戸張 智雄(とばり ともお、1928年10月19日 - 19… 戸張 智雄(とばり ともお、1928年10月19日 - 1994年3月14日)は、フランス文学者、中央大学名誉教授。 1928年、東京生まれ。1953年に東京大学仏文科を卒業し、同大学院に進んだ。1956年から1958年までフランス政府招聘留学生としてパリ大学に学ぶ。1960年、博士課程を中退した。 1961年に中央大学文学部専任講師に着任し、1962年助教授昇進。1965年、東京大学に学位論文を提出して文学博士を取得。1969年に教授昇進。1978年から1980年まで国際大学都市日本館館長をつとめた。1994年に中央大学を退任して名誉教授となった。 フランス古典演劇、特にジャン・ラシーヌを専門とし、ギリシア演劇との比較を行った。
佐竹 昭広(さたけ あきひろ、1927年10月19日 - 2… 佐竹 昭広(さたけ あきひろ、1927年10月19日 - 2008年7月1日)は、国文学者・万葉学者、京都大学名誉教授。1994年紫綬褒章受章。 1927年、東京都生まれ。1946年5月、満18歳の時に短歌における字余についての論文を発表。それは『万葉集』の短歌の99%、『古今和歌集』『後撰和歌集』の100%に当てはまる字余の法則を発見したものであった(「万葉集短歌字余考」『文学』昭和21年5月)。 京都大学へ進み、1952年に同大学文学部を卒業。その後、5年間特別研究生として同大学に在籍した。 1957年、学習院大学講師となった。後に助教授に昇進。1960年に母校の京都大学文学部助教授に転じ、1973年に教授昇格。
円山 雅也(まるやま まさや、1926年10月19日 - 2… 円山 雅也(まるやま まさや、1926年10月19日 - 2004年12月)は日本の弁護士、政治家。参議院議員(1期)。別名・遠山雅之。 東京府東京市京橋区(後の東京都中央区京橋)出身。父は日本弁護士連合会会長を務めた円山田作。 1950年、日本大学法学部を卒業後、司法試験に合格。1952年には判事補となる。1956年に退官し弁護士登録、東京弁護士会所属。「円山雅也法律相談事務所」(後の「円山法律事務所」)を設立。以後メディアを中心にわかりやすい法律解説で人気を集め、1975年から日本テレビ系で開始されたテレビ番組『テレビ三面記事 ウィークエンダー』では番組監修を務めただけでなく自らも解説者として出演しており、同番組が円山の知名度を上げるきっかけとなりタレント弁護士の草分け的存在となる。
夏井 昇吉(なつい しょうきち、1925年10月19日 - … 夏井 昇吉(なつい しょうきち、1925年10月19日 - 2006年9月13日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 21歳で柔道を始めた晩学ながら第1回世界選手権大会や全日本選手権大会を制した。現役引退後は秋田県警警察官としての道を全うし、後には全日本柔道連盟評議委員や東北柔道連盟会長等を務めて柔道界の運営に携わった。 秋田県男鹿市船川に生まれる。幼少期から運動神経は抜群で、いわゆる“わんぱく坊主”として近所でもよく知られていた 秋田工業高校入学と同時に、夏井の体格の良さ・足腰の強さに目を付けたラグビー部に勧誘され、入部後はロックとして活躍した。この頃の夏井は柔道の経験は無いが、体が大きいために柔道の試合には臨時選手として引っ張り出されたりもしている。
石橋 義夫(いしばし よしお、1925年10月19日 - 2… 石橋 義夫(いしばし よしお、1925年10月19日 - 2015年9月18日)は、共立女子学園学園長、理事長。10代目横綱審議委員会委員長。 茨城県東海村出身。1951年日本大学法文学部法律学科卒。鳩山一郎の秘書などを経て、1972年共立女子学園監事、1977年同理事、1982年同理事長代行、1990年同学園長兼理事長に就任した。 また、2000年から横綱審議委員に就任。2003年から2007年まで横綱審議委員長を務めた。2010年に任期満了により退任。2015年死去。 鳩山一郎の秘書時代に鳩山が脳出血で倒れ、鳩山邸(現:鳩山会館)は騒然となった。このとき鳩山邸を外から中の様子をうかがっていた男がいた。
鳥塚 賀治(とりづか よしはる、1924年10月19日 - … 鳥塚 賀治(とりづか よしはる、1924年10月19日 - 2011年11月6日)。理学博士。物理学者で東北大学教授、日本大学教授を務めた。今日広く電子機器類に使われているフェライト(強磁性酸化物)の人工合成と応用(特許200404号)に成功した。さらに1960年代、日本の電子線型加速器/ライナックの開発・製作に尽力し、その加速器を用い多くの原子核研究の先駆的業績をあげた。その中でも原子核の巨大共鳴の発見は、原子核の特徴的構造の理解を深める成果である。 1924年10月19日 埼玉県寄居町にて9人の兄弟、1人の妹の長男として生まれた。寄居町鉢形小学校卒業、1942年3月 埼玉県立熊谷中学校(旧制)を卒業し、同年4月仙台の旧制第二高等学校に入学した。
坂井 利之(さかい としゆき、1924年10月19日 - 2… 坂井 利之(さかい としゆき、1924年10月19日 - 2017年8月16日)は、日本の情報処理工学者。京都大学名誉教授、龍谷大学名誉教授。専門は、情報通信工学、情報工学、情報学。工学博士(京都大学、1954年)。 大阪府高槻市生まれ。文字や音声などを認識する技術、パターン認識の研究・開拓の先駆者とされ、情報処理学会や国際パターン認識連盟(英語版)の会長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
東 恵美子(あずま えみこ、1924年10月19日 - 20… 東 恵美子(あずま えみこ、1924年10月19日 - 2010年1月8日)は、日本の女優。父は浪曲師の東武蔵。 東京府(現・東京都)出身。日本女子神学専門学校卒業。NHK東京放送劇団を経て、1948年、劇団俳優座に入団したが、1954年に山岡久乃、初井言榮らとともに俳優座を脱退して劇団青年座を結成。以後、青年座の中心メンバーとして活動するかたわら、テレビ、映画でも主に脇役として活躍。 1978年、『白い巨塔』で東貞蔵教授夫人・東政子に扮し、鼻持ちならない上流夫人を演じ切ったことで有名(2003年にリメイクされた『白い巨塔』では高畑淳子が演じた)。 夫は社会心理学者の南博。2人の夫婦関係は「夫婦別姓の草分け」「自由結婚」「別居結婚」「日本のサルトルとボーヴォワール」と呼ばれ、マスコミなどでも話題となった。
宮崎 明(みやざき あきら、1923年10月19日 - 20… 宮崎 明(みやざき あきら、1923年10月19日 - 2003年9月20日)は日本の建設官僚。鹿島建設元社長。 長野県長野市出身。昭和21年(1946年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。同年内務省に入省。同47年(1972年)建設省技術参事官、同49年(1974年)国際水資源局長。 退官後、昭和51年(1976年)鹿島建設に入社。同63年(1988年)副社長、平成2年(1990年)社長に就任したが、ゼネコン汚職問題で引責辞任して同8年(1996年)会長、のち名誉相談役となる。同9年(1997年)土木学会第85代会長に就任した。
西田 秀穂(にしだ ひでほ、1922年(大正11年)10月1… 西田 秀穂(にしだ ひでほ、1922年(大正11年)10月19日 - 2019年2月16日)は、西洋美術史学者、東北大学名誉教授。 大阪市生まれ。学徒出陣をへて、1949年東北帝国大学法文学部文学科卒。ドイツ・ボン大学美術史研究所にて西洋近代美術(カンディンスキー、ドイツ表現主義)を研究。東北大学文学部助手、1950年(昭和25年)講師、1954年(昭和29年)助教授、1972年(昭和47年)教授、1981-1983年文学部長、1986年(昭和61年)定年退官、名誉教授、実践女子大学教授。1993年(平成5年)退職。 1990年(平成2年)「カンディンスキー研究 非対象絵画の成立 :その発展過程と作品の意味」で東北大学文学博士。
神風 正一(かみかぜ しょういち、1921年10月19日 -… 神風 正一(かみかぜ しょういち、1921年10月19日 - 1990年5月15日)は、香川県大川郡三本松町(のちの東かがわ市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。相撲解説者。本名は赤沢 正一(あかざわ しょういち)。最高位は東関脇。身長179cm、体重98kg。得意手は左四つ、上手投げ、外掛け。 小学校時代は朝日新聞社の健康優良児に選ばれたという経歴をもち、運動神経抜群にして頭脳明晰、噂を聞きつけた横綱玉錦の熱心な勧誘に折れて1937年(昭和12年)5月場所に初土俵を踏む。福住(のちの玉乃海)と同期だった。入門に当たって玉錦には「勉強がしたければ大学だって行かせてやる」とも言われていたが、その玉錦の死後流石に大学は諦めた。
塩谷 饒(しおや ゆたか、1920年10月19日 - 199… 塩谷 饒(しおや ゆたか、1920年10月19日 - 1996年6月11日)は、日本の文学者・言語学者。専門は、ドイツ文学・ドイツ語。 東京出身。1947年、東京大学文学部独文学科卒業。1950年、同大学院文学研究科修了。1951年、東京藝術大学美術学部専任講師。1955年、京都大学教養部助教授。その後、同教授。1970年、北海道大学文学部教授。1975年、同文学部長。1979年、北海道大学附属図書館長。1984年、北海道大学停年退官。同名誉教授。北星学園女子短期大学英文学科教授。1985年、北星学園女子短期大学7代学長に就任。1993年、北星学園女子短期大学退職。
奥田 靖雄(おくだ やすお、1919年10月19日 - 20… 奥田 靖雄(おくだ やすお、1919年10月19日 - 2002年3月22日)は、日本の言語学者、国語教育の理論家・指導者。 本名は布村政雄。富山県富山市出身。日露協会立専門学校ハルピン学院を卒業、建国大学研究院助手。戦前は民族学を専攻したが、戦後、言語学に転じ、言語学研究会および教育科学研究会・国語部会を指導。宮城教育大学教授を経て、同大学名誉教授。学位は文学博士(大阪大学・1993年)。 1919年10月19日、富山県富山市愛宕町に生まれる。。1932年に富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)に入学。1933年に両親が死去。兄・布村一男を頼って満州国に渡り、新京商業学校を経て、日露協会立専門学校ハルピン学院入学。
茂木 勇(もぎ いさむ、1919年10月19日 - 2009… 茂木 勇(もぎ いさむ、1919年10月19日 - 2009年8月28日)は、日本の数学者。筑波大学名誉教授。理学博士。専門は微分幾何学。 1947年東京文理科大学理学部数学科卒、理学博士の学位を取得し、その後、東京高等師範学校助教授、東京教育大学助教授、教授、カナダ国サスカチュワン大学客員教授、筑波大学教授、同副学長を勤める。その後文教大学教授、同大学学長を歴任、後、同大学名誉教授を務める。日本数学教育学会名誉会長。 1993年、勲三等旭日中綬章を受章。2009年8月28日、悪性リンパ腫のため死去。 著書に『微分幾何学とゲージ理論』(共著,共立出版)などがある。高校向け教科書、参考書の執筆者としても著名で、科学新興社の矢野健太郎の『解法のテクニック』の改訂版を執筆を担当した。
安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1… 安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。
白井 浩司(しらい こうじ、1917年10月19日 - 20… 白井 浩司(しらい こうじ、1917年10月19日 - 2004年11月1日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。慶應義塾大学名誉教授。 1917年、東京府で早川千吉郎の三男として生まれた。兄の次男とともに白井秀の養子となり、白井姓を名乗った。暁星中学校を経て、慶應義塾大学文学部仏文科に進学し卒業。 1942年、NHK国際局海外放送フランス語班に勤務。太平洋戦争終結後の1945年9月、NHKを退職。 1947年、母校慶應義塾大学予科講師となった。1951年、サルトルの『嘔吐』を翻訳。実存主義ブームのきっかけを作り、その後もカミュ、ロブ=グリエなどを翻訳紹介。1958年、慶應義塾大学文学部教授に昇格。
千葉禎介(ちばていすけ、1917年10月19日 - 1965… 千葉禎介(ちばていすけ、1917年10月19日 - 1965年)は、昭和の日本におけるアマチュア写真家である。秋田県仙北郡角館町に生まれ、2歳のとき横手市に転居した[出典無効]。1932年、高校卒業後、呉服店に勤務。コニカの蛇腹カメラBaby Pearlを手に入れて、1940年代~60年代に、主に横手市や平鹿郡の農村風景を撮影していた。2017年12月から2018年1月にかけ、千葉の生誕100年を記念し、彼の故郷に近い秋田県立近代美術館において、「生誕100年 千葉禎介写真展」が開催された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995… 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる。1995年叙正三位。
栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - … 栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - 1992年5月24日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。大分県出身。 1935年に京都帝国大学を卒業し、朝鮮銀行での勤務を経て、1946年に大蔵省に入省。1951年に京都銀行に転じ、1953年に常務に就任し、1972年に頭取に就任。1979年には会長に就任。 1992年5月24日肺炎のために死去。79歳没。
南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 19… 南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 1981年7月1日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 福井県大野市出身。1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社。1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1969年11月に専務、1974年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1976年11月に藍綬褒章を受章。 1981年7月1日、急性心不全のために死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多賀 秋五郎(たが あきごろう、1912年10月19日 - … 多賀 秋五郎(たが あきごろう、1912年10月19日 - 1990年5月15日)は、日本の東洋史学者。 岐阜県出身。1949年東京文理科大学史学科東洋史卒、東京教育大学大学院教育研究科博士課程教育史専攻満期退学、1962年「宗譜の研究」で文学博士。中央大学文学部助教授、1959年教授、1983年定年、名誉教授、国士舘大学教授。1978年紫綬褒章、1983年勲三等瑞宝章受勲。1985年「中国宗譜の研究」で日本学士院賞受賞。アジア教育史、中国の同姓・血縁の集団である宗族の系譜、ほか郷里の飛騨史も研究した。
山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19… 山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19日 - 1991年(平成3年)8月13日)は、日本の指揮者、作曲家。本名は和雄。和男、夏精(かせい)を経て、1968年に一雄と改名した。「ヤマカズさん」の愛称で親しまれ、朝比奈隆らと並んで日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり作曲家。東京芸術大学名誉教授。 東京府生まれ。学習院中等科2年の頃にピアノを独学で学び、作曲にも熱中した。学習院高等科へ進学するも東京音楽学校への進学を志して休学。1931年に東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科首席卒業ののち研究課程に進み、卒業後は同校で教鞭を取るようになった。在学中からクラウス・プリングスハイムに師事し作曲を学び、作曲関連の各種の賞を獲得。
伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉… 伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉10月19日 - 没年不明)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。兵庫県川西市長(6期)。 三重県出身。1935年(昭和10年)京都帝国大学工学部機械学科卒業。大日本紡績に入り、1939年(昭和14年)入隊、1945年(昭和20年)除隊とともに退社。 1951年(昭和26年)日本精密機械工作社長、1960年(昭和35年)川西市商工会専務理事などを経て、1966年(昭和41年)の市長選で当時の小笠原新三郎市長を破って初当選。このとき、選挙ポスターで二連で並べて掲示すると公職選挙法の規定よりも上回るサイズのポスターになるのを使用し、陣営関係者が有罪判決を受けている。
大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月… 大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月19日-1999年 <平成11年> 12月1日)は、日本のキェルケゴール研究者。位階は正四位。 京都市出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒、1940年京都帝国大学大学院修了。1962年「キエルケゴールに於ける授受の弁証法」で京都大学文学博士。大阪外国語大学助教授、61年教授(デンマーク語)。77年定年退官、名誉教授、大阪樟蔭女子大学教授。1964年第一回田辺賞受賞。デンマーク・ダンネプロ・ナイト勲爵士。初期には西辺利仙の名で小説も書いた。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
日向 精蔵(精藏、ひなた せいぞう、1911年 <明治44年… 日向 精蔵(精藏、ひなた せいぞう、1911年 <明治44年> 10月19日 - 2006年 <平成18年> 5月14日)は、元駐スウェーデン大使。山口県出身。 1937年東京帝国大学法学部を卒業し外務省に入省。終戦時、国会法成立時に通訳としてかかわる。エクアドル、セイロン(現スリランカ)兼モルディブ、スウェーデン大使を歴任。2006年5月14日に肺炎のため死去。享年94。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ政治)。
羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治4… 羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治43年〉10月19日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は日本の政治家(衆議院議員、科学技術庁政務次官)、眼科医(医学博士、羽生田眼科医院院長、群馬県医師会名誉会長、日本眼科医会会長)。勲二等瑞宝章、藍綬褒章受章。陸軍軍医少尉。元参議院議員・羽生田俊の父。 羽生田家の先祖は長野県上高井郡豊丘村(現・須坂市大字豊丘)の旧家で、祖父・仁作が分家して群馬県勢多郡富士見村箕輪(現・前橋市富士見町赤城山)で牧場を経営した。進の父・俊次は長野県北安曇郡美麻村(現・大町市)の農家・田中常太郎・みす夫婦の次男として生まれ、医術開業試験に合格して眼科医となった。
浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10… 浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10月19日 - 2009年(平成21年)12月7日)は、兵庫県神戸市生まれのフィールドホッケー選手、実業家。出身は同県の西淡町(現南あわじ市)。オーエム製作所の会長や大和紡績(現在のダイワボウホールディングス)の常務などを務めた。1933年慶應義塾大学経済学部卒業。。 中学校3年時より慶應義塾普通部へと転入、その後ホッケーを始め慶應義塾大学在籍時には日本代表へと選出された。1932年にはロサンゼルスオリンピックに代表選出されゴールキーパーとして出場、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。社会人となった1936年ベルリンオリンピックにも出場したが、予選リーグで敗退している。
丸井 金猊(まるい きんげい、1909年10月19日 - 1… 丸井 金猊(まるい きんげい、1909年10月19日 - 1979年7月12日)は、戦前に活動していた日本画家。 神奈川県立神奈川工業高等学校工芸図案科(のちの産業デザイン科)元教諭。本名・丸井 金蔵(まるい きんぞう)。 愛知県葉栗郡北方村(現在の一宮市北方町)出身。九人兄弟の三男として生まれる。愛知県立工業学校(現在の愛知県立愛知総合工科高等学校)を卒業後、郷里出身の著名な日本画家である川合玉堂に憧れ、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学。同期生には、杉山寧、川本末雄らが在籍。1933年卒業後(修業年限5か年)同校同科研究科(現在の大学院)に2年在籍。
尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 199… 尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 1997年1月7日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれのプロ野球選手。ポジションは外野手。アメリカ人日系2世。
大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日… 大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日 - 2007年(平成19年)5月24日)は教育者で、大宅壮一の妻、大宅壮一文庫の理事長を務めた。 三女は評論家の大宅映子。富山県魚津市出身。 旧姓、奥田。富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。 1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。4人の子供に恵まれた(大宅歩、映子のほか二女。)。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年の発足以来、終生務めた。 1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。
田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19… 田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19日 - 1934年〈昭和9年〉8月19日、女性)は、昭和初期の日本の社会運動家、治安維持法の下で非合法政党であった時期の日本共産党の党員。 群馬県群馬郡滝川村(後の高崎市の一部)に生まれる。生家は、半農半商の穀屋であったが、1920年の戦後恐慌の際に破産した。 上級学校へは進学しなかったが、養蚕や農業に従事しながら、下田歌子の実践女学校における講義録を読み、独学青年の集まる「詩と歌の会」に参加するなどしていた 1925年1月、姉である田口マチ(後の梶並マチ)とともに、前橋市で開かれた講演会で、東京合同労働組合の活動家であった丹野セツの講演に触れる。
稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月1… 稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月19日 - 1989年11月6日)は、日本の政治家、農民運動家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(13期)。 福岡県八女郡岡山村(現八女市)出身。代用教員を経て1925年に早稲田大学政経学部を卒業。卒業後は農民運動に身を投じた。平野力三率いる全日本農民組合同盟に加わり、日本農民党を経て社会民衆党に参加。その後赤松克麿・小池四郎らと日本国家社会党に参加するがこれも脱退して皇道会から東方会に移籍、1935年に浮羽郡から福岡県議に当選し2期。 1946年日本社会党から衆議院議員になったが、公職追放を受け同年6月22日に辞職。追放解除後の1953年に右派社会党から返り咲き(福岡3区)、再統一を経て1960年の民主社会党に参加。
松浦 孝義(まつうら たかよし、1900年10月19日 - … 松浦 孝義(まつうら たかよし、1900年10月19日 - 1984年12月21日)は、日本の経営者。日立電線社長、会長を務めた。山口県出身。 1922年に山口高等商業学校を卒業し、同年3月に日立製作所に入社。1946年12月に取締役に就任し、1947年11月に常務、1949年6月に専務、1952年7月に副社長を経て、1956年4月には日立電線社長に就任。1971年11月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任。1961年11月からは日立製作所監査役も務めた。 1963年4月に藍綬褒章を受章 1984年12月21日閉塞性黄疸のために死去。84歳没。
山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - … 山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - 1987年2月2日)は、彫刻家。東京新宿生まれ。本名は豊。 戸張孤雁に師事。1918年から三年間、太平洋洋画会研究所においてデッサンを学ぶ。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。 1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。
寺尾 琢磨(てらお たくま、1899年〈明治32年〉10月1… 寺尾 琢磨(てらお たくま、1899年〈明治32年〉10月19日 - 1984年〈昭和59年〉9月13日 )は、日本の経済学者。慶應義塾大学名誉教授。専門は統計学と人口論。 1899年静岡県榛原郡相良町生まれ。静岡県立静岡中学校卒業。1924年、慶應義塾大学経済学部卒業。1926年、同学部助手。1929年、イギリス、フランス、ドイツに留学(統計学の研究のため、1932年まで)。帰国後、慶應義塾大学経済学部助教授、1934年、同、教授。1950年、博士号取得。1957年から1959年まで経済学部学部長及び経済学研究科研究科研究科長。 その他、慶應義塾大学産業研究所副所長、同大学国際センター所長、同大学大学院社会学研究科委員長を歴任。
高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年(明治32年)10… 高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年(明治32年)10月19日 - 1985年(昭和60年)10月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選高知県知事、東北放送会長。 宮城県栗原郡岩ヶ崎町(現栗原市)出身。高橋珍平の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。大正12年(1923年)12月、高等試験行政科試験に合格。大正13年(1924年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、茨城県警視、静岡県警視、埼玉県警視、鳥取県学務部長、岡山県学務部長、福島県書記官・警察部長、内務書記官・警保局検閲課長、神奈川県書記官・警察部長、同県部長・警察部長などを歴任。
仁田 勇(にった いさむ、1899年(明治32年)10月19… 仁田 勇(にった いさむ、1899年(明治32年)10月19日 - 1984年(昭和59年)1月16日)は、日本の物理化学者。東京都文京区小石川生まれ。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授。 1923年3月東京帝国大学理学部化学科を卒業(卒業研究は松原行一教授の指導の下で有機化学を専攻)、直ちに理化学研究所(現在の独立行政法人理研)に入り、西川正治博士の研究室で結晶によるX線回折の研究を始めた。当時はX線回折は純粋に物理学の領域であったが、西川は仁田に有機化合物にX線回折の方法を応用してみることを勧めた。これが後に日本で結晶化学の大きな分野を開く端緒となった。西川はどんな有機化合物が適当かは仁田が自分で決めるように指示した。
鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)… 鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日 - 1983年(昭和58年)8月3日)は、日本の染織家、沖縄文化研究者。 美術教師として赴任した沖縄県で、琉球王国時代からの沖縄独特の芸術や文化に心を奪われその研究を開始。染織家としては沖縄伝統の染織技法である紅型の技術を継承し、重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定された一方、第二次世界大戦前に沖縄の文化財を調査し、その時に遺した数々の写真やメモは、後に1945年(昭和20年)の沖縄戦で壊滅に瀕した沖縄文化の保存や復旧に大きく役立った。戦後の首里城再建も鎌倉の資料に負うところが大きく、彼の評伝を著した与那原恵は、鎌倉を「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」と評している。
木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - … 木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - 1996年7月16日)は、日本の洋画家。一水会創立会員、女子美術大学名誉教授。 東京市四谷区生まれ。同じく画家の木下孝則は実兄。父の友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。 1915年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科に入学、1918年に卒業、1919年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した1921年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、1926年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。 また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、1923年の第1回展から1925年の第4回展まで出品した。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治… 稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治27年)10月19日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設事務次官、参議院議員。 三重県に生まれる。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省神戸土木出張所に入り、神戸高等工業学校講師を兼任する。1935年(昭和10年)大阪府土木部河港課長に転じ、前年の室戸台風の災害復旧として河川の防潮工事などを進めた。1942年(昭和17年)青島埠頭常務取締役に就任し、青島港の整備に当たり、終戦を迎えると兵庫県土木部長、建設技監を経て、1952年(昭和27年)建設事務次官に就任した。
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - … 加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。 1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。 卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。
岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月… 岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京市小石川区、現在の東京都文京区千石2丁目35番地で、貴族院勅選議員・岩村通俊の八男として生まれる。1915年(大正4年)長兄岩村八作の養子となり、その死去に伴い1924年(大正13年)9月1日、男爵を襲爵した。 京北中学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学高等科を卒業。以後、臨時産業合理局過燐酸肥料改善委員会幹事、人造肥料連合会理事、燐酸肥料工業組合常務理事、日本藁工品配給監査役、肥料配給公団総裁、農林水産奨励会副会長などを務めた。
大木 操(おおき みさお、1891年10月19日 - 198… 大木 操(おおき みさお、1891年10月19日 - 1981年8月13日)は、日本の官僚、政治家。日中戦争期から太平洋戦争末期までの戦時期において衆議院書記官長を務めた。その退任後は、貴族院議員となり、また、東京都副知事を務めた。 東京に生まれ、東京府立第四中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独法科卒業。高等文官試験行政科に合格し、1918年4月5日、会計検査院に採用され、会計検査院書記に任ぜられる。1919年6月28日、副検査官に任ぜられ、海軍省担当として検査事務に当たる。検査先では、当時の財部彪佐世保鎮守府司令長官に水上飛行機に乗せられたり、鈴木貫太郎佐世保工廠長と盃を交わしながら「海軍魂」の説教を受けたりした。
根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19… 根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19日 - 1980年(昭和55年)3月24日)は、日本の泌尿器科学者である。 東京府(現在の東京都)に医師だった根岸三郎の長男として生まれる。その後埼玉県北埼玉郡埼玉村(現在行田市)に住し、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学する。卒業後も大学に残り、同大学内の伝染病研究所の所員として活動した。その後は同大学教授であった土肥慶蔵の元、同大学の助教授となる。その後は大学を離れ、1931年(昭和6年)からは岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は岡山大学病院の院長を3期務め、以後6年間評議員と兼任して活動する。
麻生 正蔵(あそう しょうぞう、1889年10月19日 - … 麻生 正蔵(あそう しょうぞう、1889年10月19日 - 1979年4月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 富山県射水郡浅井村(現・射水市)出身。1911年東京帝国大学農科大学実科卒。浅井村長、同村議、富山県町村会副会長、射水郡農会長、富山県農会評議員、帝国農会議員、内閣調査局専門委員、富山県農業会長、越中織布工業(有)取締役となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で富山県から諸派(農本党)で立候補して当選する。当選後は協同民主倶楽部に入り、協同民主党、国民協同党となる。この間、協同民主党、国民協同党各代議士会副会長となり、衆議院議員は1期務め、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - … 飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - 1982年10月13日)は日本の分析化学者、理学博士。1917年9月創立間もない財団法人理化学研究所 (通称:理研) に入所し、主に放射性鉱物と希元素の研究を行う。1919年イギリスに留学し、オックスフォード大学のフレデリック・ソディ教授のもとで放射化学を学んだ。帰国後、日本では未開拓の分野だった放射化学を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている。太平洋戦争中は、理研の仁科芳雄を中心に進められた原子爆弾開発研究 (二号研究) に加わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製を行なった。戦後は人造宝石の研究を行い、ビクトリア・ストン、メタヒスイをはじめとする一連の人造宝石 (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている。
岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月… 岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月19日 - 1963年〈昭和38年〉5月20日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、樺太庁長官。 鳥取県出身。税吏・岸本俊一の長男として生まれる。父の転勤のため東北各県に居住。福島県立会津中学校を経て第二高等学校を首席で卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、秋田県事務官(高等官)、山形県事務官・警察部長、同県警察部長、滋賀県警察部長、福岡県警察部長、香川県内務部長、関東庁警務局長などを歴任。 1922年10月、秋田県知事に就任。町村農業技術員、産米検査員、農業補習学校教員の三者を一体化した「三職兼務制」を実施し、合理的な農政推進を図った。
小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月1… 小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月19日 - 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、明治後期から昭和戦前期にかけての実業家・政治家。長野県更級郡信田村(現・長野市)の人物で、実業界では長野農工銀行や八十二銀行(前身六十三銀行を含む)の頭取を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員を1期7年務めた。 小林暢は、1879年(明治12年)10月19日、長野県更級郡信田村(現・長野市信更地区)の素封家・小林元辰(士族)の長男として生まれた。父・元辰は1878年(明治11年)の大蔵省調査によると県を代表する大地主35人のうちの一人であった。1887年(明治20年)8月、父の死去により家を継ぐ。
岡田 正平(おかだ しょうへい、1878年 <明治11年> … 岡田 正平(おかだ しょうへい、1878年 <明治11年> 10月19日 - 1959年 <昭和34年> 2月3日)は、日本の政治家。新潟県知事を務めた。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 新潟県中魚沼郡中条村(現十日町市)出身。衆議院議員・岡田龍松の二男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)で学んだ。 帰郷後、中条村長や中魚沼郡教育会長、新潟県会議員を歴任し、県の農会会長を務める。その傍ら、魚沼鉄道や魚沼水力電気の創設にも携わった。 1947年に新潟県知事選挙に出馬し、玉井潤次との決選投票の末に当選。同年10月に行われた昭和天皇の戦後巡幸では、随行役を務めた。県政では、従来から提唱していた農工併進を進め、特に只見特定地域総合開発計画に基づく只見川の電源開発事業に尽力し新潟平野に只見川の水を分水する「只見川分流案」を提唱。