千葉 敏郎(ちば としお、1926年4月30日 - 2010… 千葉 敏郎(ちば としお、1926年4月30日 - 2010年)は、日本の俳優。旧芸名及び本名は鈴木 登四男(すずき としお)。 千葉県出身。明治大学卒業後に1950年に大映入社(大映ニューフェース6期生)。1953年に映画『社長秘書』で千葉 登四男名義で正式デビュー。1958年に千葉 敏郎に改名。1965年に大映を退社するまでに100本以上の映画に強面の斬られ役などの端役で出演した。 テレビドラマに活動の場を移してからも、主に時代劇でヤクザの親分や用心棒の浪人役などで強い印象を残し、1980年代頃まで活躍した。とりわけ近衛十四郎主演の素浪人シリーズ『素浪人 花山大吉』などへの出演は多い(いずれも悪役としての出演)。
水原 一(みずはら はじめ、1925年〈大正14年〉4月30… 水原 一(みずはら はじめ、1925年〈大正14年〉4月30日 - 2008年〈平成20年〉10月26日)は、日本の国文学者。専門は中世文学、特に『平家物語』などの軍記物語。駒澤大学名誉教授。 東京生まれ。駒澤大学大学院修了、同教授、1997年退職、二松学舎大学教授。 1980年『延慶本平家物語論考』により角川源義賞受賞。
岩田 正(いわた ただし、1924年4月30日 - 2017… 岩田 正(いわた ただし、1924年4月30日 - 2017年11月3日)は、日本の歌人、評論家。妻で歌人の馬場あき子と「かりん」を創刊。 東京世田谷駒沢生まれ。国士舘中学校在学中に短歌を知る。早稲田大学高等学院予科を経て、早稲田大学文学部国文科卒。在学中の1946年に早稲田大学短歌会に入会し、同年歌誌「まひる野」創刊に参加。窪田空穂、窪田章一郎に師事。また渡辺順三編集の「人民短歌」(後の「新日本歌人」)の編集手伝いを行う。大学卒業後、都立高等学校教諭となり定年退職まで務める。 1977年に「まひる野」を退会。1978年に馬場あき子とともに歌誌「かりん」を創刊。朝日カルチャーセンター、角川短歌通信講座などで短歌を指導。
好美 のぼる(よしみ のぼる、本名:尾原 三好、1924年4… 好美 のぼる(よしみ のぼる、本名:尾原 三好、1924年4月30日 - 1996年4月)は日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。代表作は「にくしみ」「あっ!生命線が切れている」。 1924年、兵庫県神戸市に生まれる。日本大学卒業。広告会社勤務を経て、大阪に移り赤本漫画家としてデビュー、その後も貸本漫画を執筆する。その後は東京に再上京、曙出版の貸本漫画やB級劇画雑誌などで活躍した。 1969年に『週刊少女フレンド』に短期連載された復讐ホラー漫画「にくしみ」は「子供調査研究所マンガ嗜好調査」のベスト10に選出されたという。 晩年は立風書房で描きおろしのホラー漫画を執筆。また、趣味である折り紙やペーパークラフトの本を出版し、近所の子供に作り方を教えるなどしていた。
伊藤 雅俊 (いとう まさとし、1924年〈大正13年〉4月… 伊藤 雅俊 (いとう まさとし、1924年〈大正13年〉4月30日 - 2023年〈令和5年〉3月10日)は、日本の実業家。イトーヨーカ堂、セブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンの設立者である。その手法は「資本主義の精神」そのものと言われた。 東京生まれ。東京市立京橋商業学校(現・東京都立芝商業高等学校)を経て横浜市立商業専門学校(現・横浜市立大学)を卒業。1944年三菱鉱業(現・三菱マテリアル)入社。数ヶ月後には召集され、香川県豊浜に臨時で設営された陸軍特別甲種幹部学校に入学するも、すぐに終戦となった。 三菱鉱業へ復職し、秋田県の尾去沢鉱山へ勤める。だが、3ヶ月ほどで退社し、1946年に北千住で母・ゆきと異父兄・讓が開いた洋品店「羊華堂」に合流する。
池田 修三(いけだ しゅうぞう、1922年(大正11年)4月… 池田 修三(いけだ しゅうぞう、1922年(大正11年)4月30日 - 2004年(平成16年)11月10日)は、秋田県由利郡象潟町(現在のにかほ市象潟)生まれの版画家。 父は開業医で、姉のほか男4人兄弟の3男として生まれる。 秋田県立本荘中学校(現:秋田県立本荘高等学校)を卒業後、1942年に東京高等師範学校(現:筑波大学)芸能科に入学。学業途中で陸軍工兵学校に入隊するが、敗戦で東京高等師範を繰り上げ卒業した。 1946年、秋田県立由利高等学校に美術科教諭として赴任し、1952年には聖霊高等学校(現:聖霊女子短期大学付属高等学校)に移る。たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻の知遇を得て、1955年同校を退職。
藤沼 基利(ふじぬま もととし、1920年4月30日 - 1… 藤沼 基利(ふじぬま もととし、1920年4月30日 - 1984年11月20日)は、日本の実業家。積水化学工業株式会社代表取締役社長。 父・不二男、母・ミキの長男として東京日本橋で出生。不二男は院展系の日本画家。大森第二小学校、芝中学校を経て、1939年(昭和14年)旧制浦和高等学校文科甲類に入学。1944年(昭和19年)東京帝国大学経済学部経済学科卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年(昭和19年)2月、海軍経理学校に入校。同年9月、経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。終戦を迎え、1945年(昭和20年)9月、主計中尉に進み予備役に編入された。 1953年(昭和28年)積水化学工業株式会社に入社。
児玉 数夫(こだま かずお、1920年4月30日 - 202… 児玉 数夫(こだま かずお、1920年4月30日 - 2022年7月20日[要出典])は、日本の映画評論家。別名、玉松 徳夫(タママツ トクオ)。日本映画ペンクラブ名誉会員。 東京府東京市赤坂区溜池町(現在の東京都港区赤坂)に生まれる。本籍は三重県伊勢市。1941年、日本大学専門部経済科卒業後、外務省に入省し、調査部、情報局第三部に配属。 戦後は1947年にセントラル映画社に入社、のちロマンス社『フォトプレイ』日本語版・編集部他を経て、映画評論家となる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岩猿 敏生(いわさる としお、1919年4月30日 - 20… 岩猿 敏生(いわさる としお、1919年4月30日 - 2016年4月9日)は、図書館学者。 福岡県田方郡方城町(現:福智町)生まれ。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1948年福岡県立高校教諭、1950年九州大学図書館司書官、1956年京都大学図書館事務長・事務部長、1976年関西大学文学部教授、1990年同大学退職。1995年から2013年まで日本図書館協会顧問。
塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30… 塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30日 - 2005年〈平成17年〉9月15日)は、日本の運輸技官、気象学者。理学博士。元日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長、元日本大学生産工学部教授。日本風工学会名誉会員。 新潟県新潟市古町通12番町(現 新潟市中央区)出身。1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1937年(昭和12年)3月に新潟高等学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 逓信省中央航空研究所技手に就任、1944年(昭和19年)に応召、1945年(昭和20年)に復員、12月に運輸省鉄道技術研究所技師に就任、交通気象研究室に勤務、1949年(昭和24年)から日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室に勤務、1950年(昭和25年)5月に東北大学から理学博士の学位を取得、1954年(昭和29年)10月からアメリカのテキサス農工大学海洋学部で微気象について研究、1955年(昭和30年)11月からアメリカ各地の研究機関を視察、12月に帰国、1958年(昭和33年)5月に日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長に就任。
野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月3… 野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月30日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は福岡県出身の俳人。高浜虚子に師事、「菜殻火」主宰。本名は正男(まさお)。
猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30… 猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30日 - )は、日本の陸軍軍人。陸軍中野学校1期生で、ポツダム宣言受諾後の皇統護持作戦に参加し、「本丸」計画の責任者であった。最終階級は陸軍少佐。 福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1934年(昭和9年)会津中学を卒業し二高に進学したが、学費滞納で中退する。1937年(昭和12年)歩兵第29連隊に入隊し、翌年には歩兵学校で通信を専攻した。 この1938年(昭和13年)7月には、秋草俊や岩畔豪雄らが中心になり陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所が設立される。猪俣は騎兵学校の推薦で、養成所の入所試験に合格した。事前の知識としては情報関係の仕事である程度しかなく、入所後に長期海外勤務要員と知らされる。
昆布 猛(こんぶ たけし、1916年4月30日 - 2001… 昆布 猛(こんぶ たけし、1916年4月30日 - 2001年12月16日)は、日本の経営者。三楽オーシャン(現在のメルシャン)社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京外国語大学中国語学科を卒業し、同年に味の素に入社した。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1973年10月に専務、1979年6月に三楽オーシャン副社長を経て、1985年3月に社長に就任した。1987年3月に会長を経て、1988年3月には相談役に就任。 2001年12月16日肺炎のために死去。85歳没。
橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月… 橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月30日 - 没年不明)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 熊本県出身。1936年に熊本高等工業学校土木科を卒業し、同年に西松組(のちの西松建設)に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年11月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1983年6月に会長、1987年6月に取締役相談役を経て、1991年6月から顧問を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
名取 芳夫(なとり よしお、1914年4月30日 - 197… 名取 芳夫(なとり よしお、1914年4月30日 - 1975年4月2日)は、日本の元プロボクサー。山梨県北巨摩郡保坂村出身。戦前における日本および東洋ウェルター級チャンピオン。東京拳闘協会所属。日本ボクシング草創期の強豪。 北巨摩郡保坂村に生まれる。上京して錦城中学から正則高校へ進学、東京拳闘協会に入門する。1932年1月11日、英国の強豪エス・ハリーを3回TKOに破ってデビュー。頭脳派のテクニシャンで、原靖、平川末男、熊谷二郎ら日本の強豪のほか、ジョー・サクラメント、ファイティング・アボルトら比国の名選手も破る。 1934年12月25日、日本拳闘連盟主催の選手権大会で強打者佐藤利一に7回反則勝ち、日本ウェルター級王者となる。
金子 みつ(かねこ みつ、1914年4月30日 - 2005… 金子 みつ(かねこ みつ、1914年4月30日 - 2005年8月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期、日本社会党)。本名は金子光。 東京府出身。女子学院、聖路加女子専門学校(現聖路加国際大学)卒業。厚生省看護課長、東京大学助教授などを歴任。 1972年の衆院選で旧東京4区から立候補し初当選。連続当選6回。1990年に引退するまで、社会党副委員長(1986-1990年)などを務めた。1996年、新社会党結成に参加した。 「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。 1991年、秋の叙勲で勲二等宝冠章受章。 1998年、キリスト教界における長年の功績が認められ日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けた。
砧 一郎(きぬた いちろう、1914年4月30日 - 没年不… 砧 一郎(きぬた いちろう、1914年4月30日 - 没年不明)は、日本の翻訳家。本名は、福本 剛一郎(ふくもと ごういちろう)。 満洲国大連税関長・福本順三郎(大山郁夫の弟)の長男として生まれる。1936年北海道帝国大学理学部卒業後、日本化成工業入社。三菱化成工業勤務の傍ら、推理小説やノンフィクションを数多く翻訳した。 1970年代以降翻訳作品は確認されておらず、すでに故人と推定されるが、没年・死因は明らかではない。
鈴木 保男(すずき やすお、1913年4月30日 - 200… 鈴木 保男(すずき やすお、1913年4月30日 - 2000年以前)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表としてベルリンオリンピックに出場した。後に改姓して高島保男となった。 東京府立第八中学校 (現:東京都立小山台高等学校) を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に入部した。堀江忠男や立原元夫らが同期に当たり、大学在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。 1936年に大学を卒業した。同年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表メンバーに選出され、8月7日のイタリア代表戦に出場した。
中江 孝男(なかえ たかお、1913年4月30日 - 没年不… 中江 孝男(なかえ たかお、1913年4月30日 - 没年不明)は、日本の官僚・実業家。東京帝国大学在学中にバスケットボール選手として活躍し、1936年ベルリンオリンピックへの出場経験がある。のちに農林省に官僚として勤務したのち、祖父中江種造の興した中江産業に務める。志賀直哉の娘婿である。 祖父は鉱山王と呼ばれ中江産業を興した中江種造。父は種造の子・種一で、母は料理研究家として知られる中江百合(渡辺暢の娘)。 旧制成城高等学校、東京帝国大学農学部に学び、籠球部に所属。1936年ベルリンオリンピックでは、同じ東京帝大の田中秀次郎・鹿子木健日子とともにバスケットボール日本代表に選ばれた。 大学卒業後、農林省に入省し官僚となる。
吉田 豊信(よしだ とよのぶ、1911年(明治44年)4月3… 吉田 豊信(よしだ とよのぶ、1911年(明治44年)4月30日 - 1984年(昭和59年)7月21日)は、日本の政治家。兵庫県姫路市長(4期)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 兵庫県飾磨郡白浜村(現・姫路市)生まれ。旧制姫路中学校卒業後、東京帝国大学法学部に進み、高等試験並びに内務省幹部採用試験に合格した。1934年(昭和9年)、内務省に入省、大阪府、岩手県で勤務ののち、1938年(昭和13年)、陸軍に召集され姫路の第10師団歩兵第39連隊に入隊した。その後、甲種幹部候補生採用試験に合格、東京の陸軍経理学校への入校を経て、陸軍主計少尉に任官し、第10師団経理部で物資統制主任将校を務めた。1942年(昭和17年)2月、召集解除により内務省に復帰し、福岡県、愛知県で勤務、終戦後は厚生省佐世保引揚援護局総務部長、愛知県教育部長を務める。
戸田 康英(とだ やすひで、1911年4月30日 - 197… 戸田 康英(とだ やすひで、1911年4月30日 - 1977年4月2日)は、日本の宮内省・宮内庁官僚。東宮侍従。旧松本藩主戸田子爵家の当主で、祖父は第2代子爵戸田康泰、父は第3代子爵戸田康保。浅野忠允(浅野鉄馬養子)、本多光孝(本多忠昭養子)は実弟である。 学習院初等科・中高等科を経て東京帝国大学文学部卒業。1935年宮内省図書寮に入省。1937年侍従、1946年皇太子傅育官として明仁親王に仕えた。1965年4月、東宮侍従長に就任する。英国女王エリザベス2世の戴冠式を始め、皇太子の海外訪問にたびたび随行した。1968年11月、松本市名誉市民となる。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4… 加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4月30日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。 香川県高松市出身。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する。高松商業を経て、奉天外国語学堂支那語科を卒業。 父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる。海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した。
村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年… 村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年)4月30日 - 1995年(平成7年)4月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県南海部郡大入島村(現佐伯市)で、村上袈裟松の息子として生まれる。父の土建業経営の関係で朝鮮に移住。京城簡易商業学校を卒業し、家業の土木請負業に従事。国内、朝鮮、満洲などで発電所、トンネルなどの工事を請け負い、1933年(昭和8年)村上組が設立され常務に就任した。 終戦後に朝鮮から引揚げ、別府の白雲山荘を買収して取締役社長に就任。戦後の復興に政治の力が不可欠と考え、兄村上勇と共に鳩山一郎に相談し、1946年(昭和21年)2月に日本自由党大分県支部を立ち上げ、同年、村上建設社長に就任。
大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1… 大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1974年7月1日)は、昭和期日本のドイツ文学者。京都大学名誉教授。 香川県出身。旧制第六高等学校から京都帝国大学文学部独文科に進み1928年に卒業。学生時代は土井虎賀寿と下宿が同じで、親友であった。旧制第三高等学校講師、京都帝国大学文学部講師、法政大学予科講師などを経て、1946年に京都大学文学部助教授、1950年に同教授となり、1968年に京大を定年退官してからは関西学院大学教授を務めた。 文人気質の外国文学者としてゲーテやリルケをはじめとする多数の翻訳を著した。戦後まもなく出版された『洛中書問』は、中国文学者の吉川幸次郎との往復書簡で、東西古典の翻訳のあり方をめぐる論議である。
川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4… 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。 妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。 名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。
印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2… 印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本の演出家、演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。 長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。 演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。
佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 19… 佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 1964年7月7日)は、日本の経営者。東京都出身。 1928年に東京帝国大学応用化学科を卒業。旭硝子、三菱化成工業での勤務を経て、1950年に日本化成工業常務に就任し、1958年3月に三菱化成工業副社長を経て、1963年9月には社長に就任した。 1964年7月7日胃潰瘍のために社長在任時死去。61歳没。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 19… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 1993年6月23日)は、明治期から昭和期にかけての歌人、実業家。 福井県福井市出身。旧制福井中学校(現福井県立藤島高等学校)、東京帝国大学法学部卒業。石川島造船所自動車部門に入社し、のちにいすゞ自動車専務取締役や相談役を務めた。1974年、勲三等瑞宝章受章。東京都杉並区天沼に居を構えた。 歌人としては1925年「アララギ」に入会、土屋文明に師事し、のち選者、発行人。歌誌「柊」選者。高度経済成長期を背景に写実主義を貫いた。1965年『くさぐさの歌』で第11回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)、1976年『流るる雲』で第27回読売文学賞、1988年『朝の霧』で第23回迢空賞受賞。
竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 19… 竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 1971年2月4日)は、日本の政治家、参議院議員(1期)、歯科医師。日本歯科医政連盟会長、日本歯科医師会会長。 兵庫県洲本市出身。大阪歯科医学専門学校卒業、歯学博士。1956年7月、第4回参議院議員通常選挙に出馬し、初当選。1963年10月、参議院地方行政委員長に就任。1965年6月、第1次佐藤第1次改造内閣で大蔵政務次官に就任。 1971年2月4日死去、70歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙される。
有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 198… 有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 1986年2月9日)は、日本の政治家、逓信及び運輸官僚。文部大臣(第87代)、科学技術庁長官(第17代)、防衛庁長官(第24代)、経済企画庁長官(第22代)、衆議院議員(9期)。 兵庫県氷上郡氷上町(現丹波市)出身。旧制兵庫県立柏原中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。逓信省大阪逓信局長や運輸省海運総局長を経て政界入り。政治家となってからは芦田均と行動をともにしたが、保守合同により自由民主党が結成されると旧芦田派の一部とともに岸派に入り、岸派の分裂後は福田派に属した。福田赳夫の右腕といわれ1966年8月、福田が大蔵大臣を務める第1次佐藤第2次改造内閣で文部大臣兼科学技術庁長官として初入閣。
香月 保(かつき / かずき たもつ、1901年(明治34年… 香月 保(かつき / かずき たもつ、1901年(明治34年)4月30日 - 1964年(昭和39年)3月12日)は、日本のジャーナリスト。福岡県田川市長。 福岡県田川郡方城村大字弁城(方城町を経て現福智町弁城)に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を卒業、同級生には後に朝日新聞で同僚となる笠信太郎と益田豊彦がいる。1923年東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 東京朝日新聞に入社し、同社ロンドン支局長、亜細亜部長を経て、1945年朝日新聞大阪本社編集局長に就任する。 1947年4月第1回大阪府知事選挙に日本社会党公認候補として立候補するが、修猷館の同級生である赤間文三に敗れ落選する。 1951年田川市長に当選し、1955年まで務める。
三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈… 三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈明治34年〉4月30日 - 1983年〈昭和58年〉9月7日)は、日本画家。日本芸術院会員、京都府美術工芸功労者、京都市文化功労者、与板町名誉町民(現在は長岡市名誉市民)。堂本印象の義弟。 1901年(明治34年)新潟県三島郡与板町長丁(現長岡市)に生まれる。父は洋画家の三輪越龍(本名:三輪大次郎)。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校入学。1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。 堂本印象に師事し、当初は超世と号した。1927年(昭和2年)第8回帝展に「東山」が初入選。
井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 198… 井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 1985年2月6日)は、日本の翻訳家、ジャーナリスト。 広島県生まれ。1923年(大正12年)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語部卒業。東京帝国大学文科選科に入るが中退。1926年に東京外国語学校英語部選科を卒業、報知新聞に入社。特派員として渡米するが1927年に退社し、サンフランシスコの日本新聞の記者となる。その後パリに渡りソルボンヌ大学で学ぶ。再び米国に戻り、ロサンゼルスの日米新聞編集長を務め、加州毎日新聞の創設に参画。サンフランシスコの北米朝日新聞編集長を務めた後、1933年に帰国。外務省を経て、1936年3月に同盟通信社(以下、同盟)へ入社。
野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、19… 野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、1900年〈明治33年〉4月30日 - 1934年〈昭和9年〉2月19日)は、日本の在野のマルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに、幹部(委員長)として党を指導するなど、実践活動にも関わった。 北海道長沼町に生まれ育ち、旧制北海中学(現北海高等学校)から慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)に進む。少年時代は野球のスコアラーを勤めたが、小学2年で関節炎のため片足を切断した。彼が北海中学、慶應義塾大学部に入学したのは、片足切断という障害のために公立中学・官立高校には入学を認められなかったからである。
岸本 義広(きしもと よしひろ、1897年〈明治30年〉4月… 岸本 義広(きしもと よしひろ、1897年〈明治30年〉4月30日 - 1965年〈昭和40年〉9月10日)は、日本の検察官、政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府岸和田市生まれ。大阪府立岸和田中学校、第三高等学校を経て、1923年に東京帝国大学を卒業し、同年に検事となる。1945年に東京地検の検事正、1946年に札幌高等検察庁検事長となる。広島高等検察庁検事長を経て、1951年に大橋武夫法務総裁の強い要望で次長検事として中央に復帰(その過程で木内騒動が発生した)。1955年に法務事務次官、1957年に東京高等検察庁検事長となる。在任中の売春汚職事件で、読売新聞によって「売春汚職のため収賄容疑で召喚必至」と報じられた宇都宮徳馬が同紙記者を名誉毀損罪で告訴したため、これを逮捕。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30… 葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30日 - 1971年(昭和46年)12月16日)は、日本の華族、神職。正四位。伯爵。 子爵鍋島直柔(旧蓮池藩主家)の三男として生まれたが、藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む葉室家に婿養子に入り、36代目当主となる。明治大学卒業後、安田銀行勤務などを経て、賀茂御祖神社(下鴨神社)宮司となり、興亜学院理事長なども務めた。
伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月3… 伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月30日 - 1985年(昭和60年)10月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に福井県福井市にて伊藤恒右エ門の四男として生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)5月30日に高射砲第16連隊長に就任し、7月15日に陸軍砲兵大佐に進級した。1940年(昭和15年)8月に陸軍防空学校幹事に転じ、1941年(昭和16年)7月に第2高射砲隊長に着任。 1942年(昭和17年)8月1日に陸軍少将に進級し、11月9日に中部防空旅団長(中部軍)に着任。1944年(昭和19年)4月27日に砲兵監部附となり、8月22日に千葉陸軍高射学校長を経て、1945年(昭和20年)4月1日に西部高射砲集団長に着任。
岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 … 岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 群馬県群馬郡金古町足門(群馬町を経て現・高崎市足門町)出身。岸保五郎の三男として生れる。旧制高崎中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。「満州」分隊長などを経て、海軍大学校航海学生となる。「野島」「長良」の各航海長などを歴任し、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。 「鬼怒」航海長、軍令部第1班第1課参謀、「春日」教官、「八雲」副長、「室戸」「名取」の各艦長、海軍航海学校教頭、「扶桑」艦長などを経て、1939年11月、海軍少将に進級。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月… 近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月30日 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の俳人、弁護士。鳥取県弁護士会副会長。 鳥取県気高郡美穂村大字下味野(現・鳥取市)出身。近藤寛次郎の長男。近藤家は分家筋で、美穂村にて代々農業を営む。1904年に鳥取一中を卒業。1908年に第一高等学校を卒業。 1912年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。東京有楽町で弁護士開業。父親がやっていた朝鮮忠清北道の農場経営を手伝うため朝鮮にわたり、傍ら京城で法律事務所を開く。 忠清北道官選道評議員に選ばれる。1929年に郷里の鳥取に帰り、西町で弁護士事務所を開設する。 「鳥取県下法曹界の第一人者」と評される。
木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30… 木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30日 - 1955年(昭和30年)8月24日)は、日本の建築家。 1884年(明治17年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれる。木子幸三郎の弟である。1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1901年(明治34年)、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築科に入る。1911年(明治44年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大林組設計部技師として来阪。1913年(大正2年)、大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。
矢田部 美佐保(やたべ みさほ、1884年(明治17年)4月… 矢田部 美佐保(やたべ みさほ、1884年(明治17年)4月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、牛込区長。 矢田部一実の四男として島根県に生まれる。日本大学法科を卒業し、1912年(明治45年)東京市に奉職する。麹町区勤務、市庶務課、財務課、地理課勤務、広尾病院事務長を経て、1934年(昭和9年)6月30日、江戸川区長に就任。1936年(昭和11年)10月10月まで務めた。 ついで豊島病院、駒込病院各事務長、社会局保護課長を経て、1938年(昭和13年)12月24日、牛込区長に就任し、1940年(昭和15年)8月17日まで務めた。
植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 19… 植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 福島県相馬郡鹿島町(現・福島県南相馬市)出身。安積中学を経て1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科を卒業。 第11艇隊・第9艇隊・第2艇隊の各艇長、水雷学校教官を経て、第2特務艦隊司令部付、「樫」駆逐艦長として第一次世界大戦に従軍。地中海で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰国後横須賀鎮守府付、水雷学校特修科学生、「矢風」「駒橋」の各艦長、「浅間」副長、海兵教官などを歴任し、1925年12月、海軍大佐に進級した。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30… 三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30日 - 1957年〈昭和32年〉11月8日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 広島県西地方町(現・広島市中区)出身。三浦新平の二男として生まれる。山口高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、大学院に進んだ。1907年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務に入省し保険事務官補となる。 以後、山林事務官兼農商務書記官、林務官、山林局書記官兼農商務書記官、秋田大林区署長、農商務書記官兼同参事官、製鐵所理事、特許局次長、農商務省山林局長などを歴任。 1924年(大正13年)12月17日、山形県知事に就任。
坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)… 坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)4月30日 - 1974年(昭和49年)10月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(9期)、旭川市長。旭川市名誉市民。 香川県大内郡相生村(のち大川郡相生村→引田町、現・東かがわ市)出身。10歳の時に両親とともに旭川村(のち旭川町→旭川区、現・旭川市)に移住した。早稲田大学邦語政治科、同大学政治経済科卒。卒業後は旭川商業会議所の設立に力を尽くし、初代書記長となった。旭川区会議員、同市会議員に当選。同副議長、議長を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で北海道第4区から衆議院議員に初当選し、連続9期務めた。
川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30… 川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30日 - 1947年(昭和22年)1月9日 )は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員(立憲政友会)、山梨県 北巨摩郡若神子村長。 山梨県北巨摩郡多麻村(須玉町を経て現在の北杜市)で篠原俾孝の二男として生まれ、1900年(明治33年)に若神子村(現:北杜市)の川手四郎兵衛の婿養子として迎えられた。農業を営んだ。 北巨摩郡会議員、若神子村会議員、若神子村長を務めた後、1919年(大正8年)に山梨県会議員に当選し4期在任し、県参事会員、県会議長に在任した。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して当選し、衆議院議員を1期務め、政友会山梨支部幹事長兼相談役となった。
井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4… 井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4月30日 - 1959年〈昭和34年〉3月18日)は、明治後期から昭和前期の工学者、政治家。工学博士、貴族院子爵議員。 熊本県出身。熊本藩儒学者・岡松甕谷の四男として生まれ、井上毅の養嗣子となる。1895年(明治28年)4月5日、養父の死去に伴い子爵を襲爵。東京府尋常中学、第一高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を優等で卒業し銀時計を授与された。さらに大学院に進み、同時に工科大学講師に就任。1900年(明治33年)2月、東京帝大工科大学助教授に進んだ。1901年(明治34年)9月、採鉱冶金学研究のため留学し、ドイツ、アメリカで学んだ。
紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 19… 紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 1949年9月19日)は、日本の哲学者。文学博士。学習院教授、国民精神文化研究所哲学科所員。帝大七生社代表。 日本におけるヘーゲル哲学研究の先駆者。主著に『行の哲学』、『日本精神』など。三重県出身。 1874年、三重県で生まれた。第四高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に進学。1900年に卒業。 1905年より小田切良太郎と共にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『哲学体系』を翻訳して掲載し、日本への紹介を始めた。ヘーゲルの『哲學大辭書』(1912年)の編纂においては論理学・認識論に関する記事の執筆を担当した。國學院大學・東洋大学などでの講師を経て、1919年に学習院教授に就任。