田中 健一(たなか けんいち、1927年8月31日 - 20… 田中 健一(たなか けんいち、1927年8月31日 - 2021年7月29日)は、日本のカトリック司教。洗礼名はライムンド。カトリック高松教区の教区長であった田中英吉司教の甥にあたる。 1927年8月31日、愛媛県宇和島市に生まれる。泰星中学校(福岡市・現上智福岡中学校)を経て1944年に長崎公教神学校、1946年に大阪関目仮神学校、1948年に東京神学院に入学した。1951年12月21日に高松教区にて司祭叙階。1952年から58年まで、ローマなどに留学した。帰国後は、大阪教区の甲陽園と園田、1964年から高松教区の桜町、三本松、長尾、大島の各小教区で働く。1976年7月8日、ローマ教皇パウロ6世により京都教区司教に任命、同年9月23日、司教に叙階された。
高羽 哲夫(たかは てつお、1926年8月31日 - 199… 高羽 哲夫(たかは てつお、1926年8月31日 - 1995年10月31日)は、日本のカメラマン。「男はつらいよ」48作の撮影に携わったことで知られる。 福島県河沼郡湯川村出身。福島県立会津中学校(旧制、現・会津高等学校)、米沢高専(現・山形大学工学部)卒業。 1948年、松竹に入社。1965年、「霧の旗」で第9回三浦賞を受賞。 映画カメラマンとして主に山田洋次監督とコンビを組み、特に「男はつらいよ」48作の撮影に携わったことで知られる。1992年、紫綬褒章受章。 1995年に肝臓癌で死去。69歳没。
桐敷 眞次郎(きりしき しんじろう、1926年8月31日 -… 桐敷 眞次郎(きりしき しんじろう、1926年8月31日 - 2017年12月7日)は、日本の建築史家・建築評論家。東京都立大学名誉教授、工学博士。東京府東京市神田区東神田生まれ。 敗戦後の混乱のなか、一年上級の飯田喜四郎、堀内清治の二先輩とともに西洋建築史研究を志す。当時は海外渡航が不可能であったため、旧敵国の留学生制度を利用し、飯田がフランス(1953-56)へ、桐敷がイギリス(1955-57)へ渡航、次いで堀内が東大イラン・イラク発掘調査隊(1953-56)に参加。当時から、ごく自然に堀内が古代、飯田が中世、桐敷が近世・近代を分担し、研究や出版に万事協力し合う態勢をつくる。
天谷 直弘(あまや なおひろ 1925年8月31日 - 19… 天谷 直弘(あまや なおひろ 1925年8月31日 - 1994年8月30日)は、日本の官僚、経済評論家。 資源エネルギー庁長官、通商産業審議官、電通総研初代所長、松下政経塾評議員。福井市名誉市民。天谷直次郎陸軍中将は父、国土交通官僚の天谷直昭は甥。 福井県吉田郡岡保村(現・福井市)出身。旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を卒業後、旧制静岡高校、東京大学法学部政治学科へと進学した。1948年、商工省(のちの通産省)に入省。入省同期に、矢野俊比古(通産事務次官、のち参議院議員)、金森久雄(日本経済研究センター理事長)、岸田文武、熊谷善二(特許庁長官)、生田豊朗、黒田四郎(名古屋通産局長)など。
平井 さち子(ひらい さちこ、1925年8月31日 - )は… 平井 さち子(ひらい さちこ、1925年8月31日 - )は、東京都出身の俳人。東京市日暮里(現荒川区)生。1946年、夫の恩師である中村草田男の「萬緑」に入会。1956年、夫と大学の同級であった高橋沐石の勧めで「子午線」に参加。夫の留学や赴任に伴いアメリカ合衆国、ついで北海道に移住。当地では野鳥愛護活動に従事、また北海道文学館理事も務めた。1983年、東京に戻る。1990年、『鷹日和』により第30回俳人協会賞受賞。他の句集に『完流』『紅き栞』『背中』『日々片々』がある。季題趣味を離れた自由な句風。
岡 稔(おか みのる、1924年8月31日 - 1973年9… 岡 稔(おか みのる、1924年8月31日 - 1973年9月19日)は、日本の経済学者。滋賀県出身。一橋大学経済研究所ソ連経済研究部門教授在任中、49歳で死去した。第6回日経・経済図書文化賞受賞。 1942年東京商科大学(現一橋大学)予科入学。クラスの同級生に速水優(元日本銀行総裁)、川勝堅二(元三和銀行頭取)、本間要一郎(横浜国立大学名誉教授)などが、他クラスの同期に俳優の久米明や関恒義(一橋大学名誉教授)がいた。 大学では高島善哉ゼミに所属。また日本共産党シンパの学生らで組織された民主主義科学研究会(民研)に、本間や、佐藤定幸(のちに一橋大学名誉教授)、韮沢忠雄(のちに日本共産党赤旗編集局長)らとともに、主要メンバーとして参加した。
小杉 信光(こすぎ のぶみつ、1923年8月31日 - 20… 小杉 信光(こすぎ のぶみつ、1923年8月31日 - 2004年4月12日)は、日本の経営者。沖電気工業社長を務めた。 東京都出身。1943年に早稲田大学政経学科を卒業し、同年に沖電気(のちの沖電気工業)に入社。1974年に取締役に就任し、1979年5月に常務、1982年5月に専務、1984年6月に副社長を経て、1988年6月に社長に就任。1992年10月に会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1996年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年4月12日心不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
江橋 節郎(えばし せつろう、1922年8月31日 - 20… 江橋 節郎(えばし せつろう、1922年8月31日 - 2006年7月17日)は、日本の薬理学、分子生物学者。東大名誉教授、元生理学研究所長、元日本生物物理学会長。従三位勲一等医学博士。 東京市麹町区(現東京都千代田区)九段生まれ。 筋肉の収縮機構の解明、特にカルシウムイオンが大きな役割を果たしていることの発見で知られる。トロポニンの命名者。 府立一中、一高を経て、1944年東京帝国大学医学部医学科卒業後、助手として東大に勤務。1959年にはロックフェラー研究所客員研究員となり、1959年から1983年まで東大医学部教授を勤め、その間、理学部物理学科教授、東大評議員、東大名誉教授、カリフォルニア・ハーバード両大学客員教授などを歴任した。
阪本 龍児(さかもと りゅうじ、1921年8月31日 - 2… 阪本 龍児(さかもと りゅうじ、1921年8月31日 - 2003年10月21日 )は、日本の経営者。南都銀行頭取を務めた。 奈良県出身。1949年に京都大学農学部を卒業し、1950年に南都銀行に入行。1968年に取締役に就任し、1972年11月に常務、1976年1月に専務を経て、1979年2月に頭取に就任。1990年6月に会長に就任し、1997年6月に取締役相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。1985年6月から1997年6月までに近畿日本鉄道取締役も務めた 1981年2月に紺綬褒章を受章し、1984年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2003年10月21日心筋梗塞のために死去。
高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、19… 高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、1921年(大正10年)8月31日 - 1991年(平成3年)9月5日)は日本の彫刻家。山形県酒田市出身。 バレリーナをモチーフとした彫刻で知られ、昭和30年代(1955年 - 1964年)中頃まで木彫を中心に制作したが後に塑像へ転向した。 1921年(大正10年)8月31日、神社仏閣の木彫を生業とする生家に生まれる。祖父は宮彫師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事し木彫を始める。 1940年(昭和15年)上京、翌1941年(昭和16年)東京美術学校入学、関野聖雲に師事。1946年(昭和21年)東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。 1947年(昭和22年)、第3回日展に初入選。
矢野 康(やの やすし、1921年〈大正10年〉8月31日 … 矢野 康(やの やすし、1921年〈大正10年〉8月31日 - 1994年〈平成6年〉9月23日)は日本の政治家。函館市長、函館空港ビルデング社長。 茨城県生まれ。1943年(昭和18年)法政大学経済学部を卒業。1945年(昭和20年)に北海道開拓部勤務となる。 北海道総務部次長、渡島支庁長、水産部長を務めた。1967年(昭和42年)3月に退職した。同年、函館市長に立候補し、吉谷一次や社会党の推す候補、共産党公認候補などを破って当選する。同年5月2日に就任した。 社会党、共産党推薦の無所属新人との争いになったが、自民党公認を得て再選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 革新系の新人との争いになったが、これを破って3選を果たした。
安宅 常彦(あんたく つねひこ、1920年〈大正9年〉8月3… 安宅 常彦(あんたく つねひこ、1920年〈大正9年〉8月31日 - 1998年〈平成10年〉10月18日)は、昭和期の労働運動家、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。全電通東北地方本部委員長、山形県労働組合評議会議長、日朝国交正常化国民会議事務局長を務めた。 現在の山形県村山市で生まれる。1936年(昭和11年)仙台逓信講習所普通科を卒業。山形楯岡郵便局、山形電気通信部で勤務した。 1952年(昭和27年)全電通東北地方本部委員長、1955年(昭和30年)山形県労働組合総評議会議長に就任する。 1960年(昭和35年)第29回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選。以来、旧山形2区から日本社会党の公認を受け立候補し、連続6回当選する。
谷端 長(たにはた ひさし、1919年8月31日 - 200… 谷端 長(たにはた ひさし、1919年8月31日 - 2001年1月21日 )は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。経営学博士。 和歌山県古座町(現串本町)出身。1941年彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)卒業。彦根高商時代は文芸部に所属し、経済哲学に関心を持つ。1943年東京商科大学(現一橋大学)卒業。松下電器産業、徴兵、古座造船所等を経て、1951年に神戸大学経営学部助手となる。1959年、著書『動的会計論の構造』(森山書店)にて日本会計研究学会賞・太田賞を受賞。1964年神戸大学経営学部教授。翌1965年、『動的会計論』(森山書店)を出版。この年より甲南大学や香川大学でも教鞭を執る。1984年に神戸大学停年退職、同大学名誉教授、大阪商業大学教授に着任。
清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31… 清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31日 - 2008年3月30日)は、俳人、小説家。本名、清水基嘉(読み同じ)。 現在の東京都渋谷区の宇田川町・道玄坂、港区の青山かいわいに、生まれ育った。1925年(大正14年)、東京府青山師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)へ入った。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1934年16歳、正則英語学校(現:正則学園高等学校)へ転じた。 1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間の1940年横光利一を知り、翌年、句誌『鶴』の主宰者、石田波郷の門に入った。同人誌に参加し、北條誠、巖谷大四、村松定孝らを知った。
倉成 正(くらなり ただし、1918年〈大正7年〉8月31日… 倉成 正(くらなり ただし、1918年〈大正7年〉8月31日 - 1996年〈平成8年〉7月3日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。外務大臣(第109代)、経済企画庁長官(第25・28代)を歴任。位階は正三位。長男は元衆議院議員の倉成正和。 長崎県長崎市出身。父は衆議院議員を務めた倉成庄八郎。旧制五高を経て1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東洋高圧、長崎県農地農林部長などを経て、1958年の第28回衆議院議員総選挙に自民党公認で長崎1区より立候補し当選する。以後、当選回数12回。自民党では、河野派から中曽根派に所属する。 経済企画政務次官、大蔵政務次官、衆議院社会労働委員長などを経験し、1974年11月に第2次田中第2次改造内閣の経済企画庁長官として初入閣を果たす。
松下 三十郎(まつした さんじゅうろう、1918年8月31日… 松下 三十郎(まつした さんじゅうろう、1918年8月31日 - 2004年1月24日)は奈良県出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
馬橋 隆二(まばし りゅうじ、1918年(大正7年)8月31… 馬橋 隆二(まばし りゅうじ、1918年(大正7年)8月31日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、大宮市長(第13代 - 第15代)。弁護士。 埼玉県大宮町出身。1942年(昭和17年)明治大学法学部卒。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年(昭和18年)9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。横須賀鎮守府付工廠勤務となる。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進。同年9月、予備役に編入され解員(復員)となる。 戦後の1948年(昭和23年)二級事務官吏銓衡に合格し、運輸省に入る。一方で高等試験司法科試験にも合格した。
山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年(大正6年)8月3… 山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年(大正6年)8月31日 - 2016年(平成28年)2月27日)は、日本の銀行家、教育者。三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)副頭取を務めた後、財団法人国際教育振興会理事長、ダイヤモンドリース(現・三菱HCキャピタル)社長・会長・相談役、国際大学第4代理事長。 東京府生まれ。陸軍中将・山室宗武の次男。 大東亜戦争の勃発した前年の1940年(昭和15年)7月、第七回日米学生会議では、宮澤喜一(東京帝国大学)、山崎秀之(神戸商科大学)、苫米地俊博(東京商科大学)の3名と共に日本側学生として参加。総務委員長を務めたが、特高警察が「この国家非常時に、毛唐と一緒に騒ぎ立てるとは何事か」と叱責を受ける。
馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 199… 馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 1993年12月18日 )は、日本の経営者。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。旧制富山高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業。兵役を経て、1946年に北陸銀行に入行した。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1970年3月に頭取に就任。1980年6月には会長に就任。 1978年11月には藍綬褒章を受章。 1993年12月18日、脳出血のために死去。77歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
菊矢 吉男(きくや よしお、1915年8月31日 - 199… 菊矢 吉男(きくや よしお、1915年8月31日 - 1990年12月27日)は、大阪府出身のプロ野球選手、高校野球指導者。
渡辺 省吾(渡邉、わたなべ しょうご、1915年 <大正4年… 渡辺 省吾(渡邉、わたなべ しょうご、1915年 <大正4年> 8月31日 - 2007年 <平成19年> 5月22日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。位階は従三位。 東京都出身。1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1962年11月に日興証券常務に就任し、1963年11月に専務を経て、1966年11月に副社長に就任し、1970年11月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1981年12月に取締役相談役を経て、再び1982年10月に会長に就任し、1986年12月から相談役を務めた。 1975年から1992年までの間に日本証券業協会の会長の第3代・第7代・第12代を務めた。
大倉 千代子(おおくら ちよこ、1915年8月31日 - 没… 大倉 千代子(おおくら ちよこ、1915年8月31日 - 没年不明)は、日本の女優である。本名坂間 喜代子(さかま きよこ)、旧芸名秋月 弘子(あきづき ひろこ)、月浦 かすみ(つきうら かすみ)。溝口健二監督の『虞美人草』(1935年)、坂根田鶴子の初監督作『初姿』(1936年)で知られる。 1915年(大正4年)8月31日、東京府東京市芝区新堀町(現在の東京都港区芝3丁目)に生まれる。 旧制小学校を経て、満10歳になる1925年(大正14年)、松竹蒲田撮影所を辞した五月信子(1894年 - 1959年)と高橋義信の夫妻が主宰する「近代座」に参加する。舞台では『高橋お傳』、『奈津子の母』、『嬰児殺し』、『女給』に出演した。
平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31… 平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会(経団連)会長(在任、1990年(平成2年)12月21日 - 1994年(平成6年)5月27日)。 1987年(昭和62年)に名誉大英帝国勲章KBE受勲[要出典]。1997年(平成9年)、レジオンドヌール勲章受勲[要出典]。2006年(平成18年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。 6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知県立第七中学校(現・愛知県立半田高等学校)の入学祝いに母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部法律学科へと進学させた。
城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 198… 城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 1985年12月21日)は、敗戦後中国共産党と戦い禁錮刑を受けた陸軍軍人で、のち評論家。 長崎県西山町生まれ。東京府立四中、第八高等学校卒、1938年東京帝国大学法学部政治学科卒業、野村合名会社調査部に入社、同年徴兵され中国へ渡る。41年陸軍中尉、第1軍参謀部。河本大作の知遇を得て、山西省政府顧問補佐官となる。1945年の日本の敗戦後も、祖国復興・山西独立を掲げ、山西の独裁者閻錫山と手を結び、李誠の名で毛沢東が率いる中国人民解放軍と戦う。49年捕虜となり禁錮18年の刑を受ける(中国山西省日本軍残留問題、撫順戦犯管理所)。 1964年解放され帰国。
夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 -… 夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 - 1987年7月16日)は、日本の俳優。 1913年(大正2年)8月31日、斎藤大二郎として東京市芝区桜田本郷町(現在の東京都港区西新橋)に生まれる。 1919年(大正8年)に映画芸術協会製作の『生の輝き』に姉の夏川静枝と共に夏川大吾の芸名で子役で出演した。 1933年(昭和8年)日活太秦撮影所に監督見習いとして入社、その後、俳優に転向し1934年(昭和9年)に日活映画でデビューした。 1940年(昭和15年)五所平之助監督『木石』などに主演。 戦後は脇役として、1946年(昭和21年)『瀧の白糸』、1949年(昭和24年)『透明人間現わる』などに出演した。
大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 20… 大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 2007年11月23日)は、兵庫県出身のサッカー選手、実業家。サッカー元日本代表。東洋紡績会長・名誉顧問。サッカー記者の大谷四郎は実弟。 内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の次男として生まれる。兵庫県立第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み全国制覇を達成。兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後に鐘紡に入社するが1年で退社して、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学。同大学ではサッカー部を創設して、関西学生リーグで優勝を果たした。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など3試合に出場して1得点を上げた。
手塚 勝巳(てづか かつみ、1912年8月31日 - )は、… 手塚 勝巳(てづか かつみ、1912年8月31日 - )は、日本の元俳優、スーツアクター。元プロ野球選手。
立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 19… 立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 1984年5月13日)は、日本の経営者。トピー工業社長、会長を務めた。岩手県出身。 1936年に東京商科大学を卒業。東芝、八幡製鉄での勤務を経て、1965年10月にトピー工業常任顧問に就任し、同年11月副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1977年6月に会長を経て、1980年7月には相談役に就任。 1977年4月に藍綬褒章を受章。 1984年5月13日前立腺腫瘍のために死去。71歳没。
田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31… 田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31日 - 1992年(平成4年)1月15日)は、日本の詩人・東洋史学者、中国文学者。 1911年、大阪府で生まれた。東京帝国大学東洋史学科で学び、1934年に卒業。在学中の1932年、保田與重郎、肥下恆夫、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己ら大阪高等学校同窓生と文芸同人誌『コギト』を創刊。1936年堀辰雄の推挙により、詩誌『四季』(第2次)同人となり、津村信夫や神保光太郎と共に編集にも携わった。1941年詩文集『楊貴妃とクレオパトラ』で第5回北村透谷記念文学賞受賞。 1942年1月、文士徴用軍属の第2陣として北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線後方(シンガポール・スマトラ)へ派遣された。
中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 198… 中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 1985年5月25日)は、日本の外交官。駐ポーランド特命全権大使や、駐ブラジル特命全権大使を務めた。 千葉県出身。1935年高等試験外交科合格。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1937年に外交官補に任官後、アメリカ合衆国や、ソビエト連邦、外務省調査部第二課、外務省政務局第三課で勤務。 1950年賠償庁特殊財産部長心得兼特殊財産部総務課長。1951年出入国管理庁長官官房秘書課長。1952年法務省入国管理局総務課長、法務教官。1953年外務大臣官房会計課長、在外公館等借入金整理準備審査会幹事。 在ロス・アンゼルス日本国総領事館総領事を経て、1958年在パキスタン日本国大使館参事官。
水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 19… 水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 1978年2月25日)は、日本のジャズボーカリスト。鹿児島県出身。本名は永田喜子。立教高等女学校卒業。トニー相良名義でも活動していた。 日本のジャズ草創期を代表する女性ボーカリスト。また自らも歌手として活動する一方で、1957年には「水島早苗ボーカル研究所」を設立して後進の育成にも取り組み、弟子にはマーサ三宅、金子晴美、佐良直美、前野曜子、伊集加代らがいる。 死後の1985年には、ジャズ専門紙『ジャズワールド』が水島の功績を称える意味で「水島早苗ジャズヴォーカル賞」(現在の日本ジャズヴォーカル賞)を創立するなど、その功績は高く評価されている。
森野 米三(もりの よねぞう、1908年8月31日 - 19… 森野 米三(もりの よねぞう、1908年8月31日 - 1995年10月24日)は、物理化学者。東京大学名誉教授。
石神 啓吾(いしがみ けいご、1907年(明治40年)8月3… 石神 啓吾(いしがみ けいご、1907年(明治40年)8月31日‐ 2001年(平成13年)8月21日) は、昭和期の政治家。衆議院議員(1期)、宮崎県東諸県郡高岡町長。 宮崎県東諸県郡高岡村(高岡町を経て現宮崎市)で、教育者・石神徳蔵の息子として生まれた。旧制宮崎県立都城中学校を経て、第七高等学校造士館で学んだ。 宮崎県会議員に選出され、同参事会員も務めた。 戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本社会党所属で立候補して落選。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で旧宮崎県第2区から立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に立候補したが落選した。
西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001… 西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001年2月3日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。同志社大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに200m走と4×400mリレーで出場。日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝3回。第二次世界大戦後に、陸上競技用具等のメーカーであるニシ・スポーツを創業した。 京都市生まれ。京都市立第二商業学校卒業後、同志社大学に進学。 同志社大学在学中、1929年(昭和4年)に日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝(51秒4)。1931年(昭和6年)には日本陸上競技選手権大会400m走で2度目の優勝(50秒2)。 1932年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選ばれ、男子200メートル走と男子4×400mリレーに出場した。
川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月… 川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月31日 - 1985年〈昭和60年〉4月11日)は、日本の植物学者。高崎経済大学学長、同教授、北海道学芸大学教授、道都大学副学長、同教授、理学博士(北海道大学)。 群馬県伊勢崎市出身。1924年茨城県立太田中学校(現・茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)卒。1924年群馬県佐波郡豊受尋常高等小学校代用教員、1926年北海道空知郡岩見沢町志文尋常小学校代用教員。軍隊に入隊を経て、1931年第二高等学校 (旧制)卒、1935年北海道帝国大学理学部卒業(恩師:山田幸男)。 1935年東海高等女学校(現茨城県立第二日立第二高等学校)教諭、1937年茨城県師範学校教諭。
木塚 静雄(きづか しずお、1906年8月31日 - 196… 木塚 静雄(きづか しずお、1906年8月31日 - 1966年)は、日本の家畜衛生学者。獣医師。 佐賀県藤津郡嬉野町(現・嬉野市)に生まれ、木塚貞吾の養子となる。1925年福岡県立中学修猷館、1930年3月第五高等学校理科甲類を経て、1933年3月東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。 1933年5月農林水産省畜産局に入省。1937年7月宮城県種畜場(現・宮城県畜産試験場)長となる。1938年9月、鈴木梅太郎が院長を務めていた満洲国大陸科学院副研究官に転じ、1939年7月大陸科学院の機関である奉天獣疫研究所を兼任する。1945年3月高級ゼラチン研究により満洲国文化褒賞を受賞。1945年6月大陸科学院研究官となる。
天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 19… 天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 1995年4月6日)は、日本の整形外科医。九州大学名誉教授。 先祖は「滝根」と称していたが、明治三年の氏姓制度で「天児」姓を名乗る。「天児」は「あまがつ」と読み、『源氏物語』若菜にもみえる、災難を除くため祓に用いられた子供の人形のこと。しかし「あまがつ」と正確に読んでくれる人がいないため、呼びやすく「あまこ」にしたと伝え聞いている、という。 神戸市出身。1926年九州帝国大学医学部入学、1930年卒業、1931年同整形外科教室入局、神中正一教授に師事。1936年ドイツ留学(ライプッチヒ大学整形外科学教室)、同年開催のベルリンオリンピックの嘱託医師などを務め、1936年医学博士、九州大学助教授、軍医をへて、1945年新潟医科大学教授、1949年新潟大学医学部付属病院長。
茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年… 茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年〈明治38年〉8月31日 - 1993年〈平成5年〉3月5日)は、日本の政治家。日本社会党で衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)を務めた。 宮崎県宮崎郡木花村(現・宮崎市)に、農家の次男として生まれる。1937年(昭和12年)早稲田大学政経科卒。在学中から反戦・労働・農民運動に参加。卒業後は群馬県水上町にあった阿能川鉱山に入り、所長となる。1940年(昭和15年)群馬県鉱業会理事長、1943年(昭和18年)全国鉱業会連合会理事長。 1945年(昭和20年)の日本社会党結党に参加。1948年(昭和23年)日本社会党群馬県連書記長、1950年(昭和25年)日本社会党本部中央委員。
大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 198… 大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 1988年6月28日)は日本の女性活動家、平和運動家、日本地婦連会長、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)初代議長、日中友好協会全国本部副会長、岩沼市名誉市民。トルーカ名誉市民。 宮城県岩沼市生まれ。旧姓・高橋。同じ岩沼市出身で日本国憲法制定に尽力した日本社会党衆議院議員の菊地養之輔は従兄、世界医師会会長の武見太郎とも親戚関係にある。 大正11年、宮城県第二女子高等学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。会員600万人の全国最大の婦人団体組織全国地域婦人団体連絡協議会会長として国際的に活躍した。消費者保護や核兵器廃絶などに幅広く活動した。
神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 197… 神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 1979年3月2日)は、日本の小説家、文筆家。 島本 志津夫(しまもと しづお)の筆名も用いた。 香川県高松市出身。旧姓は河野であった。 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学。大阪高等学校在学中の1925年に大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に藤沢桓夫らとともに参加。 東京帝国大学文学部国文科を1928年に卒業。卒業後、大森高等女学校(現・三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により1930年に退職に追い込まれる。以後、文筆業に就く。 島本志津夫名義で映画『女學生と兵隊』の原作も手がけた。
高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 199… 高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 1992年7月4日)は、北海道出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制北海中学校 → 早稲田大学 早大在学中、1925年の第3回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人4kmとリレーで優勝。翌年の同大会でも、クロスカントリースキー個人25kmとリレーの2冠を達成した。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックの代表に選出され、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で36位、個人耐久(50km)で25位だった。 引退後は全日本スキー連盟の理事をつとめた。
徳永 郁介(とくなが いくすけ、1902年8月31日 - 没… 徳永 郁介(とくなが いくすけ、1902年8月31日 - 没年月日不詳)は、日本の大学教授。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、第五高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科(美学及び美学史専攻)卒業。 昭和3年、京都市主事、同4年、日本大学講師となり、応召を経て同15年、山口師範学校教諭、次いで小郡農業学校教諭などを歴任した。 その後、再度の応召を経て、昭和21年5月に復員し、同23年3月に熊本女子専門学校教授を経て熊本女子大学(現・熊本県立大学)の教授(美学)となった。 昭和43年に定年退官し、同年7月2日に名誉教授となった。 著書に「ルネサンス」やその他、多数の訳書がある。
青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 19… 青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 1999年10月20日)は、日本の実業家。京都セラミツク(現在の京セラ)社長を務めた。兵庫県出身。 1928年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。日本電磁器、松風工業での勤務を経て、1959年に稲盛和夫らと共に京都セラミックを創立し、専務に就任し、1964年には社長に昇格。1966年には会長に就任し、1971年に取締役相談役を経て、1973年から監査役を務めた。 趣味は音楽で、1987年には私財を投じて、京都市郊外に青山音楽記念館を建設した。 1999年10月20日急性心筋梗塞のために死去。97歳没。
五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 198… 五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 1982年5月27日)は、日本の歌人・万葉学者。末弟は万葉学者の五味智英。長野県下諏訪町出身。 旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京高等師範学校文科を経て、京都帝国大学国文科卒業。中学時代より叔母のアララギ派詩人・五味えい、同郷の島木赤彦の影響を受け、短歌の道を志した。1929年上京後、齋藤茂吉、土屋文明の指導を受けながら、アララギの中興や、歌誌「アララギ」の発行に携わり、特に戦後は、世田谷区奥沢の自宅を「アララギ」発行所として専念した。数多くの学校で教壇に立ち、東京第三師範学校や日本女子大学の教授も勤めた。1953年から1982年まで信濃毎日新聞歌壇撰者。
二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - … 二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - 1989年10月16日)は、日本のプロ野球選手(外野手)・審判員、野球解説者、実業家、京阪電気鉄道OB。兵庫県出身。
森 八三一(もり やそいち、1899年(明治32年)8月31… 森 八三一(もり やそいち、1899年(明治32年)8月31日 - 1990年(平成2年)6月9日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)。参議院副議長(第12代)。 1917年(大正6年)愛知県立農林学校(現愛知県立安城農林高等学校)卒業。栃木県産組課長、中川農業協同組合組合長、全国購買農協連合会農産課長及び常務理事、日本藁工芸品統制常勤理事、全国農業会農産局長、全国農業協同組合連合会参事を歴任し、1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補し、初当選(無所属)、以降4期務める。 1954年(昭和29年)参議院農林委員長、1971年(昭和46年)参議院副議長。1972年(昭和47年)春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。
岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 19… 岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。本名は賢治郎。 主に山岳写真、風景写真を撮影した。全国の国立公園の撮影にもあたり、海外にも知られた。富士山の撮影をライフワークとし、その作品は切手や紙幣にも採用されている。 新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)に、衆議院議員岡田龍松の三男として生まれる。兄に岡田正平(新潟県会議員・新潟県知事)がいる。曾祖父の喜兵衛(岡田香雪)、祖父の栄蔵(岡田雪洞)、父の龍松(耕雲)も書画に名を残している。 1914年、早稲田大学予科に入学。友人からカメラを借りて富士山を撮影したのが、ライフワークとなる富士山との付き合いはじめという。
泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980… 泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980年11月10日)は、日本の歌人、美術評論家。本名は山田 邦祐。 福岡県福岡市田島に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1920年早稲田大学文学部英文科を卒業し、研究社に入社。在学中の1917年から北原白秋に師事している。 戦後、「婦人画報」編集局に移り、1935年白秋の歌誌「多磨」創刊に参加、のち編集に従事。1953年に同誌が終刊後、中村正爾の歌誌「中央線」創刊に参加。 本名名義で美術書も出版した。
頼 成一(らい せいいち、1891年〈明治24年〉8月31日… 頼 成一(らい せいいち、1891年〈明治24年〉8月31日 - 1951年〈昭和26年〉7月21日)は、日本の国文学者、漢文学者。 旧制東京高等学校教授、東京高等師範学校教授。頼山陽5世子孫。号は楳崖(ばいがい)。広島県士族。 東京帝国大学卒業。旧制愛知県立第一中学校教諭、旧制東京高等学校教授、東京高等師範学校教授。 戦後、地元広島の旧制尾道市立女子専門学校校長、尾道短期大学初代学長。 同じく漢文学者の頼惟勤は息子。
加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月3… 加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月31日 - 1922年(大正11年)5月1日)は、明治・大正期の小説家。本名はきくよ。月刊誌「青鞜」の社員であった。 1888年(明治21年)8月31日、長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)にて、医師の父・高仲泰一と、母・久与の間に、長女として生れる。1899年(明治32年)12月11日、母・久与が病死(享年32歳)。幼い4人の弟妹たちの世話を、11歳のきくよがすることとなった。 文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った狂歌のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「新小説」「早稲田文学」「明星」などの文芸雑誌や、与謝野晶子、島崎藤村などを愛読した。