、80mハードルで1936年ベルリンオリンピックに出場した。東京府生まれ、静岡県育ちで、競泳の古田つね子と並ぶ静岡県初の女子オリンピック選手である。 「日本陸上競技界の至宝」、「ミス陸上」の異名を持っていた。 1919年(大正8年)1月23日、東京にて3人きょうだい(兄・姉)の末っ子として生まれる。父・三井純一は慶應義塾大学卒の電力会社社員で、三井家はたびたび引っ越しし、美代子が小学4年生の時に静岡県沼津市に居を移した。学生時代野球部員だった純一は、沼津市体育協会理事を務めるなどスポーツに熱心な人物であった。
玉野井 芳郎(たまのい よしろう、1918年1月23日 - … 玉野井 芳郎(たまのい よしろう、1918年1月23日 - 1985年10月18日)は、日本の経済学者。経済学博士(東北大学・1960年)。東京大学名誉教授。正四位、勲三等旭日中綬章。 弟に発生学の専門家、千葉大学名誉教授の玉野井逸朗がいる。 経済学者大河内一男の弟子の一人。 専攻は経済理論、経済学史。後期にはエコロジーや反近代主義に関心を移し、カール・ポランニーやイヴァン・イリイチを日本に紹介した。 著作集全4巻がある。 1984年、小出昭一郎、槌田敦、河宮信郎、室田武、藤田祐幸らとエントロピー学会を設立している。エントロピー読本に村上陽一郎、武谷三男、鶴見和子、廣松渉、伏見康治、宇井純、野坂昭如らの著名人が執筆しているのは玉野井芳郎の影響力が貢献している。
竹下 数馬(たけした かずま、1918年1月23日 - 20… 竹下 数馬(たけした かずま、1918年1月23日 - 2003年10月7日)は、日本文学者。 大分県出身。1941年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。東京大学副手、上智大学講師を経て、1950年に立正大学文学部助教授、次いで教授に就任。1988年に定年を迎え、立正大学名誉教授となる。浅野晃に師事し、松尾芭蕉などの研究を行った。
加藤 巳一郎(かとう みいちろう、1917年1月23日 - … 加藤 巳一郎(かとう みいちろう、1917年1月23日 - 1995年6月2日)は、日本の実業家。中日新聞社代表取締役社長および会長、中日ドラゴンズ球団オーナー、共同通信社理事会長を歴任。 愛知県名古屋市西区出身。生涯にわたり中華人民共和国へ数十回の訪問を重ね、要人との交流も多数に及んだことで「中国通」として知られていた。 1917年(大正6年)、愛知県西春日井郡庄内村名塚(現在の名古屋市西区名塚町)で加藤憲一の長男として生まれる。祖父の加藤豊成は明治時代に自由民権運動の闘士として活動した人物であり、自由党で盟友関係に在った大島宇吉が新愛知新聞社を創業した時も出資者として名を連ねていた。 旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業。
近藤 次郎(こんどう じろう、1917年1月23日 - 20… 近藤 次郎(こんどう じろう、1917年1月23日 - 2015年3月29日)は、日本の航空工学者。東京大学名誉教授。滋賀県出身。 航空工学の分野では航空機の超高速化に取り組んだり、環境科学の分野では応用数学を利用し、大気汚染の予測や核拡散問題を解明した。 その他、国土審議会、航空機工業審議会、学術審議会などの各種審議会委員。中央公害対策審議会、中央環境審議会会長などを務めていた。
髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日… 髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日 - 2003年〈平成15年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。秋田魁新報社監査役や秋田市長(第15代)を務めた。秋田県大仙市(旧中仙町豊岡)出身。 豊岡村立豊岡尋常小学校、秋田県立角館中学校、山形高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 戦後、1945年(昭和20年)秋田魁新報社に入り、政治経済部長、編集局長を経て、1959年(昭和34年)取締役となり、その後、監査役を務めた。 1973年(昭和48年)2月から1990年(平成2年)4月まで、連続5期秋田市長を務める。歴代市長の中で最長となる17年間の在任中、「公園都市秋田市をつくる条例」「秋田市文化振興条例」などの制定や市民の健康と体力づくり運動、秋田新都市の建設、広面や桜ニュータウンなどの東部、御野場・御所野の南部新拠点開発、仙台市道路愛称名にならった秋田市道路愛称名などの制定、都市景観賞など多方面にわたって功績を残すなど秋田市発展の基礎を築く。
大島 久見(おおしま ひさみ、1915年(大正4年)1月23… 大島 久見(おおしま ひさみ、1915年(大正4年)1月23日 - 2004年(平成16年)2月3日)はシテ方喜多流の能楽師で、重要無形文化財総合認定保持者である。 父は喜多流職分の大島寿太郎。広島県出身。1932年(昭和7年)福山誠之館中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)卒業後、家元内弟子として喜多六平太 (14世)・15世喜多実両師の指導を受ける。1958年(昭和33年)以降、広島県福山市にて能楽教室(定例鑑賞能)年4回の定例能会を主宰。1971年(昭和46年)9月、3階建の「喜多流能楽堂(現・喜多流大島能楽堂)」完成。1982年(昭和57年)広島文化賞受賞。2004年(平成16年)沒、行年89歳。
西脇 昌治(にしわき まさはる、1915年1月23日 - 1… 西脇 昌治(にしわき まさはる、1915年1月23日 - 1984年4月14日)は、日本の哺乳類学者。琉球大学名誉教授。東京都出身。 学習院初等科から学習院高等科を経て、1939年(昭和14)3月31日東京帝国大学農学部水産学科卒。 1939年(昭和14)4月1日 海軍航空隊飛行科予備学生として召集。小松島海軍航空隊附兼教官、ボルネオ島東カリマンタン州バリクパパン‐第22特別根拠地隊航空隊長、海軍大尉。1945年(昭和20)に海軍少佐に進級、終戦。1946年(昭和21)7月に復員、召集解除。 1948年(昭和23)鯨類研究所所員。東京大学助教授時代の1951年(昭和26)4月17日には、皇居に招かれ科学委員会合に出席。
吉崎 秀(よしざき ひいず、1915年 <大正4年> 1月2… 吉崎 秀(よしざき ひいず、1915年 <大正4年> 1月23日 - 1991年 <平成3年> 4月30日)は、日本の経営者。トピー工業社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に東京シャリングに入社。日本金属取締役、東都製鋼常務、トピー工業専務を経て、1970年5月にトピー工業副社長に就任し、1977年5月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1985年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 1991年4月30日心不全のために死去。76歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23… 福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉3月18日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。親子2代で内閣総理大臣を務めた福田赳夫の実弟、福田康夫の叔父。小倉クラッチ監査役[要出典]。アントニオ猪木の格闘技の後援会会長を務めた[要出典]。 上州戦争下では、清和政策研究会候補として、群馬県選挙区で中曽根派の最上進や中曽根弘文らと激しい代理戦争を繰り広げた。 1914年(大正3年)群馬県群馬郡金古町足門(群馬町足門を経て現・高崎市足門町)に、金古町長を務めた福田善治の三男として生まれる。1932年(昭和7年)旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を卒業。
文挾 夫佐恵(ふばさみ ふさえ、1914年1月23日 - 2… 文挾 夫佐恵(ふばさみ ふさえ、1914年1月23日 - 2014年5月19日)は、日本の俳人。 東京都生まれ、東京府立第五高等女学校卒。小学校時代より作句、1934年に上川井梨葉主宰の「愛吟」に入会。1944年に飯田蛇笏の「雲母」に入会。のちに同門の石原八束の家での三好達治を囲む文章会に参加した。1961年、八束とともに「秋」の創刊に参加、同人となる。1998年、八束の逝去により「秋」主宰。2006年まで務めたのち佐怒賀正美に主宰を譲り同誌の名誉主宰となる。1965年に第12回現代俳句協会賞、2007年に句集『青愛鷹』により第7回俳句四季大賞、2011年に第2回桂信子賞を受賞。2013年には句集『白駒』(はくく)により、史上最高齢となる99歳で第47回蛇笏賞を受賞した。
片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 … 片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 - 2000年3月5日)は、日本の外交官。元駐リベリア共和国大使。 香川県三豊郡高室村(現 観音寺市室本町)出身。旧制香川県立三豊中学校、ハルピン学院卒業。 外務省留学生として1936年(昭和11年)から3年間滞欧。ラトビアでロシア語を勉強中に古本を集め始め1万冊にもなった。読んでいては間に合わないから近くに住む少女に音読してもらった。のちにその女性が米国へ亡命して数十年後に突然片山邸へ電話し、片山が亡くなる数年前に単身訪米して再会した。 留学から帰国後、1939年(昭和14年)外務省入省。1943年(昭和18年)高等試験行政科試験合格。
大和久 彪(おおわく たけし、1914年1月23日 - 19… 大和久 彪(おおわく たけし、1914年1月23日 - 1956年8月25日)は、将棋棋士。贈八段。石井秀吉七段門下。千葉県千葉市出身。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
小出 栄一(こいで えいいち、1912年1月23日 - 19… 小出 栄一(こいで えいいち、1912年1月23日 - 1979年5月3日)は、日本の官僚、経営者。共同石油社長を務めた。 福岡県出身。1935年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に商工省に入省。 1958年5月に通商産業省重工業局長を経て、1960年5月から1962年7月までに経済企画事務次官を務めた。1962年9月に九州電力顧問に就任し、1963年5月に常務、1972年5月に副社長を経て、1974年6月には共同石油社長に就任。 1979年5月3日、腹膜炎のために在任中に死去。67歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1… 小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1月23日 - 2000年〈平成12年〉11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83・84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。 長野県長野市出身。学習院を経て、1935年(昭和10年)に東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業する(上田貞次郎ゼミナール)。三菱銀行勤務や信越化学工業直江津工場長、同社取締役を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に長野1区(当時)から立候補し、初当選する。以後、当選16回(当選同期に二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - … 鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - 1994年3月9日)は、日本の経営者。鴻池組元会長。全国建設業協会元会長。 大阪府大阪市出身。1937年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大林組での勤務を経て、1939年に鴻池組に入社した。1943年に副社長に就任し、1944年には社長に昇格。1962年には会長も兼任し、1985年から会長に専任した。 1994年3月9日腎不全のために京都大学医学部附属病院で死去。82歳没。
広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月2… 広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月23日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸将。 香川県出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)より広島陸軍幼年学校に転じ、陸軍予科士官学校に進学。44期生の指導生徒も務めたが、そこの区隊長はのちに二・二六事件の首謀者の一人となる村中孝次であった。1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)を卒業。砲兵畑を進む。 第二次世界大戦中、日本とフィンランドの間では暗号解読等の対ソ連情報協力が行われていた。
摩寿意 善郎(ますい よしろう、1911年1月23日 - 1… 摩寿意 善郎(ますい よしろう、1911年1月23日 - 1977年4月25日)は、日本の美術史家、東京芸術大学名誉教授。 1911年1月23日、父・善太郎、母・ツヤの長男として東京府麻布区に生まれる。1924年3月、区立南山小学校を卒業。麻布中学校に進み、1928年に卒業した。1929年、第一高等学校文科甲類に入学。一高時代に三谷隆正教授のブルクハルト「イタリア・ルネッサンスの文化」の講義をうけたのが、ルネッサンス美術史研究の端緒となった。1932年京都帝国大学文学部に入学したが、翌年東京帝国大学に転じ、1936年3月、同大学文学部美学美術史学科を卒業。論文は「美術史の哲学的基礎」。大学卒業と同時に都新聞(現:東京新聞)に入社し、文化部美術担当記者となる。
廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月… 廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月23日 - 2025年〈令和7年〉7月29日)は、日本のスーパーセンテナリアン。大分県中津市在住の長寿の女性。2025年5月21日から死去まで日本最高齢であった。 大分県中津市に生まれた。東京都内の学校で美術を学び、後に広島県内で美術教師として働いた。そこで夫と出会い結婚。夫婦には3人の子供がいる。 老人ホームに入る前は、中津市の自宅で、地元の小学生を対象に書道や絵画の授業を行っていた。 2018年9月に107歳で中津市内最高齢として市長より祝福を受ける。 2021年4月30日には、大分県の最高齢者となる。同年9月17日、大分県知事からも祝福を受けた。
出口 勇蔵(でぐち ゆうぞう、1909年1月23日 - 20… 出口 勇蔵(でぐち ゆうぞう、1909年1月23日 - 2003年4月2日)は、日本の経済学者。経済学博士(京都大学)。京都大学名誉教授。 京都市出身。1933年京都帝国大学経済学部卒。1938年京都大学経済学部助手、講師、助教授、1948年京都大学教授。1952年「経済学と歴史意識」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1968年経済学史学会代表幹事。1972年定年退官、名誉教授、京都薬科大学教授、1984年名城大学教授。経済哲学・経済思想史を専攻した。
槙 哲夫(まき てつお、1908年1月23日 -2006年1… 槙 哲夫(まき てつお、1908年1月23日 -2006年12月23日)は、日本の外科医。専門は、消化器外科,胆石症の研究。医学博士。 青森県七戸町生まれ。 第二高等学校 (旧制)から、東北帝国大学医学部卒業。1933年、同医学部第一外科学教室(教授)に入局。1939年、同医学部助教授。1942-44年、中華民国無錫普仁医院へ出張。1945年、秋田県立女子医学専門学校教授。1949年、弘前医科大学(のち、弘前大学医学部)教授。1961年、東北大学医学部第一外科教授。1965年、東北大学医学部付属病院長。1967-70年、東北大学医学部長。1971年、東北大学名誉教授、東北労災病院長。平成18年死去、享年98。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 199… 和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 1993年5月15日)は、日本の教育家、文筆家。 鎌倉生まれ。父は鉱物学者の和田八重造。 浦和高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部法律学科卒。17歳の頃から人生に深く悩み、28歳で機縁にめぐりあって東京西荻窪で青年のため、一誠寮をという寮を開く。 戦後は小田原で「はじめ寮」、1967年から山北町に一心寮を設けて青少年と生活をともにする。 くだかけ会(家庭教育を見直す会)主宰。同行教育人生科を提唱。息子の和田重良が後継者となり「くだかけ生活舎」を運営している。
水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 199… 水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 1994年 9月30日)は日本の小説家、広告評論家。 サラリーマンのかたわら書いたベストセラーを含み著作は多数で、マルチ広報活動エッセイストとしても活躍した。 第七高等学校造士館文科卒業。1930年東京大学文学部支那哲学科卒業、文学博士。 ベルリン及びミユンヘン大学留学 - 新聞研究室に在籍。 1930年朝日新聞入社。 南京、上海、欧州主にドイツ駐在で、ロシアを含み欧州各国を取材で回る。 自由言論弾圧にあい朝日新聞退社。 東宝(株)入社、宣伝部長。 後楽園スタヂアム支配人。 花王石鹸入社、中国駐在となり、上海公司取締役社長、天津支社長兼工場長。
山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1… 山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1997年1月15日)は、日本の中国哲学者。兄に山室次郎(中部日本新聞社社長)、弟に作家の山室静がいる。 長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、九州帝国大学法文学部選科支那哲学科修了。1933年九州帝大副手を経て、1934年外務省留学生として北京に赴き、1936年北京近代科学図書館初代館長、銭稲孫に委嘱して日本文学の中国語訳をさせる。帰国し、1947年九州帝大法文学部助教授、1960年九州大学文学部教授、1968年定年退官、名誉教授、1970年から1977年まで福岡大学教授、福岡県文化財専門委員、九州管区警察学校講師を務め、1980年から1983年まで東海大学教授。
久山 秀雄(ひさやま ひでお、1905年〈明治38年〉1月2… 久山 秀雄(ひさやま ひでお、1905年〈明治38年〉1月23日 - 1971年〈昭和46年〉8月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、内務省警保局長。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 兵庫県出身。久山春次郎の長男として生まれる。兵庫県立第二神戸中学校を経て、第一高等学校を卒業。1927年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し兵庫県属となり内務部地方課に配属。 以後、地方警視・福井県警察部保安課長、青森県警察部特別高等警察課長、神奈川県警察部警務課長、内務事務官・警保局図書館勤務、山梨県書記官・警察部長、内閣情報部書記官・第一課長、同第二課長兼務、警保局警務課長などを歴任。
日置 陸奥夫(ひおき/へき むつお、1903年(明治36年)… 日置 陸奥夫(ひおき/へき むつお、1903年(明治36年)1月23日 - 1957年(昭和32年)5月26日)は、日本の医学者。金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)教授や同大学附属病院長を務めたほか、日本結核病学会を歴任した。 郷土史家の日置謙の息子として石川県に生まれる。1926年(大正15年)に東京帝国大学医学部卒業後、金沢医科大学にて教鞭を執る。後に同僚であった大里俊吾の指導により、脂質代謝を研究した。 1932年(昭和7年)には同内科助教授となり、1936年(昭和11年)からドイツに留学し、ミュンヘン化学研究所や、カイザー・ウィルヘルム研究所などで研究する。1938年(昭和13年)に帰国し、1942年(昭和17年)に金沢医科大学結核研究所員となり、1944年(昭和19年)には第2内科主任教授となる。
中村 信敏(なかむら のぶとし、1903年(明治36年)1月… 中村 信敏(なかむら のぶとし、1903年(明治36年)1月23日 - 1978年(昭和53年)11月17日)は、日本の法律家。元東京高検刑事部長、退官後、弁護士としてロッキード事件、日通事件等に携わる。妻・榮子は陸軍少将篠原四郎の長女。 1903年(明治36年)、北海道小樽市にて生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法学部を卒業し、司法試験に合格後、検察官に任官し、1931年(昭和6年)9月東京地方裁判所検事に任官される。検察官として中野正剛の逮捕事件、炭鉱国管疑獄事件などに携わる。東京高等検察庁刑事部長などを務め、1951年(昭和26年)退官後、弁護士として、ロッキード事件で児玉誉士夫、日通事件で福島敏行の弁護人を務める。
宮畑 虎彦(みやはた とらひこ、1903年1月23日 - 1… 宮畑 虎彦(みやはた とらひこ、1903年1月23日 - 1988年5月16日)は、日本の男子競泳選手。高知県四万十市下田出身。 1924年パリオリンピックに出場し、男子4×200mフリーリレーにおいては小野田一雄、野田一雄、高石勝男とともに4位になっている。100m自由形にも出場しているが、1次予選で3位に入り敗退している。1928年アムステルダムオリンピックには役員として選手団に同行した。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月2… 金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月23日 - 1970年)は、中華民国、満洲国および大韓民国の教授、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は全州金氏。字は星光、号は竹山。父は旧韓末の正3品議官を務めた金精気。 咸鏡南道興南市生まれ、忠清南道天安郡出身。中央大学法学部、日本大学政治学部卒。北京大学政治科修了。北京基青付専・新京外国語専門学校教授を務めた。帰国後は1939年より天安で果樹園農場を経営し、そのまま解放を迎えた。その後は文化大学副理事長、大韓雄弁会中央委員、大韓国民党天安郡党委員長を歴任した。1948年の初代総選挙では天安郡選挙区に金を含めて10人が立候補したため、激戦で落選した。
斎藤 次郎(さいとう じろう、1901年1月23日 - 19… 斎藤 次郎(さいとう じろう、1901年1月23日 - 1971年6月13日)は、日本の経営者。住友セメント社長を務めた。 東京都出身。1927年に東北帝国大学法文学部を卒業し、同年に磐城セメントに入社。 1939年6月に取締役に就任し、同年12月に常務を経て、1948年4月には社長に就任。 1967年3月に藍綬褒章を受章。 1971年6月13日、急性肺炎と心不全のために死去。70歳没。
多田 基(ただ もとい、1901年(明治34年)1月23日 … 多田 基(ただ もとい、1901年(明治34年)1月23日 - 1995年(平成7年)12月21日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授、学校法人実践女子学園理事長、大月短期大学名誉教授。 1901年(明治34年)1月23日、鳥取県鳥取市に生まれる。1925年(大正14年)に法政大学経済学部を卒業し、1947年(昭和22年)に法政大学教授に就任する。 1961年(昭和36年)に大月短期大学学長に就任する。1974年(昭和49年)に実践女子学園理事長に就任し、1978年(昭和53年)に実践女子大学・短期大学学長を兼任する。 1995年(平成7年)12月21日に死去、94歳。 内田百閒の教え子で、黒澤明の『まあだだよ』の題材である「摩阿陀会」の肝煎(幹事)の一人である。
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日… 神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。 1900年(明治33年)1月23日、鹿児島県出水郡高尾野村(現在の出水市)の神焼酎製造(現神酒造)を営む父・神惣士の長男として生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校から1917年海軍兵学校を受けたが不合格となり、同年10月10日、第48期補欠募集で 166名中29番の成績で入校。1919年10月8日、成績優等章授与。1920年7月16日、171名中10番の成績で海兵48期を卒業。海軍少尉候補生となり装甲巡洋艦「浅間」に乗組。 1920年8月21日、練習艦隊遠洋航海( 基隆〜馬公〜香港〜シンガポール〜コロンボ〜ダーバン〜ケープタウン〜リオデジャネイロ〜サントス〜モンテビデオ〜バイアブランカ〜バルパライソ〜イキケ〜カヤオ〜タヒナ〜トラック〜サイパン〜母島〜父島方面巡航の西廻り世界一周)に出発。
高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月… 高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月23日 - 1969年(昭和44年)12月9日)は、日本の哲学者(カント哲学)。京都学派の一人。西谷啓治、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。 1900年、愛知県名古屋市で生まれた。第四高等学校を卒業し、京都帝国大学哲学科に進んだ。大学では、慕っていた西田幾多郎に師事し、カント哲学の研究の道に進んだ。同期には、三土興三などがいた。1923年に京都帝国大学を卒業。 卒業後は京都医科大学予科の教授に就任。兼任で三高、同志社大学、母校の京都帝国大学法学部ならびに文学部でも教鞭をとった。東京文理科大学助教授、東京商科大学、武蔵高等学校でも講師を務めた。
堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1… 堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1990年12月18日)は日本の銀行家。住友銀行頭取を19年務め(1952年~1971年)、「住銀の法皇」と称された。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長、日本航空元会長。勲一等旭日大綬章受章。元モルガン・スタンレー証券代表取締役会長の堀田健介は長男。大正製薬社長の上原明は二男。
高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月2… 高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1977年〈昭和52年〉9月2日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。高雄州知事、花蓮港庁長。旧姓は早川。 高原金治の長男として福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町豊津)に生まれる。豊津中学(現在の福岡県立育徳館高等学校の前身のひとつ)、旧制第五高等学校を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。 大学卒業後直ちに渡台し、台湾総督府専売局書記庶務課勤務を拝命。ついで専売局副参事、台南州内務部地方課長、府中央研究所事務官庶務課長、府審議室事務官、新竹州警務部長、高雄州内務部長、府事務官殖産局農務課長を経て、1942年(昭和17年)9月、陸軍司政長官に任命され、高雄州知事を務めた。
林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年〈明治32年〉1… 林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1991年〈平成3年〉4月24日)は、吉本興業元会長・社長。興行師、芸能プロモーター。 風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていた。 兵庫県明石市出身で、大阪府大阪市北区育ち。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。母親は林ちよ、姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。実子は林マサで、その夫(娘婿)は林裕章。 1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、19歳で総監督となった。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。
寺尾 豊(てらお ゆたか、1898年(明治31年)1月23日… 寺尾 豊(てらお ゆたか、1898年(明治31年)1月23日 – 1972年(昭和47年)11月27日)は、昭和期の政治家、実業家。位階は正三位。 郵政大臣(第13代)、参議院副議長(第5-6代)、衆議院議員(1期)、参議院議員(5期)。財団法人板垣会第13代会長。板垣退助先生顕彰会初代会長。 眼科医・白石純成の三男として、高知県高岡郡須崎町(現須崎市)に生まれる。後に寺尾英吉の養子となる。私立高知工業学校を卒業後、職工を経て上京する。 1929年(昭和4年)3月、立正大学高等師範部を卒業。1934年(昭和9年)に関東正機を設立し代表取締役に就任。戦時中は、同じ高知県出身の軍人・永野修身の仲介により、日本海軍に魚雷用のジャイロスコープを納入。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月2… 中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる。 熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て(同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。
佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23… 佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23日 - 1948年〈昭和23年〉10月9日)は、日本の政治学者、ジャーナリスト、参議院議員。 1897年(明治30年)1月23日、衆議院議員佐々友房の三男として東京府東京市四谷区四谷箪笥町に生まれる。 東京府立第四中学校・第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学。吉野作造や美濃部達吉の薫陶を受け法学者・政治学者として将来を嘱望される。東京帝大では新人会に参加した。1920年(大正9年)卒業。 卒業後は直ちに東京帝国大学法学部副手・助手を経て、外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。特にドイツにおいては、ハイパーインフレの惨状やヴァイマル共和国の行き詰まり、そしてナチス勃興を目の当たりにし、反ヒトラー派となって帰国した。
蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年… 蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手(中距離走)・指導者、歯科医師。1920年アントワープオリンピックに出場。名はのちに宏。 埼玉県北足立郡大砂土村(現在のさいたま市北区本郷町)出身。生家は素封家。明治39年に大砂土小学校を卒業、旧制浦和中学校(埼玉県立浦和高等学校の前身)を経て、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学の前身)に進学した。 少年時代よりスポーツを愛好し、中距離走に秀でた成績を残した。日本歯科医専在学中に、1920年アントワープオリンピックに参加し、男子800メートル競走および1500メートル競走に出場した。日本国内のオリンピック予選会では800m走(2分05秒0)・1500m走(4分25秒0)の日本記録を残している。
宮田 喜代蔵 (みやた きよぞう、1896年1月23日 - … 宮田 喜代蔵 (みやた きよぞう、1896年1月23日 - 1977年7月7日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 1896年、岡山市で生まれた。1914年に金川中学校(現・岡山県立金川高等学校)を卒業し、神戸高等商業学校(現・神戸大学)本科に進んだ。在学中は坂西由蔵に師事した。1918年に卒業。その後は東京商科大学(現・一橋大学)専攻部領事科に進み、1921年に卒業。福田徳三ゼミに所属し、福田ゼミの同期には赤松要、大熊信行、梅田政勝がいた。 卒業後は名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授となった。1922年から2年間欧州留学を命じられ、イギリス、ドイツ、アメリカに留学。
小坂 武雄(こさか たけお、1895年(明治28年)1月23… 小坂 武雄(こさか たけお、1895年(明治28年)1月23日 - 1971年(昭和46年)10月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。小坂財閥小坂善之助の子。 1895年、長野県長野市で小坂善之助の息子として生まれる。東京帝国大学法学部卒業後、1924年に兄・小坂順造の経営する信濃毎日新聞社に入社する。1942年に同社社長に就任し、同年の衆議院選挙に翼賛政治体制協議会の推薦で長野県第1区から出馬して当選した(所属は翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党)。戦後、公職追放により社長を辞任するが、1953年に公職追放解除により再び社長に就任、積極経営で同社を発展させた。その後は長野商工会議所会頭などを歴任する。
八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)… 八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)1月23日 - 1980年(昭和55年)8月29日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、初代大分県旧杵築市長。 大分県速見郡八坂村大字日野(現杵築市)で、大分県会議長を務めた八坂三治の長男として生まれる。早稲田大学政治経済科で学んだが、中国大陸に心惹かれ中退して満州に渡った。1927年(昭和2年)政治家を目ざして帰郷。 1933年(昭和8年)八坂村会議員に選出された。別府自動車社長に就任し、1939年(昭和14年)大分県会議員となる。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大分県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、その後、民主党に所属し衆議院議員に1期在任した。
大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治… 大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治26年〉1月23日 - 1974年〈昭和49年〉8月1日)は、日本の医師。医学博士。(社)山形県医師会会長〈初代〉。(社)山形市医師会会長〈初代、第5代〔法人化以前からの通算では第7代、第11代〕〉。山形市医師連盟委員長〈初代〉。山形市立病院済生館館長〈第10代〉。大日本帝国陸軍軍医大尉。
長谷川 陸郎(はせがわ ろくろう、1890年(明治23年)1… 長谷川 陸郎(はせがわ ろくろう、1890年(明治23年)1月23日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県名取郡玉浦村(現在の岩沼市)出身。菅井茂兵衛の六男として生まれ、長谷川家に入った。1918年(大正7年)、日本大学を卒業し、同年に弁護士試験に合格した。仙台市に事務所を開き、後に仙台市弁護士会長に選ばれた。また仙台市会議員、宮城県会議員、宮城県参事会員に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、仙台大工業組合顧問、仙台青果業組合顧問、仙台針按協会顧問などを務めた。
宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23… 宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23日 - 1974年(昭和49年)9月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。農業・宇垣十七八(陸軍大将宇垣一成の長兄)の二男として生れた。岡山中学校を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校(23期)の両方に合格する。また、歩兵第39連隊の配属予定だったことが官報に確認できる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「安芸」分隊長、「第23潜水艦」乗組、第3艦隊参謀、「第16潜水艦」「第19潜水艦」の各艦長などを経て、1925年(大正14年)11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。
田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月2… 田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月23日 - 1945年(昭和20年)2月14日 )は日本の逓信官僚であり実業家でもある。東大を学業優秀で卒業し、国から恩賜の銀時計を授与されたいわゆる「銀時計組」であり、卒業後、逓信省入省を経て、事務次官候補となり、京都電燈社長を経て、初代関西配電(現:関西電力)社長となった。日本電信電話工事の社長も務めた。岡山県倉敷市出身。 1884年(明治17年)岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)の生まれ。生家である田邊家は、素封家で代々庄屋をつとめており、この家系の父・田邊彦太郎と母・歌の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1902年(明治35年)に同校を卒業、東京にある第一高等学校の文科イギリス法学科へ進学した。