古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 199… 古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 1992年12月4日)は、日本の経営者、造船技術者。三菱重工業社長、会長を務めた。福岡県出身。 福岡県柳川市の出身で旧制伝習館中学、旧制第五高校を経て、1926年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。戦艦「武蔵」の設計に携わっていた。1964年に三菱重工業専務に就任し、1971年12月に社長に昇格した。1973年5月から1977年までに会長を務め、1977年から相談役を務めた。 国際貿易促進協会副会長、成蹊学園理事長なども歴任した。 1967年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲一等瑞宝章を受章した。 1992年12月5日肺炎のために死去。
谷川 貞夫(たにがわ さだお、1900年4月20日 - 19… 谷川 貞夫(たにがわ さだお、1900年4月20日 - 1989年12月22日)は、日本の社会事業家。 神戸市生まれ。1930年東京帝国大学文学部哲学科中退。1962年まで愛隣団セツルメント指導員、1925-48年愛隣中学校校長、1937-61年吾嬬幼稚園園長、1933-47年愛隣小学校校長、1946-79年日本社会事業大学教授。1956-61年西南学院大学教授兼任、1967-78年常磐学園短期大学教授兼任。愛隣館セツルメント総主事、社会事業研究所長。1952-1973年社会福祉法人愛の友協会(千葉県長生郡)初代理事長として、障がい者福祉に尽力。
富田 直之(とみた なおゆき、1900年 <明治33年> 4… 富田 直之(とみた なおゆき、1900年 <明治33年> 4月20日 - 1987年 <昭和62年> 10月31日)は、日本の政治家。王子区会議員(2期)、東京市会議員(1期)、東京都議会議員(8期)、第23代都議会議長を歴任した。位階は正五位。戸籍名は冨田 直之。 1900年4月20日、東京府(現東京都)に生まれる。1930年に東京帝国大学文学部(現東京大学文学部)卒業。1936年から王子区会議員を2期11年務めた。また、1942年6月15日から1943年6月30日まで、東京市会議員を1期務めた。1951年の東京都議会議員選挙に北区選挙区から立候補して、初当選する。その後、都議会自民党政調会長(1957年から1958年)、都議会自民党幹事長(1961年から1962年)を歴任した。
岡安 彦三郎(おかやす ひこさぶろう、1899年4月20日 … 岡安 彦三郎(おかやす ひこさぶろう、1899年4月20日 - 1982年9月14日)は、日本の地方公務員。東京都副知事を務めた。 岡安六郎の五男として埼玉県に生まれる。父・六郎が生命保険会社の福岡支店長を務めていたため福岡市で育つ。1917年福岡県立中学修猷館、第五高等学校を経て、1925年京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 東京市役所に入り、財務局地理課庶務掛長、同地理課長、経済局庶務課長、市長室企画部予算課長、1943年7月に東京市と東京府が廃止され東京都となると、その都長官官房用度課長、1946年5月日本橋区長、財務課長、財務部長、財務局長を歴任した後、1949年12月、東京都副知事に就任。
坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月2… 坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月20日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、熊本市長(2期)を歴任した。 熊本県玉名郡賢木村(現・南関町)出身。1917年(大正6年)熊本県立玉名中学校、旧制第五高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。台湾総督府に入り、高雄、台北の各州の知事などを務め、台湾新報社社長に就任する。 帰国後、郷里の賢木村長に就任。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に旧熊本1区(定数5)から民主党公認で立候補し、初当選した。1949年(昭和24年)に再選。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙の旧熊本1区では改進党は坂口を含め5人の候補者を擁立。
武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987… 武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987年12月3日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(名古屋大学)。元広海軍工廠鋳物実験部長・海軍技術者。日本鋳造協会関西支部元顧問。鋳物工学研究の第一人者の一人。 専門は、鋳造工学・鋳物工学。 1899年愛媛県松山市生まれ。1923年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。広海軍工廠・横須賀海軍工廠などで、鋳物砂の調査に携わる。1935年ドイツ留学(技術監督官)、国際鋳物会議へ出席。1940年広海軍工廠鋳物実験部所長、戦艦のプロペラ鋳造に従事。1944年東京軍儒省鋳造技術指導班班長(第1級鋳物工場の技術指導)を経て、広海軍工廠素材部長兼鋳物実験部長。
高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月… 高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月20日 - 1972年(昭和47年)10月23日)は、昭和期の林業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県中蒲原郡十全村長、同村松町長。 新潟県中蒲原郡十全村別所(村松町別所を経て現五泉市)で、高岡忠興の長男として生まれる。1922年(大正11年)家督を相続。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。農業を営む。 新潟県森林組合連合会長、同林業団体連絡協議会長、新潟木工 (有)専務取締役、北日本航空工業取締役社長、北越木材工業取締役社長などを務めた。 政界では、十全村長、新潟県会議員、同参事会員、大政翼賛会新潟県支部参与、新潟県社会教育委員長などを務めた。
山本 政喜(やまもと まさき、1899年〈明治32年〉4月2… 山本 政喜(やまもと まさき、1899年〈明治32年〉4月20日 - 1960年〈昭和35年〉4月7日)は、日本の英文学者・翻訳家。筆名・柾 不二夫(まさき ふじお)。息子にロシア文学者の川端香男里、娘に美術史家の若桑みどりがいる。 福岡県嘉穂郡幸袋町(現・飯塚市)出身。山本荒吉の四男。旧制第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業。卒業後4年間滿洲において兵役を務め、その後、中等学校教員、講座編集のほか、雑誌寄稿、翻訳書等の出版に従事。1929年ごろから、「柾不二夫」のペンネームで『戦旗』『ナップ』にアメリカの左翼活動記事を翻訳紹介した。1932年、プロレタリア科学研究所マルクス主義芸術学研究会同人となった。
一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日… 一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日 - 1962年9月9日)は、北海道亀田郡七飯町出身で井筒部屋に所属した力士。本名は大塚 善作(旧姓佐々木、高橋)。175cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。引退後は7代九重を一時期襲名し、後進の指導につとめた。 1916年1月初土俵、1922年5月十両昇進。1924年5月入幕した。オートバイの運転が得意だった。1928年10月を以て引退、九重を襲名する。1930年10月株の持ち主である同じ部屋の大関豊国が引退したために、廃業した。 ※預りが白岩に1つ、引分が綾鬼に1つ、若常陸に2つある。 大江嶽→一ノ濵(1920年5月)
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月2… 松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。位階は従三位。 1896年、石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科で学ぶ。1943年(昭和17年)、母校である東京美術学校教授に就任。以後36年間にわたって教鞭を取った。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。
堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 … 堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1981年〈昭和56年〉9月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済思想史、社会思想史。日本学士院会員。関西学院大学学長、四国学院大学学長を歴任した。 1896年4月20日、函館市生まれ。1920年、京都帝国大学卒業。河上肇に師事。1925年東北大学教授、1932年大阪商科大学 (現在の大阪市立大学) 教授を経て、1948年関西学院大学教授に就任。1955年に、関西学院大学学長(第5代学長)に就任し、同学長を1966年に退任。同年、四国学院大学学長に就任。理論経済学会、経済学史学会、大洋州経済学会など多くの学会の創設以来の会員、幹事、顧問をつとめる。
三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 198… 三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は、日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広。 1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する。また、祖父の勧めから江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ。1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した。
李 鍾栄(イ・ジョンヨン、朝鮮語: 이종영、1894年4月2… 李 鍾栄(イ・ジョンヨン、朝鮮語: 이종영、1894年4月20日 - 1954年2月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、親日派、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 別名には李 鍾滎(イ・ジョンヒョン、이종형)、権 守貞、権 秀貞(クォン・スジョン、權守貞•權秀貞/권수정)などがある。 江原道旌善郡出身。元山普光中学校、早稲田大学政経科卒。三・一運動の後は曺相伯、李光世、金道源などと雲泥洞事件に参加したが、後は関東軍の密偵となり、日本統治時代の後期には朝鮮総督府警務局の嘱託を務めた。戦後は極右性向の大東新聞社の社長を務めた。1950年の第2代総選挙では旌善郡選挙区より大韓独立促成国民会から本名で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。
富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 19… 富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 1966年9月22日)は、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ べによし)。 日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。
高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 19… 高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 1974年1月9日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員(5期)、衆議院副議長などを歴任した。 広島県御調郡羽和泉村(現・三原市)生まれ。真宗本願寺派南光寺住職の長男で、18歳のときに京都に移り、京都予備学校(のちの京都商業)で学ぶ。卒業後は実家に戻り、1914年に住職を継ぐが、仏教改革を志して檀家と対立した結果、仏教を捨てるに至る。 1918年、妻多代子(のち日本初の女性社会主義グループ「赤瀾会」創立メンバー、28歳で早逝)と共に上京し、早稲田大学文学部哲学科に入学。在学中「暁民会」を組織するなど、活発な社会主義運動を展開した。そのため大学を追われ、日本社会主義同盟を設立するが、1921年に暁民共産党事件で有罪判決を受ける。
羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20… 羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月30日)は、日本統治時代の台湾の官吏。群馬県勢多郡富士見村大字石井(現・前橋市富士見町石井)出身。台湾総督府中央研究所職員を経て、日本人最後の台南市長を務めた。台南市長在任中、第二次世界大戦中という時勢の中、赤崁楼の修復作業を進めたことで知られる。 羽鳥又男は1892年(明治25年)4月20日に富士見村の村長・羽鳥多三の四男として生まれた。1906年(明治39年)4月に石井尋常高等小学校(現・前橋市立石井小学校)を卒業、同年12月、東京私立正則予備学校(現・正則高等学校)にて中学校第二学年の修了証を得る。
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月2… 尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争(支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。 日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1… 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉9月12日)は、日本の地主、実業家。西宮酒造(現・日本盛)代表取締役。12代森本甚兵衛。 大阪府豊能郡北豊島村(現・池田市)に細井重右衛門の四男として生まれた。1914年(大正3年)に兵庫県人・森本甚兵衛の養子となり家督を相続、1915年(大正4年)1月に前名・悦蔵を改め、甚兵衛を襲名した。戊辰土地、南大阪田園都市各監査役をつとめた。 西宮銀行に入行し、取締役に就任、同行が1936年(昭和11年)に神戸銀行に合併のため退任した。1930年(昭和5年)2月に西宮酒造入社、取締役に就任、1943年(昭和18年)4月に監査役に就任した。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月2… 風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月22日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(2期)。 千葉県出身。東京商科大学卒業。茨城県農工銀行頭取を経て、水戸市会議員になり、議長に就任する。議長在職中の1946年、市会から水戸市長に推され、就任する。翌1947年の市長選挙に立候補し、当選する。しかし、同年公職追放となり、半年で市長の座を追われることになった。
谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉… 谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉4月20日 - 1942年〈昭和17年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県福山市出身。旧制広島県立福山誠之館中学校より海軍兵学校第35期入校。海軍兵学校入校時成績順位は183名中第82名、卒業時成績順位は172名中第37位。 第1次上海事変の際に、第3戦隊旗艦の軽巡洋艦「由良」艦長として参戦したが、上官の堀悌吉第3戦隊司令官の命令を忠実に守り、攻撃対象を中国軍関係に対してのみ限定させ中国国民への被害を最小限度に止めた為に作戦終了後、攻撃が手緩いとの批判が相次いだが、谷本は報告書の中で『堀司令官ノ判断処置ニ鑑ミ一点ノ非アラザル事明白ニシテ現地ニ於ケル事当ラザリシ者ガ非難スルハ司令官ヲ陥シ入レントスル意図明白ナリ』と憤懣やるかたなき状況を伝えている。
山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月2… 山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月25日)は、女流日本画家。日本画会会員。多くの日本画を描き残すと共に、多くの弟子を育成することで、郷里の香川県の日本画壇に貢献した人物である。本名は山下くら、または山下久良子。旧姓は中田。 香川県那珂郡丸亀葭町(現・丸亀市葭町)で誕生した。高松高等女学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、女子高等教育への進学率が0.1%という時代にあって、東京女子高等師範学校へ進学。1906年(明治39年)に同校を卒業後に、奈良女子高等師範学校で教員として勤めた。 1907年(明治40年)、東京女子高等師範学校の研究課程技芸科に入学した。
今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月… 今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月20日 - 1963年〈昭和38年〉年8月17日)は、大正から昭和期の歌人。本名は今中 保次郎(旧姓は岩崎)。1935年(昭和10年)に東海林太郎の歌で大ヒットした「野崎小唄」の作詞者で知られる。 大阪府北河内郡生まれ。広島高等師範学校(現・広島大学)卒業。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)在学時から作歌し、歌誌『詩歌』に参加。前田夕暮に師事した。 1907年(明治40年)に北河内郡樟葉村大字楠葉(現・枚方市南楠葉)の今中家を継いだ。 のちに『覇王樹』『林間』の同人となり、1931年(昭和6年)女性短歌誌『若葉』を主宰。大阪府立寝屋川高等女学校(現・大阪府立寝屋川高等学校)で教えながら、落語野崎詣りで有名な、北河内郡四条村大字野崎(現・大東市野崎)にある野崎観音参拝について詠んだ「野崎小唄」を東海林太郎が歌い大ヒットとなったため、「昭和歌壇の重鎮」とされている。
土屋 清三郎(つちや せいさぶろう、1882年(明治15年)… 土屋 清三郎(つちや せいさぶろう、1882年(明治15年)4月20日 – 1946年(昭和21年)3月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→立憲民政党)、医師。旧名・清。 千葉県武射郡山室村(豊岡村、松尾町を経て現山武市)で、土屋清左衛門、たけ の長男として生まれる。1887年(明治20年)清三郎に改名。済生学舎・東京慈恵医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)を卒業。内務省伝染病研究所嘱託、警視庁検疫官、岐阜県衛生技師を歴任し、退官後は開業医となった。そのかたわら日本語雑誌「日本之医界」、英文雑誌「Japan Medical World」、中国語雑誌「東亜医学」の発刊・経営にあたった。 1916年(大正5年)、牛込区会議員に当選。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4… 畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4月20日 - 1971年(昭和46年)11月17日)は、日本の実業家・機械工学者。株式会社荏原製作所の創立者。石川県金沢市出身。機械工学者・井口在屋の「渦巻ポンプに関する理論」をもとに「うずまきポンプ」を発明した。 1881年(明治14年)、金沢で能登の守護大名・能登畠山氏の血筋を引く家系に生まれる。東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年に恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。 畠山の発明は渦巻ポンプにとどまらず、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品に及ぶ。
犬童 球渓(いんどう きゅうけい、1879年4月20日 - … 犬童 球渓(いんどう きゅうけい、1879年4月20日 - 1943年10月19日)は、日本の詩人、作詞家、教育者。熊本県人吉市出身。1901年、熊本師範学校卒業し、宇土郡網田小学校に勤務する 。1905年、東京音楽学校卒業。本名は「犬童信蔵(いんどう のぶぞう)」というが、球磨川の渓谷に生まれたことから「球渓」というペンネームをつけた。1943年、人吉市で自殺。
門脇 孝一(かどわき こういち、1879年〈明治12年〉4月… 門脇 孝一(かどわき こういち、1879年〈明治12年〉4月20日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、弁護士。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡手間村大字天萬(のち会見町天萬、現・南部町天萬)出身。門脇休三郎の長男、あるいは三男。1900年、家督を相続する。1902年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業、同年判検事試験に合格し、松江地方裁判所検事に任ぜられて在官1年余に及んだ。 1904年、弁護士となり米子市五十人町に法律事務所を設けて弁護事務に従事する。弁護士事務の傍ら各種の事業に関係し、銀行会社の重役である。三好英之を助けて山陰日日新聞の経営に当たる。 日本産業貯蓄銀行代表取締役・同専務取締役、伯陽電鉄代表取締役、山陰日々新聞社代表取締役・同副社長、山陽銀行、米子電気軌道、六甲越有馬鉄道各取締役、博愛病院監査役、山陰実業信託出資社員(代表)などをつとめる。
平野 増吉(增吉、ひらの ますきち、1878年〈明治11年〉… 平野 増吉(增吉、ひらの ますきち、1878年〈明治11年〉4月20日 - 1959年〈昭和34年〉11月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県郡上郡山田村(現郡上市)の酒造業・平野吉兵衛の三男として生まれ、1934年(昭和9年)、家督を相続し家業を継いだ。 庄川木材取締役、飛州木材専務取締役、日本農林新聞社社長、岐阜県木材組合連合会長、岐阜県木材協同組合理事長、木曽林産開発取締役などを務めた。 庄川事件(庄川流木争議・庄川ダム争議・庄川流木事件)で活躍した。ダム訴訟のはしりである。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙おいて岐阜県全県区で日本進歩党から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年… 谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年不明)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は藤楠、旧姓は津本。資産家であり、公募展への出品は少ない。同じ雅号の三木翠山と混同される事がある。 1878年(明治11年)4月に和歌山県日高郡御坊村(現和歌山県御坊市)の蝋燭商の大黒屋の津本家に生まれた。16才から文人画家の筑紫翠雲に学び、20才で上京し、川端玉章の画塾に入った。 後に和歌山市雑賀村関戸(現和歌山市関戸)の大地主の谷井家に婿養子として入った。その頃の当主の谷井勘蔵は翠山の誕生翌年の明治12年には地租221円持、貴族院多額納税者議員互選人だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月… 田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月20日 - 1944年(昭和19年)3月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・関原。 群馬県群馬郡新波村(現:高崎市)で関原家に生まれ、田中敬造の養子となる。1899年、群馬県尋常中学校を卒業し、その後、同志社で学ぶ。同志社在学中、日露戦争時に基督教青年会軍政慰問部主事として満州に赴任し慰問事業に二年間従事した。 1907年4月、北海道に移り製材事業を経営。(株) 田中木工場社長、北海興業取締役、北海工業取締役、旭川曲木工芸取締役、北海石炭取締役、昭南電燭取締役などを務めた。 政界では、旭川区会議員、同市会議員、同副議長、同議長、北海道会議員を歴任。
川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日… 川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は日本の俳人、俳書収集家。本名は徳三郎。 兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立神戸商業高等学校卒業後、鉄材商を営む。俳句は河東碧梧桐に師事。俳誌「阿蘭陀渡」を創刊。句集に「和露句集」がある。碧梧桐主宰の俳誌『海紅』に創刊号から参画した。
春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20… 春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20日 - 1937年(昭和12年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)(2期)。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)に生まれる。1895年(明治28年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。1900年(明治33年)中国に留学し、1903年(明治36年)からアメリカに留学する。1906年(明治39年)帰国。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に当選する。また、東亜耐火工業の専務取締役などを務めた。1937年(昭和12年)6月9日に死去。 鉄道大臣などを務めた小川平吉の側近で、いわゆる五私鉄疑獄事件によって小川とともに逮捕。
堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - … 堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - 1932年2月1日)は、山梨県巨摩郡大八田村(現・北杜市長坂町)出身の教育者・俳人。出生名は堀内 常太郎(ほりうち つねたろう)であり、柳南は号である。 1873(明治6)年4月20日、山梨県北巨摩郡秋田村(現・北杜市長坂町大八田)に生まれる。父親は堀内与右衛門。10代後半、自由民権派新聞「峡中日報」編集長を通して俳句と出会う。山梨尋常師範学校卒業後、南都留郡谷村尋常小学校を初任地として33歳まで山梨県内で教鞭を執る。この間、25歳で結婚、28歳で校長職。俳句への思いを断つことができず33歳で職を辞して上京、自由律俳誌「層雲」の同人となるが、同年妻きくを鉄道事故で失い、上京生活1年で郷里へ帰る。
釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年… 釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年3月13日) - 1947年(昭和22年)9月13日)は、日本の牧師、アメリカ南メソヂスト監督教会の最初の日本人監督。祈りの生涯を送った。関西学院との繋がりが強い。 大分県北海部郡海添村内畑(現臼杵市)に、釘宮伝四郎を父、シゲを母として生まれた。幼名は和作。父は役所で土木関係の仕事をしていたが、大分県での勤務を命ぜられ、大分へ移った。そして、転勤のために小倉県、福岡県、さらに対馬に引っ越した。1882年再び大分に戻り、父は別府浜脇の村役場に勤めた。1885年に父親が急死した。残された母と祖母と辰生の3人家族で貧しい生活を始めた。 明治18年(1885年)に大分尋常中学校が新設された。
松家 徳二(まつか とくじ、1871年4月20日(明治4年3… 松家 徳二(まつか とくじ、1871年4月20日(明治4年3月1日)- 1929年(昭和4年)11月14日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 讃岐国寒川郡、後の香川県大川郡富田村(大川村、大川町を経て現さぬき市)で、農業・大庄屋、松家茂太郎の二男として生まれる。郷校で学んだ後、山川塾で漢学を修め、大阪に遊学した。1894年(明治27年)家督を相続した。 1898年(明治31年)香川県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に香川県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選。以後、第11回総選挙まで当選し、衆議院議員を連続5期務めた。
渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(18… 渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(1870年4月20日) - 昭和25年(1950年)10月2日)は、日本の官僚、政治家。東京市の各区長や、仙台市長などを歴任した。 教育行政への造詣が深かったことから、仙台市長時代には「教育市長」、また町村合併や産業振興などから、「仙台中興の祖」とも呼ばれた。 宮城県黒川郡大松沢村(現・大郷町)生まれ。渋谷吉三郎の長男。 宮城師範学校(現在の宮城教育大学)を卒業後、宮城県内で教員を務めたのち上京、1906年に日本大学(法科)を卒業した。大学卒業後は文部省に入省、普通学務局第一課長、東京市教育課長職を経て、小石川区(現在の文京区)、麹町区(現在の千代田区)、京橋区(現在の中央区)の、それぞれ区長を歴任した。
戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元… 戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元年3月15日) - 1934年(昭和9年)12月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事、行政裁判所評定官。 長門国萩出身。長州藩士・戸田雅喬の長男として生まれる。1886年、帝国大学文科大学を卒業した。 1890年10月、石川県参事官に就任。以後、長野県参事官、長野県警部長、高知県警部長、青森県書記官、福井県書記官、茨城県書記官、静岡県書記官、同事務官・第一部長などを歴任。 1905年12月、宮崎県知事に就任。1906年7月に休職。1907年4月、行政裁判所評定官に就任。1913年6月に休職し、1924年11月に退官した。
三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久… 三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久3年3月3日) - 1942年(昭和17年)9月13日)は、岩手県南岩手郡加賀野村磧町(現盛岡市加賀野)出身の医師、教育者、政治家である。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
叶海 世奈(かなみ せな、4月20日生)は、宝塚歌劇団・雪組… 叶海 世奈(かなみ せな、4月20日生)は、宝塚歌劇団・雪組に所属する男役。
汝鳥 伶(なとり れい、4月20日 - )は、宝塚歌劇団専科… 汝鳥 伶(なとり れい、4月20日 - )は、宝塚歌劇団専科に所属する男役。元月組組長。 大阪府吹田市、府立吹田高等学校出身。身長164 cm。愛称は「ユー」、「ユーコ」。 1969年、宝塚音楽学校入学。 1971年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に57期生として入団。入団時の成績は26番。花組公演「花は散る散る/ジョイ!」で汝鳥 玲として初舞台。 1972年、月組に配属。 1978年に現在の芸名へと変更。 1986年9月1日付で月組副組長に就任。 1990年7月1日付で月組組長に就任。 1993年8月1日付で演劇専科へと異動。 1996年11月8日付で月組へ異動となり、再び月組組長に就任。 1997年12月16日付で再び専科へ異動となる。
吉岡 小鼓音(よしおか さこと、4月20日 - )は、日本の… 吉岡 小鼓音(よしおか さこと、4月20日 - )は、日本の女優。神奈川県横浜市出身。血液型はO型。東京芸術大学音楽学部声楽科卒。元『劇団四季』所属(1991年に退団)。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
島みや えい子(しまみや えいこ、4月20日 - )は、日本… 島みや えい子(しまみや えいこ、4月20日 - )は、日本の女性シンガーソングライター、作詞家、作曲家。 北海道千歳市出身、札幌市在住。1999年から2011年まで音楽制作集団「I've」のボーカリストとして活躍し、現在は株式会社ハートカンパニー所属。血液型はA型。牡羊座。旧名は島宮 えい子(読み方は同じ)。 I'veのメインボーカルの1人として、数々の楽曲でボーカルを担当。歌手活動と並行して札幌のRISE音楽院やミュージックトレーニングセンター春生楽(HAURA)でボーカル講師として長年活躍していた(HAURAではKOTOKOや川田まみ、詩月カオリなども生徒だった)。また、言葉の力(言霊)を使ったエモーショナル・ボイストレーニングの講師も勤めている。