倉西 正武(くらにし まさたけ、1924年7月19日 - 2… 倉西 正武(くらにし まさたけ、1924年7月19日 - 2021年6月22日)は、日本の数学者。コロンビア大学名誉教授。名古屋大学卒。理学博士(名古屋大学、1952年)。専門は複素幾何学、複素解析、偏微分方程式。 1924年東京生まれ。東京工業大学助手を経て、1952年名古屋大学助教授。1954年から渡米し、プリンストン高等研究所(IAS)、シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、プリンストン大学等の客員研究者を務める。1957年名古屋大学教授。1961年コロンビア大学教授。1999年退職、同 名誉教授。コロンビア大学に於いて大規模記念集会が1994年、2005年に開催されている。指導教員は中山正。
猿谷 要(さるや かなめ、1923年7月19日 - 2011… 猿谷 要(さるや かなめ、1923年7月19日 - 2011年1月3日)は、日本のアメリカ史研究者。東京女子大学名誉教授。
金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 19… 金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県(朝鮮・慶尚南道晋陽郡生まれ)出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。
保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 20… 保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手・監督。
古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日 - 20… 古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日 - 2013年1月8日[1])は、日本の高校野球指導者。和歌山県立新宮高等学校硬式野球部元監督、明治大学硬式野球部OB会の駿台倶楽部顧問を務めた。
富山 奏(とやま すすむ、1921年7月19日-2009年1… 富山 奏(とやま すすむ、1921年7月19日-2009年1月)は、日本の国文学者。 三重県津市生まれ。京都帝国大学文学部国文科卒。高野山大学教授、皇學館大學教授、四天王寺女子大学教授、四天王寺国際仏教大学教授、副学長。1971年「伊賀蕉門の研究と資料」で大谷大学文学博士。71年同著で芭蕉祭文部大臣賞受賞。1989年中村元東方学術賞・東方文化賞受賞。近世俳諧、特に芭蕉が専門。
津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990… 津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990年11月24日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。岡山県出身。 1942年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に八幡製鉄に入社。1973年5月に新日本製鐵取締役に就任し、1975年6月に中山製鋼所副社長を経て、1976年6月には社長に就任。1983年3月には会長に就任。 1990年11月24日急性肺炎のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7… 吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7年〉7月19日 - )は、日本の経営者。清水建設9代目社長。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)出身。旧制群馬県立太田中学校、旧制水戸高等学校、東京帝国大学工学部建築学科卒業。 1942年(昭和17年)、株式会社清水組(現・清水建設)に入社。 戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった。 1970年(昭和45年)、清水建設取締役に就任。 1981年(昭和56年)6月に清水建設社長に就任。 在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。
近藤 久(こんどう ひさし、1918年7月19日 - 197… 近藤 久(こんどう ひさし、1918年7月19日 - 1975年5月25日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
井川 正雄(いがわ まさお、1918年 <大正7年> 7月1… 井川 正雄(いがわ まさお、1918年 <大正7年> 7月19日 - 1992年 <平成4年> 10月27日)は、日本の経営者。岐阜県不破郡垂井町出身。位階は正五位。 1942年に名古屋工業大学工学部機械工学科を卒業し、海軍技術士官を経て、1948年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 1964年12月に生産管理部長に就任し、名古屋工場長、取締役、常務、副社長を経て、1980年6月に社長に就任した。翌年6月から取締役相談役を務めた。 1982年に藍綬褒章を受章。 1992年10月27日急性肺炎のために死去。74歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
菅 季治(かん すえはる、1917年(大正6年)7月19日 … 菅 季治(かん すえはる、1917年(大正6年)7月19日 - 1950年(昭和25年)4月6日)は、日本の哲学者。シベリア抑留後、徳田要請問題に巻き込まれ悲劇的最期を遂げた人物として知られる。 愛媛県宇摩郡津根村(現四国中央市)で父勝吉・母ツ子の7人兄弟姉妹の三男として生まれ、5歳で北海道常呂郡野付牛町(現・北見市)に移住。父母は染物屋「三吉堂染舗」を経営し、近在の木材工場の印伴天や漁場の大漁旗を一手に引き受けていた。地元の小学校、野付中学校(現・北見北斗高等学校)を卒業し、1935年(昭和10年)に東京高等師範学校文科に入学、3学年終了後、東京文理科大学哲学科に入学し、務台理作、田中美知太郎に師事し、ギリシャ哲学、ヘーゲル哲学を学ぶ。
高田馨(たかだ かおる、1915年7月19日-1995年7月… 高田馨(たかだ かおる、1915年7月19日-1995年7月27日)は、日本の経営学者。 福井県武生市(現越前市)出身。1941年大阪商科大学経営学科卒。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。大阪警備府に配属。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し、第101工作部部員(シンガポールセレター軍港)に転じた。1944年6月、第一南遣艦隊副官に転任。1945年1月、第十三航空艦隊副官を経て、同年2月、第二技術廠部員となり電波兵器の資材確保に従事し終戦を迎えた。 59年「経営共同体の原理」で大阪大学経済学博士。1949年彦根経済専門学校教授、1952年名古屋大学助教授、1959年大阪大学経済学部教授、79年定年退官となり名誉教授、追手門学院大学教授を務めた。
横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日… 横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日 - 2005年10月15日)は、日本の近代中国思想研究者・教育学者。元八幡大学(現九州国際大学)学長。大分県中津市生まれ。魯迅、同郷の福沢諭吉研究の第一人者。 学外の役職として、中津市教育委員長、北九州市家庭教育調査委員長、福岡市中国研究センター理事長、福沢諭吉協会会長、九州大学講師、ケンジントン大学(日本校)客員教授等を務めた。 横松は研究対象である福沢諭吉と魯迅に「近代国家主義思想」と「近代的科学精神」という2つの共通の自己確認があると述べている。これは魯迅が東京に留学した経験等から、ある意味魯迅が福沢に影響され啓発された現れとも論じている。
関根 太郎(せきね たろう、1909年7月19日 - 199… 関根 太郎(せきね たろう、1909年7月19日 - 1992年8月23日)は、日本の銀行家、経営者。足利銀行頭取を務めた。 埼玉県出身。1933年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1960年5月に国庫局長、1962年9月に九州石油専務、1965年10月に副社長を経て、同年11月に足利銀行副頭取に就任し、1972年5月には頭取に昇格。1974年4月には顧問に就任。 1992年8月23日胸部大動脈瘤破裂のために死去。83歳没。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月1… 丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月19日 - 1997年〈平成9年〉10月29日)は、日本のドイツ文学者。獨協大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町生まれ。旧制中之条農学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒。旧制第五高等学校講師、旧制松本高等学校教授を経て、1950年東京大学助教授、1953年には教授に就任。1965年に定年退官し、獨協大学教授となる。1969年文学博士。外国語学部長を経て1975年定年退任、名誉教授。 1997年、呼吸不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
荒井 源吉(あらい げんきち、1904年(明治37年)7月1… 荒井 源吉(あらい げんきち、1904年(明治37年)7月19日 - 1983年(昭和58年)9月18日)は、昭和期の政治家。武蔵野町長、武蔵野市長。 東京府北多摩郡武蔵野村の生まれ。1947年(昭和22年)4月、それまで勤めていた武蔵野町職員を辞し、町長選挙に無所属(保守系)で立候補し初当選、武蔵野町第4代町長に就任した。その約7カ月後にそのまま初代市長に就いた武蔵野町最後の町長でもある。武蔵野市が市制施行した1947年(昭和22年)11月から1963年(昭和38年)4月までの間、4期15年と6ヶ月に渡り市長を務める。 1948年(昭和23年)の小学校給食の開始を始めとして、上水道・下水道計画の決定・着工、市立小・中学校の建設(合計11校。
荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989… 荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989年7月8日)は、昭和期の新聞記者・コラムニスト。岐阜県吉城郡(現在の飛騨市)出身。 1926年、旧制斐太中学(現岐阜県立斐太高等学校)を経て早稲田大学政治経済学部卒業。東京朝日新聞に入社。1930年(昭和5年)に飛行家の東善作がロサンゼルスから東京へ三大陸横断飛行を達成した際には、朝日新聞紙上に連載された本人名義の紀行文のゴーストライターを務めている。その後満州事変の従軍記者として活躍し、1937年のジョージ6世戴冠式に特派され文名を高めた。1939年に東京本社社会部長になる。その後、リオデジャネイロ支局長やマニラ総局長を歴任する。 太平洋戦争終結後の1945年11月に論説委員となり、「天声人語」を17年半にわたって担当してその名を高め、1956年に第4回菊池寛賞受賞(「天声人語」の執筆により)。
江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 19… 江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 1966年8月21日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。正三位勲二等旭日重光章。弟子に池原季雄など。 1898年、東京府東京市生まれ。早稲田中学校、第一高等学校文科丙類を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科に入学。 卒業後の1925年、東京帝国大学卒業、東京帝国大学助手に採用される。1927年、東京帝国大学助教授に昇任。1936年、教授に昇任。1959年3月、東京大学を定年退職。同年6月、東京大学名誉教授の称号を受けた。その後も1959年4月より立教大学法学部教授となり教鞭をとり続けた。
加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月1… 加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月19日 - 1977年(昭和52年)7月12日)は、日本の作家、翻訳家、登山家、極地研究家。 大阪の道頓堀に生れる。5、6歳の頃、父の仕事の都合で京都へ転居、少年時代を過ごす。1911年(明治44年)、京都府立第一中学校に入学した。1915年(大正4年)夏、加納に終生の山心を植え付けた恩師の金井千仭に連れられて、級友ら数名と御嶽山、槍ヶ岳に登る。同年、全国の中学に先駆けて山岳部を創設する。 1916年(大正5年)、北海道帝国大学農学部(入学当時は「東北帝国大学農科大学」。在学中の1918年に北海道帝国大学となる)に入学。スキー部に在籍し、板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、1920年(大正9年)に積雪期の十勝岳、1922年(大正11年)冬季の旭岳などの初登頂を果たす。
高口 政俊(こうぐち まさとし、1898年7月19日 - 1… 高口 政俊(こうぐち まさとし、1898年7月19日 - 1967年2月11日)は、日本の経営者。三井金属鉱業元社長。福岡県出身。 1923年に九州帝国大学冶金科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。 1949年に取締役に就任し、1950年に常務を経て、、1955年8月に三井金属鉱業副社長に就任し、1958年5月は社長に昇格し、1964年5月までに務めた。 1967年2月11日脳出血のために死去。68歳没。
若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 … 若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 - 1974年1月28日)は、富山県富山市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松井 芳之助。171cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 1914年5月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1919年1月十両昇進。1924年5月入幕し、1925年1月場所初日には横綱常ノ花を破る殊勲の星を挙げた。1926年5月に廃業。廃業後は映画出演の傍ら素人相撲の指導者も務めた。
加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7… 加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7月19日(※戸籍上は1898年(明治31年)1月17日) - 1985年(昭和60年)12月24日)は、日本の陶芸家、陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水北町)出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、1960年に永仁の壺事件で古瀬戸の大規模な贋作を行っていたことが発覚し、批判を受ける。事件後は公職を辞任し、作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出、陶壁は唐九郎による造語である。 一ム歳、一ム、野陶、ヤト、陶玄、玄などの号も用いる。 子息の岡部嶺男(長男)、加藤重高(三男)と孫の加藤高宏も同じく陶芸家である。
加藤 於兎丸(かとう おとまる、1896年(明治29年)7月… 加藤 於兎丸(かとう おとまる、1896年(明治29年)7月19日 - 1983年(昭和58年)8月11日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。官選県知事。 岐阜県益田郡下原村(現下呂市)出身。下原郷16ヶ村兼帯名主10代加藤三郎右衛門雅文の甥である加藤市兵衛の五男として生まれる。万延元年遣米使節随行員の加藤素毛と父の市兵衛とは従兄にあたる。 第一高等学校を卒業。1920年11月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し衛生局属となる。 以後、山口県・栃木県・大阪府・京都府・岡山県で勤務、内務省地方局地方債課長、同行政課長、同大臣官房会計課長などを歴任。
韓 根祖(ハン・グンジョ、朝鮮語: 한근조/韓根祖、1895… 韓 根祖(ハン・グンジョ、朝鮮語: 한근조/韓根祖、1895年7月19日 - 1972年2月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の弁護士、政治家、実業家。平壌市長、第4・5・6代韓国国会議員を歴任した。 本貫は清州韓氏。カトリック教徒。 平安南道江西郡出身、本籍はソウル。1921年明治大学法学部卒。翌年の弁護士試験合格後は平壌で弁護士として活動し、平壌弁護士会長を経て、大東亜戦争勃発以降は農村に隠居した。光復後は平壌市長、平安南道政治委員を務めた。その後は越南し、米軍政庁大法院大法官、司法部法務次長、曺晩植が率いる朝鮮民主党の副党首・最高委員、憲法起草専門委員、司法科・行政科考試委員、高等選考委員、弁護士試験委員、韓国日報社社長、民主党中央常任委員会議長・ソウル鍾路乙区党委員長を務めた。
八重樫 利康(やえがし りこう / としやす、1894年7月… 八重樫 利康(やえがし りこう / としやす、1894年7月19日 - 1982年10月5日)は、日本の衆議院議員(1期)、花巻市長。 岩手県花巻市出身。高小卒。和賀郡笹間村(現・花巻市)会議員、同村長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に岩手県から立候補して当選。翌年、公職追放となる。衆議院議員を1期務めた後、追放解除後の1958年に花巻市長に選出され、1974年まで4期16年務めた。市長在任中、花巻空港の開港(1964年)、奥州大学(現富士大学)の開学(1965年)の他、市の小中学校の新設や校舎の新築、市内の水道整備、老人福祉センターの開所(1968年)、市体育館の開館(1969年)、市役所新庁舎の完成(1970年)、市立図書館の新築(1973年)などの業績を挙げた。
鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日… 鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日 - 1939年1月16日)は、奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)出身で荒磯部屋(当初は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は西本 増太郎。身長178cm、体重105kg。最高位は西小結。得意手は右四つ、吊り、泉川、突っ張り。 1911年(明治44年)2月場所に「大鶴」の四股名で初土俵を踏んだが病に罹り帰郷、間もなくして「若ノ川」の四股名で大坂相撲に出ていた。1912年(明治45年)5月場所で東京相撲に復帰し三段目から再出発、一旦序二段に陥落した場所もあったが、三段目に復帰し、幕下へと番付を上げていき、1918年(大正7年)1月場所で新十両。
生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月1… 生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月19日 - 1955年(昭和30年)10月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。台中州知事、官選石川県知事。 兵庫県出身。生駒八十弥の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し専売局書記兼大蔵属となる。その後、内務省に転じた。 以後、警視庁警視、岡山県理事官、台湾総督府事務官兼同参事官、同内務局学務課長、同府秘書官、同総督官房文書課長兼調査課長、台中州知事などを歴任。1929年7月、拓務省管理局長に就任した。 1935年1月、石川県知事(「石川県知事一覧」参照)に就任。
木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 19… 木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 1964年4月22日)は、日本の牧師。学校法人関西学院理事長を歴任した。 1889年、山口県宇部市に生まれる。1908年、日本メソヂスト下関教会で高橋泰平牧師より受洗。関西学院神学部を卒業後、エモリー大学神学部、同大学院を修了。1926年、受按。呉、京城、大阪東部(現:東梅田教会)各教会の伝道・牧会に従事した後、大阪東部伝道局巡回教師となる。西宮教会(現:西宮公同教会)の牧師在任中、ランバス女学院神学部、聖和女子学院神学部、関西学院神学部の講師を務めた。1960年6月から1964年4月まで、関西学院理事長を務めた。
野依 秀市(のより ひでいち、1885年(明治18年)7月1… 野依 秀市(のより ひでいち、1885年(明治18年)7月19日 - 1968年(昭和43年)3月31日)は、日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家、政治家。本名同じ。旧名義は野依 秀一(のより しゅういち)。筆名は不屈生。 明治・大正・昭和の3つの時代にわたって活動し、雑誌『実業之世界』、日刊紙『帝都日日新聞』、仏教雑誌『真宗の世界』等を創刊・運営した。また、「右翼ジャーナリスト」、「言論ギャング」、「ブラック・ジャーナリズムの祖」等の異名を持った。敗戦後のGHQ検閲(プレスコード)による没収図書は個人では断トツであり、表の言論史では抹殺された存在である。慶應義塾で机を並べた石山賢吉とは表と裏の関係になった。
鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)… 鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)7月19日 - 1935年(昭和10年)7月22日)は、日本の電気工学者である。 東京府(現在の東京都)東京市京橋の生まれ。東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)電気工学科に入学する。1907年(明治40年)の卒業後は、逓信省に入省し電気試験所の研究員として活動した。1908年(明治41年)には同試験所に勤務する傍ら、母校の東京帝国大学で鳳秀太郎の指導の下に助教授を経て、1912年(大正元年)に文部省より「電気工学研究」のため、満2か年間ドイツ、イギリス及びアメリカへ留学を命じられ、1915年(大正4年)に帰国する。1918年(大正7年)に工学博士の学位を取得された後、昇進して教授に就任した。
熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月… 熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、東北帝国大学総長。抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任した。 長野県東筑摩郡洗馬村(現:塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の長男。曾祖父には浅田宗伯に医学の薫陶を施した熊谷珪碩がいる。旧制松本中学時代の同級生には吉江喬松がいた。東京外国語学校ドイツ語科に一年間通った後、一高、東京帝国大学医学部卒業後、青山胤通の内科学教室に入局。 1911年(明治44年)から1913年(大正2年)までドイツのベルリン大学・ブレスラウ大学に留学し内科学、免疫学、実験治療、医化学等を学ぶ。
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月1… 山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。 1879年(明治12年)7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。同年12月、『新声』に短歌を初めて投稿し入選する。 1900年(明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社『明星』の社友となり、8月には鉄幹と与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。
今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月1… 今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月19日 - 1958年(昭和33年)12月3日)は、明治後期から昭和前期の政治家、華族。貴族院議員。従二位勲二等、研究会所属。初名・棄彦。 旧堂上家の中山家から分家した今城家(子爵)の当主である。中山孝麿の長男で、今城定徳の婿養子。 学習院や同人社の童子科を中退し、1889年(明治22年)、慶應義塾幼稚舎へ転ずる。1892年(明治25年)12月12日に定政と改名した。1901年(明治34年)に慶應義塾大学部政治科第一回の卒業生となる。同窓には、堀内輝美、久田宗作、松村松太郎らがいる。 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。
兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1… 兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年)7月19日 - 昭和22年(1947年)4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年… 児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年〈明治9年〉7月19日 - 1947年〈昭和22年〉4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。 山口県出身で陸軍大将児玉源太郎の嫡男。千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。 旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。 同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛。日露戦争において遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。
山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19… 山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19日 - 昭和19年〈1944年〉12月18日)は、日本の歴史学者、神道学者。東京帝国大学史料編纂所史料編纂官。 元奈良国立博物館館長・山本信吉の父。
白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦… 白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦)(1871年7月19日) - 昭和27年(1952年)2月26日)は、日本の教育者、化学者。第五高等学校名誉教授。 白壁又六郎の二男として福岡県に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年第五高等学校理科を経て、1897年7月東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第五高等学校在学中は、ラフカディオ・ハーンに英語を学んでいる。 東大卒業後、京華尋常中学校、青山学院中学部、立教中学校の教諭を経て、1900年1月陸軍教授に就任。1901年1月第五高等学校の教授に就任し、化学、自然科学を講じる。1910年九州薬学専門学校(熊本大学薬学部の前身)が設立されると、その講師も兼務し、理論化学を講じた。
石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明… 石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明治4年6月2日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、日本の政治家、実業家、新聞記者。第6代神戸市長。衆議院議員(大阪府大阪市選出、当選3回、公正会)。族籍は大阪府平民。大阪生まれ。 1871年7月19日(明治4年6月2日)、大阪府西成郡曾根崎村(現・大阪府大阪市)で石橋有三郎の二男として生まれた。1886年(明治19年)、15歳の時に小学校教員検定試験に合格し、20歳まで教員として働きながら英語を勉強し、1891年(明治24年)9月に京都同志社神学部選科に入学、学資が続かず中途退学し、以来独学自修する。米国に遊学。 朝日新聞社(大阪朝日新聞)に入社すると在職中に衆議院選挙に立候補・当選し、10年間国会議員も務めた。
北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年… 北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年7月19日) - 1956年(昭和31年)10月11日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士。第2代日本医師会会長。石川県金沢市生まれ。 1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に伝染病研究所に入る。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任。伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出。伝研騒動といわれるこの間に、慶應義塾大学医学部主事になり、慶應医へ移った北里を支える。1928年慶應義塾大学医学部長。
栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(186… 栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(1866年7月19日) - 昭和7年(1932年)7月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。晩年には貴族院議員を務めた。
天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元… 天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元治元年6月16日〉 - 没年不明)は、日本の医師。専門は内科。広島市医師会会長。族籍は広島県平民。 広島県・天野環の長男。広島藩校の流れをくむ私立浅野学校(現:修道中学校・高等学校)に学ぶ。広島中学校卒業。のちに医を志して上京し東京医科大学別課を1887年5月に卒業した。広島甲種医学校教諭に任じられ広島病院司療医を兼任した。1889年、尾道病院長に栄転し5年余在職し、監獄医を兼ねた。 1894年、家督を相続した。同年広島市西魚屋町で医院を開業した。天野医院長として名声を馳せたという。広島市医師会長を務めた。 『広島県紳士名鑑』では「性謹直、才気溌剌であり英智群れを抜いていた」と評価されている。
渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元… 渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元年6月16日(1864年7月19日) - 昭和9年(1934年)7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。UBE(旧・宇部興産)の前身である冲ノ山炭鉱組合の創業者。旧姓・國吉。 幕末の長門国厚狭郡船木宰判の小串村(現在の山口県宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣渡邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれる。國吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許された家柄であったが、祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また明治維新以降他の士族と同様に俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。
平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈186… 平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈1863年7月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。 文久3年6月4日(1863年7月19日)、播磨国印南郡志方村上富木村字横山(現在の兵庫県加古川市)で、農業を営んでいた父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。 少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。兄の萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範(御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った。
西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月1… 西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月19日〈文久3年6月4日〉 - 1943年〈昭和18年〉3月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(山口県郡部選出、当選3回)。族籍は山口県平民。 長門国阿武郡、のちの山口県阿武郡奈古村(奈古町を経て現阿武町)で、代々農業と生蝋製造を業とする西村家に生まれる。利右衛門の三男。小学校を了え、漢学と英語と数学を学ぶ。 農業を営む。学務委員、山口県勧業諮問会員、奈古村会議員、同村長、阿武郡所得税調査委員、同徴兵参事員、山口県会議員を務める。藤田組の藤田伝三郎の知遇を得て同家理事のほか、藤田銀行、防長銀行、萩銀行の各監査役を務める。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において山口2区から無所属で立候補して初当選。
西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(… 西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(安政元年6月25日) - 1925年(大正14年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越中国新川郡舌山新村(のち富山県下新川郡若栗村→桜井町、現・黒部市)出身。漢学と英語を学ぶ。生家は地主で酒造業を営んだ。学務委員、若栗村外二十三ヶ村戸長、同村会議員、下新川郡会議員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において富山2区から進歩党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1925年に死去した。
松本 正友(まつもと まさとも、1849年7月19日(嘉永2… 松本 正友(まつもと まさとも、1849年7月19日(嘉永2年5月30日) - 1916年(大正5年)8月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 石見国美濃郡虫追村(のち島根県美濃郡中西村、現・益田市)生まれ。漢学を学ぶ。1868年、津和野藩より庄屋に任ぜられ、のち、戸長となる。島根県会議員、虫追村会議員、村連合会議員、郡所得税調査委員、日本赤十字社地方委員、同島根支部幹事、徴兵参事員、所得税調査委員、島根県会副議長、中西村農会長、同村会議員、日本赤十字社正社員となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において島根5区から自由党公認で立候補して落選した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙で自由党から立候補したが落選。
小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1… 小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 昭和4年(1929年)1月2日)は、日本の教育家、政治家。後の延岡市長鈴木憲太郎の実父。 明治時代の延岡を代表する教育者、政治家。衆議院議員として、明治期の宮崎県の発展に寄与した。また、延岡の女子教育に大きく貢献した「女児教舎」の提唱者であり、その総監督を務めた。民有林の国有化に反対し、「県北民有林と林業の父」とも称される。 1845年(弘化2年)、日向国延岡(現・宮崎県延岡市)生まれ。藩校廣業館で学んだ後長崎に遊学し、その後東京の大学南校に学ぶ。横浜修文館の英語教師を勤めた後、1873年(明治6年)に帰郷、延岡社学(亮天社)の英語教師となる。
井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19… 井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19日(天保2年6月11日) - 1893年(明治26年)4月24日)は、日本の政治家。初代徳島市長。徳島藩士。阿波国名東郡徳島(現・徳島県徳島市大岡本町・渭北地区)出身。次男は英語学者の井上十吉。玄孫は歌手の井上真紀。 1831年に徳島藩士である井上高超の嫡子として生まれる。その後、家督を相続、徳島藩の目付を務める。そのすぐ後に京都にて長州藩士らと交わり、尊王攘夷運動に参加。徳島に戻り、14代藩主である蜂須賀茂韶の下で力を発揮する。 1871年に徳島県の大参事に抜擢。1874年に後の徳島市長である一坂俊太郎らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成し代表となる。