森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 197… 森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 1976年10月18日)は、日本の哲学者、フランス文学者。 東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現・東京都新宿区西新宿)生まれ。明治時代の政治家森有礼の孫に当たる。父の森明は有礼の三男で、有馬頼寧の異父弟、キリスト教学者、牧師。母は伯爵徳川篤守の娘。祖母寛子は岩倉具視の五女。妹は世界平和アピール七人委員会の委員を務めた関屋綾子。 生後間もない1913年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学んだ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。
田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 -… 田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 - 1983年11月2日)は、日本の小説家である。三重県三重郡富田村(現・四日市市富田)出身。早稲田大学在学中より小説を多く書いたが、応召して中国を転戦。戦中の経験に基づく独特の生命観に裏打ちされた「肉体派作家」として熱狂的に支持された。 高知県出身の中学教師である父親と、京都府出身の母親のもとに生まれる。母親は文章や歌を書くことが好きな人だった。11歳上の姉と5歳上の兄がおり、姉も文学好きだった。父親が校長を務めていた四日市の旧制富田中学(現三重県立四日市高等学校)を経て、1929年第二早稲田高等学院に入学。1931年早稲田大学文学部仏文科に進学した。
四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - … 四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - 2009年11月26日)は、日本の森林生態学者。京都大学名誉教授。京都府立大学名誉教授。京都府生まれ。 里山概念の普及に大きな影響を与えた人物であり、関連する数多くの著書を出している。また、京大山岳部出身で、京都大学学士山岳会での京大ヒマラヤ遠征隊の裏方を長らく務めた。また、京大教授時代は「探検部」の顧問も務めた。
鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30… 鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30日 - 1992年(平成4年)8月20日)は、日本の囲碁棋士。兵庫県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院、関西棋院に所属、九段。関西棋院早碁名人戦、関西棋院選手権戦優勝など。じっくりした棋風。 神戸市に生まれる。旧制神戸一中卒業。1927年に久保松勝喜代に入門。1929年初段。1942年五段。1946年六段。1950年の関西棋院設立に参加。以後関西棋院では橋本宇太郎八段に次ぐ六段として重鎮として活躍し、同年の日本棋院との東西対抗戦では杉内雅男に勝ち。続く勝ち抜き戦では副将として出場したが梶原武雄に敗れた。 1951年七段、第7期本因坊戦リーグ入りし、4勝2敗となって5人による同率決戦に進むが、1回戦で高川格に敗退。
藻利 重隆(もうり しげたか、1911年11月30日 - 2… 藻利 重隆(もうり しげたか、1911年11月30日 - 2000年2月18日)は、日本の経営学者。専門は労務管理。一橋大学名誉教授、山梨学院大学名誉教授である。博士(商学)(1960年、一橋大学にて取得)。紫綬褒章及び勲二等瑞宝章受章。元日本経営学会理事長。 1911年、愛媛県松山市で生まれた。1924年3月、愛媛師範学校附属小学校(現・愛媛大学教育学部附属小学校)を卒業し、愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)に進学。1929年3月に卒業し、同年4月に無試験で山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)に入学した。在学中の1930年4月から1932年3月まで、山口高等商業学校特待生であった。
藤田 義光(ふじた よしみつ、1911年11月30日 - 1… 藤田 義光(ふじた よしみつ、1911年11月30日 - 1986年6月26日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。無派閥。 熊本県生まれ。1937年中央大学法学部を卒業。大学在学中は、真法会に所属。朝日新聞記者を経て、1949年、第24回衆議院議員総選挙において熊本1区で民主党から立候補し、初当選。1962年9月、第2次池田第2次改造内閣で自治政務次官に就任。1969年、日本社会党と公明党から衆議院内閣委員長解任決議案が提出されたが61票差で否決。1979年の四十日抗争では、大平正芳に投票する。 1986年の第38回衆議院議員総選挙に10期目を目指して立候補したが、選挙期間中となる同年6月26日、死去した。
阿部 憲一(あべ けんいち、1909年11月30日 - 19… 阿部 憲一(あべ けんいち、1909年11月30日 - 1989年3月28日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、公明党)、学校法人創価学園理事長を歴任。 長野県北佐久郡岩村田町(現・佐久市)出身。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)、旧制水戸高等学校を経て、1933年東京帝国大学経済学部卒。卒業後は海運会社に勤務し、1949年栗林商船取締役から1961年飯野海運取締役を経て、1965年渋沢海運社長に就任。また、創価学会理事を務める。 1967年の東京都知事選に無所属(公明党・推薦)で立候補したが、得票数3位で落選(当選者は美濃部亮吉)。 1968年の第8回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(改選数4)から公明党公認で立候補して、第1位で初当選。
五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 19… 五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 1983年3月9日)は、日本の文学者(上代文学)。万葉集の権威である。東京大学名誉教授。 1908年、長野県下諏訪町生まれ。旧制諏訪中学、第一高等学校を経て、1935年、東京帝国大学文学部国文科を卒業した。1937年、旧制第一高等学校教授に就いた。1957年より東京大学教授。1968年からは文学部長を務めた。翌1969年に東京大学を退官し、名誉教授となった。その後は学習院大学教授として教鞭をとった。また、上智大学、青山学院大学、日本女子大学でも非常勤講師を務めた。 学界では、上代文学会会長、全国大学国語文学常任理事、和歌文学会常任委員、学術審議会専門委員を務めた。
毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 19… 毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 1931年3月20日)は、日本の俳優である。本名は毛利 隆(もうり たかし)。旧芸名は毛利 多加志(読み同じ)。松竹蒲田撮影所のサイレント映画で活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1907年(明治40年)11月30日、福岡県門司市新町(現在の同県北九州市門司区)に生まれる。実父は歯科医を営んでいた。 豊国中学校(現在の豊国学園高等学校)を卒業して上京し、法政大学予科に入学するが、病気のため中退。1927年(昭和2年)、本名の毛利隆名義で阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に入り大部屋俳優となる。その後、毛利多加志を名乗って小澤映画聯盟、岡田嘉子・竹内良一一座を経て、1929年(昭和4年)7月、松竹蒲田撮影所へ入社。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月… 八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月30日 - 1963年)は、日本の商人(米穀商)、実業家。西宮酒精社長。 兵庫県西宮市出身。八馬永蔵の五男。三代八馬兼介、八馬安二良の弟。八馬眞治の兄。 1928年、同志社専門高商部卒業。1929年、分家した。米穀商を営んだ。兵庫県武庫郡良元村小林字ハクサリ(現宝塚市)で果樹園を経営した。宝梅園土地建物代表社員、多聞土地代表社員を務めた。 1949年、新朝日自動車取締役、西宮酒精社長に就任した。1950年、宝梅園農場社長を兼任した。八馬汽船取締役、同監査役を務めた。 趣味は、乗馬・読書・謡曲・運動。宗教は真宗。住所は兵庫県宝塚市小林字ハクサリ。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 19… 加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 1992年1月28日)は、日本の地球物理学者。東北大学名誉教授。理学博士。専門は地球電磁気学。 化学者の加藤多喜雄は兄。生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄は弟。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 千葉県夷隅郡大多喜町生まれ。旧制宮城県仙台第一中学校、旧制第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学理学部物理学科卒業。同年より同大学副手、翌年助手、1938年助教授、1945年地球物理学教室を創設、教授となる。 短周期の地球磁場変動を観測するため、東北大学金属材料研究所で発見された高誘導磁率合金センダストを磁芯に用いた誘導型磁力計(フラックスゲート磁力計)を開発、地磁気3成分の微細変動を長期間広範囲にわたって観測し、正弦波形定常脈動を各周波数ごとにPc1からPc5までの5つに分類した。
圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年〈明治38年〉11… 圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年〈明治38年〉11月30日 - 2003年〈平成15年〉10月31日)は、広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。位階は従三位。本名は勝二。 1905年(明治38年)11月30日、広島県御調郡河内町(御調町を経て現・尾道市)に生まれる。1921年(大正10年)河内尋常高等小学校高等科を卒業し、彫刻家を志して京都へ赴き、石割秀光の内弟子となって木彫を学ぶ。1926年、京都市立商工専修学校彫刻科・デッサン科に入学。また同年、関西美術院に入り、木彫から近代的造形を学ぶ。1928年(昭和3年)に上京し、日本美術学校彫刻科へ入学。
野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年 <明治35… 野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年 <明治35年> 11月30日 - 1985年 <昭和60年> 1月22日)は、日本の交通経済学者。神戸大学名誉教授。元日本海運経済学会副会長。位階は正四位。 京都市下京区四条通室町東入函谷鉾町生まれ。1921年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。級友に新庄博神戸大学名誉教授がいた。 1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科第二学年修了。1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身で、専門は交通論。同年同大学補手。1928年中央気象台附属測候技術官養成所(現気象大学校)講師。1929年神戸商業大学助手。 1930年から文部省留学生として、ドイツやウィーン、イタリア、アメリカ合衆国に留学し、レオポルト・マイヤーに師事するなどした。
渡部 七郎(わたなべ しちろう、1902年 <明治35年> … 渡部 七郎(わたなべ しちろう、1902年 <明治35年> 11月30日 - 1990年 <平成2年> 12月5日 )は、日本の経営者。伊予銀行頭取を務めた。位階は正五位。 愛媛県出身。1928年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に伊予銀行に入行した。1947年12月に取締役に就任し、1953年6月に常務を経て、1963年10月に副頭取に就任し、1969年10月には頭取に昇格。1983年6月には会長に就任。 1973年11月に勲四等瑞宝章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1990年12月5日、老衰のために死去。88歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
荻須 高徳(おぎす たかのり、仏: Takanori Ogu… 荻須 高徳(おぎす たかのり、仏: Takanori Oguiss、1901年11月30日 - 1986年10月14日)は、大正・昭和期の洋画家。愛知県中島郡井長谷村(現在の稲沢市井堀高見町)出身。新制作協会会員。愛知県稲沢市には顕彰美術館として稲沢市荻須記念美術館がある。 1901年(明治34年)11月30日、愛知県中島郡千代田村井堀(現在の稲沢市井堀町)に生まれる。父福次郎、母こうも2男2女の次男。父は代々地主を継ぎ、書画骨董を好む。1908年(明治41年)4月、千代田尋常小学校(現・稲沢市立千代田小学校)に入学、生家に近い井堀分校に通う。すでに絵を描くことに熱中する。1912年(明治45年)、5年生になって本校に通うようになるが、2キロの通学距離は生来の病身に負担が大きく欠席して家で絵を描く日が多くなる。
村田 数之亮(數之亮、むらた かずのすけ、1900年 <明治… 村田 数之亮(數之亮、むらた かずのすけ、1900年 <明治33年> 11月30日 - 1999年 <平成11年> 1月20日)は、日本の西洋史学者。大阪大学名誉教授。古代ギリシア史が専門。位階は正五位。 京都府出身。1924年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。京都帝国大学大学院進学。1936年ヨーロッパに留学。帰国後京都帝大講師、1948年「クレタ文明の性格」で、文学博士(京都大学)。1949年大阪大学文学部教授。1964年定年退官、名誉教授。甲南大学教授。1999年死去、享年98歳。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
廿日出 要之進(はつかで ようのしん、1898年11月30日… 廿日出 要之進(はつかで ようのしん、1898年11月30日 - 1973年9月26日)は、広島県出身の実業家。アヲハタ創業者。 広島県豊田郡大長村(現在の呉市豊町)生まれ。大長村は広島ミカン発祥の地で廿日出の実家も果物農家を営んでいた。旧制忠海中学校(現広島県立忠海高等学校)~農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒業(1923年)。同講習所の先輩で中島董一郎が創業した中島董商店に入社。大長村の同郷で、ミカン缶詰のアルカリ剥皮法で名を残す加島正人に協力して郷里でみかんの缶詰作りに取り組む。ところが加島が中島董商店を通さず、直接英国と取り引きを始めたことから、中島の全額出資を得て1932年、みかんの缶詰加工とオレンジママレードなどジャム類の製造を目的として広島県竹原市忠海に「旗道園株式会社」を創業した。
本多 謙三 (ほんだ けんぞう、1898年11月30日 - … 本多 謙三 (ほんだ けんぞう、1898年11月30日 - 1938年3月7日)は、日本の哲学者。東京商科大学(現一橋大学)予科教授を務めた。唯物論研究会発起人。 兵庫県神戸市塚本通出身。父本多一太郎は神戸商業会議所副会長も務めたマッチ製造業者。神戸市立兵庫小学校を経て、寺尾亨邸に寄宿し、早稲田尋常小学校、東京高等師範附属小学校(現筑波大学附属小学校)、同中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、1921年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科2年修了。1924年東京商科大学(現一橋大学)本科卒業。左右田喜一郎門下。 1925年東京商科大学予科兼専門部講師、中央気象台附属気象技術官養成所(現気象大学校)獨乙語講師。
斎藤 亮(さいとう あきら、1898年(明治31年)11月3… 斎藤 亮(さいとう あきら、1898年(明治31年)11月30日 - 1952年(昭和27年)3月5日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。「斉藤」と表記される場合がある。 東京府出身。斎藤格の子として生まれる。第二高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し徳島県属となる。同年、文官分限令により休職となる。一年志願兵として歩兵第65連隊に入隊し、軍曹まで昇進して1924年12月に除隊。 1927年、大阪地方職業紹介事務局長に就任。奈良県書記官・警察部長、石川県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、大阪府書記官・警察部長などを経て、1941年10月、警視庁警務部長兼保安衛生部長となる。
金原 賢之助(きんばら けんのすけ、1897年11月30日 … 金原 賢之助(きんばら けんのすけ、1897年11月30日 - 1959年1月18日)は、日本の経済学者。慶應義塾大学教授。 1897年に静岡県浜松市に生まれる。1916年に浜松商業学校を卒業後、慶應義塾大学部理財科に入学し、高橋誠一郎のゼミナールで学ぶ。1921年に同大学を卒業し、助手となる。1923年に慶應義塾大学予科教員となり、1925年から1928年まで欧米(イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア、アメリカ)に留学する。1928年に慶應義塾大学経済学部助教授、1929年に教授となる。1937年に「世界経済の動向と金本位制度」の題目の論文で博士号を取得する。1946年に経済学部長となり、1957年に商学部設置に伴い商学部長・商学部教授となる。
奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 19… 奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 1977年11月26日)は、日本の映画俳優。 1896年(明治29年)11月30日、秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)に鉱山師の父・真平と母・とめの長男として生まれる。 1914年(大正3年)に秋田県立大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業後、小坂鉱山で3年間の勤務を経て上京し、農商務省工業試験所に勤務した。 1920年(大正9年)2月、松竹キネマ合名社の設立にあたって行った男女俳優募集に応募、240人の応募者の中から男性120人・女性5人の合格者の一人として選ばれ、同年4月1日に小山内薫主宰の松竹キネマ俳優学校に入学。同期生に伊藤大輔、鈴木伝明、澤村春子、岡田宗太郎らがいる。
矢野目 源一(やのめ げんいち、1896年11月30日 - … 矢野目 源一(やのめ げんいち、1896年11月30日 - 1970年10月12日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。 陸軍中将矢野目孫一の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学仏文科卒。フランソワ・ヴィヨンの詩に現れる娼婦の詩を「玉造小町」になぞらえて「兜屋小町」として訳出し、鈴木信太郎に絶賛された。『詩王』『オルフェオン』などに詩を発表し、1920年詩集『光の処女』を刊行する。1931年創刊の『文藝汎論』のカラーページに、城左門、岩佐東一郎らと執筆する。慶大では奥野信太郎と同期で、戦後は艶笑小噺などを書いたほか、ハウザー式と称する健康法などの講演・執筆活動を行い、奇人とされている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
柳沢 徹隆(やなぎさわ てつりゅう、1894年(明治27年)… 柳沢 徹隆(やなぎさわ てつりゅう、1894年(明治27年)11月30日 - 1972年(昭和47年)9月9日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(2期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)に生まれる。1921年、東京帝国大学法学部卒。1929年、直江津町会議員となり、1947年、同議長となる。1954年、直江津町の市制施行により直江津市議会となり、初代議長となる。1955年、直江津市長選挙に立候補し、当選する。市長は1962年まで2期務めた。 このほか公民館長や消防団長、上越医療連合会会長、南部海区漁業調査委員会会長、新潟県漁業調査委員会副会長なども歴任した。
小竹 無二雄(こたけ むにお、1894年11月30日 - 1… 小竹 無二雄(こたけ むにお、1894年11月30日 - 1976年9月18日)は、日本の化学者。大阪大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授。元日本化学会会長。元日本学士院会員。帝国学士院賞受賞。 富山県出身。旧制・北海道廳立上川中學校(現・北海道旭川東高等学校)、旧制・第七高等学校造士館を経て、1920年東北帝国大学理学部化学科卒業、理化学研究所助手。1928年東北帝国大学理学博士。1932年大阪帝国大学理学部教授。1944年帝国学士院賞受賞。1946年食品化学研究所(現サントリー生命科学財団)理事長。1949年大阪市立大学理工学部教授、初代大阪市立大学理工学部長。1955年大阪大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授。
上原 六郎(うえはら ろくろう、1894年〈明治27年〉11… 上原 六郎(うえはら ろくろう、1894年〈明治27年〉11月30日 - 1964年〈昭和39年〉2月3日)は、日本の地方官僚、政治家。北海道札幌市長、札幌観光協会長。位階は正四位。勲三等瑞宝章受章。 実家は札幌郡平岸村(現・札幌市豊平区平岸)のりんご農家。北海道庁属から内務省へ出向し、日本大学法科に学んだ。1920年(大正9年)卒業。帝都復興院事務官となり、主計課長、理事等を歴任。1937年(昭和12年)、東京市収入役となり、その後、1939年(昭和14年)に同市市民局長、1940年(昭和15年)に総務局長を歴任した。1945年(昭和20年)8月14日、札幌市長に就任。1946年(昭和21年)11月12日、札幌市長を退任した。
柴山 全慶(しばやま ぜんけい、1894年(明治37年)11… 柴山 全慶(しばやま ぜんけい、1894年(明治37年)11月30日 - 1974年(昭和49年)8月29日)は昭和期日本に活躍した臨済宗の禅僧。 愛知県葉栗郡浅井町に生まれる。室号は寒松軒、道号は文明。法諱は全慶、俗姓は柴山。花園大学・大谷大学教授を務めた。また8回に渡って渡米し、諸大学で禅学を講義した。1931年(昭和6年)に日本仏教エスペランチスト連盟を起こしたエスペランティストでもある。また、詩『花語らず』でも知られている。1959年(昭和34年)臨済宗南禅寺派管長(1959-1974)に就任し、管長在位のまま1974年遷化。世寿81。 父・悦太郎、母・いと、七人兄弟の次男として生まれ、幼名を真一といった。
黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月3… 城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月30日 - 1965年(昭和40年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。城戸商店(現ヤマキ)創業者で、同社社長や、初代伊予市長、全国削節工業組合連合会理事長を務めた。 愛媛県伊予郡北山崎村(現伊予市)出身。弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)中退。1908年城戸豊吉商店を創業し、削り節の製造・販売で成功した。1931年東京支店を設立し、長男城戸稔を支店長に任命。1940年全国削節工業組合連合会理事長。1950年城戸商店(現ヤマキ)設立。 郡中町長を経て、1955年初代伊予市長。1958年黄綬褒章受章。1965年に死去し市葬が行われた。
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11… 西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵39期。最終階級は海軍中将。秋田県南秋田郡船越村(現:男鹿市)出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)のレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦を、第一遊撃部隊第三部隊指揮官(第二戦隊司令官)として戦い、旗艦・戦艦「山城」と共に壮烈な最期を遂げたことで知られる。 旧制秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)から旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)を経て、海軍兵学校に入校(兵39期)。 兵学校卒業席次は21番/148名と上位であったが、海大甲種学生を経ていず、進級は遅れがちであった。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月… 勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月30日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(大阪府第五区選出、当選6回)。 大阪府三島郡富田町(現高槻市)出身。勝田悌三郎の二男。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。弁護士の業務に従事する。 衆議院議員に6回当選する。立憲民政党、日本進歩党に所属する。1946年4月13日、死去。
橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月… 橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月30日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、日本の社会運動家、民俗学者、画家である。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)卒業後、実家で経営していた養蚕業蚕や雑貨商売に携わった。後に実弟である橋浦時雄と共に片山潜らと親交を持ち、社会運動活動を始める。これによって1918年(大正9年)には弟と共に日本社会主義同盟の創設に携わるが、翌1919年(大正10年)に発生した第2回メーデーに関与したとして、約2か月間拘留される処分を受けた。 1923年(大正14年)には日本プロレタリア文芸連盟の結成にも携わり、その1928年(昭和3年)には日本プロレタリア美術家同盟となりその画家や委員長としての活動も始める。
菊池 慎三(きくち しんぞう、1887年(明治20年)11月… 菊池 慎三(きくち しんぞう、1887年(明治20年)11月30日 - 1943年(昭和18年)4月11日)は、日本の内務官僚、陸軍司政長官。官選秋田県知事、地方行政の専門家。 愛媛県西宇和郡二木生村(現・西予市)出身。同村長・菊池俊逸の長男として生まれた。小学校卒業後、独学で普通試験に合格。さらに1911年11月、文官高等試験行政科試験、同年12月、弁護士試験に合格。1912年4月、内務省に入省し内務属・大臣官房秘書課勤務となる。 以後、佐賀県理事官、静岡県理事官、軍需局書記官、国勢院書記官、拓殖局書記官・第二課長、内務省参事官、福井県警察部長、帝都復興院調査課長などを歴任。1921年5月から1922年4月まで欧米に出張した。
近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月… 近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月30日 - 1967年(昭和42年)7月20日)は、日本の商法学者。
久保川 平三郎(くぼかわ へいざぶろう、1883年〈明治16… 久保川 平三郎(くぼかわ へいざぶろう、1883年〈明治16年〉11月30日 – 没年不詳)は、大正から昭和時代初期の教育者である。専攻は倫理学。 山梨県東山梨郡八幡村(現山梨市)で、久保川甫之の二男として生まれた。1926年に開校した岩手国民高等学校において岩手女子師範学校の校長として古代史の講義を受け持った。 旧制高津中学校(現大阪府立高津高等学校)校長時代には校長兼教諭として修身を教えていたが、「英語こそこの時代に大事」と英語を受け持つ教頭を指導した。学業成績本位の教育で、成績によるクラス分けを行い、実力考査の席次を貼り出したことでも話題になった。高津高校の実力考査は現在もこの席次公表方式を執っている。
小林 愛雄(こばやし あいゆう、1881年11月30日 - … 小林 愛雄(こばやし あいゆう、1881年11月30日 - 1945年10月1日)は、日本の詩人、作詞家、翻訳家。元早稲田実業学校校長。家族・友人間の親称は ちかお。 日本で初めてオペラの創立に尽力したことで知られる。 1881年11月30日、東京市に生まれる。父親は旧幕臣、後に東京府府会議員、大蔵省局長、万世生命保険会社社長となった小林好愛。 1892年に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現・筑波大学附属小学校)、1899年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第六高等学校(現・岡山大学)を経て東京帝国大学英文科にて夏目漱石、佐佐木信綱に師事。父親の小林好愛と共に樋口一葉とは家族ぐるみの付き合いがあり、慈雲寺 (甲州市)にある樋口一葉女史文学碑には田山花袋、森鷗外、与謝野晶子と共に愛雄の名も刻まれている。
石井 英橘(いしい えいきつ、1881年(明治14年)11月… 石井 英橘(いしい えいきつ、1881年(明治14年)11月30日 – 1945年(昭和20年)9月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1881年(明治14年)11月、和歌山県に石井武次郎の二男として生まれた。1901年(明治34年)11月22日に陸軍士官学校(13期)を卒業し、1902年(明治35年)6月23日に工兵少尉に任ぜられ、同日付で鉄道大隊付に補される。1904年(明治37年)8月2日に工兵中尉に昇進し、1907年(明治40年)12月18日に陸軍砲工学校(13期)高等科を卒業後、同月21日に工兵大尉に昇進し鉄道連隊付に補せられた後、1912年(明治45年)7月10日には東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。
岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30… 岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30日 - 1942年〈昭和17年〉7月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 宮城県仙台市生まれ。1907年(明治40年)東京高等商船学校(現東京海洋大学)卒。東洋汽船に入り、外国航路の船長になる。同時に海軍予備員となり、少佐となる。1920年(大正9年)にイタリアのジェノバで開かれた第2回ILO総会に出席。帰国後は海員組合の創立委員となり、顧問に就任。その後社会民衆党の結成に参加し、中央委員となる。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で当時の神奈川1区から社会大衆党公認で立候補して当選した。翌年の総選挙でも再選。いずれもトップで当選した。
首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年(明治12年)11月… 首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年(明治12年)11月30日 - 1934年(昭和9年)10月21日)は、日本の銀行家。台湾銀行理事、大分合同銀行頭取、名古屋銀行副頭取、南満洲鉄道理事等を歴任した。 大分県大野郡小富士村に生まれる。父の生男は大分県会議員だった。 旧制大分県立大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1903年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、横浜正金銀行に入行した。ボンベイ支店長、上海支店長、大阪支店長、本社副総支配人を経て、1923年台湾銀行の理事に就任した。 井上準之助の要請で1927年から大分銀行が二十三銀行と合併して誕生した郷里の大分合同銀行で初代頭取を務め、出光佐三と面会し、審査部の意向に反し融資拡大を決定するなどした。
久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11… 久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11月30日 - 1957年(昭和32年)8月18日)は、日本の政治家、鉄道官僚、弁護士。衆議院議員(2期)。仙台鉄道局長等を歴任。 鹿児島県徳之島亀津(現在の大島郡徳之島町)生まれ、出身。鹿児島高等中学造士館補充科、予科を経て、学校制度の変更により鹿児島県立尋常中学造士館を1897年(明治30年)に卒業。熊本の第五高等学校を1900年(明治33年)に卒業して、東京帝国大学法科大学へ進学。泉二新熊は高等中学予科、高等学校、大学での先輩で、第五高等学校時代には熊本の丹後寺に同宿した。また、法科大学では、泉二に相談して助言を受け、独法科を選んだ。
鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月3… 鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月30日 - 1962年〈昭和37年〉3月8日)は、農商務官僚、衆議院議員、小田原市長。 神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)出身。鈴木善左衛門の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、同書記官・参事官、水産局漁政課長、大臣官房課長、特許局長を歴任した。 官を辞し、漁業を営み傍ら会社の重役である。日本漁網船具社長、小田原魚市場社長などを務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲政友会に所属。合計で4回の当選を重ねた。1944年(昭和19年)には小田原市長に選出された。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年… 石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年〉11月30日 - 1951年〈昭和26年〉)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。鳥取県会議員。鳥取県八頭郡智頭町会議員。八頭銀行頭取。因幡木材会社社長。因伯時報社取締役。 鳥取県八頭郡智頭町大字智頭出身。石谷源蔵の長男。1896年、鳥取中学校を卒業する。1905年、家督を相続する。父祖の家業である農業、林業の経営に従事する。 1911年、鳥取県会議員に当選し1期間をつとめ政友会鳥取県支部の幹部として活躍し、1919年、政友会鳥取県支部幹事長に挙げられる。 政友会に属し、地方名望家としてその名を知られる。政友会系統の政治家として智頭町を二分してアンチ米原民政派の勢力の中心だった。
金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1… 金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1951年3月30日)は、日本の歌人。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)… 長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本金蔵(幼名・徳治郎)・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、金蔵の代からは材木商を営んでいた。
中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月… 中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月30日(明治4年10月18日)- 1945年(昭和20年)8月8日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選1回)。 桑名県桑名郡、のちの三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、中村太三郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)、家督を相続した。東京専門学校で学び、アメリカ合衆国に漫遊した。 北海道で中村農場を経営し、開拓事業に従事。実業界では、京都電気鉄道取締役、日本興業取締役、東洋電業取締役、久城耐火煉瓦取締役、若王子鉱業取締役などを務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(三重県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(… 山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(明治元年10月17日) - 1914年(大正3年)5月18日)は、日本の弁護士、特許弁理士、政治家。 埼玉県北埼玉郡小曽根村(現・熊谷市小曽根)出身。山田充八の息子。熊谷中学校に学ぶ。1885年に上京し、東京電信学校の官費生として入学する。卒業後逓信技手となり函館郵便電信局に在勤し、傍ら英米人に就き英学を修め兼ねて哲学法律学を独修する。 1894年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判検事試験に及第し、司法官試補に任ぜられる。横浜地方裁判所の判事を経て、渡米してコロンビア大学に学び、帰国後横浜で弁護士を開業する。大日本共同運輸監査役、横浜市会議員、横浜英語学校校長、横浜商業会議所特別議員などをつとめる。
河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日… 河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日〈慶應3年11月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月)は、日本の醸造家、政治家、資産家、実業家。河又醤油社長。族籍は大阪府平民。 和泉国堺(現・大阪府堺市)出身。三代目・河内屋又平の末子として誕生。1883年、家督を相続する。醤油醸造業を営み、河又醤油社長である。 日本醸造協会監事、堺商工会議所顧問を兼ね、泉醤油相談役に推され、堺商工会議所会頭、堺市会議員に選ばれ、大阪府多額納税者に列する。 はやくから醸造工程の機械化にとりくむ。1913年、緑綬褒章を下賜される。趣味は書画。宗教は仏教。住所は大阪府堺市新在家町。 河盛又三郎の遠祖は、豊臣家の家臣で米田藤内(こめだとうない)といったが1615年、大坂夏の陣に敗れて豊臣家が滅亡すると大和国宇智郡三在村(現・奈良県五條市三在町)へ落ちて、ここに住みつき、郷士となって農業に従事した。