三木 良一(みき りょういち、1921年12月23日 - 1… 三木 良一(みき りょういち、1921年12月23日 - 1991年7月8日)は、日本の経営者。神戸新聞社社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1946年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に神戸新聞社に入社。1967年に取締役に就任し、1975年に常務、1981年に専務を経て、1982年12月に社長に就任。 1987年2月から1990年2月までに会長を務め、デイリースポーツ社社長も務めた。 1991年7月8日、膵臓癌のために死去。69歳没。
崔 沢元(チェ・テグォン、최택원、1921年12月23日 -… 崔 沢元(チェ・テグォン、최택원、1921年12月23日 - 1995年3月14日)は、大韓民国の軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第四共和国体制で第13代総務処次官。 新義州出身。1943年、日本中央大学卒業。 警備士官学校5期卒業。 在日米軍で研修中に朝鮮戦争開戦を迎え、龍門山の戦いに参加。同年、陸軍大学を経て渡米留学し、米陸軍歩兵学校を卒業。第38師団長、第26師団長、第3師団長等を歴任し、陸軍本部作戦参謀副長で予備役編入後、総務処次官。朴正煕暗殺事件当時、国務会議招集責任者。12.12クーデター直後、行政改革委員長を務めた。 1995年3月14日、ソウル永登浦区汝矣島洞の自宅で老衰により死去した。
豊嶌 雅男(とよしま まさお、1919年12月23日 - 1… 豊嶌 雅男(とよしま まさお、1919年12月23日 - 1945年3月10日)は、大阪府大阪市出身の元大相撲力士。本名は西村 雅男(にしむら まさお)。
江坂 輝弥(えさか てるや、1919年12月23日 - 20… 江坂 輝弥(えさか てるや、1919年12月23日 - 2015年2月8日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学名誉教授。なお本名の正式な表記は「輝彌」である。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部史学科卒業。慶應義塾大学文学部助教授、1971年教授。1982年「縄文土器文化研究序説」で慶應義塾大学より文学博士の学位を取得。1985年定年退任、名誉教授、松阪大学教授。1996年退職。縄文土器、石器時代の日本と大陸との交流について研究。1966年、坂詰秀一、芹沢長介と『考古学ジャーナル』を創刊。 2015年2月8日、老衰のため死去。95歳没。
本間 爽悦(ほんま そうえつ、1919年12月23日 - 1… 本間 爽悦(ほんま そうえつ、1919年12月23日 - 1981年3月13日)は、将棋棋士。棋士番号30。大阪府枚方市出身。中井捨吉八段門下。本名は一雄。 1935年中井捨吉門下で奨励会入り。1942年四段。 1961年に第9期王座戦で優勝、1964年に第5期棋聖戦で大山康晴に挑戦するも3連敗で敗退。日本将棋連盟理事を長く務めた。 1973年八段。1981年、現役中に呼吸不全で死去。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
水野 良一(みずの りょういち、1917年12月23日 - … 水野 良一(みずの りょういち、1917年12月23日 - 1999年6月27日)は、愛知県出身のプロ野球選手。
松本 司朗(まつもと しろう、1917年 <大正6年> 12… 松本 司朗(まつもと しろう、1917年 <大正6年> 12月23日 - 1999年 <平成11年> 5月20日)は、日本の経営者。黄桜社長を務めた。位階は正六位。 京都府出身。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、兵役を経て、復員した1946年に松本治六郎商店(のちの黄桜)に入社。1964年に社長に就任。1995年に相談役に就任。 1979年に藍綬褒章を受章。 1999年5月20日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって従七位から正六位に進階した。
古賀 雷四郎(こが らいしろう、1915年12月23日 - … 古賀 雷四郎(こが らいしろう、1915年12月23日 - 2008年6月13日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。 佐賀県鳥栖市出身。旧制五高を経て1940年に九州帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省し、河川局長、建設技監などを経て、退官。1971年6月27日投票の第9回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、23位で初当選。自由民主党では佐藤栄作派(周山会)→田中角栄派(木曜クラブ)→竹下登派(経世会)に属した。 1977年7月10日投票の第11回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、12位で2回目の当選。1983年6月26日投票の第13回参議院議員通常選挙に比例区から出馬し、26位で3回目の当選。
秋田 一季(あきた かずすえ、1915年〈大正4年〉12月2… 秋田 一季(あきた かずすえ、1915年〈大正4年〉12月23日 - 1997年〈平成9年〉3月30日)は、旧三春藩主家秋田氏第15代当主。夫人は喜美子。養子に秋田美篤(男爵・藤大路親美の子)。三春町名誉町民。 秋田重季・芳子夫妻の子として生まれる。学習院高等科を経て、東北帝国大学卒業。1953年(昭和28年)2月に宮中御歌会諸役へ選ばれる。日本教文社専務取締役となり、1977年(昭和52年)に社団法人出版梓会幹事長へ就任し、その後理事長も務めた。また、日本書籍出版協会理事にもなっている。1987年(昭和62年)11月30日、学習院の同窓会「桜友会」の3代目会長、学校法人学習院理事及び学習院剣道部総監督を歴任。
大久保 政賢(おおくぼ まさかた、1915年 <大正4年> … 大久保 政賢(おおくぼ まさかた、1915年 <大正4年> 12月23日 - 2000年 <平成12年> 7月1日)は、日本の経営者。新潟県西蒲原郡巻町(現・新潟市西蒲区)出身。位階は従五位。 1939年に早稲田大学商学部を卒業。日本郵船での勤務を経て、1960年に新潟臨港海陸運送(のちのリンコーコーポレーション)常務に就任し、1965年に副社長を経て、1971年には社長に就任。1986年6月から会長を務めた。 その一方で、新潟テレビ21初代社長、会長、新潟商工会議所会頭なども歴任。 1981年に藍綬褒章を受章し、1987年に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年7月1日急性腎不全のために新潟市の病院で死去。
龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1… 龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1991年1月1日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。「竜田」という表記もあり。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)を経て、早稲田大学専門部商科卒業。 1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに出場し、73.5m、77.0mを飛ぶがいずれも転倒、46位に終わる。2本目の77.0mはこの大会最長の飛距離だった。 引退後はスコーバレー・グルノーブル両オリンピックでスキーチームの監督をつとめ、その後も全日本スキー連盟の常任理事を務めるなど、スキー界に携わった。実弟の龍田鳳三も元ジャンパーでスキー連盟常任理事などを歴任。
黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913… 黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍少佐、戦闘機操縦士、政治家。 群馬県上野村村長を10期連続40年務めた。日本航空123便墜落事故の事故処理に尽力したことで知られる。また「御巣鷹の尾根」の命名者でもある。称号は上野村名誉村民。正五位、旭日重光章。 1913年(大正2年)12月23日、群馬県多野郡上野村の酒造業を営む家に生まれた。父は後に上野村村長となっている。群馬県立富岡中学校を卒業。 1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。
村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月… 村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月23日 - 2007年4月5日)は、日本の俳優。山口県徳山市出身。本名は村上 済州(むらかみ さいしゅう)。旧芸名は新田 地作。 徳山で生まれ、父親の仕事の都合で兵庫県神戸市、神奈川県横浜市、東京府と移り住み、両親との死別後は福岡県で育つ。 福岡市立大名小学校、中学修猷館、中学明善校、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後、1934年9月に新築地劇団の研究生となり、俳優活動を始める。1936年に劇団員に昇格。1938年の『黒田誠忠録』が映画デビュー作。1940年3月に新築地劇団を退団。5月に芸術小劇場の客員となるが、同年8月に新築地劇団は新田を除名処分としたことを発表。
大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月2… 大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月23日 - 1981年5月18日)は、昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は斎藤 四郎。最高位は十両4枚目。 栃木県宇都宮市出身。上京し鐘淵紡績に就職、会社では運動部員として活躍し、相撲では東京府代表として明治神宮の大会に出場した。春日野部屋に入門し、1934年1月働いていた会社にちなみ「鐘ヶ渕」の四股名で初土俵を踏んだ。順調に番付を上げ、1941年1月に十両に昇進したが3勝12敗と負け越し、幕下に落ちた。幕下で十両復帰を目指したが、この間四股名を「大平山」と改めた。1943年1月に十両に復帰した。十両では勝ち越しと負け越しを繰り返し、9勝が最高成績だった。
中里 恒子(なかざと つねこ、1909年12月23日 - 1… 中里 恒子(なかざと つねこ、1909年12月23日 - 1987年4月5日)は、日本の小説家。本名・恒。神奈川県生まれ。1939年に国際結婚をテーマにした『乗合馬車』『日光室』で女性初の芥川賞を受賞。人生の機敏を典雅な文体で描いた。戦後は『歌枕』『時雨の記』など老境を描いた作品を多く発表した。日本芸術院会員。 1909年(明治42年)、父・中里万蔵、母・保乃の次女として、神奈川県藤沢市に生まれる。家業は幕末から続く呉服太物商である。1922年(大正11年)、横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉学園)に入学。翌年9月の関東大震災で家も学校も焼失したため川崎に転居し、川崎実科高等女学校(現・川崎市立川崎高等学校)に編入する。
星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月… 星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月23日 – 1989年(平成元年)8月7日 ) は、日本の農学者。家畜生理学を専門とした東京大学農学部教授、同名誉教授である。「馬の不妊症に関する内分泌学的研究」で東京帝大農学博士、「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で日本農学賞を受賞。家畜繁殖研究会会長。 「ラットの卵巣静脈血中の黄体ホルモンの化学的測定法の確立に関する研究」は世界で最初の取り組みで、のちに体外受精、胚移植へと発展した。昭和38年度の日本農学賞を受賞した「ラットの哺乳期における内分泌機能に関する研究」(「哺乳期における卵巣機能に関する研究」)は低受胎症の改善に、「家畜不妊症に対する性腺刺激ホルモンの応用に関する研究」は家畜繁殖障害のホルモン療法に貢献した。
土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉… 土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉12月23日 - 1992年〈平成4年〉12月18日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。 鳥取県米子市出身。土井親男の三男。生家は米子東倉吉町、鉄砲火薬の土井親男商店。 1929年に青山学院高等部商科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1967年5月に副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年12月18日に急性心筋梗塞のために死去。84歳没。 長年テニスで身体をきたえた。
廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年… 廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年)12月23日 - 1945年(昭和20年)2月24日)は、台湾総督府警察の警察官、海軍巡査である。毎年9月第三土曜日か日曜日に、台湾・苗栗県南庄郷の勸化堂で慰霊祭が斎行されている。 1905年(明治38年)12月23日、神奈川県足柄下郡根府川村(片浦村を経て現在の小田原市)に生まれる。片浦尋常高等小学校(現・小田原市立片浦小学校)・逗子開成中学・日本大学予科を経て、1928年(昭和3年)に幹部候補生として佐倉歩兵第57連隊へ入隊。軍曹まで昇進する。 満期除隊後、湯河原町の小学校教員となるが、1930年(昭和5年)に職を辞して台湾に渡り、当時難関の職業であった台湾総督府巡査を志願し晴れて合格した。
宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903… 宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903年〈明治36年〉12月23日 - 1956年〈昭和31年〉10月24日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。東京高等歯科医学校病理学教室初代教授、東京大学伝染病研究所病理学研究部長。 新潟県中蒲原郡横越村大字沢海(現 新潟市江南区沢海)の豪農・六代目伊藤文吉の五男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に第二高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月に東京帝国大学医学部病理学教室(担任:緒方知三郎教授)副手に就任、1932年(昭和7年)12月に東京高等歯科医学校病理学教室講師に就任、1933年(昭和8年)3月に東京高等歯科医学校病理学教室初代教授に就任、1935年(昭和10年)7月に東京帝国大学から医学博士号を取得、1944年(昭和19年)4月に東京医学歯学専門学校病理学教室教授に就任、1948年(昭和23年)7月に東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授に就任、東京医科歯科大学歯学部病理学教室講師を兼任、1951年(昭和26年)2月に東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授を兼任、1956年(昭和31年)6月に東京大学伝染病研究所所長事務代理に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授と東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授を兼任。
外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月2… 外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月23日 - 1961年〈昭和36年〉7月28日)は、日本の小説家。本名は外村 茂(とのむら しげる)。東京帝国大学経済学部卒。出自である近江商人の世界を客観的に描いた『草筏』で注目され、『筏』『花筏』と共に長編三部作を成して高く評価された。『落日の光景』『澪標』は私小説の極致と評される。 滋賀県神崎郡南五個荘村金堂(現・東近江市五個荘金堂町)出身。金堂は近世から近代にかけて近江商人発祥地として栄えた土地である。外村家も江戸時代から代々続く木綿問屋で、茂は外村吉太郎の三男として生まれ、保守的な環境で育つ。滋賀県立膳所中学校卒業。第三高等学校文科甲類卒業。
野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月2… 野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月23日 - 1976年(昭和51年)10月15日)は、日本の商学者・学校経営者・政治家だった人物。 学校法人野又学園初代理事長。数多くの学校長を務めた。北海道旭川市出身。子に野又肇がいる。
平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1… 平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1976年3月30日)は、日本の作曲家、小学校教員。教科書掲載の童謡『若葉』の作曲者として知られる。 本名は、均。秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。秋田市立中通小学校に入学したが、父が中学校教員となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)に赴任したため均之自身も埼玉県熊谷町(現・熊谷市)に引っ越す。熊谷市立石原小学校を経て、旧制埼玉県立熊谷中学校に入学。 大正7年、父が亡くなった為熊谷中学校を5年で中退(4年終了)。 大正11年、群馬県新田郡強戸小学校代用教員となる。同年、小学校音楽専科正教員となり大正14年、足利尋常小学校相生校訓導となる。
瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月… 瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月23日 - 1986年(昭和61年)8月5日)は、日本の建築工学・建築構造学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(京都大学)。建築学教室担当。 専門は、建築工学・建築構造(特にラーメン構造・構造計算)、建築材料(特にコンクリート工学)。 京都帝国大学工学部建築学科卒業(指導教授:京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる武田五一)。のちに工学博士(京都大学)。大阪工業大学工学部建築学科に着任。1958年同学科教授。1971年大阪工業大学名誉教授。大阪工業大学建築学科にて長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築構造・建築材料の研究推進・育成に貢献した。
小林 富次郎 (三代目)(こばやし とみじろう、旧名は小林喜… 小林 富次郎 (三代目)(こばやし とみじろう、旧名は小林喜一、1899年12月23日 - 1992年7月18日)は、日本の経営者。ライオン歯磨(現在のライオン)社長、会長を務めた。東京都出身。2代目小林富次郎の長男。妻・美代子は西野恵之助(白木屋呉服店社長・日本航空輸送社長)の次女。長男は小林敦。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 1929年に小林商店副社長に就任し、1935年には社長に昇格。1967年1月にライオン歯磨会長に就任。 1957年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年7月18日心不全のため死去。92歳没。
坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 199… 坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 1991年2月22日)は、日本の内務官僚、実業家。富山県知事、警視総監、大商証券社長。旧姓・田中。坂信彌とも表記、あるいはこちらが正確か。 堺市出身、本籍・山口県。農業・市会議員、田中龍太郎の四男として生まれる。堺中学校、第八高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り茨城県属として内務部産業課に配属された。その後、長州系官僚である坂仲輔の家の婿養子に迎えられる。 1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 199… 藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 1993年1月4日)は、大正-平成期の婦人運動家・教育者。津田塾大学学長、労働省婦人少年局長、新日本婦人同盟会長を務めた。 判事・藤田菊江の二女として、赴任先である愛知県名古屋市橦木町(後の東区)で誕生。母・かめきがクリスチャンだった関係で幼児洗礼を受けている。父は仕事柄転勤が多く、一家はたきが尋常小学校2年生の時に那覇に、5年生の時に富山に、卒業後は旅順にと引っ越しを繰り返した。1913年(大正2年)に父は退官。大阪で弁護士事務所を開くが、頑固な性格が災いし経営は上手くいかなかった。 たきは1914年(大正3年)金蘭会高等女学校の3年に編入。
橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12… 橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12月23日 - 昭和45年(1970年)3月15日)は、日本海軍の軍人(最終階級は海軍大佐)、実業家。東京市渋谷区出身。 首相を務めた橋本龍太郎の伯父にあたる。 日本麦酒社員橋本卯太郎、マツの二男として生まれた。 大正9年(1920年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。海軍大学校選科学生として無線兵器研究のため派遣され、昭和3年(1928年)東北帝国大学工学部を卒業。以後、呉海軍工廠電気部員、海軍通信学校教官、海軍艦政本部員、海軍技術研究所員、独乙瑞典駐在並に駐在武官、沼津海軍工廠無線部作業主任等歴任。 戦後、寿電業社長、六興電気副社長などを務めた。
田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1… 田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1983年4月19日)は、日本の美術史家である。 山形県鶴岡市に生まれ、旧制中学校の山形県立荘内中学校、旧制高等学校の第一高等学校を経て、1918年に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、1923年に卒業した。 1924年から東京帝室博物館(現東京国立博物館)に勤務し、文化財の調査研究・保護にあたった。1952年に東京文化財研究所美術部長、1953年に同所長となった。1964年に退任し、1965年から國華社主幹、1977年から死去まで編集顧問を務めた。 田中は研究者としても精力的に活動した。1926年に古社寺保存計画調査嘱託、1935年に国宝保存に関する調査嘱託、1936年に重要美術品等調査委員会の臨時委員を務めた。
児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 19… 児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 1966年3月11日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。兵庫県出身。 1920年に東京帝国大学独法科を卒業。 安田保善社、安田銀行での勤務を経て、1937年に第九十八銀行社長、1943年に千葉銀行副頭取を歴任し、1952年1月には千葉興業銀行頭取に就任。1963年5月には会長に就任。 1960年に黄綬褒章を受章。 1966年3月11日脳軟化症のために死去。71歳没。
3代八馬 兼介(はちうま かねすけ、旧名・栄之介、1894年… 3代八馬 兼介(はちうま かねすけ、旧名・栄之介、1894年〈明治27年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉8月12日)は、日本の実業家、政治家、資産家、兵庫県多額納税者。貴族院議員。神戸銀行頭取。八馬汽船相談役。勲四等。 兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。兵庫県平民、海運業・八馬永蔵の長男。初代八馬兼介の孫。1916年、早稲田大学商科卒業。 1917年、家督を相続し、旧名・栄之介を改めた。精米及び海運業を営み、傍ら銀行会社の重役であった。 西宮市会議員、日本船主協会、日伯協会各理事、八馬汽船社長、同会長、同相談役、武庫銀行、西宮銀行各頭取、日伯拓殖、大同信託、神戸土地興業、日本毛織、共同信託、東洋パルプ各取締役、西宮酒造、神戸海上火災保険、朝日海上火災保険、梅田映画劇場、阪神急行電鉄、東京宝塚劇場、山陽中央水電、南街映画劇場、神戸瓦斯、日本鉱産業、桐花興業各監査役、神戸信託相談役、多聞代表社員などを務めた。
清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 197… 清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 1974年11月19日)は、日本の教育者および機械設計製図の研究で知られる機械工学者である。愛媛県出身。 建築家で東京工業大学教授兼東京藝術大学教授を務めた清家清の父。労働経済学者で慶應義塾塾長や日本私立大学連盟会長を歴任した清家篤は孫。 1914年 東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業後、芝浦製作所(現東芝)に入社。その後、自ら起業したり、他の企業に勤めたりした後、1923年、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)教授となる。1935年、東京府立電機工業学校校長となり、後に府立工業専門学校校長を併任し、1951年まで歴任。1949年、東京都立大学工学部長。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月… 大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 香川県木田郡氷上村(現在の三木町)出身。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。同年、高等文官試験に合格し、翌年に朝鮮総督府試補となった。道事務官、咸鏡北道財務部長、慶尚南道財務部長、京畿道財務部長、全羅北道内務部長、平壌府尹、釜山府尹、京畿道内務部長などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、東亜窒業株式会社社長、協同油脂株式会社社長、満州協同油脂株式会社社長、協同油脂販売株式会社社長、協同油脂製函株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社取締役、朝鮮水産開発株式会社顧問、朝鮮協同海運株式会社相談役などを務めた。
丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉1… 丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉11月4日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県出水郡出水町(現出水市)に生まれる。1908年(明治41年)台湾総督府に奉職し、通信局勤務、土木局庶務課勤務、総督官房会計課勤務を経て、1936年(昭和11年)12月に地方理事官に進み、台南市助役となった。その後は、台北州羅東郡守、同州基隆郡守を経て、1942年(昭和17年)4月に退官し、皇民奉公会中央本部主事に就任した。 戦後は、日本基督教団阿久根伝道所長老となった。
神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - … 神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - 1988年4月5日)は、日本の国際政治学者。 三重県生まれ。第一高等学校卒業後、東京帝国大学法学部で国際政治学を専攻する。同じ東京帝大法学部の同期に南原繁がいる。 1923年から東京帝国大学法学部教授。1940年、皇紀2600年の記念に大正製薬創業者・初代社長の石井絹治郎らと共に皇道文化研究所を設立した。1929年、東京大学より法学博士を授与(論文タイトルは『国際聯盟政策論』)。 1947年、公職不適格と認定され、東京大学を去った。1950年に公職不適格認定が解除され、東京大学名誉教授となると同時に明治大学教授に就任。1953年に日本学士院会員となり、日本国際政治学会・日本国際問題研究所の設立にも関わりそれぞれ初代理事長・初代所長を務めた。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月… 野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)。
三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月… 三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月23日 - 1958年(昭和33年)4月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、東京市助役。 富山県上新川郡飯野村(のち広田村飯野、現在・富山市)出身。三辺長三郎の三男として生まれる。富山中学、第四高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り埼玉県属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務属となり警保局に配属。その後、大正3年(1914年)に愛媛県視学官、大正5年(1916年)に大阪府視学官、大正8年(1919年)に内務省地方局事務官となり、地方局市町村課長・都市課長・行政課長などを歴任。
西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉1… 西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1964年〈昭和39年〉12月26日)は、日本の国史学者。本名・直二。京都大学名誉教授。 1886年、大阪府西成郡清堀村(現・大阪市天王寺区)で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、史学科国史学専攻1期生として内田銀蔵・三浦周行・原勝郎・内藤湖南らの下で学んだ。1910年に卒業。同年、同大学大学院に進み、日本文化史を専攻。 1915年、京都帝国大学講師に就いた。1919年に助教授、1924年に教授昇格。1924年に学位論文『王朝ノ庶民階級』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。 政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任。
赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12… 赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉3月12日)は、日本の宗教学者。 1886年、山口県周南市で赤松照幢の長男として、浄土真宗の徳応寺に生まれた。第五高等学校に進学し、3年の時には総代であった。 1940年、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。同大学哲学科は前年の1939年に開設されたばかりであり、宗教学科では松本文三郎に師事。1910年7月に首席で卒業。同大学大学院に進み、一方で仏教大学(現・龍谷大学)で教鞭も執った。大学院には羽渓了諦、宇野円空らが在籍しており、学生間ならびに教授陣との交流も活発であり、東京帝国大学と京都帝国大学の有志が集まって1915年に「宗教研究会」(現・日本宗教学会)を設立。
入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885… 入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885年12月23日 - 1945年5月13日)は、日本の教育学者。鳥取県日野郡宮内村(現日南町)生まれ。1911年東京帝国大学哲学科卒業後、神宮皇学館教授を経て、1932年東京帝国大学教授に就任。大正新教育運動の旗手の一人。専門は欧米教育思想史。新学校あるいは体験学校と名付けた実践的研究を行った。また、新教育協会を設立した。 1929年、東京大学文学博士。論文の題は「汎愛派教育思想の研究」。 1945年5月13日、東京帝大小石川分院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月… 尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月23日 - 没年不明)は、日本の商人(醤油商)、醤油醸造家、広島県醤油同業組合長、広島県多額納税者、実業家。備南銀行取締役。 広島県広島市出身。先代忠蔵の長男。神田吉松の兄。広島県立広島商業学校を卒業。安政3年創業の醤油醸造業を承継し、傍ら銀行の重役であり県下の多額納税者に列した。 1926年、広島県醤油同業組合長に就任し、同年に先代退隠により家督を相続した。1927年以来、町総代。1930年、備南銀行取締役に当選。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は魚釣、書画、骨董。宗教は真言宗。処世の信条は、穏健着実主義。住所は広島市胡町。
松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月… 松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月23日 - 1972年(昭和47年)7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 和歌山県名草郡、のちの海草郡貴志村(現和歌山市)で生まれた。関西法律学校を経て、1906年京都法政大学(現在の立命館大学)法律科卒。卒業後は古河鉱業から大阪市役所に勤務する。津市共融合資会社の法律顧問となり津市に来住。 その後、津市議、同副議長、三重県議などを経て、1930年の第17回衆議院議員総選挙では三重1区(当時)から立憲民政党非公認で立候補して最下位で初当選し、同選挙区で民政党4人目の当選者となった。以来連続7回当選。米内内閣大蔵参与官、第1次吉田内閣運輸政務次官などを歴任した。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月2… 安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月23日 - 1966年〈昭和41年〉6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。位階は正三位。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 医師安倍義任(よしとう)、品(しな)の八男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学へと進む。ただし、家庭の経済事情により中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月2… 江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。 佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。6人兄弟姉妹の長男(姉2人と弟と妹2人)だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。 1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が死去。
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月2… 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の芸術家、実業家、思想家、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動した。箱根美術館、熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。 1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)に古道具屋の次男として生まれる。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼病のため中退を余儀なくする。
速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 194… 速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 1943年6月27日)は、日本の心理学者。 1876年、岡山県生まれ。東京帝国大学を卒業。旧制山口高等学校、第一高等学校教授、1924年京城帝国大学教授、のち総長。墓所は多磨霊園