富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月1… 富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月15日 - 没年不明)は、新潟県糸魚川市出身の陸上競技(中距離走)選手。1936年ベルリンオリンピックに800メートル競走と1500メートル競走で出場した。 新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現在の糸魚川市大町)出身。糸魚川小学校を経て、糸魚川中学校(現在の新潟県立糸魚川高等学校)卒業。明治大学に進学。 明治大学体育会競走部に所属し、1931年・1932年には日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)800m走で優勝。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には1931年の第12回大会から1935年の第16回大会まで4回出場している(1934年の第15回には出走していない)。
落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 19… 落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 1939年12月30日)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県安来市広瀬町生まれ。浪華商業学校(現在の大阪体育大学浪商中学校・高等学校)卒業、明治大学に進む。 1932年の日本陸上競技選手権大会の男子ハンマー投で優勝。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子ハンマー投げで12位。ロス五輪で同じくハンマー投げ代表選手の長尾雄治も明治大学の学生で、古山一郎とともに「明大のハンマートリオ」と呼ばれていたという 明治大学卒業後は、名古屋市で運動公園管理者として働く。1938年9月、松江の歩兵第63連隊に入隊。日中戦争が勃発すると第110師団衛生隊陸軍上等兵として北支へ出征。
西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月… 西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月21日 - 1997年(平成9年)4月13日)は、日本の元陸上競技選手。和歌山県東牟婁郡那智村(現・那智勝浦町)出身。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。早稲田大学理工学部卒業。 弁護士・西田郁平と楠枝の長男として生まれる。旧制和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を卒業後、織田幹雄に感化されて第一早稲田高等学院に進学。棒高跳のエキスパートとして知られ、大学在学中に1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。銀メダルを得た。早稲田大学理工学部機械工学科を卒業後、日立製作所に入社。1936年ベルリンオリンピックでは大江季雄と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「友情のメダル」を作成したことはつとに有名。
阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 193… 阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 1939年12月18日)は、日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。山口県出身。 1909年12月22日、山口県阿武郡大井村字市場(現・萩市大井)に、大井八幡宮宮司の阿武四郎の長男として生まれる。 生家の大井八幡宮は阿武郡18郷の総社で参道が100メートル (m)を超える長さだったため、幼少期から参道をトラックに見立てて走り込んでいた。母校、大井尋常高等小学校(現 • 萩市立大井小・中学校)の運動会では俊足過ぎてトラックのカーブを曲がりきれなかったという 1922年(大正13年)4月、旧制山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)に進学。萩中時代では従兄弟のいる萩市椿町の金谷天満宮に下宿し、当地から学校まで毎日走って登校していた。
木村 一夫(きむら かずお、1909年6月28日 - 198… 木村 一夫(きむら かずお、1909年6月28日 - 1987年11月4日)は、日本の陸上競技(走高跳)の選手。 1920年代後半から1930年代にかけて活躍し、日本陸上競技選手権大会優勝5回、1929年から1933年にかけて日本記録保持者。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 兵庫県加古郡加古川町(現在の加古川市)出身。関西学院中学部に進み、1927年の第8回極東選手権大会(上海)の走高跳で2位。1926年・1927年の日本陸上競技選手権大会で優勝。 早稲田大学に進学。1928年の日本陸上競技選手権大会で優勝(以後、1929年・1931年と早稲田大学所属で優勝)。
高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日… 高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日 - 1963年(昭和38年)12月10日)は、日本の砲丸投選手、写真家。 広島県広島市出身。旧制広陵中学校中退。日本陸上競技選手権大会では、1927年から1935年までの間に砲丸投げで6回優勝。1934年(昭和9年)に大連で開催された日米対抗陸上競技大会において14m13の日本記録を樹立した。この記録は1953年まで保持された。通称「砲丸王」と呼ばれた。 1936年ベルリンオリンピックに砲丸投げで出場したが予選で失格。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から約680メートルの中国配電(現中国電力)本店で被爆。
大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11… 大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11月10日 - 1985年(昭和60年)3月30日)は、日本の陸上競技選手。専門は三段跳で、1932年ロサンゼルスオリンピック銅メダリストにして元世界記録保持者だった。 石川県金沢市出身。関西大学卒業。 引退後は大阪体育大学副学長(のちに名誉教授)や日本オリンピック委員会 (JOC)委員(のちに名誉委員)を務めた。 金沢市の手広く履物商を営む商家に生まれ、金沢商業学校(現・石川県立金沢商業高等学校)在学中に第四高等学校(現・金沢大学)主催の中等学校陸上競技大会の三段跳で優勝する。関西大学法律科に進学し、1928年アムステルダムオリンピックの予選会を兼ねた全日本選手権で走幅跳2位、三段跳3位となるも選に漏れた(この時選手に選ばれた織田幹雄は三段跳びで日本人初の金メダリストとなった)。
小野 操(おの みさお、1908年5月27日 - 故人)は、… 小野 操(おの みさお、1908年5月27日 - 故人)は、日本の陸上競技選手(走高跳)。慶應義塾大学在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックで男子走高跳に出場した。 現在の栃木県佐野市出身。旧制佐野中学校(現在の栃木県立佐野高等学校・附属中学校)から慶應義塾大学に進む 1928年(昭和3年)、旧制佐野中学校出身者が設立した「佐野スパルタ倶楽部」(SAC) の創設に参加。「佐野スパルタ倶楽部」の名称は、小野がイギリスのアキレス・クラブ(英語版)にちなんでつけたという。 1929年(昭和4年)に神宮競技大会で優勝(1m83)したのを皮切りに、1930年代前半にかけて各種大会の走高跳種目で活躍。
藤田 辰三(ふじた たつぞう、1908年5月19日 - 没年… 藤田 辰三(ふじた たつぞう、1908年5月19日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(ハードル)選手。東京文理科大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに110メートルハードルで出場した。 旧制津山中学校(現在の岡山県立津山中学校・高等学校)出身。 1932年(昭和7年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1932年5月14日の日本学生陸上競技対校選手権大会の110メートルハードルで15秒0の記録(日本記録、同時に日本学生記録)を出し、同年6月22日の五輪選手送別大会でもこれと並ぶ記録を出した。 1932年ロサンゼルスオリンピックで男子110メートルハードルに出場した。準決勝敗退。
奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1… 奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1992年6月2日)は、日本の陸上競技(競歩)選手、保健体育学者。青森県出身。1936年ベルリンオリンピックに50キロメートル競歩で出場した。競歩競技では日本初のオリンピック選手である。 青森県南津軽郡浪岡町(現青森市浪岡)出身。実弟の奈良岡健三ものちに競歩選手となる。 青森県師範学校に学び、在学中は短距離走・駅伝からスキーまでをこなした。同校を卒業し、1931年に東京に出る。「いつでもトレーニングできる種目」として競歩を選んだといい、競歩がオリンピック種目として復活すると、1936年ベルリンオリンピックに向けて計画的にトレーニングを重ね、国内予選を突破して日本代表選手に選ばれた。
住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1… 住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1971年)は、日本の陸上競技(投擲)選手。 1920年代後半から1930年代前半までやり投で活躍した選手で、「槍の住吉」と呼ばれた。オリンピック出場2回(1928年アムステルダム・1932年ロサンゼルス)。姓はのちに岩崎。早稲田大学理工学部卒業。 広島県安芸郡江田島町(現在の江田島市)生まれ。呉一中(現在の広島県立呉三津田高等学校)を卒業。1925年の第7回極東選手権競技大会(マニラ)にやり投と走高跳で出場。 早稲田大学に進学後はやり投選手として活躍。1927年、第8回極東選手権競技大会(上海)ではやり投で優勝。 1928年4月29日に関東選手権で61m08の記録を出して日本記録を更新。
西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001… 西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001年2月3日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。同志社大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに200m走と4×400mリレーで出場。日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝3回。第二次世界大戦後に、陸上競技用具等のメーカーであるニシ・スポーツを創業した。 京都市生まれ。京都市立第二商業学校卒業後、同志社大学に進学。 同志社大学在学中、1929年(昭和4年)に日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝(51秒4)。1931年(昭和6年)には日本陸上競技選手権大会400m走で2度目の優勝(50秒2)。 1932年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選ばれ、男子200メートル走と男子4×400mリレーに出場した。
井沼 清七(いぬま せいしち、1907年7月27日 - 19… 井沼 清七(いぬま せいしち、1907年7月27日 - 1973年10月1日)は、日本の男子陸上競技(短距離走)選手。青森県出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに4×100メートル (m)リレーで出場した。青森県初のオリンピック選手である。 1907年、青森県北津軽郡中里村(現・中泊町)において、井沼覚五郎の四男として生まれる。井沼家は大地主で、覚五郎は村政にたずさわり、郡会議員も務めた人物である。兄の井沼豊助は実業家(津軽鉄道取締役、津軽酒造会社社長など)として活動し、第2代中里町長を務めるとともに、青年相撲の振興にあたり、県相撲連盟幹部を務めた。 中里尋常小学校高等科(現・中泊町立中里小学校)卒業後、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)に進む。
8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月2… 8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京府東京市本郷区壱岐殿坂出身の落語家、喜劇役者。本名∶岩田 喜多二。旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。 父は6代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。 1917年には5代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進。この時睦ノ太郎、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される。 1928年には父の6代目助六が睦会を脱退し独立した際、自身は睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。
古山 一郎(ふるやま いちろう、1907年2月8日 - 19… 古山 一郎(ふるやま いちろう、1907年2月8日 - 1993年(平成3年)10月9日[要出典])は、日本の陸上競技(投擲)選手。早稲田大学在学中に1928年アムステルダムオリンピックに男子円盤投で出場した。 大阪市北区において、古山武造の子として[要出典]生まれる。古山家は旧出雲広瀬藩士[要出典]。四條畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)卒業後、早稲田大学専門部に入る(『早稲田大学百年史』によれば専門部法律科在籍。専門部は専門学校令に基づく短期課程の高等教育機関)。 早稲田大学在学中の1927年(昭和2年)・1928年(昭和3年)、日本陸上競技選手権大会で円盤投げ競技連覇。 1928年(昭和3年)6月に日本を出発した、早稲田大学競走部のイギリス遠征に参加。
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日… 人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。
相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 19… 相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 1945年10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。陸軍司政官。 石川県金沢市生まれ。金沢の第四高等学校に入学。四高在学中の192年11月3日、神宮競技大会の100m走で10秒8を出し、当時の日本記録に並んだ。 京都帝国大学法学部に進む。1927年10月9日、近畿選手権の100m走で10秒7を記録し、日本記録を更新。日本陸上競技選手権大会では1927年に200m走で日本記録(21秒9)に並び優勝。 1928年5月中旬の日本陸上競技選手権大会では200mで21秒6の日本記録を更新し2連覇、100mでも優勝した。5月下旬に開催された第1回日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)で100m、200m、4x400mリレーで優勝した。
津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - … 津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - 1991年9月20日)は、島根県松江市出身の日本の陸上競技選手(長距離)。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックでマラソンに出場し、連続して入賞を果たした。 旧制松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て関西大学予科に進学する。旧制中学時代から陸上競技を始めたが、当時は県内大会に出場する程度のレベルであった。 しかし、「なぜ日本のマラソン選手はオリンピックで勝てないのか」という疑問を抱くようになり、親交のあった大阪毎日新聞や大阪朝日新聞の運動記者から資料を得て、研究を行うようになる。その中で、ハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミをはじめとするフィンランドの長距離選手の強さに着目し、彼らのようなトラックでのスピードをつけることがマラソンで勝つために必要だと考えるに至る。
下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月… 下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月25日 - 2011年〈平成23年〉3月11日)は、日本の陸上競技選手。 観光ジャーナリストの千葉千枝子は外孫。 現在の岩手県陸前高田市で農家を営む家の次男として生まれる。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業後、岩手県内の複数の学校で体育教師を勤めた。第二次世界大戦の開戦直前、新設校への赴任に伴い釜石市に移住。岩手県立釜石高等学校では教頭職に就いた。 本格的に陸上競技を始めたのは50代の頃で、98歳からはマスターズ陸上を始める。100歳を超えて記録した砲丸投5m11cm、やり投12m42cm、円盤投10m72cmはいずれも世界記録。
権 泰夏(クォン・テハ、ごん たいか、1906年6月2日 -… 権 泰夏(クォン・テハ、ごん たいか、1906年6月2日 - 1971年10月10日)は、朝鮮半島出身の陸上競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピック 男子マラソン代表。明治大学卒業。ロサンゼルスオリンピック当時、朝鮮半島は日本に併合されていたため、6位に入賞した金恩培と共に日本代表として出場した。 忠清道の清州出身。裕福な家の出身で、京城(現:ソウル)にある徽文高等普通学校(内地の中学校に該当)に入学したが中退し、内地の立命館中学校に留学、卒業後明治大学法学部に入学した。明治大学時代は1927年からは毎年箱根駅伝に出場。4区を走った1928年と7区を走った1930年には区間新記録で区間賞を獲得している。
塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 19… 塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 1990年12月15日)は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。1936年ベルリンオリンピックに日本代表選手としてマラソンに出場した。 当時大規模な入浜式塩田を擁していた坂出周辺では、「浜子」と呼ばれる塩田労働者が塩田内で仕事として終日走る生活を送っていた。1919年にはマラソンへの関心に火がつき、地元出身で1920年アントワープオリンピック陸上競技代表選手となった大浦留市(東京高等師範学校)が、帰国後に郷里で開かれたロードレースで2人が自分より上位に入ったことを評価・激励したこともそれを後押しした。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンに「浜子」出身の山田兼松が4位入賞を果たし、それを追う形で楠好蔵や塩飽も陸上競技に進んだ。
村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1… 村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1998年7月8日)は、日本の陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者。ベルリン五輪代表。 宮崎県宮崎市出身。小柄ながらも力強い走法で選手として活躍、引退後も毎日マラソンの設立や後進の育成など陸上界の発展に尽力した。 旧制宮崎中学校テニス部時代にロードレース大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始めた。 1925年(大正14年)中学卒業後、都城歩兵第23連隊に入隊。1927年(昭和2年)に除隊し宮崎県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに中央大学法学部法律学科に進学。 中央大学在学中の1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。
織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日… 織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。 「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。
南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月… 南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月24日 - 1997年〈平成9年〉7月23日)は、日本の陸上競技選手。走幅跳および三段跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。位階は正五位。 北海道札幌区(現札幌市)出身。札幌中心部の狸小路商店街1丁目で酒屋「三国屋南部源蔵商店」を営んでいた南部源蔵の4男として生まれ、小学校高等科から攻玉社中学(現・攻玉社中学校・高等学校)に進学し、後に北海中学(現在の北海高等学校)へ転校する。腕白な子供であったが体はあまり強くなく、小学4年から始めた乗馬で体力を養った。北海中学3年の時に上級生にスカウトされて徒歩部(現・陸上競技部)に入部した。
高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)、1904… 高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)、1904年5月17日 - 1994年6月1日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。極東選手権競技大会では100メートルおよび100ヤード、220ヤードで入賞を果たし、100メートルと200メートルで日本記録(タイ記録を含む)も樹立するなど、その才能を嘱望されながら、旧制山形高等学校時代に事実上陸上競技を引退した。 丹南藩藩主の分家筋に当たる高木正秋(高木正得の弟)を父として、東京府東京市赤坂区青山高樹町(現・東京都港区南青山)で生まれる。「高樹町」の町名は、丹南藩邸があったことに由来し、高木の生家も1000坪の敷地に80坪の邸を構えていた。 暁星中学校時代に陸上競技を本格的に始め、旧制高等学校や大学からの中学校招待レースでいくつも優勝を飾る。
斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年… 斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年10月26日)は日本の元陸上競技選手。徳島県那賀郡今津村(現阿南市)出身。旧制富岡中学校(現富岡西高校)、三重高等農林学校(現三重大学)卒業。
三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日… 三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。1920年代にハードル競走で活躍して日本記録を更新、1928年アムステルダムオリンピックに出場した。 兵庫県揖保郡揖西村構(現在のたつの市揖西町構)に生まれる。旧制龍野中学校(現在の兵庫県立龍野高等学校)に入学し、1923年の日本陸上競技選手権大会では走高跳に1メートル (m)65の記録で優勝する。この年の第6回極東選手権競技大会予選では走高跳で4位となり、代表選手に選出された。しかし「大会参加選手」に名前が載っているものの、大会本番での記録は残っておらず、実際に出場したかどうかは不明である。 慶應義塾大学に進学し、1925年には明治神宮競技大会の200mハードル種目で24秒6の記録を出した(当時の日本記録・世界記録という)。
沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 200… 沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 2001年4月28日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。アムステルダムオリンピック陸上男子円盤投・ハンマー投代表。元円盤投・ハンマー投日本記録保持者。元早稲田大学競走部主将、監督、OB会(早稲田アスレチック倶楽部)会長(代表)。元日本陸上競技連盟審議員。広島県広島市向洋大原(現南区向洋大原町)出身。旧制広島一中(現広島県立国泰寺高等学校)、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。 広島一中で織田幹雄の一学年上で親友、広島一中への登校が一緒になり付き合いが始まった。中学時代はテニス部。しかし72キロの巨漢で駆り出されて全国中等学校大会に出場し砲丸投で優勝、織田と共に一時代を築いた。
鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 19… 鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 1991年9月14日)は、日本の陸上競技指導者。JOC名誉委員、日本陸連元理事長。栃木県出身。 郁文館中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、九州帝国大学農学部農業化学科卒業、1926年同大学法文学部中退。1932年、日本陸連の役員となり、1960年ローマ五輪の陸上競技総監督などを務め、同年日本陸連理事長。1969年日本体育協会アマチュア委員長に就任し、「アマチュア規定」制定に尽力したほか、1964年東京五輪組織委競技交通警備特別委員、ユニバーシアード組織委総務委員、第8回・第14回国際オリンピックアカデミー調査員、札幌冬季五輪式典委員、体協理事、COJO・JOC合同委員長などを歴任。
納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 199… 納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 1991年1月4日)は、日本の陸上競技(短距離走・中距離走)選手。 東京高等師範学校在学中の1920年代半ばに400メートル・800メートルの日本記録をたびたび更新、1924年パリオリンピックに両種目と十種競技で出場した。卒業後は福岡日日新聞社(のち西日本新聞社)に入社、1952年に九州一周駅伝を創設するなど、九州の陸上競技の振興に努めた。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に生まれる。筑後川やクリーク(水路)を泳いで遊ぶ少年時代を過ごし、中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)在学中には野球部・庭球部・徒歩部・剣道部で選手を務めるスポーツ万能ぶりを見せていたという。
浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5… 浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師、陸上競技指導者、スポーツ行政官。昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士。 1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。 大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した。
チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不… チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳)は、イギリス統治下のビルマ(現ミャンマー)出身のエンジニア、陸上競技選手、日本のサッカー指導者。日本に留学中の1920年代に、日本サッカーの技術、戦術の伝統の基礎を作ったとして知られる。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。 チョウ・ディンの経歴は断片的に調査・紹介されているものの、1920年代前半の日本への留学時代以外については不明な点が多い。第一次世界大戦では宗主国であったイギリスの兵士として従軍し、負傷したという。 チョウ・ディンは走高跳の選手だったが、ミャンマーは他の東南アジア同様、古くからサッカーが盛んであり、チョウ・ディンもショートパス戦法を編み出したスコットランド人にサッカーを学んだという。
麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不… 上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県出雲市出身。島根師範学校から東京高等師範学校に進む。 東京高等師範学校在学中、1922年・1923年の日本陸上競技選手権大会のやり投種目を連覇。1923年には第6回極東選手権競技大会(大阪)に五種競技で出場して優勝した。 東京高等師範学校在学中に、1924年パリオリンピックで男子五種競技に出場した。 1925年には第7回極東選手権競技大会(マニラ)に五種競技で出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年) - 1… 加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年) - 1946年(昭和21年)11月5日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、陸上競技指導者。 父は衆議院議員も務めた加賀卯之吉で、松竹常務を務めた加賀二郎は実弟、女優の加賀まりこは姪(弟の娘)にあたる。 加賀卯之吉の長男として生まれる。生母は大阪府人・山田ひさよで(庶子にあたる)、大阪府で生まれたとされる。 兵庫県立伊丹中学校の創立30周年記念誌(1932年)には「本校運動部の生める選手」とある。1923年の雑誌の読者質問欄への回答にも出身中学は「伊丹中」と記載されている。公式記録に残っていない旧制伊丹中学校野球部の選手を取り上げた神戸新聞の記事では、加賀は野球部での先輩だったと記された。
長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10… 長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10月14日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手、登山家、政治家。元境港市議会議員。 鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現・境港市佐斐神町)出身。長山善完の長男。長山家は大農家だった。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 大正8年(1919年)日本体育会主催の第7回全国オリンピックに出場した英一は、1,500メートル、4分28秒(日本新記録)で第1位、同タイムの早大・麻生武治と優勝を分け合い、優勝カップを夫々受賞した。 大正11年(1922年)松本秀松(渡村出身)と鳥取県で初めて冬山大山登山に挑んだ。 戦後、村会議員、市会議員などをつとめた。
縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30… 縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30年)2月8日 - 1968年(昭和43年)4月29日)は、大正・昭和期の日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手・指導者。現在の山口県宇部市出身。選手としては大正末期に800m走・1500m走・5000m走で当時の日本記録を保持した。第二次世界大戦後はマラソン選手の育成に当たるとともに、日本陸上競技連盟常務理事などを務めた。 現在の山口県宇部市中野に生まれる。旧制興風中学校(現在の山口県立小野田高等学校)を経て、早稲田大学に入学。 早稲田大学在学中の1923年(大正12年)5月25日、極東公開競技会(大阪)男子5000mで日本記録を更新した(16分11秒0)。
蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年… 蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手(中距離走)・指導者、歯科医師。1920年アントワープオリンピックに出場。名はのちに宏。 埼玉県北足立郡大砂土村(現在のさいたま市北区本郷町)出身。生家は素封家。明治39年に大砂土小学校を卒業、旧制浦和中学校(埼玉県立浦和高等学校の前身)を経て、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学の前身)に進学した。 少年時代よりスポーツを愛好し、中距離走に秀でた成績を残した。日本歯科医専在学中に、1920年アントワープオリンピックに参加し、男子800メートル競走および1500メートル競走に出場した。日本国内のオリンピック予選会では800m走(2分05秒0)・1500m走(4分25秒0)の日本記録を残している。
齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月… 齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月2日 - 1960年〈昭和35年〉10月26日)は、日本の体育学者であり、かつ、陸上競技、水泳、野球で超人的活躍をした運動選手である。 新潟県佐渡郡高千村(現在の新潟県佐渡市)にて生まれる。佐渡の相川町立相川尋常高等小学校(現 佐渡市立相川小学校) から旧制佐渡中学校(現 新潟県立佐渡高等学校)へ進み、佐渡中学校時代から1m75cmの長身でありスポーツ万能の異名を取った。佐渡中学校時代には相撲、柔道、剣道、陸上競技、水泳、野球、端艇とほとんどの競技に選手として参加して活躍したという。 英語を得意としていたことから外交官になりたかったが、実家が貧しかったために教師になることを考え、新潟県高田市の新潟縣高田師範学校(昭和戦後に新潟大学教育学部高田分校となり現在は廃校)に進学し、更に東京高等師範学校に入学する。
谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年… 谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年7月24日、旧姓:真殿)は、日本の陸上競技選手(短距離)・指導者。日本人では初めて100m走で10秒台の記録を出した人物である。1924年のパリオリンピックに出場。 岡山県和気郡伊里村(現在の備前市伊里)出身。 伊里尋常高等小学校(現在の備前市立伊里小学校)を卒業、後に明治大学に進学し、大学卒業後は鉄道省に入省した。 1917年の第5回日本陸上競技選手権大会男子100mで真殿三三五名義で出場し、12秒0で初優勝。その後、日本選手権では第10回大会から第12回大会まで男子100m三連覇を果たしている。 1924年にはパリオリンピックの日本代表に選ばれ、岡山県出身者で初の五輪代表となる。
山岡 慎一(やまおか しんいち、1894年(明治27年)1月… 山岡 慎一(やまおか しんいち、1894年(明治27年)1月19日 - 没年不明。旧字体:山岡愼一)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。東京帝国大学在学中に1920年アントワープオリンピックに出場した。 山岡清直の長男として、京都府に生まれる。東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部に入学。 在学中に1920年アントワープオリンピックの男子100m・200m走に出場。男子100mは8組4着で記録なし、男子200mは1組4着の23秒9でいずれも予選落ちに終わった。 1922年(大正11年)同大を卒業し、1924年(大正13年)父の経営する高野捺染工業所に入り、翌年取締役に就任。
茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月1… 茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。 1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。
多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - … 多久 儀四郎(たく ぎしろう、1892年(明治25年) - ?)は、日本のスポーツ黎明期の陸上競技(中距離走・長距離走)選手。 熊本県生まれ。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業し、東京高等師範学校に入学。玉名中・東京高師で金栗四三の1年後輩にあたり、全盛期の金栗に鍛えられた「金栗門下生」と評される選手である。 1914年(大正3年)11月2日の全国陸上競技大会(現在の日本陸上競技選手権大会)では1500m走で4分44秒2を記録した(当時の日本記録)。1915年(大正4年)5月2日の第2回日本オリンピック大会(豊中運動場)でも1500m走で優勝している。1915年(大正4年)5月の極東選手権競技大会(第2回大会、上海)に出場。
三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971… 三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971年4月)は、日本の陸上選手(長距離走)。現在の福島県伊達市出身。1920年アントワープ・1924年パリオリンピックのマラソン競技に出場。早稲田大学卒業後、ドイツに留学して体育学を修め、帰国後は郷里のスポーツ振興に尽力した。 福島県伊達郡白根村字木ノ田(現在の伊達市梁川町白根字木ノ田)に生まれる。生家は蚕種製造を行う大きな農家であった。 白根村立白根尋常小学校から梁川町立梁川尋常高等小学校(現在の伊達市立梁川小学校)に進む。幼いころから病弱であり、高等小学校2年時にはリウマチによって1年半の休学を余儀なくされている。1907年、白石中学校(現在の宮城県白石高等学校)に進学後も病気のため留年を経験した。
辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日… 辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日 - 1938年(昭和13年)10月17日)は、日本の陸上競技選手、弁護士、政治家。 父は建築家の辰野金吾、兄はフランス文学者の辰野隆。 1891年、東京市赤坂に生まれる。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。東大在学時の1913年(大正2年)、第1回全国陸上大会において砲丸投げで9m00の記録を打ち立てて優勝する。父・金吾、兄・隆ともども相撲好きで、保はとくに強く、一高時代には出羽海部屋に通っていた。 1917年に東大法学部を卒業後、岩田宙造の法律事務所に入って実務研修する。同年、中山瑞彦の娘千代子と結婚。翌1918年に独立して弁護士を開業し、法律事務および特許関係の仕事に従事する。
三島 弥彦(みしま やひこ、旧字体: 三島 彌彥、1886年… 三島 弥彦(みしま やひこ、旧字体: 三島 彌彥、1886年(明治19年)2月23日 - 1954年(昭和29年)2月1日)は、明治期の陸上選手、銀行家。日本初のオリンピック代表選手として1912年開催のストックホルムオリンピックにマラソンの金栗四三と共に参加した。父は警視総監の三島通庸、兄に銀行家の三島弥太郎、甥に三島通陽がいる。妻は鍋島直柔の五女・文子。 東京府三田四国町に、三島家6男6女の五男(女子を含めると11番目)として出生し、長兄・彌太郎とは19歳も離れていた。弥彦は妾の子で、父・通庸の正妻である和歌子は実子と分け隔てなく育てたとも言われるが、同居していた姪の梅子によると子供の目にもわかるほど扱いには各段の差があったという。
志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)… 志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)12月13日 - 1956年(昭和31年)10月15日)は、日本の喜劇役者。新派劇団を結成、後に喜劇に転じた。「淡海節」は一世を風靡した。 1883年(明治16年)12月13日、滋賀県滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市堅田2丁目)の割烹旅館の子として生まれ、本名は田辺耕治。江州音頭で注目を浴び、18歳の時に芸界へ入り芸名を桜川国丸と名乗った。1905年(明治38年)新派劇団堅国団を組織して座長となり、1908年(明治41年)喜劇に転じて、芸名を志賀廼家淡海と改め座名も八景団と変えて地方巡業で芸を磨いた。一世を風靡した「淡海節」は地方巡業の途中舞鶴の浜でヒントを得たと伝えられ、1917年(大正6年)熊本の舞台で発表し、天性の美声もあって世間から絶大な評判を得、1919年(大正8年)一座解散の後喜劇界に進出し、曾我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇界名優として知られた。
北口 榛花 は、日本の女子陸上競技選手。専門種目はやり投。J… 北口 榛花 は、日本の女子陸上競技選手。専門種目はやり投。JAL所属。パリオリンピック金メダリスト。
井村 久美子 は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。既婚者… 井村 久美子 は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。既婚者。血液型はB型。
秦 澄美鈴 は、日本の陸上競技選手(走幅跳)、ファッションモ… 秦 澄美鈴 は、日本の陸上競技選手(走幅跳)、ファッションモデル。大阪府八尾市出身。