金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、… 金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、1920年7月21日 - 1992年12月5日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
7月21日生まれ:321人
金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、… 金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、1920年7月21日 - 1992年12月5日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日… 3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日 - 1987年11月11日)は、日本の政治家、実業家。旧名は九一。北海道札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。 3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。 父の公職追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補するも選挙戦途中で辞退。1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より立候補し、初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫・鯨岡兵輔・奥野誠亮など。
佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 20… 佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 2000年4月25日)は、日本の政治家。明治大学専門部卒業。別府市名誉市民。ジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』のモデルとして知られた。 大分県別府市西部の温泉旅館主佐藤倉八の長男として出生。 地元の初等・旧制中学校を経て、明治大学専門部政治経済科に入学。1939年の卒業後、まもなく第二次世界大戦が勃発。陸軍大尉として従軍する。終戦後別府に戻り自動車セールスマンとして働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。 佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を大分県議会議長の荒金啓治の子息に嫁がせた。
今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998… 今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998年11月6日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。厚生大臣(第66代)、衆議院議員(7期、自由民主党)。 長野県長野市出身。第一高等学校を経て、1944年東京帝国大学第一工学部土木工学科を卒業。戦後の1949年建設省に入省。秋田工事事務所長、東北地方建設局道路部長、計画局地域計画課長、計画局技術調査官などを経て、1970年四国地方建設局長。退官後に1972年の第33回衆議院議員総選挙で旧愛媛3区から無所属で立候補し初当選。その後、自由民主党に入党、宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)所属。農水・厚生政務次官、党社会部会長、衆院農水委員長などを歴任した後、1985年第2次中曽根内閣の厚生大臣として初入閣した。
日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳… 日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。東京市日本橋区出身。中央学院大学中央高等学校卒。本名は松永 亥太郎()。 東宝の専属俳優として、ジャンルを問わず多くの作品に出演。目元と口元が特徴である。 1971年、専属俳優一斉解雇の際に俳優を引退。 同じ専属俳優の加藤茂雄によると、東宝専属廃止の際に組合リーダーとして会社側と談判したが、継続希望の加藤たちとは違い、退職金目当ての立場だったという。
曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006… 曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006年4月15日)は、日本の郵政官僚。郵政事務次官などを務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1938年第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業。東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等試験に合格。東京帝大法学部政治学科を卒業し、1941年逓信省入省。 郵政省郵務局国際業務課長、郵務局次長、名古屋郵政局長。 1963年7月10日東京郵政局長。1964年5月27日 人事局長。1966年7月11日郵務局長。1969年11月21日郵政事務次官。1971年7月2日退官。 1974年日本電気(NEC)に入社し、常務、専務、副社長を歴任。1982年日本電気システム建設取締役会長。
宮崎 孝一(みやざき こういち、1918年〈大正7年〉7月2… 宮崎 孝一(みやざき こういち、1918年〈大正7年〉7月21日 - 2008年〈平成20年〉8月31日)は、日本の英文学者。 群馬県吾妻郡沢田村(現・中之条町)出身。1938年群馬師範学校卒業。東京高等師範学校を経て、1943年東京文理科大学英文科卒業。1950年コロラド大学へ留学し、文学修士取得。1970年ロンドン大学に留学。1973年「ディケンズ後期の小説の内面構造」で東京教育大学文学博士。 1946年桐生工業専門学校嘱託を経て、1949年から群馬大学助教授。1952年日本女子大学助教授となる。1956年成城大学助教授を経て、1961年同教授。1985-91年学長、名誉教授。専門は18-19世紀の英国小説。
松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6… 松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6年〉7月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵66期。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 熊本県鹿本郡三玉村久原(現・山鹿市久原)出身。松尾鶴彦、まつ枝の次男として生まれる。父は八幡小学校校長、母も元小学校教師であり、厳格な家風で育った。 鹿本中学を経て、1938年(昭和13年)9月、海軍兵学校を卒業(66期)。特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長として訓練を受け、日米開戦前に真珠湾を視察している。真珠湾攻撃においては予備指揮官として現地まで赴いた。
山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1… 山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1992年3月21日)は、日本の外交官。 山下はブルガリア人民共和国特命全権大使時代に当地で1970年バレーボール世界選手権が開催された際、その大会で銅メダルを獲得したバレーボール日本男子代表を応援のために夫人と共に試合を観戦した。その試合で日本チームの選手たちがサインプレーの暗号として「おにぎり」という言葉を使っていたのを耳にし、後日、「試合中に『おにぎり』を盛んに言っていたから、おにぎりが食べたいのだろう」と思って日本男子代表チームにおにぎりを差し入れたという。
太田 朗(おおた あきら、1917年7月21日 - 2015… 太田 朗(おおた あきら、1917年7月21日 - 2015年12月31日)は、日本の英語学者、言語学者。東京教育大学名誉教授。神奈川県横須賀市生れ。 1950年代以降活発な研究活動を行なった。アメリカ構造主義および生成文法の影響下での業績が多い。
李 建鎬(イ・ゴノ、朝鮮語: 이건호、1917年7月21日 … 李 建鎬(イ・ゴノ、朝鮮語: 이건호、1917年7月21日 - 2020年4月12日)は、大韓民国の弁護士、法学者、教授、政治家。第11代韓国国会議員。 本貫は全州李氏、号は為村(ウィチョン、위촌/爲村)。カトリック教徒。 日本統治時代の忠清北道清州郡(現・清州市)またはソウル出身。東北帝国大学(現・東北大学)法学部卒。法学博士。朝鮮弁護士試験合格。普成専門学校、高麗大学校、ソウル大学校や梨花女子大学校で講義したほか、中央日報論説委員、成均館大学校教授、梨花女子大学校大学院長、国会議員、民主正義党中央委員会副議長、韓国放送倫理委員会委員長、ユネスコ韓国委員長、韓国刑法学会会長を歴任した。 2020年4月12日に死去。
大井 敏夫(おおい としお、1916年7月21日 - 200… 大井 敏夫(おおい としお、1916年7月21日 - 2006年8月29日)は、日本の実業家。前郁文堂社長。 1916年(大正5年)7月、東京市本郷区森川町に大井久五郎四男に生まれる。1940年(昭和15年)東京商科大学卒。日本郵船入社。旧帝国陸軍中尉。1945年(昭和20年)3月、大井一族の郷里である長野県佐久市岩尾の大井静江と結婚。 1946年(昭和21年)3月、日本郵船を退社し、父久五郎の創業した郁文堂書店を継いだ。1949年(昭和24年)10月、郁文堂出版有限会社社長。『郁文堂 独和辞典』などドイツ語の学習参考書やドイツ文学関連書籍を数多く刊行した。引退後は郷里佐久の大井氏の家系を研究し、岩尾家譜(現代語訳)を出版した。
美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日… 美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日 - 1997年〈平成9年〉6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵64期。最終階級は海軍少佐、空将。旧姓は太田(おおた)。夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」指揮官として、全軍特攻方針の軍上層部に抵抗し、特攻を拒否したとして紹介されることが多いが、特攻の精神そのものは否定しておらず、むしろ特攻への確固たる信念を持つゆえに現状の特攻作戦を邪道と見ており、これに賛同せず難易度が高い夜間攻撃に特化した部隊を造り上げた。決定的な戦機到来の暁には美濃部自身が先頭に立って特攻をかける覚悟であった。 1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。
青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - … 青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - 1979年11月10日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市出身。 1915年、岡山県岡山市の農家に産まれる。幼少より絵を描くのを趣味としていた。第二岡山中学校に進学したが、絵に熱中しすぎた為、落第寸前となり私立の関西中学へ転校している。在学中は市内の絵画コンクールなどで常に入賞するなど、画家としての片鱗を覗かせていた。卒業後は画家を目指して上京し、川端画学校、本郷洋画研究所で学んだが、学費を支払う事が出来なくなり岡山県へ戻る。岡山では小林喜一郎主催の赤坂洋画研究所へ通った。同期生に中田政夫がおり、研究所では中田が塾頭、青地が青年隊長として研究所を盛り上げていた。
水口 宏三(みなくち こうぞう、1914年(大正3年)7月2… 水口 宏三(みなくち こうぞう、1914年(大正3年)7月21日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)。 東京府東京市本郷区本郷(現在の東京都文京区本郷)生まれ。東京府立高等学校を経て、1938年(昭和13年)、東京帝国大学農学部卒業後、農林省入省。1942年-1943年(昭和17-18年)企画院出向。戦後は供米制度に反対、1946年(昭和21年)、全農林職員労働組合を結成して初代委員長に選出、官公庁民主化運動の前面に立ち人事への発言権を得ることに尽力、全官公庁共同闘争委員会議長にもなった。その後、全官公職員労働組合の初代委員長に就任。1947年(昭和22年)の二・一ゼネストでは、中心指導者となる。
國分 正胤(国分、こくぶ まさたね、1913年(大正2年)7… 國分 正胤(国分、こくぶ まさたね、1913年(大正2年)7月21日 - 2004年(平成16年)7月7日)は、昭和から平成時代の土木工学者。国分青崖の孫。 東京府に生まれる。旧制七年制高等学校の旧制東京高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、東京府に出仕する。1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)まで兵役に就く。1943年(昭和18年)東京帝国大学助教授を経て、1950年(昭和25年)吉田徳次郎の後任として東京大学教授となり、1974年(昭和49年)定年退官した。同年、武蔵工業大学教授に転じ1984年(昭和59年)まで務め、ついで足利工業大学顧問教授となった。
坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明… 坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明治44年)7月21日 - 1987年(昭和62年)5月29日)は、日本の建築家。円形建築にこだわり、その経済性、合理性を主張し、朝日町立朝日小学校(登録有形文化財)など円形校舎、円形病院など全国に100以上の円形建築を手がけた。 東京生まれ。父は阪本釤之助で、鹿児島県知事や名古屋市長を歴任したため、その頭文字を導入して鹿名夫と名付けられた。従兄に永井荷風、異母兄に高見順がいる。 東京工業大学建築学科に進学し、卒業研究でも円形の飛行場を設計している。大学卒業後の1937年(昭和12年)、大倉土木(現・大成建設)に就職。戦時中は海軍に入隊し技術将校を経て、戦後会社に復職するが、1954年(昭和29年)大成建設を退職し、建築綜合計画研究所を設立し社長に就任。
岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 -… 岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 - 1998年5月29日)は、日本の実業家。月賦百貨店であった緑屋(現:クレディセゾン)の創業者である。 1910年(明治43年)7月21日に愛媛県今治市で、米穀商をしていた岡本繁満太の長男として生まれた。岡本家は後に一家で大阪に移り、岡本虎二郎は天王寺中学校に通っていたが1926年(大正15年)に父親が44歳で死亡し天王寺中学校を中退し大阪の中井洋紙店に奉公した。従兄で月賦販売店の丸共の銀座店の支店長であった辻田貞二に誘われ、1927年(昭和2年)に上京し、丸共銀座店に入店。 1935年(昭和10年)には独立し、義兄の立野究と共同で江戸川区小岩井に一軒の店を構えた。
峰 吟子(みね ぎんこ、1909年7月21日 - 1993年… 峰 吟子(みね ぎんこ、1909年7月21日 - 1993年1月27日)は、日本の女優である。本名︰馬場 夏世(旧名︰馬場 奈都)。愛称︰ミネギン。 1909年(明治42年)7月21日、岐阜県本巣郡北方町に生まれる。本巣高等女学校卒業後、ダンサーになり神戸のダンスホールで働く。そこでホールの客だったパラマウント映画大阪支社の社長である日系二世のロイ・田中(日本名:田中亮平)と出会い、結婚する。1930年(昭和5年)、田中の知人である日活所属の映画監督村田実に薦められ日活太秦撮影所に入社。東坊城恭長監督『見果てぬ夢』で映画初出演する。この後『銀座セレナーデ』、『この太陽』に続けて出演しヴァンプ女優として売り出される。
倉岡 克行(くらおか かつゆき、1909年(明治42年)7月… 倉岡 克行(くらおか かつゆき、1909年(明治42年)7月21日 - 1978年(昭和53年)7月2日)は、日本の実業家。亜細亜大学教養学部教授。満州国協和会開原弁事処主事。開原電気・開原市場株式会社取締役。上郡山倉岡合名会社開原屠殺場無限社員。盛京時報開原支局長。父親は在満活動家・実業家の倉岡岩。弟・利行は国際信託取締役・龍岡栄吉の養子。息子は俳優の岡崎二朗。孫は元俳優、神真都Q会理事の倉岡宏行。 鹿児島県士族・倉岡岩の長男として鹿児島県に生まれる。1928年(昭和3年)に家督を相続。1932年(昭和7年)東京外国語学校支那語科・貿易科卒業後、同年満州国執政府諮議室科に奉職。翌年、同内務処技士に就任するも家業管理のため辞職。
小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 197… 小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の映画監督。1940年代、1950年代にプログラムピクチャーを量産した。 息子は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのキーボーディスト小田啓義。 前衛芸術家の糸井貫二は従弟。 福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に生まれる。早稲田大学文学部英文科卒業後、1935年にP.C.L.(現在の東宝)入社。山本嘉次郎の助監督を経て、1940年『姑娘(くうにゃん)の凱歌』で監督デビューする。 初期は叙情的な女性映画を監督するが、3作目の『歌へば天国』(山本薩夫と共同監督)では「一年に一度は馬鹿をやりたい」という主演・古川緑波の要望に応えてスラップスティック・コメディに挑戦。
伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月2… 伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月21日 - 1929年〈昭和4年〉9月24日)は、昭和初期の運動家。 長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院中学校・高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月2… 彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月21日 - 1985年(昭和60年)4月7日)は、日本の昭和の出版人。判例時報社、一粒社を創設した。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学法学部卒業。1941年秋、開戦直前に日本評論社から同盟通信社に移籍。1944年11月27日、検挙される(横浜事件)。時事通信社を経て、1951年(昭和26年)、法律関係の専門出版社一粒社を、1953年(昭和28年)、判例速報誌判例時報社を創設した。 この項目は、出版に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ出版)。 項目が文学作品の場合には{{Lit-stub}}を、文学作品以外の書籍・雑誌の場合には{{Book-stub}}を、漫画の場合には{{Manga-stub}}を貼り付けてください。
藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1… 藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1998年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。種智院大学教授。真言宗智山派管長。智積院65世能化。専門は密教学。真言宗清和院住職。義父に、智積院55世能化の高井観海。
磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日… 磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日 - 1998年(平成10年)9月8日)は、日本の内務官僚。日本中央競馬会保健組合顧問。(株)山一土建相談役。弁護士磯部醇の長男。 愛知県名古屋市出身。1924年(大正13年)高等試験行政科試験合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。内務省に入り警保局図書課勤務を経て1927年(昭和2年)島根県警防課長となり、山梨・滋賀・長崎各県事務官、行政裁判所評定官、大分県学務部長、厚生省社会保険局庶務課長、茨城・兵庫・福井・福島各県内政部長、秋田県知事を歴任。 1949年(昭和24年)、参議院労働委員会専門員に任ぜられる。
柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968… 柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968年3月13日)は日本の実業家。理化学ガラスの製造メーカー柴田科学株式会社の創業者。日本理化学硝子機器工業会会長、日本科学機器団体連合会理事などの要職を務め、業界の発展に貢献。 愛知県豊田市にて柴田鏡三郎とつる夫婦の長男として誕生する。祖父の柴田順平は挙母藩の郡奉行を務めていた。15歳の時、家族と共に東京へ上京し、浅草吉野町の小熊信蔵の経営する硝子工場へ弟子入りし、理化学硝子工業への第一歩を踏み出す。17歳の時、本郷弓町の村井友次郎のガス加工場へ引き抜かれて行く。大正十年(1921年)本郷金助町に柴田製作所を創業し、理化学硝子の加工品の製造販売を始めた。
上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 198… 上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 1982年3月30日)は、日本の詩人、文学者。Toshio Ueda としても作品を発表した。アバンギャルディストとして青年期から晩年期にいたるまでユニークな詩と詩論を展開した。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。日本における最初のシュルレアリスム宣言を発表したことでも知られる。芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化し、独自のネオ・シュルレアリスム詩観を提唱した。 1900年(明治33年)、山口県吉敷郡大道村(現:山口県防府市大道)にて生まれる。
摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日… 摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、日本の小説家、ゴルフ評論家、ゴルフ史家。 雑誌「新青年」などでユーモア小説家として活躍した後、ゴルフ史家として多くのゴルフ関連の書籍を多く著し、ゴルフ関連の施設やゴルフ場の建設にも貢献した。本名は近藤 高男(こんどう たかお)で、「摂津茂和」はフランス語で「これが私」を意味する「C'est moi(セ・モア)」をもじった筆名である。息子は三井物産ニューヨーク本店元社長の近藤久男。 東京府出身。中学時代には薄田泣菫や永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた。慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ。
麻生 磯次(あそう いそじ、1896年〈明治29年〉7月21… 麻生 磯次(あそう いそじ、1896年〈明治29年〉7月21日 - 1979年〈昭和54年〉9月9日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・論文博士・1944年)(学位論文「近世文学の支那的原拠と読本の研究」)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。正三位勲一等瑞宝章没後追贈。 1896年、千葉県武射郡睦岡村(現在の千葉県山武市)出身。1917年第一高等学校英法科卒業、1920年東京帝国大学文学部を卒業。 同1920年より、朝鮮総督府編集書記。1923年、東京帝国大学大学院へ入学。愛知県第一高等女学校高等科教授、第六高等学校教授を経て、1925年に京城帝国大学教授に着任した。
古川 尚彦(ふるかわ なおひこ、1896年 <明治29年> … 古川 尚彦(ふるかわ なおひこ、1896年 <明治29年> 7月21日 - 1974年 <昭和49年> 9月15日)は、日本の経営者。栃木県出身。位階は従四位。 1923年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行した。 取締役、常務を経て、1956年11月に三菱レイヨン副社長に就任し、1959年11月には社長に昇格。1967年5月から同年11月までに会長を務めた。 1967年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年9月15日老衰により死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山口 六郎次(やまぐち ろくろうじ、1896年7月21日 -… 山口 六郎次(やまぐち ろくろうじ、1896年7月21日 - 1961年11月28日)は、日本の政治家。元労働大臣の山口敏夫は三男。 埼玉県南埼玉郡日勝村(現在の白岡市)生まれ。 1920年、明治大学政治経済科を卒業。卒業後、報知新聞社に入社。1925年、大日本体育協会常務理事・全日本陸上競技連盟常務理事に就任。 横川重次秘書を経て、1947年に埼玉2区から第23回衆議院議員総選挙に立候補し当選当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・倉石忠雄・荒木万寿夫・松野頼三・石田博英・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太など)。通算5期。衆議院法務委員長、第3次吉田茂内閣行政管理政務次官、第1次池田勇人内閣建設政務次官などの要職を歴任。
栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21… 栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21日 – 1966年(昭和41年)5月10日)は、昭和期の政治家・銀行家・法学者。日本興業銀行総裁・大蔵大臣・経済安定本部総務長官などを歴任。 現在の山口県岩国市に生まれる。第六高校を経て、1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、日本興業銀行へ入行する。証券部長、総務部長などを経て戦後の1945年に理事に昇格、1947年には総裁まで昇りつめた。学究肌で著作も多く中央大学教授も務めた。1933年に「担保附社債信託ニ関スル研究」で同大学より法学博士号を授与されている。一方1946年6月19日には貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年… 柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年〈明治28年〉7月21日 - 1978年〈昭和53年〉11月8日)は、明治期から昭和期にかけての地主であり、醤油醸造家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の孫(四代目)。 茨城県鹿島郡若松村大字柳川新田(現:神栖市柳川)に、農業や醤油醸造業を営む第三代・柳川宗左衛門の長男・謙一として生まれる。1911年(明治44年)家督を相続。1913年(大正2年)東京市の京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)を卒業した。 父が小作人のために設立した産業組合、柳川信用販売組合を継承し発展させた。
白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月2… 白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月21日 - 1941年(昭和16年)7月9日)は、日本の内務官僚。官選大分県知事。旧名・喜久代、1932年6月に「篤樹」と改名。 静岡県出身。白松六治郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属となる。 1920年11月、大分県理事官・内務部地方課長に就任。以後、大阪府理事官、臨時震災救護事務局事務官、大阪府地方事務官、復興局事務官・整地部施業課勤務、同局書記官・経理部会計課長、内務事務官兼同書記官、警保局図書課長、衛生局医務課長、大臣官房都市計画課長を歴任。
小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 194… 小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 1947年8月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 高知県幡多郡中村(現:四万十市)で生まれる。県立第三中学卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1916年(大正5年)、陸軍砲工学校卒業、翌年、同高等科卒業。その後、陸軍派遣学生として京都帝国大学工科大学機械工学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業する。 1923年(大正12年)、陸軍工兵学校の教官になる。1929年(昭和4年)、英国駐在武官、1932年(昭和7年)、陸軍技術本部付などを歴任。1936年(昭和11年)8月、砲工学校教官に就任し、1938年(昭和13年)3月、工兵大佐に昇進。
瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 193… 瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 1934年4月11日)は、日本の劇作家。 大阪市曾根崎新地生まれ。父は文士の瀬戸半眠。英一は大倉商業学校、日本中学高等学部などに学んだが、生来、文学を好み、早くから新聞雑誌記者生活に入り、岡鬼太郎に師事し、閻太郎の筆名で劇評を書いた。 明治45年(1912年)11月、明治座の伊井蓉峰のもとに狂言作者として入り、「経国美談」の脚色を機に、新派劇の作者となり、のち松竹文芸部専属となり新派劇の脚本を数多く創作した。 その中でも「人来鳥」「夜の鳥」「わくら葉」「怪談小車双紙」「花の夜がたり」「二筋道」などが代表作とされる。凋落の新派の人気を一時盛り返させた。
下田 宣力(しもだ のぶお、1891年(明治24年)7月21… 下田 宣力(しもだ のぶお、1891年(明治24年)7月21日 - 1943年(昭和18年)1月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 宮城県出身。1912年(明治45年)5月28日に陸軍士官学校(24期)を卒業し、大正元年12月24日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第四大隊付となる。1915年(大正4年)12月8日に陸軍砲工学校(21期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1916年(大正5年)4月20日に工兵中尉に昇進し、1919年(大正8年)7月10日には東京帝国大学工学部機械工学科を卒業した。 1921年(大正10年)4月20日に工兵大尉に昇進。1928年(昭和3年)3月24日工兵少佐に昇進後、鉄道第二連隊材料廠長等を経て、1932年(昭和7年)8月8日工兵中佐に昇進。
岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月2… 岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月21日 - 1959年〈昭和34年〉2月2日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(3期、立憲民政党)、参議院議員(1期、民主党)。農林政務次官。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年の高等文官試験に合格し、宮城県志田郡長、北海道庁理事官、石川県理事官を経て、警視庁理事官に任命され、工場課長、保安課長、外事課長、特別高等課長を歴任した。その後、宮崎県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長に就任。1927年(昭和2年)、京都市助役となった。1929年(昭和4年)、岐阜県書記官・警察部長となり、翌年には宮崎県書記官・内務部長となった。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 -… 大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 - 1961年9月25日)は、日本の発明家、実業家。妻・フサは樽井藤吉の長女。 機械式計算機である「タイガー計算器」を発明した。 広島県深安郡出身。岡山紡績株式会社鉄工部の見習工となり、備前紡績株式会社鉄工部、神戸湊川川上鉄工所、大阪府下稻畑染工場鉄工所、大阪府下毛斯綸紡織株式会社鉄工部、大阪砲兵工廠火砲第一工場などに勤務した。明治38年(1905年)に大阪府西成郡豊崎村本庄(現・大阪市北区)において共同経営において鉄工業を創設した。 大正元年(1912年)に鉄工業を合意解散し、西成郡豊崎村南濱に個人経営において大本鉄工業を創始し、機械の製作販売を行う。
石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21… 石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、写真植字機の共同発明者。写研の設立者で、石井翁とも呼ばれた。東京都北区堀船町出身。 1887年、東京府北豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に生まれる。京北中学で井上円了の薫陶を受ける。第一高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ入学し、1912年(明治45年)機械工学科卒業。同年神戸製鋼所に入社し技師として働いていたが、1923年(大正12年)秋、星製薬に高級技師として転職。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。1924年7月に2人で装置の特許を出願。
安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月… 安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月21日 - 1948年(昭和23年)4月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、後の川内市(現・薩摩川内市御陵下町)で、安岡正陸軍大尉の息子として生れる。川内中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(第26期)を卒業した。 陸軍省軍務局課員、歩兵第51連隊大隊長、第9師団参謀、歩兵第29連隊付、第16師団参謀、歩兵第49連隊長、第5師団参謀長などを歴任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級。
矢部 藤七(やべ とうしち、1885年(明治18年)7月21… 矢部 藤七(やべ とうしち、1885年(明治18年)7月21日 - 1959年(昭和34年)4月11日)は、大正から昭和時代の政治家。醸造家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。栃木県上都賀郡西方村長。位階は従五位。 栃木県上都賀郡本城村(西方村、西方町を経て現栃木市)出身。矢部儀一郎の二男として生まれ、1909年(明治42年)家督を相続する。1903年(明治36年)栃木中学校卒業。陸軍に入り歩兵少尉に進んだ。 酒造業を営み、西方村長、栃木県会議員、同副議長、上都賀郡農会長、県農会長、西方村産業組合長、県信用購買販売利用組合連合会副会長を歴任した。ほか、村会議員、郡会議員、帝国在郷軍人会分会長、消防組頭、大政翼賛会県支部常務委員なども務めた。
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
黒田 長敬(くろだ ながあつ、1885年(明治18年)7月2… 黒田 長敬(くろだ ながあつ、1885年(明治18年)7月21日 - 1963年(昭和38年)3月24日)は、明治後期から昭和期の宮内官、華族。旧秋月藩黒田家13代当主、黒田子爵家2代当主。貴族院子爵議員。初名は静男。 筑前福岡藩最後の藩主黒田長知の五男。筑前秋月藩最後の藩主で子爵の黒田長徳の養子となる。長徳の死去に伴い、1892年(明治25年)7月20日、家督を継ぎ子爵を襲爵。同年7月22日に長敬と改名した。1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業した。その後、アメリカ合衆国に留学し1912年(明治45年)コーネル大学文理科を卒業。 帰国後、1914年(大正3年)宮内省に入省し大正天皇の侍従となり宮内事務官を兼務。
南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21… 南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21日 - 1950年(昭和25年)1月6日)は、広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。 東京美術学校西洋画科出身。1907年〜1910年にかけて、イギリスで学ぶ。文展、帝展、新文展、日展で活躍し、1932年から43年にかけては東京美術学校の教授を務めた。油画家、水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わっていた。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。 ウィキメディア・コモンズには、南薫造に関するカテゴリがあります。
横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月… 横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月21日 – 1957年(昭和32年)1月7日)は、日本の実業家、政治家。通商産業大臣(第4代)。参議院議員(1期)。 佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)に生まれる。佐賀県尋常中学校唐津分校、第五高等学校を経て、1907年東京帝国大学工科大学造船科を卒業、三菱長崎造船所に入社する。その後鈴木商店に転職し、1921年神戸製鋼播磨造船工場工作課長、後に工場長、1929年播磨造船所専務取締役となる。1943年社長に就任。 戦後の1949年、兵庫県選挙区で行われた参議院補欠選挙に民主自由党より立候補し当選。1950年第3次吉田第1次改造内閣にて通商産業大臣として入閣する。
平賀 周(ひらが しゅう、1882年(明治15年)7月21日… 平賀 周(ひらが しゅう、1882年(明治15年)7月21日 - 1957年(昭和32年)9月12日)は、日本の政治家、弁護士、内務官僚。衆議院議員(1期)、官選石川県知事(官選第30代)。 千葉県出身。平賀藤右衛門の二男として生まれる。第二高等学校を卒業。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業して内務省に入省し秋田県属となる。 以後、茨城県事務官、奈良県警察部長、警察講習所教授、兼内務省参事官、宮城県警察部長、山形県内務部長、大分県内務部長、大阪府内務部長、内務監察官などを歴任。 その後退官し弁護士となり、国技館取締役、日本大学大阪分校教授兼学監も務めた。