行徳 克己(ぎょうとく かつみ、1927年〈昭和2年〉2月1… 行徳 克己(ぎょうとく かつみ、1927年〈昭和2年〉2月14日 - 2014年〈平成26年〉7月2日)は、日本の実業家、元共栄火災海上保険社長・会長。福岡県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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行徳 克己(ぎょうとく かつみ、1927年〈昭和2年〉2月1… 行徳 克己(ぎょうとく かつみ、1927年〈昭和2年〉2月14日 - 2014年〈平成26年〉7月2日)は、日本の実業家、元共栄火災海上保険社長・会長。福岡県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉村 光夫(よしむら みつお、1926年(大正15年)2月1… 吉村 光夫(よしむら みつお、1926年(大正15年)2月14日 - 2011年(平成23年)1月3日)は、日本のアナウンサー、司会者、鉄道ライター。愛称は「ロングおじさん」、「ロンちゃん」。「吉村 忠晃」の名義を使用する場合もあった。2女あり。 兵庫県神戸市生まれ、神奈川県横浜市、東京都千代田区育ち。 1937年(昭和12年)、第一東京市立中学校(現・千代田区立九段中等教育学校)に入学し、1942年(昭和17年)に卒業。次いで同年藤原工業大学(後の慶應義塾大学工学部、現・理工学部)予科に入学、戦後の1948年(昭和23年)に慶應義塾大学大学工学部電気工学科を卒業し、日本放送協会(NHK)入局。
高橋 誠(たかはし まこと、1926年2月14日 - 199… 高橋 誠(たかはし まこと、1926年2月14日 - 1990年11月9日)は、日本の財政学者。法政大学教授。専門は財政学。経済学博士(九州大学・1981年) 税制調査会専門委員、日本財政学会理事、東京都競争事業廃止対策審議会委員、東京都特別職報酬等審議会委員、東京都専門委員、東京都私立学校助成審議会委員、日本経済学会連合評議員、日本学術会議研究連絡委員、地方制度調査会臨時委員などを歴任。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
清水 二郎(しみず じろう、1926年2月14日 - 201… 清水 二郎(しみず じろう、1926年2月14日 - 2014年7月1日)は、日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。鶴岡工業高等専門学校校長、国立工業高等専門学校協会会長、繊維学会会長などを歴任した。 1953年東京工業大学繊維工学コース卒業、東京工業大学助手。1961年東京工業大学工学博士。1966年東京工業大学工学部繊維工学科助教授。1976年東京工業大学工学部有機材料工学科教授。1981年繊維学会副会長。1985年The Textile Institute S G Smith Memorial Medal受章、東京都科学技術功労者表彰。1986年鶴岡工業高等専門学校校長、繊維学会会長。1988年繊維学会功績賞受賞。
粕谷 茂(かすや しげる、1926年〈大正15年〉2月14日… 粕谷 茂(かすや しげる、1926年〈大正15年〉2月14日 - 2011年〈平成23年〉10月21日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。東京都出身。北海道開発庁長官(第50代)、沖縄開発庁長官(第19代)を歴任した。 日本大学法文学部政治経済学科卒業。広川弘禅秘書、東京都議会議員を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙に旧東京4区から出馬し初当選。連続当選9回(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。自由民主党内では宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に所属。1987年竹下内閣の北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官として初入閣。
藤岡 武雄(ふじおか たけお、1926年2月14日 - )は… 藤岡 武雄(ふじおか たけお、1926年2月14日 - )は、歌人、日本近代文学研究者、日本大学名誉教授。歌誌『あるご』主宰。斎藤茂吉研究の権威として知られる。日本歌人クラブ第4代会長。 山口県大津郡日置村(現長門市)生まれ。山口師範学校を経て、日本大学文学部国文科卒。同大学院修士課程修了。日大文理学部助教授、教授を歴任。1990年『評伝斎藤茂吉』で日大文学博士。1996年定年退任、名誉教授。1991年に三島市立山田中学校の校歌を作詞。2003年「書簡にみる斎藤茂吉」で第14回斎藤茂吉短歌文学賞、第1回日本歌人クラブ評論賞受賞。2017年『斎藤茂吉―生きた足あと』を中心とした永年の功績に対して第8回日本歌人クラブ大賞受賞。
荒井 英一(あらい えいいち、1926年2月14日 - 19… 荒井 英一(あらい えいいち、1926年2月14日 - 1990年11月)は、日本の作曲家。代表作は井沢八郎の「あゝ上野駅」。矢板 候ニという別名でも活動していた。 栃木県矢板市出身。1926年(大正15年)2月14日に栃木県塩谷郡矢板町万町(現在の矢板市本町)の老舗旅館「住吉荘本店」の長男として生まれた。少年時代は、野球と剣道が好きな腕白坊主だったが、19歳の1945年(昭和20年)暮れにNHKのど自慢に挑戦して合格し、歌手を目指して声楽の勉強に励み、後に作曲家へと転じた。1964年(昭和39年)には、集団就職者を題材にした「あゝ上野駅」(関口義明作詞)が大ヒットし、作曲家としての地位を不動のものにした。
近藤 義郎(こんどう よしろう、1925年2月14日 ‐ 2… 近藤 義郎(こんどう よしろう、1925年2月14日 ‐ 2009年4月5日)は、日本の考古学者。岡山大学名誉教授。戦後の日本考古学を主導した重要な考古学者の一人である。 1925年(大正14年)、栃木県足利市に生まれる。栃木商業学校(現栃木県立栃木商業高等学校)を卒業。京都大学文学部を卒業。岡山大学へ赴任して以後、晩年まで数々の発掘調査を実施し、重要な調査成果と研究論文を次々と発表した。岡山大学法文学部教授ののち、名誉教授。考古学研究会代表、岡山の自然を守る会会長、前方後円墳研究会代表などを歴任した。 1979年(昭和54年)、古代オリエント史を専攻する三笠宮崇仁親王が楯築墳丘墓を見学した際には現地で説明にあたった。
渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021… 渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021年2月25日)は、東京府出身のプロ野球選手(内野手)。 荏原中学校から1944年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。 2021年2月25日午前6時5分、誤嚥性肺炎のため静岡県沼津市の病院で死去。97歳没。
荒木 博之(あらき ひろゆき、1924年(大正13年)2月1… 荒木 博之(あらき ひろゆき、1924年(大正13年)2月14日 - 1999年(平成11年)12月10日)は、日本の英文学者、評論家。広島大学名誉教授。専門は、比較文化論、人類言語学、説話伝承論。位階は正四位。 東京に生まれる。1949年(昭和24年)、京都大学文学部英文科卒。1952年(昭和27年)、京都大学大学院文学研究科アメリカ文学専攻中退。1962年(昭和37年)、インディア大学大学院民俗学専攻博士課程単位取得退学。 福井大学講師、高知女子大学助教授、立命館大学教授、広島大学総合科学部教授、88年定年退官、名誉教授、宮崎公立大学教授。99年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 「百合若大臣」が「オデュッセイア」の影響を受けたと主張した一人である。
小橋 一郎(こばし いちろう、1923年(大正12年)2月1… 小橋 一郎(こばし いちろう、1923年(大正12年)2月14日 - )は、日本の法学者。専門は、商法・会社法)。学位は、法学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。同志社大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 京都府京都市生まれ。1940年(昭和15年)3月京都府立京都第一中学校卒業。1945年(昭和20年)、立命館大学法文学部卒業。学位は、法学博士(大阪大学、1962年)(学位論文「手形行為論」)。2000年(平成12年)4月、勲三等旭日中綬章受章。
戸田 修三(とだ しゅうぞう、1923年2月14日 -201… 戸田 修三(とだ しゅうぞう、1923年2月14日 -2018年5月21日)は、日本の法学者。専門は商法。中央大学名誉教授。元中央大学学長。初代日本私立学校振興・共済事業団理事長。 愛知県一宮市生まれ。法学博士(中央大学・論文博士・1962年)。論文は 海上運送法における責任の体系。 名誉博士(エクス・マルセイユ第三大学)。 1944年中央大学専門部法学科卒業。1947年中央大学法学部卒業。1948年中央大学大学院(旧制)法学研究科中退。 中央大学法学部助手。1951年中央大学法学部助教授。1959年中央大学法学部教授。1965年中央大学評議員。1965年中央大学法学部長。1967年中央大学大学院法学研究科長。
邦光 史郎(くにみつ しろう、1922年2月14日 - 19… 邦光 史郎(くにみつ しろう、1922年2月14日 - 1996年8月11日)は、日本の作家。本名:田中 美佐雄。父・力之助は時事新報の記者。妻は作家の田中阿里子。娘は作家・エッセイストの久我なつみ。 東京生まれ。高輪学園卒。父親の転勤で大阪に移り、東淀川区役所につとめる。応召し、広島第2総軍司令に在隊、1945年8月6日原爆に遭遇。同年10月に除隊し、京都で五味康祐らと『文学地帯』を創刊。のち放送作家となる。1962年『社外極秘』で直木賞候補。以後企業小説、推理小説、歴史推理小説、伝記小説を多数執筆。 戦前に保高徳蔵主宰の「文芸首都」懸賞に入選。戦時中は「新作家」同人となり、戦後は五味康祐とともに「文学地帯」を主宰し、十五日会に属する。
石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月… 石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月14日 - 2014年(平成26年)6月15日)は、日本の実業家、元国際電信電話(現・KDDI)社長、元郵政事務次官。岡山県岡山市出身。長男の石井健一郎は名古屋大学名誉教授、次男の石井洋二郎は東京大学名誉教授で元東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長。 旧制岡山県第一岡山中学校、旧制第六高等学校文科甲類卒業。
横山 亮次(よこやま りょうじ、1921年2月14日 - 2… 横山 亮次(よこやま りょうじ、1921年2月14日 - 2017年9月24日)は、日本の経営者、工学博士。日立化成工業(日立化成、昭和電工マテリアルズを経て、現在のレゾナック)社長を務めた。茨城県出身。 1944年に東京工業大学応用化学科を卒業し、同年に日立製作所に入社した。1971年2月に日立化成工業に転じ、1972年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務を経て、1981年6月には社長に就任した。1991年6月、会長に就任し、1995年6月から相談役を務めた。 1984年11月に藍綬褒章を受章した。 2017年9月24日に老衰のため死去した。96歳没。
大坂 志郎(おおさか しろう、1920年2月14日 - 19… 大坂 志郎(おおさか しろう、1920年2月14日 - 1989年3月3日)は、日本の俳優である。 秋田県能代市に生まれる。父の大坂連治郎は萬町で貸金業、米問屋を営んでいた。母の志保は沢口村小森(現在の北秋田市)の味噌醤油醸造工場を営む名望家の神成千代治の娘。妹に人形作家・陶芸家の神成澪がいる。1927年、夫の浮気性に嫌気がさした母は、志郎と澪を連れて上京し、新宿で郷土居酒屋の「秋田」を営んだ。店には太宰治や井上靖、木下恵介、川島雄三、河西克巳などの文壇映画人が集い、志郎の映画デビューも彼らの影響であった。新聞配達で家計を支え、旧制・日本大学第二中学校を中退し、「新築地劇団」研究生になる。その後、早稲田高等工学校機械科を卒業、満州国鞍山市の昭和製鋼の社員を経て、1942年、松竹俳優研究所に入所し、1943年の吉村公三郎監督の『開戦の前夜』でデビューする。
鮎川 哲也(あゆかわ てつや、1919年2月14日 - 20… 鮎川 哲也(あゆかわ てつや、1919年2月14日 - 2002年9月24日)は、日本の小説家。本名、中川 透(なかがわとおる)。東京府に生まれ、大連に育つ。拓殖大学商学部卒。 アリバイ崩しを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』『人それを情死と呼ぶ』など、鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。ほか『りら荘事件』『死者を笞打て』などの長編小説や多数の短編小説を執筆し、さらにはアンソロジーの編纂や、新人の育成などにも力を尽くした。 1919年2月14日、東京府巣鴨に生まれた。父が南満洲鉄道地質調査所の測量技師となったため、小学3年生のときに一家で満洲大連に移り住み、旧制中学を卒業するまでここで過ごした。
国友 忠(くにとも ただし、1919年〈大正8年〉2月14日… 国友 忠(くにとも ただし、1919年〈大正8年〉2月14日 - 2005年〈平成17年〉5月22日)は、東京府(現・東京都)出身の浪曲師。本名は大熊国一。 浪曲師として舞台、放送、レコード等で活躍。浪曲台本はオリジナルが百数十席、脚色も二千数百席に及び、連続ラジオ小説「銭形平次」を日曜日を除き毎日、5年間続けたことは放送ドラマの記録となっている。1980年代には私財を投げ打ち中国残留邦人らの帰国や日本定住の支援活動に尽力した。
有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14… 有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14日 - 1980年〈昭和55年〉4月15日)は、日本の小説家。中間小説、社会派推理小説の分野で活躍した。旧・筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。 伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第2王女。 頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹の澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。 兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。
三縄 一郎(、1918年〈大正7年〉2月14日[要出典] -… 三縄 一郎(、1918年〈大正7年〉2月14日[要出典] - 2017年〈平成29年〉12月16日[要出典])は、日本映画の音響効果技師。東京都文京区本郷真砂町[要出典]出身。 日本映画における効果音の基礎を築いた人物とされる。 歌手を目指し東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で声楽を学んだ。新協劇団の女優であった姉の手伝いで[要出典]陰歌を手伝ったことをきっかけに、舞台音効の道へ進む。ミリオンレコード社へ入社するも[要出典]日中戦争の激化で同社が解散となり、自身も召集を受ける。 中国から帰国後の1942年(昭和17年)、東宝に入社し効果係となる。半年ほど助手を務めたが、再び召集を受け、戦後から映画の音響効果を本格的に携わるようになる。
佐竹 五三九(さたけ ごさく、1918年2月14日 - 19… 佐竹 五三九(さたけ ごさく、1918年2月14日 - 1977年10月12日)は、昭和時代の労働運動家。全国金属労働組合(全金)委員長、日本労働組合総評議会(総評)副議長。 大阪府三島郡富田村(現高槻市)生まれ。1933年高等小学校卒業。洋服屋の店員を経て、1934年大阪毛織に入社。同年11月の日本労働組合全国評議会(全評)結成に参加。1935年全評関西繊維労働組合淀川分会長。同年12月に検挙・拘留されて退職。1936年大阪市の日の出鉄工所に入社。働きながら野田職工学校(二部)を卒業。同時に全評金属関西地方協議会青年部長として活動。1937年12月人民戦線事件で再検挙。1939年高野実、柳本美雄と連絡をとり上京。
橋本 正己(はしもと まさみ、1917年2月14日 - 20… 橋本 正己(はしもと まさみ、1917年2月14日 - 2003年1月26日)は、日本の公衆衛生学者。国立公衆衛生院名誉教授。1989年勲三等旭日中綬章受章。 大阪府豊中市生まれ。1940年大阪帝国大学医学部卒。短期現役士官海軍軍医、1948年「昭和二十一年春季阪神地方流行時に於ける発疹チフス患者百七十名の疫学的並に臨床的観察」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。豊中保健所勤務、厚生省公衆衛生局、国立公衆衛生院部長、名誉教授。1982年埼玉県立衛生短期大学学長。1989年勲三等旭日中綬章受勲。
小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 19… 小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は、日本の映画監督。 北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優の田中絹代は又従弟に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。 同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。
小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月1… 小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月14日(戸籍上2月21日[要出典]) - 2001年〈平成13年〉12月7日)は、東京府(現:東京都)出身の画家・イラストレーター。 空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵(ボックスアート)など、挿絵画家の第一人者として幅広く活躍した。 東京府北豊島郡南千住町(現在の東京都荒川区南千住)で生まれ、青年期には日本画家を志望し花鳥画の堀田秀叢(ほったしゅうそう)に学ぶ。しかし、転じて秀叢の弟弟子の画家・小林秀恒の下で挿絵画家の道を歩むことになる。 1938年(昭和13年)に「小樽新聞」に連載の悟道軒圓玉の講談小説『白狐綺談』の挿絵でデビューし(筆名は「恒方」)、翌々年には科学雑誌『機械化』の挿絵で、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き評判になる。
及川 舜一 (おいかわ しゅんいち、1914年 <大正3年>… 及川 舜一 (おいかわ しゅんいち、1914年 <大正3年> 2月14日 - 1999年 <平成11年> 3月11日) は、日本の地方政治家。岩手県一関市長(3期)。位階は正六位。 岩手県東磐井郡大東町(現・一関市)生まれ。1931年岩手県立工業学校(現・岩手県立盛岡工業高等学校)卒。卒業後は岩手県庁に入る。一関、大船渡、水沢各土木事務所長、一関市建設部長、同助役を経て、1983年一関市長に当選する。 当選後は岩手県市長会監事、一関地方衛生組合管理者、三陸地方地域産業開発促進協議会会長、一関地区土地開発公社理事長、北上川上流改修期成同盟会会長などを歴任した。北上川の改修や一関遊水地事業を進めた。
吉井 良三(よしい りょうぞう、1914年 <大正3年> 2… 吉井 良三(よしい りょうぞう、1914年 <大正3年> 2月14日 - 1999年 <平成11年> 1月28日)は、日本の昆虫学者。京都大学名誉教授。専門は洞窟生物学、昆虫形態学。位階は従四位。 1914年(大正3年)、大阪府の旧家に生まれる。旧制第三高校を経て、1938年(昭和13年)に京都帝国大学理学部動物学科を卒業。トビムシ研究から、日本の洞窟生物の研究をたちあげた。 また、その土壌動物採集の中でカマアシムシ目の昆虫を日本で初めて発見した。その種は彼の名にちなんでヨシイムシと名付けられた。 1959年、京都大学理学博士。学位論文の題は「粘管目の分類・系統学的研究」。 1987年勲三等旭日中綬章受章。
森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日… 森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日 - 1972年(昭和47年)3月26日)は、日本の俳優およびコメディアン。本名は森川 義信。神奈川県横浜市南区出身。横浜市立商業学校卒業。元妻は水戸光子。 商業学校卒業後、銀行に勤める傍ら、役者になるために演劇学校へ通う。 1931年、遠戚にあたる俳優・静香八郎と共に俳優の道へ進み、1932年に静香主演の『肉弾三勇士』での死体役でデビュー。 その後、一座を組んで浅草で芝居を試みるが、浅草演劇界ではエノケンとロッパが君臨していたため、競合を余儀なくされた。 その後、大阪、名古屋、京都、博多など各地を転々とし、この頃に清水金一、田崎潤、淀橋太郎などを知った。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 199… 田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 1997年1月16日)は、日本の歌人、国文学者。 東京深川区生まれ。京都帝国大学国文科に入学し、「短歌草原」「香蘭」(村野次郎主宰)を経て、1933年(昭和8年)より吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』同人の編集に参画。なお吉澤没後、1962年より『ハハキギ』を引き継いで主宰した。 1936年(昭和11年)京都帝国大学国文科卒。卒業後、不況のため就職難先の確保に苦労したが、滋賀県立膳所中学校で教員を4年間務めた後、京都府立第一中学校で教員を務めた。この際、『ハハキギ』で交流があった日本文学研究者、里井陸郎に借家を用意してもらっている。その後、同志社女子大学教授、1982年(昭和57年)定年、奈良大学教授。
穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1… 穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1979年9月29日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。父親は京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄。 山梨県出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 北海道配電監事を経て、1944年6月に東京急行電鉄取締役と相模鉄道常務に就任し、1947年6月に相模鉄道専務、1962年9月に相模鉄道副社長を経て、1965年11月に相模鉄道社長に就任。1976年6月には会長に就任した。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1968年に紺綬褒章を受章し、1974年に藍綬褒章を受章。 1979年9月29日、腎不全のために死去。67歳没。墓所は多磨霊園(10-1-7-2)。
福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日… 福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日 - 2013年〈平成25年〉9月16日)は、日本の第67代内閣総理大臣である福田赳夫の妻。第91代内閣総理大臣である福田康夫の母。孫は衆議院議員の福田達夫。 群馬県吾妻郡原町(現:東吾妻町)出身。元大審院判事の新井善教の孫娘で、裁判官であった新井文雄の三女として生まれる。1933年(昭和8年)に大蔵省で勤務していた福田赳夫と結婚。ふたりの馴初めのエピソードは公にはされていないが、一説には赳夫が東京帝国大学時代に出会ったとされる。 1976年(昭和51年)12月24日から1978年(昭和53年)12月7日までのおよそ2年間、赳夫が内閣総理大臣に就任したため、ファーストレディとして活動を行った。
左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日… 左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。本名は川崎 愛。名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。「現代詩の起点となる詩人」とも賞される。 北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる。4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。戸籍上の父は不明、異父兄の昇が終生の支えとなる。1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業。親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し、1928年同校補習科師範部を卒業。同年8月、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家・詩人たちとの交流が広がる。
高屋 窓秋(たかや そうしゅう、1910年2月14日 - 1… 高屋 窓秋(たかや そうしゅう、1910年2月14日 - 1999年1月1日)は、俳人。本名・正国(まさくに)。従来の写生主義、花鳥諷詠の俳句から離れた句作を行い、昭和初期の新興俳句運動に大きな影響を与えた。代表句に「頭の中で白い夏野となつている」「ちるさくら海あをければ海へちる」「山鳩よみればまはりに雪がふる」など。 名古屋市東区に生まれる。父は陸軍士官で、名古屋は両親の故郷であったが、物心ついてからは東京に住んだ。1923年、関東大震災に被災ののち、父の転任に伴い熊本に移る。1926年、学友に連れられて「ホトトギス」派の俳人草野駝王、有働木母寺が指導する句会に出席、必要ということで学友に「寅秋子」の俳号を付けられる。
三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996… 三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996年10月7日)は、日本のジャーナリスト、囲碁観戦記者、囲碁ライター。読売新聞社新聞監査委員長、報知新聞社副社長を歴任。 神奈川県出身。本名は将(ただし)。他の筆名は丘目山人(おかめ-さんじん)。 旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学経済学部卒業。1932年、読売新聞社に入社して囲碁担当となる。1938年から3年間、覆面子(4代目)の名で囲碁観戦記を執筆。呉清源対木谷実の「打ち込み十番碁」を取材するなど活躍。 戦後、出版部長、特信部長、新聞監査委員長などを経て1963年、報知新聞副社長。 1967年に辞任してフリーの囲碁ライターとして読売新聞社主催の棋聖戦などで健筆を振るい、囲碁界のご意見番的存在だった。
斎藤 史(齋藤史、さいとう ふみ、1909年〈明治42年〉2… 斎藤 史(齋藤史、さいとう ふみ、1909年〈明治42年〉2月14日 - 2002年〈平成14年〉4月26日)は、日本の歌人。東京市四谷区生まれ。福岡県立小倉高等女学校(現・福岡県立小倉西高等学校)卒業。 歌人の父の影響で早くから作歌を始め、佐佐木信綱に師事。モダニズム短歌から出発し、内省を深めることで独自の歌風を構築した。歌集に『魚歌』(1940年)、『ひたくれなゐ』(1976年)などがある。 父齋藤瀏は陸軍少将で、佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった。父は「史子」と出生届を提出したが、戸籍係が間違えて「史」と登録してしまった。17歳の時、若山牧水に勧められて作歌をはじめ、18歳から「心の花」に作品を発表するようになる。
小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 20… 菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 2001年12月12日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、映画・文芸評論家、翻訳家。中央大学教授を歴任。 富山県富山市生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒業。1980年まで中央大学教授。 多くの著書、翻訳があり、トーマス・マンを専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
関野 克(せきの まさる、1909年2月14日 - 2001… 関野 克(せきの まさる、1909年2月14日 - 2001年1月25日)は、日本の建築史学者、東京大学名誉教授。文化功労者。 東京生まれ。1929年、旧制浦和高等学校理科甲類卒業。1933年、東京帝国大学工学部建築学科卒。1945年、東京大学工学博士。1946年、母校(のち東京大学)教授。1965年、東京国立文化財研究所所長を歴任。1979年~1991年、博物館明治村館長。1990年、文化功労者。墓所は多磨霊園。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
黒河 隼人(くろかわ はやと、1909年2月14日 - 19… 黒河 隼人(くろかわ はやと、1909年2月14日 - 1992年2月1日)は、日本の実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、同社取締役会長を務めた。正四位勲二等瑞宝章。 1927年市立下関商業学校(現下関商業高等学校)卒業。1930年山口高等商業学校(現山口大学)卒業、東洋陶器入社。1953年取締役に昇格。1959年常務取締役。1963年専務取締役。1967年取締役副社長。1972年7月、杉原周一社長の急逝に伴い社長就任。東陶不動産取締役社長、日本特殊陶業取締役、日本碍子取締役。1973年日本陶器取締役。1979年取締役会長。1983年相談役。1979年勲二等瑞宝章受章。1992年正四位。 第一次オイルショックを受け、第3次5カ年計画による対応にあたるなどした。
吉田 重延(よしだ しげのぶ、1909年2月14日 - 19… 吉田 重延(よしだ しげのぶ、1909年2月14日 - 1989年8月7日)は、日本の政治家。元自由民主党衆議院議員。岳父は中野猛雄。 熊本県天草郡栖本村(現・天草市)の農家に生まれる。東京帝国大学農学部農学実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)を卒業後は帰郷し農作業に従事する。その後熊本県職員、栖本村長を経て、1953年の第26回衆議院議員総選挙に旧熊本2区から自由党公認で立候補し初当選する。以後連続7回当選。 自民党では宏池会に所属する。自治政務次官、衆院大蔵委員長等を歴任。1972年にはリベリアのウィリアム・R・トルバート新大統領の就任式典に政府特使として派遣された。
小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 19… 小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 1975年5月9日)は、日本の哲学者。大阪府出身。東海大学短期大学部元教授。 長野県育ち。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京帝国大学卒。1935年、山形高等学校教授。弁証法的唯物論を研究。戦後、民主主義科学者協会に参加、主体性論争で梅本克己を批判した。 1949年、神戸経済大学予科教授から、新制神戸大学文理学部教授へ切り替わる見込みであった小松は、日本共産党の党員や同調者を強権的に排除するレッドパージの対象となり、小松の新制大学教授への切り替えを認めないことを決し、さらに免官とした大学評議会など上層部と、文科教授会などとの間に対立が起こった。
森山 諭(もりやま さとし、1908年2月14日 - 199… 森山 諭(もりやま さとし、1908年2月14日 - 1996年7月22日)は、日本の牧師、伝道者、日本イエス・キリスト教団顧問。中田羽後と共に荻窪栄光教会を創設した。 再臨待望同志会東京大会実行委員長、日本ケズィック・コンベンション財務委員、日韓親善宣教協力会会長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長などを歴任した。 1908年(明治41年)2月14日 福島県耶麻郡塩川町下遠田(現、喜多方市塩川町遠田)において父幸七、母イチの長男として生まれる。幼い時より「生とは何か、死とは何か」「なぜ男と女とがあるのか」を問う少年だったという。 1926年(大正15年) 福島県立会津農林学校(現、福島県立会津農林高等学校)に入学後、極度のノイローゼにとりつかれ、線路に飛び込みする寸前に、劇的な回心を経験する。
陣出 達朗(じんで たつろう、1907年2月14日 - 19… 陣出 達朗(じんで たつろう、1907年2月14日 - 1986年4月19日)は、日本の時代小説家。第3代日本作家クラブ会長。石川県出身。 『遠山の金さん』シリーズ、『伝七捕物帳』シリーズ、『新五捕物帳』の作者として知られる。 小松市生まれ。本名・中村達男。兄が南満州鉄道に勤めていたため満州にわたり、奉天中学校に入学したが病気のため帰郷、金沢中学校(現・金沢高等学校)四年修了。1929年日活脚本部に入社する。のち右太プロ脚本部に転じたが、再び日活に戻る。 1933年、『さいころの政』で第12回「サンデー毎日」大衆文芸賞を受賞。1938年会社を辞し脚本家から作家に転身する。 1947年に探偵作家クラブ創設の際、捕物作家も入会するはずだったが、木々高太郎の反対で実現しなかった。
石井 栄三(いしい えいぞう、1907年〈明治40年〉2月1… 石井 栄三(いしい えいぞう、1907年〈明治40年〉2月14日 - 1994年〈平成6年〉1月27日)は、日本の警察官僚。岡山市今村出身。従三位勲二等旭日重光章。旧姓・高原。 高原光五郎の三男として生まれ、石井琢郎の養子となる。岡山一中、一高を経て、1932年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年、内務省に採用される。神奈川県属を振出しに、神奈川県警部、内務属・警保局配属、地方警視・高知県警務課長、福井県特高課長、福岡県特高課長、神奈川県警務課長を歴任。1941年5月、内務事務官・警保局配属。1943年11月福井県経済部長。1944年8月富山県警察部長。
林 正義(はやし まさよし、1906年(明治39年) 2月1… 林 正義(はやし まさよし、1906年(明治39年) 2月14日 - 1980年(昭和55年)9月26日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱予備罪で有罪となった海軍中尉である。幽顕塾塾長。 熊本県出身。祖父は横井小楠と親交があった人物で、父は刀工、母は神風連に関わった人物の娘である。島田数雄(上海日報主筆)は叔父。妻は五・一五事件で首相官邸を襲撃した海軍士官の一人、村山格之の姪。 済々黌中学を卒業。福村利明は同級生で、刎頚の仲であった。2年の浪人を経て海軍兵学校56期に入校。高橋赫一、田辺弥八、三上作夫のほか、 古賀清志ら五・一五事件に関わる3名が同期生である。卒業席次は111中107番。
山中 日露史(やまなか ひろし、1906年(明治39年)2月… 山中 日露史(やまなか ひろし、1906年(明治39年)2月14日 - 1971年(昭和46年)5月20日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、室蘭市市政功労者。 北海道室蘭郡室蘭町(室蘭区を経て現室蘭市)で生まれる。1927年(昭和2年)中央大学法律科を卒業し、弁護士を開業した。 室蘭市会議員(2期)、北海道会議員(2期)、同参事会員に在任した。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第4区から日本社会党所属で出馬して当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選した。第25回、第26回総選挙で当選。1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙では次点で落選した。
秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年(明治38年)2月… 秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年(明治38年)2月14日 - 1976年(昭和51年)3月20日)は、昭和時代の合唱指揮者。戸籍上の本名は秋山 秀雄(読み同じ)。 東京本所北割下水にて生まれる。東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)精密機械科卒業。アマチュア合唱団運動に加わり、1925年(大正14年)男声合唱団東京リーダーターフェル・フェライン(現・男声合唱団東京リーダーターフェル1925)の設立に参加する。戦時中は軍隊や職場慰問で活動し、戦後は職場合唱団の指導に従事する。 主に官庁の合唱団を指導し、1948年(昭和23年)の第1回全日本合唱コンクール全国大会職場部門に運輸省合唱団を指揮して出場、優勝を果たす。
岡 良一(おか りょういち、1905年(明治38年)2月14… 岡 良一(おか りょういち、1905年(明治38年)2月14日 - 1994年(平成6年)5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、金沢市長(第24-25代)。医学博士。 石川県金沢市出身。金沢市長として革新市政を貫いた人物である。 学生時代での文芸活動中に社会主義に出会い、1927年に労働農民党に入党。これが岡の革新市政の原点となる。1937年に社会大衆党に入党し、第2次世界大戦後は日本社会党を経る。 1975年には秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受け、1987年には金沢市名誉市民として表彰を受けている。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月1… 檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月14日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の経営者。近畿日本鉄道元副社長。近鉄百貨店元社長。三交不動産元取締役。伊勢志摩国立公園開発元監査役。関西経営者協会元副会長。位階は従四位。 兵庫県美嚢郡奥吉川村(現:三木市吉川町)出身。大阪府八尾市在籍。 1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業し、1932年(昭和7年)大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)に入社。1951年(昭和26年)取締役、同年12月常務に就任。1959年(昭和34年)6月専務を経て、1968年(昭和43年)5月副社長に就任した。 百貨店事業の担当になっていたため、1972年(昭和47年)4月に近畿日本鉄道から近鉄百貨店が分離・独立した際、社長に就任した。