野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年… 野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年8月27日)は、日本の映画監督・演出家・脚本家。和歌山県御坊市出身。 代表作には『不良番長シリーズ』、『やくざ刑事シリーズ』、『0課の女 赤い手錠』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』など。 京都大学在学中に戸浦六宏の主催する劇団「風波」に参加。1958年(昭和33年)に大学卒業後、東映東京撮影所に助監督として入社し、石井輝男・佐伯清らに師事する。 1968年(昭和43年)3月、日本プロレスの記録映画である『プロレスWリーグ 血ぬられた王者』で監督デビュー。同年には梅宮辰夫主演の『不良番長』で映画の演出デビューも果たした。同作は大ヒットとなり、1972年(昭和47年)の『不良番長 骨までしゃぶれ』までシリーズ全16作が製作され、野田は11作を監督した。
広田 伊蘇夫(ひろた いそお、1935年(昭和10年)2月2… 広田 伊蘇夫(ひろた いそお、1935年(昭和10年)2月2日 - 2011年(平成23年)9月18日)は、日本の精神科医。 富山県魚津市出身。1961年(昭和36年)東京大学医学部卒、同精神科入局。1964年(昭和39年)東京都立松沢病院勤務。1980年(昭和55年)三枚橋病院勤務、のち理事。病院地域精神医学会理事長。同愛記念病院勤務。国連非政府組織 (NGO) 国際医療職専門委員会日本代表。イギリス王立精神医学会選出会員。患者の権利のために戦い宇都宮病院事件でも活躍した。
小泉 喜美子(こいずみ きみこ、1934年2月2日 - 19… 小泉 喜美子(こいずみ きみこ、1934年2月2日 - 1985年11月7日)は、日本の推理作家、翻訳家。旧姓・杉山。 東京都立三田高等学校卒業後、英語力を活かしてジャパンタイムズに勤務。田村隆一の下訳を手がけ、早川書房に出入りし、当時同社の編集者(『ミステリマガジン』編集部)だった1歳上の小泉太郎(生島治郎)と知り合い、交際を経て25歳で結婚した。同年(1959年)には「我が盲目の君」を第1回EQMM短篇コンテストに応募し、準佳作に入選する。 職場で大量の原稿を読み、かつ帰宅後は自らの原稿を書かなければならなかった生島から「家の中で原稿を書かれると自分(生島)の神経が参ってしまう」という理由により原稿の執筆を禁じられていたが、約束を破って『弁護側の証人』を書き上げ、『オール讀物』ミステリ新人賞に応募したところ、入選は逸したものの選考委員の一人高木彬光の激賞により文藝春秋から単行本となった。
長沢 二郎(ながさわ じろう, 1932年(昭和7年)2月2… 長沢 二郎(ながさわ じろう, 1932年(昭和7年)2月2日 - 2010年(平成22年)3月23日)は、日本の競泳選手。 静岡県沼津市出身。静岡県立沼津東高等学校から早稲田大学高等学院に編入し、早稲田大学政治経済学部卒業。早大では水泳部に所属した。 早大在学中の1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、200メートル平泳ぎで6位。1954年5月にバタフライが平泳ぎから分離する形で考案され、同年6月に長沢が「ドルフィンキック」を発明、当時の200メートルバタフライの世界新記録を更新した。同年には第4回日本スポーツ賞を受賞。引退後の1964年には、第18回夏季オリンピック東京大会において競泳日本代表のコーチを務めた。
渡辺 高光(わたなべ たかみつ、1932年2月2日 - )は… 渡辺 高光(わたなべ たかみつ、1932年2月2日 - )は、日本の元俳優・殺陣師。本名、渡部 高璋。 東京府出身。学習院大学卒業。 日活出身。新東宝などで脇役として活動したのち、1964年にテレビドラマ『戦国群盗伝』で知り合った日本大学の「殺陣同志会」メンバー・きくち英一らと「ジャパン・ファイティング・アクターズ(JFA)」を創設し、俳優・殺陣師として活動する。やがてメンバー間での意見の相違からJFAは解散し、その後は中村プロダクションに所属。芸名を「大沢 萬之价」(おおさわ まんのすけ)に改め、1980年代前半まで多くの映画・テレビドラマに出演していた。 特技は空手(初段)・乗馬。 『宇宙猿人ゴリ』(のちに『スペクトルマン』に改題)で共演した成川哲夫は、渡辺は九州地方の出身であるが、『スペクトルマン』の劇中のような九州訛りはなかったと記している。
金原 二郎(きんばら じろう、1932年2月2日 - 199… 金原 二郎(きんばら じろう、1932年2月2日 - 1997年4月26日)は、日本の司会者、アナウンサー。東京府(のちの東京都)出身。 早稲田大学教育学部卒業後、1954年(昭和29年)に日本テレビへアナウンサーとして入社。ワイドショー『金原二郎ショー』のほか、『底ぬけ脱線ゲーム』などのバラエティ番組の司会を務めた。この他に皇太子明仁親王(第125代天皇)の成婚パレードの実況、東京オリンピックの開会式実況、吉田茂の国葬中継実況、静岡第一テレビ開局[要説明]、アナウンス部長を務めた。 早稲田大学の同期には元毎日放送アナウンサーの小池清や元読売ジャイアンツ選手の広岡達朗、俳優の宇津井健(中退)などがいる。
伴 昭彦(ばん あきひこ、1931年2月2日 - 2023年… 伴 昭彦(ばん あきひこ、1931年2月2日 - 2023年12月4日)とは、日本の弁護士。新潟県弁護士会会長、日本弁護士連合会常務理事、新潟明訓高等学校理事長を務めた。新潟県新潟市出身。
水野潤一(みずの じゅんいち、1931年2月2日- )は、日… 水野潤一(みずの じゅんいち、1931年2月2日- )は、日本の海外旅行コンダクター。文筆家。 神戸市生まれ。姫路高等学校 (旧制)で、浦山桐郎の一年後輩だった。法政大学文学部史学科卒業。 日本航空に勤務、ジャルパック主任教官、ニュージーランド大使館観光広報部長、日本国際観光学会理事などを務めた。1974年トラベルマン・オブ・ザ・イヤー表彰。
矢原 秀男(やはら ひでお、1930年2月2日 - )は、日… 矢原 秀男(やはら ひでお、1930年2月2日 - )は、日本の政治家、元公明党参議院議員(3期)。 広島県出身。1954年近畿大学法学部卒。卒業後は大谷重工業に入る。1963年尼崎市議になり、のち兵庫県議になる(2期)。1974年の第10回参議院議員通常選挙で兵庫県から公明党公認で立候補して初当選。1980年の第12回参議院議員通常選挙で落選。1983年の第13回参議院議員通常選挙で復帰。1989年の第15回参議院議員通常選挙でも再選した。国会内では参議院運輸、法務各委員長を務め、党内では党中央委員、党兵庫県本部長などを務めた。1994年新進党に参加。翌1995年の参院選に出馬せず引退した。
山口彦之(やまぐち ひこゆき、1929年2月2日- 2019… 山口彦之(やまぐち ひこゆき、1929年2月2日- 2019年7月8日)は、日本の遺伝子農学者。農学博士(1961年)。東京大学名誉教授。 山形県酒田市出身。1953年東京大学農学部卒、同大学院修了、1961年農学博士。1962年東大農学部助教授、1970年教授。1976-78年同大原子力総合研究センター所長併任、1989年定年退官、名誉教授となり、駒澤短期大学放射線科教授を務めた。酒田市・庄内バイオ研修センター所長。日本生物環境工学会初代会長。世界平和教授アカデミー代表理事。米、大麦の突然変異を研究した。
安藤 まり子(あんどう まりこ、1929年(昭和4年)2月2… 安藤 まり子(あんどう まりこ、1929年(昭和4年)2月2日 - )は、日本の歌手。所属事務所はミュージックオフィス合田。 北海道北見市出身。1945年(昭和20年)、終戦の年に上京し、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)卒業。 卒業と同時に日本コロムビアの専属となり、1949年(昭和24年)に藤山一郎と一緒に吹き込んだデビュー曲『花の素顔』(同名松竹映画の主題歌)がヒット。 1953年(昭和28年)には前年、コロムビアが行った全国歌謡コンクールの課題曲歌詞募集の入選作であった『毬藻の唄』が爆発的ヒットするも、歌手の若山彰と結婚(のち離婚、後年再婚)のため、引退。 その後は江戸千家茶道師範などで生計を立てていたが、1982年(昭和57年)に二葉あき子・並木路子・池真理子・胡美芳らに誘われ、コロムビア五人会の1人として歌謡界復帰し、五人会結成コンサート「あなたのために唄います」を開催。
紀平 悌子(きひら ていこ、1928年〈昭和3年〉2月2日 … 紀平 悌子(きひら ていこ、1928年〈昭和3年〉2月2日 - 2015年〈平成27年〉7月19日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)、元日本婦人有権者同盟会長。旧姓佐々。 福岡県福岡市に生まれるが、父佐々弘雄が九大事件で失職し、東京都港区に転居する。実家目前の、東京府立第三高等女学校(現東京都立駒場高等学校)に通う。4年時に飛び級で旧制聖心女学院に入る。戦中の混乱で休学するも戦後新制聖心女子大学専門部歴史科を卒業。 1948年10月9日、父の佐々弘雄が参議院議員在職中に病死。 1949年、新聞記者であった紀平行雄と結婚し紀平姓となる。しかし行雄はすぐに肺結核で倒れ、失業した。困り果てた悌子は、父親が生前褒めていた市川房枝を訪ねる。
上田 霊城(うえだ れいじょう、1928年〈昭和3年〉2月2… 上田 霊城(うえだ れいじょう、1928年〈昭和3年〉2月2日 - 2020年〈令和2年〉10月8日)は、日本の真言宗僧侶。真言宗御室派の大僧正。1992年(平成4年)度第30回密教学芸賞受賞。 初期 - 中期 - 後期 - インド - チベット - 中国 - 日本 東寺真言宗※ - 高野山真言宗※ - 真言宗善通寺派※ - 真言宗醍醐派※ - 真言宗御室派※ - 真言宗大覚寺派※ - 真言宗泉涌寺派※ - 真言宗山階派※ - 信貴山真言宗※ - 真言宗中山寺派※ - 真言三宝宗※ - 真言宗須磨寺派※ - 真言宗東寺派 新義真言宗※ - 真言宗智山派※ - 真言宗豊山派※ - 真言宗室生寺派 如来 - 菩薩 - 明王 - 天 即身成仏 三密 入我我入 曼荼羅 護摩 東密(古義 - 広沢流 小野流)・新義 『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』・『理趣経』 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
滝沢 毅(滝澤、たきざわ たけし、1927年 <昭和2年> … 滝沢 毅(滝澤、たきざわ たけし、1927年 <昭和2年> 2月2日 - 2016年 <平成28年> 10月22日)は、日本の経営者。日本ゼオン社長、会長を務めた。位階は従四位。 神奈川県出身。1950年に東北大学経済学部を卒業し、同年に横浜ゴムに入社。1960年に日本ゼオンに転じ、1977年に取締役に就任し、1981年7月に常務、1984年11月に専務を経て、1987年6月には社長に就任。1993年6月に会長に就任し、1999年6月から相談役を務めた。 1991年11月に藍綬褒章を受章し、1998年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2016年10月22日舌がんのために死去。89歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
上田 健一(うえだ けんいち、1927年2月2日 - 201… 上田 健一(うえだ けんいち、1927年2月2日 - 2016年10月18日)は、毎日新聞元主筆であり、毎日新聞社元社友。また「日本エッセイスト・クラブ」元理事長。 秋田県秋田市出身。1951年早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞の渡邉恒雄とは東京大学新聞研究所(現・東京大学大学院情報学環教育部)の同期で、長きに渡る交友がある。1951年4月毎日新聞東京本社入社。社会部および政治部記者としてキャリアを積み、同社北米総局次長、ワシントン支局長、政治部長、論説委員長、大阪副代表兼編集局長を経て、1980年同社取締役に就任、同年主筆兼東京本社編集局長。1983年1月より同社顧問。1965年より1990年まで、随時TBS系列の「JNNニュースコープ」などの番組でニュースキャスターとして出演。
北 茂(きた しげる、1926年2月2日 - 2011年9月… 北 茂(きた しげる、1926年2月2日 - 2011年9月14日)は、日本の経営者。阪和興業社長を務めた。大阪府出身。 1945年に東京農業教育専門学校(現在の筑波大学)を卒業し、1947年4月に阪和興業の創立に携わる。1957年5月に取締役に就任し、1960年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1983年6月には社長に就任。1994年1月に取締役相談役を経て、同年10月には相談役に就任。 1988年11月に藍綬褒章を受章。 2011年9月14日死去。85歳没。
大橋 節夫(おおはし せつお、1925年2月2日 - 200… 大橋 節夫(おおはし せつお、1925年2月2日 - 2006年6月7日)は、日本のハワイアン歌手、スティール・ギター奏者、ソングライター、編曲家。 東京都出身。ニックネームは「オッパチ」「オッパチさん」(オッパッツさん)。後に石原裕次郎や五木ひろしがカバーした「倖せはここに」などがヒットし、戦後の日本にハワイアンブームをもたらした。加山雄三のヒット曲「お嫁においで」の編曲、演奏を手がけたことでも知られる。 節分に産声を上げたところから節夫と名付けられる。12歳からウクレレを始めたが、間もなくスティール・ギターに転向。 1941年にセブンスターズ・ハワイアンを結成。1943年に海軍予備員となり、翌年に洲ノ崎派遣隊隊長として出征。
瀬戸錦 年光(せとにしき としみつ、1924年2月2日 - … 瀬戸錦 年光(せとにしき としみつ、1924年2月2日 - 没年不明)は、広島県尾道市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は高橋 年覚(たかはし としかく)。190cm、104kg。最高位は西十両9枚目。得意技は突っ張り、右四つ、寄り。 1941年1月場所に初土俵。三段目の頃に戦争で召集されたが、サイズの合う軍靴がなかったので、即日で帰郷を命じられた。1947年11月場所に十両昇進するも2勝9敗と大きく負け越して1場所で幕下に陥落。十両に在位したのはこの1場所のみであった。1951年1月場所限りで26歳の若さで廃業。幕下で相撲を取っていた1950年1月場所から、廃業する1951年1月場所まで弓取りを務めたことがある。
野平 健一(のひら けんいち、1923年2月2日 - 201… 野平 健一(のひら けんいち、1923年2月2日 - 2010年7月5日)は、東京府出身の編集者。
橘 正忠(たちばな まさただ、1922年2月2日 - 200… 橘 正忠(たちばな まさただ、1922年2月2日 - 2004年4月1日)は、日本の外交官。 1944年東京大学法学部卒、1945年外務省に入省後、1950年米国留学、カナダ在勤、シドニー領事、報道課長、香港領事、1969年在オーストリア日本大使館参事官、1970年アメリカ局参事官などを歴任。 1972年アメリカ局長心得、1975年-1977年欧亜局長、1977年-1980年駐デンマーク大使、1980年10月から在ビルマ日本大使館特命全権大使、1983年10月から1986年まで在タイ日本国大使館特命全権大使となる。 後に国立京都国際会館館長、京都市国際交流協会理事や上場企業役員を歴任した。 1980年11月にヤンゴン日本人学校名誉校長に就任する。
頼 惟勤(らい つとむ、1922年〈大正11年〉2月2日 -… 頼 惟勤(らい つとむ、1922年〈大正11年〉2月2日 - 1999年〈平成11年〉7月15日)は、日本の中国学者。お茶の水女子大学名誉教授。頼聿庵の末裔。 東京府生まれ。父は東京高等学校教授の頼成一で、惟勤は頼山陽の6代目の子孫(山陽の子・聿庵の末裔)。1939年(昭和14年)(旧制)私立武蔵高等学校卒業後、1943年(昭和18年)学徒出陣で、東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科を繰り上げ卒業し出征。1944年(昭和19年)、海軍少尉。1945年(昭和20年)、中尉。 復員後は、倉石武四郎の世話で京都帝国大学教務嘱託。1949年(昭和24年)、東京大学文学部副手。1952年(昭和27年)、お茶の水女子大学専任講師、のち1959年(昭和34年)に助教授、1964年(昭和39年)に教授。
谷口 是巨(たにぐち よしのり、1922年(大正11年)2月… 谷口 是巨(たにぐち よしのり、1922年(大正11年)2月2日 - 2010年(平成22年)12月25日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県出身。1942年(昭和17年)長崎医大附属薬学専門部(現長崎大学薬学部)卒。薬剤師免許を取得。同年、徴兵され陸軍西部第47部隊に入隊し、1946年(昭和21年)に復員。 1947年(昭和22年)から長崎市立西浦上中学校教員を務めた。1963年(昭和38年)長崎県議会議員に当選し3期在任。1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から公明党公認で立候補して落選。1976年の第34回衆議院議員総選挙で長崎1区から公明党公認で立候補して初当選し、連続2期務めた。
福永 安祥(ふくなが やすよし、1922年2月2日 - 20… 福永 安祥(ふくなが やすよし、1922年2月2日 - 2014年9月28日)は、日本を代表する教育社会学、東南アジアの地域研究者。 明治から昭和期の詩人・小説家・翻訳家の福永挽歌は伯父。長男は南アジア研究者の福永正明。 学校法人明星学苑明星大学、いわき明星大学において研究指導を続け、日本社会学会、日本教育社会学会など学会活動でも役職を歴任した。 教育社会学の分野において、「都市化の進展する社会状況をふまえた新しい研究の地平を開く研究であると位置づけることができる」とされる 戦時下の早稲田大学の学生時代に東南アジア諸国からの留学生と親しく付き合い、また海軍従軍期にも東南アジア諸国を訪問した。1960年代以降、かつての留学生たち交流を続けた。
松澤 宥(まつざわ ゆたか、1922年〈大正11年〉2月2日… 松澤 宥(まつざわ ゆたか、1922年〈大正11年〉2月2日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本のコンセプチュアル・アーティスト(概念芸術家)。 長野県諏訪郡下諏訪町に生まれる。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1946年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業。1952年第4回読売アンデパンダン展、第12回美術文化協会展に出品。その後1955年、ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招かれ渡米、翌年コロンビア大学で現代美術、宗教哲学を修めて1957年帰国。 1964年6月1日深夜、「オブジェを消せ」という啓示を受け、概念芸術家としての活動を始める。 松澤の活動は瀧口修造、中原佑介、針生一郎等の美術評論家達に注目され1970年の第10回日本国際美術展「人間と物質」展に参加し、他のコンセプチュアルアーティストの堀川紀夫(英語版)(「新潟現代美術家集団GUN」所属)、河原温、高松次郎、ダニエル・ビュラン、ハンス・ハーケ、 ソル・ルウィット、マリオ・メルツ(英語版)らと共に美術業界(英語版)に紹介される。
近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 20… 近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 2010年6月30日)は、日本の海軍軍人・大蔵官僚、実業家。国税庁長官を経て博報堂代表取締役社長を務めた。1982年聖シルベストロ騎士勲章、1992年勲一等瑞宝章、1993年日本宣伝賞大賞を受賞。 神奈川県小田原市出身。旧制小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、旧制武蔵高校を経て、1942年7月に高等試験行政科に合格、同年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入省して理財局に配置される。高等試験は100番前後で入省成績も相澤英之が最下位で近藤がブービーだといわれていた。入省直後に海軍経理学校補修学生、海軍主計見習尉官(短期現役組(短現組)9期)となる。
広瀬 秀吉(廣瀬 秀吉、ひろせ ひでよし、1918年〈大正7… 広瀬 秀吉(廣瀬 秀吉、ひろせ ひでよし、1918年〈大正7年〉2月2日 - 2011年〈平成23年〉10月17日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(9期)、社民党栃木県連合常任顧問。 栃木県、現在の真岡市出身。 1941年、中央大学法学部卒業。その後、南満州鉄道に勤務、前橋予備士官学校卒業などを経る。 1946年、日本国有鉄道に勤務。国鉄労働組合の専従役員なども務めた。 1958年の総選挙で旧栃木1区から日本社会党公認で立候補するも落選。1960年の総選挙で初当選した。その後、1963年の総選挙では落選したが、1967年の総選挙から通算9期務めた。1990年の総選挙には立候補せず退いた。
松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 -… 松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。 妹はバレエダンサーの松山樹子(松山バレエ団)。父の松山徳蔵は戦前の日本競馬会の元調教師。二男の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理、調教師顕彰者)。 鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市)出身。実家はもとは庄屋であったが、父・徳蔵が上京し目黒競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。 1929年、東京都目黒区立油面尋常小学校卒業とともに尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。
八木沼 健夫(やぎぬま たけお、1916年(大正5年)2月2… 八木沼 健夫(やぎぬま たけお、1916年(大正5年)2月2日 - 1995年(平成7年)4月5日)は、日本の生物学者。クモの研究(クモ学)を専門とし、日本蜘蛛学会の会長を務めた。 大阪市南区(現・浪速区)に生まれる。旧制大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)から大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大学)に進み、本科第1部を卒業する。 1952年に東亜蜘蛛学会(現・日本蜘蛛学会)関西支部が設立されたときには、支部事務所は八木沼の自宅に置かれた。さらに、1954年には学会の本部が八木沼の在職していた追手門学院大学に移設される。 1961年、「蜘蛛の分類学的研究」により、北海道大学より理学博士の学位を取得した。
二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 201… 二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、日本の女性歌手。 広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江。 広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経て、1935年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。
宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2… 宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。民間企業に勤務した後、父である宮田重五郎が創業した宮田酒造場を相続し、宮田酒造を設立。その後、社名を三光正宗へ変更し、同社の社長・会長に就任する。1991年に岡山県三木記念賞を受賞。岡山県新見市出身。 1914年(大正3年)、岡山県阿哲郡哲西町矢田(現:新見市哲西町)にある宮田重五郎の長男として出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、岡山にある旧制第六高等学校文科乙類へ進学する。1934年(昭和9年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。
米川 敏子(よねかわ としこ、1913年〈大正2年〉2月2日… 米川 敏子(よねかわ としこ、1913年〈大正2年〉2月2日 - 2005年〈平成17年〉12月13日)は、生田流箏曲家。二代を数える。 1913年、箏曲家・米川琴翁の娘として兵庫県姫路市に生まれる。牛込高等女学校(現・豊島岡女子学園中学校・高等学校)卒業。1942年日本文化連盟コンクール1位となるなど、若い頃から高い評価を受けた。芸術祭では奨励賞、優秀賞などを受賞。数多くの作曲も行った。父の死後家元となる。1996年、人間国宝。2002年、日本芸術院賞。2003年、文化功労者。2005年12月13日午前5時44分、急性肺炎のため東京都港区の病院で死去。92歳没。 米川の死後、2007年に次女で箏曲家の後藤裕枝が「米川敏子」を襲名した。
小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004… 小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004年2月4日)は、日本の中国文学者。広島大学名誉教授。 1913年、長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。1930年、長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。長野師範学校専攻科に進み、1932年に卒業。1938年、大東文化学院(現・大東文化大学)本科を卒業。1941年、広島文理科大学(現・広島大学)文理学部文学科漢文学専攻を卒業した。 卒業後は、同1941年より東方文化学院京都研究所(現・京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)助手となった。太平洋戦争をはさみ、1946年に広島文理科大学講師に着任。
白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 19… 白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 1995年1月23日)は、日本の実業家。茨城放送(現在のLuckyFM茨城放送)社長・会長、朝日新聞編集委員などを務めた。 長野県南安曇郡明盛村(三郷村を経て、現在の安曇野市)生まれ。1930年(昭和5年)旧制松本第二中学校(現在の長野県松本県ヶ丘高等学校)を卒業した。1936年(昭和11年)旧制松本高校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 1937年、朝日新聞社に入社した。東京本社整理部次長、同学芸部次長、西部本社運動部長、東京本社編集委員を経て、1965年に茨城放送代表取締役社長に就任し、その後は会長を務めた。 また、1972年に日本記者クラブ会員、1978年(昭和53年)7月から1979年(昭和54年)6月まで、水戸ロータリークラブ会長(第29期)を務めた。
福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 20… 福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 2008年8月16日)は愛媛県出身の農学者。自然農法を提唱した。世界各地で粘土団子による砂漠緑化にも取り組んだ。 愛媛県伊予郡南山崎村(現・伊予市大平)に生まれる。旧制松山中学校、岐阜高等農林学校(現・岐阜大学応用生物科学部)卒。 若い頃は横浜税関の植物検査課に所属していたが、急性肺炎にかかり死に直面すると、「この世には何もない」と悟り、仕事をやめて地元に戻り農業を始めた。「やらなくてもいい」ことを探しながら、自然農法を確立した。 著作『無Ⅲ 自然農法』の口絵の説明では、不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草を四大原則とする自然農法を行うとしているが、著作中には肥料と農薬(除草剤、除虫剤)の使用について記述がある。
星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 196… 星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 1963年5月31日)は日本の探偵小説家。『新青年』などの雑誌に短編を発表した。代表作に「せんとらる地球市建設記録」「エル・ベチョオ」など。本名は飯尾 傳(いいお つとう)。 1930年(昭和5年)に『新青年』の懸賞小説に3等入選した「せんとらる地球市建設記録」を、改稿の後に『新青年』夏期増刊号で発表しデビュー。以後、短編を散発的に発表するが、1933年(昭和8年)発表の「もだん・しんごう」を最後に沈黙。その後、太平洋戦争時の空襲で蔵書や草稿を失ったこともあり、小説界からは完全に離れた生活を送った。 1963年(昭和38年)5月31日に死去。
武内 義範(たけうち よしのり、1913年2月2日 - 20… 武内 義範(たけうち よしのり、1913年2月2日 - 2002年4月12日)は、日本の宗教学者、浄土真宗僧侶、京都大学名誉教授。 1913年、三重県四日市市で東洋史研究者・武内義雄の子として生まれた。京都帝国大学文学部哲学科に進学し、在学中は田辺元に師事してヘーゲルの哲学等を学んだ。1936年に卒業。京都帝国大学大学院文学研究科に進み、1946年に修了。 1948年、同大文学部宗教学科助教授に就いた。1959年、同教授に昇格し、宗教学講座を担当。1976年に京都大学を退官し、名誉教授となった。同年4月からは愛知学院大学文学部宗教学科教授。1988年、愛知学院大学を退職。1995年、日本学士院会員に選出された。
金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 -… 金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 - 1994年8月5日)は、大韓民国の洋画家。日本統治時代の朝鮮平安南道平壌出身。 1937年、日本の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科を卒業し、帰国後は咸興のヨンセン中学校で教員を務めた。1946年から梨花女子大学校教授、1954年以後からは弘益大学校教授を務めた。1960年からは第3次国際美術教育協会に韓国代表として参加し、約4ヶ月間欧米美術界を視察した。 モク会会員、国展審査委員を歴任し、印象主義的な写実化風の風景画を多く描いた。1994年8月5日、持病により82歳で死去した。
坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 199… 坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 1998年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。 宮崎県北諸県郡高崎町(現都城市)出身。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校・附属中学校)を経て、1932年、京都高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)卒業。宮崎県議会議員を5期務めた後、1969年の衆院選に自由民主党公認で出馬し初当選。1972年の衆院選で落選。1976年の参議院議員補選に宮崎県選挙区から無所属で出馬し当選。その後自民党に復党。参議院当選3回。自民党では番町政策研究所(三木武夫→河本敏夫派)に所属。1988年12月から翌年の6月まで竹下改造内閣の北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を務めた。
角田 三男(かくた みつお、1910年2月2日 - 1985… 角田 三男(かくた みつお、1910年2月2日 - 1985年5月6日)は、将棋棋士。棋士番号13。鳥取県西伯郡岸本町(現・伯耆町)出身。木見金治郎九段門下。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
竹内 利美(たけうち としみ、1909年2月2日 - 200… 竹内 利美(たけうち としみ、1909年2月2日 - 2001年)は、日本の民俗学者、歴史学者。東北大学名誉教授。 長野県長野市生まれ。1944年國學院大學文学部国史学科卒業。日本の村落の実地調査研究を続け、社会学的見地に立って理論化を目指した。 1929年長野県上伊那郡川島村小学校、同本郷小学校で教諭となり、1940年日本常民文化研究所に勤務、1944年中央水産業会職員、1948年連合軍総司令部民間情報教育局世論及社会調査部顧問などを経て、1951年東北大学教育学部講師、1952年助教授、1954年教授。1972年定年退官、名誉教授、同年東北福祉大学教授、1983年退官。 1962年「日本村落構造の研究」により東洋大学から文学博士の学位を授与される。
古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日… 古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日 - 1994年(平成6年)8月15日)は、日本の国文学者。東京女子大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。東北帝国大学国文科卒、松本高等学校教授、宇都宮大学助教授、東京女子大学教授、68年定年退任、名誉教授、東京農業大学教授、武蔵野女子大学教授。52-81年法政大学能楽研究所兼任所員。能楽・狂言を主として研究。ほか、師の小宮豊隆を助けて戦後の岩波書店『漱石全集』の編纂に携わり、漱石研究も行った。墓所は多磨霊園
おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 19… おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉6月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。 群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)出身。本名・小野 忠孝(おの ただよし)。 旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)から群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)に進み卒業。5ヶ月間高崎連隊へ入営。 はじめは『少年倶楽部』などへ作文や詩を投稿していた。小学校教員として勤務するも辞職して文筆の道へ身を投じた。草野心平とは友人として交流を持った。河井酔茗に師事。 日本児童文芸家協会顧問、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会員、日本詩人クラブ会員。100冊を超える著作を残した。酒を愛したことから酒にまつわるエピソードも多い。
金子 金治郎(かねこ きんじろう、1907年 <明治40年>… 金子 金治郎(かねこ きんじろう、1907年 <明治40年> 2月2日 - 1999年 <平成11年> 5月31日)は、日本の国文学者。広島大学名誉教授。中世国文学、連歌史専攻。ホトトギス系の俳人でもある。位階は正四位。 1907年、長野県諏訪市で生まれた。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、広島文理科大学に進学。1933年に卒業した。 卒業後は教員となり、東京明星学園や旧制前橋中学(群馬県立前橋高等学校)に勤務。1941年、広島高等師範学校教授に就いた。1949年に学制改革に伴い高等師範学校が広島大学に包摂されることとなったため、1950年より広島大学助教授。1957年に同教授昇格。
長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月… 長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、日本の俳人。本名・直次郎。 父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。 俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。
谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 -… 谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の政治家。弁護士。鳴門市長。京都帝国大学法学部法科卒業。徳島県鳴門市出身。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。父は撫養町長を務めた谷伊七郎。旧制山口高等学校を経て、1931年(昭和6年)に京都帝国大学法学部法科卒業。 大学卒業後、京都市と徳島市で弁護士として務め、徳島市選管委員長、徳島県出納長、徳島県弁護士会会長を経て1959年(昭和34年)に鳴門市長に初当選。その後、28年間、7期に渡り鳴門市長を務めた。1978年(昭和53年)には、西ドイツ政府からドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章が贈られた。
片桐 勝昌(かたぎり かつまさ、1907年(明治40年)2月… 片桐 勝昌(かたぎり かつまさ、1907年(明治40年)2月2日 - 1973年(昭和48年)8月31日)は、日本の政治家、税理士、計理士。 現在の長野県伊那市出身。日本大学卒。豊島区会議員、東京市会議員、東京都議会議員、日本合同ゴム社長、片桐興産株式会社代表取締役などを歴任した。 戦後の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に東京1区(当時)から立候補したが落選した。翌1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に東京5区(当時)から民主党公認で立候補したが落選した。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙では日本再建連盟から立候補したが落選した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
佐谷 靖(さたに やすし、1905年(明治38年)2月2日 … 佐谷 靖(さたに やすし、1905年(明治38年)2月2日 - 1978年(昭和53年)8月29日)は、日本の医師。京都府舞鶴市長(6期)。 京都府舞鶴市出身。旧制京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て、1928年(昭和3年)京都府立医科大学卒。1930年(昭和5年)舞鶴で佐谷医院を開業。小学校の校医や舞鶴医師会評議員、京都府医師会代議員などを歴任する。1942年(昭和17年)舞鶴市会議員に当選。1945年(昭和20年)には軍医として召集された。 戦後すぐ、日本社会党舞鶴支部を結成し、支部長に就任する。京都府議会議員となり、舞鶴市の東西分離問題が起きたとき、府議会議員として分離反対運動をして、撤回させた。
新延 修三(にいのべ しゅうぞう、1905年2月2日 - 1… 新延 修三(にいのべ しゅうぞう、1905年2月2日 - 1985年5月10日)は、新聞記者、随筆家。 大阪生まれ。1928年慶應義塾大学卒。東京朝日新聞社入社、学芸部次長、社会部次長、1942年マカッサル支局長、43年ジャワ新聞出版部長。46年2月帰還。8月中京新聞社編集局長に出向。1950年朝日新聞社に戻る。『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長。60年定年退職。随筆雑誌『いさり火』主宰。
佐々木 達(ささき たつ、1904年2月2日 - 1986年… 佐々木 達(ささき たつ、1904年2月2日 - 1986年4月10日)は、日本の英語学者、東京外国語大学名誉教授。神奈川県出身。東京帝国大学英語英文学科卒業。卒業論文で第1回シェークスピアメダル受賞。1949年、東京外国語大学教授。1966年、定年退官、名誉教授。英語文体論が専門で、『コンサイス英和辞典』の編者として知られる。
堀野 哲仙(ほりの てっせん、1904年〈明治37年〉2月2… 堀野 哲仙(ほりの てっせん、1904年〈明治37年〉2月2日 - 1995年〈平成7年〉)は、日本の書道家。堀野書道学校初代校長。日本書法芸術院名誉会長。本名は 幸(こう)。祖先の堀川家祐筆だった松島幸右衛門の頭字「幸」の一字に由来する。 明治37年2月2日に生まれる。体の弱かった母から未熟児として生まれたので長生きはできないだろうと判断され、幸の後にもう一字付ける予定だったが、そのまま名を「幸」として役場に届けられる。その後命を落とすことはなかったが、栄養失調のため明治39年から明治42年まで、一時的に視力を失う。虚弱体質で体が小さかったことから、学校でいじめを受け続け、ついに小学校4年生の時に落第させられた。