西村 彦次(にしむら ひこじ、1920年10月26日 - 2… 西村 彦次(にしむら ひこじ、1920年10月26日 - 2003年1月25日)は、日本の経営者。マンダム社長、会長を務めた。大阪府出身。 1941年に関西学院大学文学部英文科を卒業。桃谷順天舘での勤務を経て、1947年に金鶴香水に転じ1949年に専務を経て、1961年5月には丹頂(のちのマンダム)社長に就任。1980年8月に会長、1995年6月に取締役相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。 1983年11月に藍綬褒章を受章。 2003年1月25日、腎臓癌のために死去。82歳没。
平山 敏雄(ひらやま としお、1920年10月26日 - 2… 平山 敏雄(ひらやま としお、1920年10月26日 - 2005年4月27日)は、日本の経営者。 新潟日報社社長を務めた。東京都出身。 1944年に東北帝国大学法文学部を卒業し、1945年に新潟日報社に入社。1971年に取締役に就任し、1976年に常務、1979年に専務を経て、1983年には社長に就任。1990年から取締役相談役を務めた。 1990年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2005年4月27日胃がんのために死去。84歳没。
篠原 三代平(しのはら みよへい、1919年10月26日 -… 篠原 三代平(しのはら みよへい、1919年10月26日 - 2012年12月7日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。専門は経済理論。位階は従三位。勲二等瑞宝章受章、紫綬褒章受章、文化功労者、文化勲章受章、日本学士院賞受賞。 富山県高岡市末広町に雑貨商の家に長男として生まれた。父は雑貨店篠原商店を経営し、母は明治の女性としては珍しく女学校を銀時計を受領し卒業し、篠原商店の経営を助けた。 高岡商業学校卒業後は高岡高等商業学校に進学した。大熊信行の講義を、大熊の著書『マルクスのロビンソン物語』や『経済本質論』を読み返しながら、熱心に聴講したが、卒業論文「経済構造と金融:理論経済学と金融理論」の指導教官は長尾義三(金融論・景気論・銀行論)であった。
松平 乗武(まつだいら のりたけ、1919年(大正8年)10… 松平 乗武(まつだいら のりたけ、1919年(大正8年)10月26日 - 1945年(昭和20年)5月29日)は、日本の海軍軍人(海軍大尉)。岩村松平家9代当主・子爵松平乗長の次男。10代当主・松平乗文の弟。鷹司家28代当主・鷹司尚武の父。妻は鷹司信輔の次女・章子(ふみこ)。 学習院高等科、京都帝国大学経済学部卒業。1942年(昭和17年)9月、海軍予備学生となり、東港海軍航空隊に入隊。1943年(昭和18年)4月、海軍機雷学校に入校。1945年(昭和20年)2月20日、海軍対潜学校特修科学生となり、5月29日、総合実習のため附属艇第一敷設艇(曳船公称第七七六号)に乗船し、千葉県安房郡富崎村(現・館山市)布良沖を航行中、アメリカ軍のB-24機と交戦し、左舷に至近弾を受けて沈没、戦死。
鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月… 鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月26日 - 2000年〈平成12年〉8月14日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第66期)。第10代海上幕僚長、第9代統合幕僚会議議長。 鹿児島県川辺郡東加世田村(のち万世町、加世田市、現南さつま市)出身。旧制第一鹿児島中学四年修了後、海軍兵学校に入校。海軍時代は艦攻のパイロットであり、飛行学生を首席で卒業。開戦から約7ヶ月は空母「龍驤」に乗組み、ダッチハーバー空襲等の作戦に参加。しかし、その後は陸上勤務で、海軍航空技術廠ではテストパイロットとして水平爆撃用の照準器や反跳爆弾の研究を続け、最後は陸上攻撃機「連山」の開発にも加わった。
江川泰一郎(えがわ たいいちろう、1918年10月26日-2… 江川泰一郎(えがわ たいいちろう、1918年10月26日-2006年6月3日)は、日本の英語学者。 東京生まれ。1941年東京文理科大学英語英文科卒。小樽中学校教諭、1942年兵役、1947年復員、東京第一師範学校教官、1950年-1951年コロンビア大学大学院修士課程修了、1951年東京学芸大学助教授、1967年教授、1982年定年退官、名誉教授、日本大学教授、1988年定年退職。1992年春、勲三等旭日中綬章受勲。『英文法解説』など、大学受験の参考書としてよく用いられた。
嶋井 澄(しまい きよし、1917年(大正6年)10月26日… 嶋井 澄(しまい きよし、1917年(大正6年)10月26日 - 2013年(平成25年)1月13日)は日本の実業家、元日立物流社長。山口県出身。
渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月… 渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、日本の歌手、作曲家。 沖縄県国頭郡恩納村に生まれ、少年期を鹿児島県の奄美大島龍郷町で過ごす。日本大学藝術学部卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビュー。歌手時代は売れず、津村謙の前座を務めていたこともあった。津村は後に渡久地が作曲した『上海帰りのリル』で大ヒットを飛ばすことになる。 1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。
芳 即正(かんばし のりまさ、1915年10月26日 - 2… 芳 即正(かんばし のりまさ、1915年10月26日 - 2012年1月13日)は、日本の歴史学者。鹿児島県立図書館館長、鹿児島県立短期大学教授、鹿児島純心女子短期大学教授、尚古集成館館長等を歴任した。 鹿児島県鹿児島市生まれ、本籍大分県宇佐市(父が明治末~大正初期頃に鹿児島県に移住)。小学校から旧制中学1年まで大分県日田市の祖父母に預けられて育つ。旧制大分県立日田中学校(現大分県立日田高等学校)入学。2年生のときに鹿児島へ戻ることになり、当時新たに開校する私立の旧制鹿児島中学校(現鹿児島高等学校)が第2学年の募集もしていたため編入学。鹿児島中学校から進学して、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業。
武田 誠三(たけだ せいぞう、1915年10月26日 - 1… 武田 誠三(たけだ せいぞう、1915年10月26日 - 1996年10月26日)は、日本の農林官僚。日本中央競馬会理事長を務めた。東京都出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に農林省に入省。1965年6月に食糧庁長官、1966年7月に農林事務次官、1971年2月に農林漁業金融公庫総裁を歴任し、1978年6月に日本中央競馬会理事長に就任し、1983年10月には日本銀行政策委員に就任。1987年2月に第2次臨時行政改革推進審議会委員に就任。 1987年11月に勲一等瑞宝章を受章した。 1996年10月26日膀胱癌のために死去。81歳没。
朝吹 四郎(あさぶき しろう、1915年〈大正4年〉10月2… 朝吹 四郎(あさぶき しろう、1915年〈大正4年〉10月26日 - 1988年〈昭和63年〉9月18日)は昭和時代の日本の建築家。日本建築家協会会員。 1915年(大正4年)10月26日、実業家朝吹常吉・磯子の四男として東京市築地明石町に生まれた。慶應義塾幼稚舎で学童期を過ごし、1933年(昭和8年)、慶應義塾普通部を卒業した。その後イギリスにわたってケンブリッジ大学で建築学を学び、1938年(昭和13年)には同大学を卒業して「建築学士」の称号を得た。帰国後の1939年、千代田設計事務所を開設した。1949年(昭和24年)、朝吹設計事務所開設、1951年には朝吹一級建築士事務所を東京に創設して、その代表となった。
織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年(大正2年)10月… 織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年(大正2年)10月26日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の小説家。戦後、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。『夫婦善哉』で作家としての地位を確立。 1913年(大正2年)、大阪市南区生玉前町(現・天王寺区上汐4丁目、生魂小学校正門前付近)にて、仕出屋(後に『一銭天麩羅屋』に業態変更)「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。仕出屋とは言え、上汐町筋より路地を入った所謂『裏店』(うらだな)であったが、中央区上汐1丁目の一画(『近松門左衛門の墓』のすぐ東側)に当時の家並(表店と路地=長屋)が唯一残っている。
岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - … 岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - 1993年8月13日)は、日本の裁判官、弁護士。元日本弁護士連合会副会長。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学専門部法律科卒業。 三豊中学卒業後、同郷の先輩の白川朋吉弁護士事務所に書生として勤務しながら法律の勉学に励み、1931年(昭和6年)普通文官試験合格。更に、1935年(昭和10年)日本大学専門部法律科卒業後、1940年(昭和15年)高等文官試験司法科合格。1942年(昭和17年)判事任官。大阪、神戸、姫路、岡山の各地方裁判所判事を歴任。 1947年(昭和22年)岡山県にて弁護士開業。1968年(昭和44年)4月から1969年(昭和45年)3月まで岡山弁護士会会長、1980年(昭和55年)4月から1981年(昭和56年)3月まで日本弁護士連合会副会長を務めた。
次田 香澄(男性、つぎた かすみ、1913年〈大正2年〉10… 次田 香澄(男性、つぎた かすみ、1913年〈大正2年〉10月26日 - 1997年〈平成9年〉12月12日)は、日本の日本文学者。専門は中世文学。 旧制静岡高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。1961年(昭和36年)「玉葉和歌集・風雅和歌集の研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。二松學舍大学教授を経て、大東文化大学教授。中世和歌・女流日記などを研究した。
吉澤 洸(よしざわ たけし、1912年10月26日 - 19… 吉澤 洸(よしざわ たけし、1912年10月26日 - 1997年12月8日)は、日本の経営者。NTN社長、会長を務めた。 東京都出身。1936年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に日本銀行に入行。1967年4月に理事に就任し、同年5月に大阪支店長を経て、1971年4月から1977年4月までに東京銀行顧問を務めた。1975年5月にエヌ・テー・エヌ東洋ベアリング(のちのNTN)監査役に就任し、1977年6月に会長を経て、1978年6月には社長に就任。1987年1月には再び会長に就任し、1989年6月には相談役に就任。 1987年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年12月8日急性心筋梗塞のために死去。
三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 198… 三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 1989年7月17日)は、日本の科学史家。神戸大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1… 小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1979年3月8日)は、日本の小説家、教師。 山梨県北巨摩郡穂足村大豆生田(現・北杜市須玉町)生まれ。1903年(明治36年)に江草村の本家から分家した家で、四男として生まれる。母は津金村の漢方医飯島家の娘。小尾家は農家で、父は国定教科書販売を営んでいたが1912年(大正元年)に破産したため一家で甲府市へ移り碁会所をはじめるが、母は幼い十三らを連れて善光寺町へ別居し、小作業や養蚕で生計を立てる。 1923年(大正12年)に甲府商業学校に入学するが、翌年には退学して長野鉄道局教習所電信科へ入所する。その後、職を転々とし農民組合運動にも関わり、日本共産党の影響下にあった全農支部青年部書記にもなっている。
松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 19… 松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。 京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。
松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 198… 松谷 彊(まつや つとむ、1908年10月26日 - 1987年)は、日本の美術評論家である。 京都府宮津市出身。東京帝国大学卒業。南画鑑賞会に勤務しながら美術評論をはじめる。戦後はソビエト美術に関して造詣を深め、『ソヴェト美術論』(1957年)などの著書がある。1964年、東京造形大学の教授に就任、1979年までその任にあった。日本美術会の会員でもあった。 永井潔は、松谷の著書『現代美術論』(新日本出版社、1986年)の帯で、「美術にとり憑かれたかのような労を惜しまぬ鑑賞と探求」と、松谷の仕事を評価している。 『現代美術論』(ISBN 4-406-01360-1)の作者略歴と作品解題 この項目は、美術・芸術に関連した書きかけの項目です。
柳生 亮三(やぎゅう りょうぞう、1905年(明治38年)1… 柳生 亮三(やぎゅう りょうぞう、1905年(明治38年)10月26日 - 2013年(平成25年)3月31日)は、日本の動物学者。専門は原生動物学。位階は従四位。 1905年10月26日、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町出身。父親が税関職員であった為、日本国内やその当時の日本の領土であった朝鮮を転々とする幼年時代を過ごした。旧制岐阜中学校、旧制福井中学校、鎮南浦公立中学校(朝鮮)と転校を繰り返す。 1924年、教育者を志して高等師範学校の受験を決意し、東京高等師範学校と広島高等師範学校で悩んだ結果、広島高師に決め、第一志望の物理化学は外れたが第二志望の生物で広島高等師範学校理科第三部に合格した。 1928年、広島高等師範学校を卒業後、徳島女子師範学校、徳島県立徳島高等女学校、関東州公立高等女学校(大連市)で教師を務めた後に、旧制広島文理科大学生物学科で生物学を学び、天津日本高等女学校、天津日本商業学校教諭を経て、旧制広島文理科大学助手、広島高等師範学校教授などを歴任した。
丸山 学(まるやま まなぶ、1904年(明治37年)10月2… 丸山 学(まるやま まなぶ、1904年(明治37年)10月26日 - 1970年(昭和45年)2月27日)は、日本の英文学者、民俗学者。小泉八雲の研究、九州の民俗学の研究において知られる。 熊本県和水町に生まれる。熊本県立中学済々黌に進学し、国文学者の蓮田善明とは親友であった。英語英文学を専攻し、広島文理科大学文学科英語英文学専攻を卒業後、広島文理大学助手、広島高等師範学校教授。広島文理大学在学中よりコンラッド研究に励み、1932年(昭和7年)には『文学研究法』を出版し、研究者・教育者としての地位を確固としたものにする。翌1933年(昭和8年)には柳田國男を訪ね、これ以降は徐々に民俗学に転じ、1936年(昭和11年)に『小泉八雲新考』、『英吉利年中行事の研究』を出版。
原 彪(はら たけし、1904年10月26日 - 1954年… 原 彪(はら たけし、1904年10月26日 - 1954年1月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。土浦市長(2期)。 本籍は茨城県新治郡土浦町。明治37年、日本統治時代の台湾台北市生まれ。県初の国務大臣・原脩次郎の長男である。母・久子。8人兄妹。1930年、東京帝国大学経済学部商学科卒業後に三井物産に入る。のち朝日組取締役、賀田組取締役、霞ヶ浦造船所常務取締役を歴任。 1945年6月、第3代の土浦市長に就任する。翌1946年6月再任され、郷土の自治に貢献した。 1947年の第23回衆議院議員総選挙で茨城3区から民主党公認で立候補して初当選。父君の地盤を引継ぎ衆議院議員を3期(23、24、26)務め、この間に衆議院文部委員長、運輸委員長などを歴任し、松戸以北の常磐線電化促進についても深く関わった。
坂井徳三(さかい とくぞう、1901年10月26日 - 19… 坂井徳三(さかい とくぞう、1901年10月26日 - 1973年1月28日)は、日本の詩人である。詩人会議の創立メンバーとして、社会問題にかかわる詩を多く作った。 広島県尾道に生まれる。早稲田大学を卒業後プロレタリア文学運動に参加、はじめは世田三郎というペンネームを使って詩作をしていた。日本プロレタリア文化連盟(コップ)解散後は、壺井繁治、小熊秀雄らとともに、諷刺詩集団〈サンチョ・クラブ〉に属した。1936年、世田三郎名で詩集『百万人の哄笑』を時局新聞社より刊行するも、すぐに発禁となる。 その後中国に渡り、北京で終戦を迎える。戦後帰国してからは、新日本文学会に参加、その後は詩人会議の創立に加わり、民主主義詩運動のメンバーとして活動した。
信原 聖(のぶはら さとる、1900年〈明治33年〉10月2… 信原 聖(のぶはら さとる、1900年〈明治33年〉10月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安北道知事。慶尚南道知事。 信原岩虎の長男として岡山県に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部独法科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。専売局事業課長、全羅南道、全羅北道各内務部長、総督官房文書国勢調査各課長、国民総力課長兼殖産局勤務を経て、1943年(昭和18年)7月、平安北道知事に就任した。1945年(昭和20年)3月、慶尚南道知事に転じた。 戦後は家庭調停委員を務めた。
武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1… 武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1952年6月25日)は、日本の農芸化学者。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1920年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1922年から理化学研究所勤務。ハイデルベルク大学留学を経て、1928年京都帝国大学教授となる。1931年京都大学化学研究所所長に就任。1940年から1946年まで京都教育大学学長を務め、戦後は京都市の教育委員も務めたことがある。 主な研究内容としてはデリス根の有効成分ロテノンの化学構造を決定した。 祖父は製糸家の武居代次郎。
西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月2… 西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月26日 - 1974年(昭和49年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海兵44期恩賜・海大26期恩賜。最終階級は海軍大佐。 1895年(明治28年)10月26日、兵庫県揖保郡神岡村東嘴崎(現たつの市神岡町)に生まれる。小学校のころより抜群の成績を誇った。旧制龍野中学校でも成績はトップであり、龍野中学校のクラスメートであった哲学者の三木清でさえも次席でついに西田を抜くことができなかった。また『陸の田中、海の西田』(田中とは、終戦時の第12方面軍司令官 兼 東部軍管区司令官であった田中静壱陸軍大将〈陸士19期恩賜・陸大28期恩賜〉)と並び評された。
郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4… 郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4月18日)は、日本の教育者、ボート選手。
伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 -… 伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 - 1976年1月5日)は、日本の美術家。徳島県徳島市出身。国内外で活躍した洋画家。古典主義風の重量感のある裸婦像など,数多くの人物画を制作した。またパブロ・ピカソに傾倒し、著書を著して日本にピカソブームを巻き起こした。
竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月… 竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月26日 - 1944年(昭和19年)4月24日)は、日本の物理学者。科学ジャーナリストとして著名であったが、医療効果を謳った人工放射性食塩事件で世間を騒がせた。 1894年(明治27年)10月26日、元金沢藩士・竹内一元(のち煙草商)の二男として石川県金沢市で生まれる。1918年(大正7年)に東京帝国大学理科大学実験物理科を卒業後、三菱造船技師を経て東京高等工業学校講師となる。 1927年に『新量子力学及波動力学論叢』を出版し、量子力学を極めて早く日本で紹介した。1928年から1930年にかけて渡欧し、フランス滞在中はルイ・ド・ブロイのもとで量子力学を研究する。
大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月2… 大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月26日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、第15代にして最後の樺太庁長官。現在の福岡県柳川市生まれ。 福岡県立中学伝習館、第五高等学校 (旧制)を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部を卒業した。1916年軍務に服し少尉の位で陸軍主計少尉となった。1919年(大正8年)大阪府林務部に入り部長まで務めた。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで内務省に入省、警視庁刑務部長、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで長崎県内務部長、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)は神奈川県経済部長、1936年(昭和11年)には満州国新京市の民生部総務部長。
佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10… 佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10月26日 - 1925年(大正14年)6月13日)は、沖縄県宜野湾市出身で、民俗学者。 1912年、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業し。その後上京して1915年に第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。在学中から柳田國男に目をかけられた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任。1925年、津山にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母権制研究が『女人政治考』として出版された。 16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子)をもうけるが28歳の時に離婚。
高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 … 高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 - 1967年4月30日)は、日本の実業家。 旧三菱商事最後の社長で、戦後財閥解体された三菱商事を再興し初代社長も務めた。広島県尾道市出身。東京銀行の最後の頭取及び東京三菱銀行の初代頭取を務めた高垣佑は息子。 第一高等学校から1918年、東京帝国大学法学部を卒業後、新設された三菱商事に入社。ロンドン支店他、上海支店長、新京支店長、ハルビン支店長など、大半を大陸で過ごし三井物産に引けを取らない業績を上げた。1944年取締役、満州で終戦を迎え1946年帰国。同年常務取締役、翌1947年同社代表取締役社長就任。しかしGHQによる解散命令(財閥解体)を受け同社清算人となる。
物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月2… 物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月26日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の小説家、掃苔家。藤岡 一枝とも。本名は藤浪和。 国学者・物集高見の娘で、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。実兄の物集高量は国文学者、姉は同じく小説家の大倉燁子(本名は芳子)。義兄の藤浪鑑は病理学者(京都帝国大学教授)。また、親族に女優の早瀬久美がいる(姉妹の物集千代子の孫)。 東京府東京市本郷区駒込千駄木林町(現在の東京都文京区千駄木)出身、跡見高等女学校卒業。 文学を志して姉の芳子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年(明治41年)、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。
桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月… 桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月26日 - 1975年(昭和50年)6月5日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
緒方 章(おがた あきら、1887年10月26日 - 197… 緒方 章(おがた あきら、1887年10月26日 - 1978年8月22日)は、日本の薬学者、東京大学名誉教授。薬学博士。日本の内分泌科学の創始者で、国内の薬学、薬業の発展に貢献した。幕末の蘭方医・緒方洪庵の孫。 中央薬事審議会会長、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長、内分泌学会会長などを歴任した。 甲状腺ホルモンの研究を行い、特に兄の緒方知三郎と共にウシの耳下腺から唾液腺ホルモン、パロチンを単離・製品化することに寄与した。 1919年にはメタンフェタミン(ヒロポン)の結晶化に成功している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
阿部 みどり女(あべ みどりじょ、1886年10月26日 -… 阿部 みどり女(あべ みどりじょ、1886年10月26日 - 1980年9月10日)は、日本の俳人。本名はミツ。北海道札幌区(現・札幌市)生まれ。父は第2代北海道庁長官・永山武四郎。 北星女学校(現北星学園女子中学高等学校)修了。 1910年、阿部卓爾と結婚して東京に住むが、結核のため鎌倉で療養。この頃から俳句を始める。1915年、高浜虚子に師事、以後「ホトトギス」を中心に作品を発表。始めは主情的な俳風だったが、後に虚子が客観写生を説くと彼女もそれに従い、更に写生を極めるために洋画家森田恒友に素描を学んだ。長谷川かな女・杉田久女とともに、女流俳句草創期を代表する一人。金子兜太はかな女・久女を感情型、みどり女を想念型と指摘している。
中松 真卿(なかまつ しんけい、1883年(明治16年)10… 中松 真卿(なかまつ しんけい、1883年(明治16年)10月26日 – 1952年(昭和27年)10月4日)は、日本の商工官僚、特許局長官。日本製鉄株式会社社長。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現在の田辺市)出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農商務属、特許局審査官補となり、高等文官試験に合格した。特許局審査官・事務官、農商務書記官、同参事官、簡易保険局書記官・商工書記官、特許局総務部長・意匠商標部長、保険事務官、商工省保険部長などを歴任。1929年(昭和4年)、商工省鉱山局長となり、翌年には特許局長官に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、日本製鉄株式会社常務取締役となり、ついで代表取締役社長に就任した。
前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 -… 前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 - 1965年3月8日)は、日本の経済学者。専門は経済学史、経済史。第3代横浜市立大学学長。横浜文化賞受賞。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1909年同専攻部領事科卒業。市立下関商業学校教諭、山口高等商業学校教授を経て、1932年から横浜市立横浜商業専門学校校長、横浜市立商業学校校長を務め、教員の充実化などを進めた。1933年横浜経済研究所(のちの横浜市立大学経済研究所)を設立し所長に就任。1949年初代横浜市立大学商学部長兼横浜市立経済専門学校校長。1955年度横浜文化賞受賞。1957年横浜市立大学学長。
遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10… 遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10月26日 - 昭和44年(1969年)2月6日)は、日本の歌舞伎研究家。 東京市日本橋馬喰町出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。1908年三菱銀行入行。1911年歌舞伎座入社。 1914年には自宅の庭にあった演舞館を三渓園の入口に移築し、横浜演舞館とした。 家業の柏木運送店専務を務めた他、1915年松竹理事。1937年松竹取締役。 第二次世界大戦後は、松竹演劇部相談役や新橋演舞場常務などを務めた。また、評論、随筆などを執筆した。 1964年藍綬褒章受章。1968年勲四等瑞宝章受章。1969年死去。一乗寺で葬儀が行われた。本名は弥市。
今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月2… 今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月26日 - 1957年〈昭和32年〉12月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 福岡県出身。静岡県静岡尋常中学校に学んだ。中学では野球部に所属した。。 1899年(明治32年)12月1日、陸軍士官学校入校。1900年(明治33年)、陸軍士官学校第12期卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となった。 1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・浜松連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に静岡連隊区司令官、1928年(昭和3年)3月に歩兵第36連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
大江 新太郎(おおえ しんたろう、1879年10月26日 -… 大江 新太郎(おおえ しんたろう、1879年10月26日 - 1935年6月17日)は日本の建築家。 日光東照宮の修復を行ったことで知られる。日光廟大條繕に携わって以来、生涯にわたって日本の伝統建築を追求した。明治神宮造営、伊勢神宮造営などの主任技師として活躍するほか、東京帝国大学では庭園学を講義した。 1879年東京生まれ。京都府育ち。旧制三高を経て1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1905年(明治38年) 清国へ学術調査。 1907年(明治41年) 日光社寺大修繕工事監督嘱託(1926年まで)。その後栃木県技師。1913年(大正2年)神社奉祀調査会事務嘱託。1915年(大正4年)明治神宮造常局技師兼任(1926年まで)などを経て内務省技師(神社局)。
吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 19… 吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 1964年4月15日)は、日本の寄生虫学者。大阪大学名誉教授。
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1… 四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1937年12月12日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。
齋藤 與一郎(さいとう よいちろう、1873年(明治6年)1… 齋藤 與一郎(さいとう よいちろう、1873年(明治6年)10月26日 - 1961年(昭和36年)1月5日)は、日本の医師。北海道函館市長。号・非魚(ひぎょ)。 新潟県西頸城郡東早川村(現在の糸魚川市)出身。齋藤國次郎の長男として生まれる。1885年(明治18年)に函館に渡る。1899年(明治32年)に医術開業免許を取得し、函館病院嘱託や函館伝染病院医長を務めた。1906年(明治39年)からドイツに留学し、ゲッティンゲン大学やヴュルツブルク大学で衛生学を学んだ。1912年(明治45年)に帰国し、函館区医に任命されるとともに、函館伝染病院医長・函館精神病院医長となった。1925年(大正14年)より函館療養所長・柏野病院長(のち柏木病院に改称)・中の橋病院長を務め、1928年(昭和2年)からは函館水質試験所長も兼ねた。
ガントレット 恒(ガントレット つね / Gauntlett… ガントレット 恒(ガントレット つね / Gauntlett, Tsuneko、通名はガントレット 恒子、1873年(明治6年)10月26日 - 1953年(昭和28年)11月29日)、は明治から昭和初期に活動した社会運動家、婦人参政権運動家。エドワード・ガントレットの妻で、作曲家山田耕筰の姉でもある。 愛知県碧海郡箕輪村(現在の安城市箕輪町)生まれ。父の山田謙造は牧師、母は久である。代々医師の家系であったが、謙造は放蕩に明け暮れていたため、母久子は恒子をおぶり父の元をさった。母は東京の妹夫婦を訪ねた。妹は後の癩病の施設を設立した熱心なクリスチャン、大塚正心の妻となっていた。のちに父、謙造も後を追って上京したが、大塚は恒子をこの乱脈な生活の中点に置くよりも、桜井女塾の寄宿舎に入れる方が良いと判断し、6歳の恒子を寄宿舎に入れた。
桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1… 桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1954年2月26日)は、日本の地方公務員、作詞家、郷土史家。現在の宮崎県出身。 明治5年9月24日(西暦1872年10月26日)、美々津県那珂郡広瀬村(現在の宮崎市佐土原町)で佐土原藩士族の家に生まれる。東京の共立学校を卒業した後、宮崎へ帰郷し尋常小学校校長を経て宮崎県庁に入庁、西臼杵郡、児湯郡、南那珂郡、北諸県郡の郡長を務める。西臼杵郡長在職時には県立高千穂実業学校の校長を兼務し、同校の後身に当たる宮崎県立高千穂高等学校へ引き継がれた校歌(作曲:陸軍戸山学校)を作詞している。定年退職後は日本赤十字社宮崎県支部主事を経て、日本生命保険宮崎支社に勤めながら財団法人旧佐土原藩教育会の会長の職に在った。
加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年1… 加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日)は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。
下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治… 下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1925年(大正14年)11月22日)は、日本の内務・農商務官僚、政治家。衆議院議員、朝鮮総督府政務総監。号・三峰。 庄屋・酒造業、下岡直一の二男として摂津国川辺郡広根村(現:兵庫県川辺郡猪名川町)で生まれる。一時東京に転居し、麹町小学校を卒業。その後は、官立大阪中学校、泊園書院、第三高等中学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。第三高等中学校、帝国大学時代を通じての同級生に浜口雄幸と幣原喜重郎がいる。大学卒業後内務属となり内務省大臣官房文書課勤務となる。同年11月、文官高等試験に首席で合格。 1896年1月、熊本県参事官に就任し、京都府参事官、茨城県書記官、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。
松寺 竹雄(まつでら たけお、明治3年9月26日〈1870年… 松寺 竹雄(まつでら たけお、明治3年9月26日〈1870年10月26日〉[要検証 – ノート] - 1935年〈昭和10年〉2月5日)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。正三位勲二等。 加賀国出身。金沢藩士、戸水信義の二男として生まれ、1886年(明治19年)、松寺敦行の養子となり、1891年(明治24年)に家督相続。 1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。司法官となり、京城地方法院検事正、平壌覆審法院検事長、大邱覆審法院検事長、朝鮮総督府法務局長を歴任し、1929年(昭和4年)から朝鮮総督府高等法院検事長を務めた。1932年(昭和7年)12月、退官。 1935年(昭和10年)2月5日、病気療養中に東京府東京市豊島区池袋の自宅で死去、64歳。
羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明… 羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明治元年9月11日) - 1944年(昭和19年)12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。1890年、東京工業学校(現・東京工業大学)機械科卒。私立中学鳳鳴義塾教師となる。その後、農商務省製鉄所技手となり、ドイツに留学、住友製鋼所副支配人、羽室鋳鋼所所長、日本水道衛生、大阪機械工作所(株)監査役を歴任する。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、近隣の新中学として1923年から灘校設立運動を支援。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において大阪3区から立候補したが落選。1926年の補欠選挙の再選挙に実業同志会公認で立候補して当選した。