柘植 久慶(つげ ひさよし、1942年6月21日 - )は、… 柘植 久慶(つげ ひさよし、1942年6月21日 - )は、日本の作家・軍事評論家・コイン収集家。本名は平木啓一。 愛知県蒲郡市で出生。父は、東証1部上場の大手ミシンメーカーであったリッカーミシン(1984年に経営破綻)を創業して長く社長を務めた平木信二(1910年 - 1971年)。 慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。 海外旅行に行く日本人がまだ少なかった1961年、大学1年の夏期休暇にコンゴ動乱に参加した。 1962年、アルジェリア戦争にフランス外人部隊の格闘技教官(中尉待遇)として参加した。 1965年、慶應義塾大学を卒業し、父が社長在任中のリッカーミシンに入社。
東伏見 慈晃(ひがしふしみ じこう、1942年6月21日 -… 東伏見 慈晃(ひがしふしみ じこう、1942年6月21日 - )は、青蓮院第49代門主。旧皇族で青蓮院第48代門主の東伏見慈洽の次男で、上皇の従兄弟にあたる。大日本武徳会総裁。堀場製作所取締役。 1942年(昭和17年)、伯爵・東伏見邦英(当時は得度前)の次男として京都府で誕生。 1966年(昭和41年)、中央大学法学部を卒業し、埼玉銀行(現・りそな銀行)に入行。1988年(昭和63年)には東久留米支店長となる。 1993年(平成5年)に得度し、青蓮院に入山。1994年(平成6年)より叡山学院研究科、1996年(平成8年)より大正大学大学院仏教学研究科にて仏教学・天台学を研究、2001年(平成13年)3月に同仏教学研究科博士課程を修了。
堀内 勝(ほりうち まさる、1942年6月21日 - )は、… 堀内 勝(ほりうち まさる、1942年6月21日 - )は、日本のアラブ文学者、元中部大学教授。専門は言語人類学、アラブ・イスラム世界の地域研究・民族誌。 山梨県甲府市生まれ。東京外国語大学アラビア語科卒業。カイロ・アメリカン大学大学院課程修了、同大学フェローとなる。1983年1月中部工業大学産業経済研究所教授に就任。1984年4月中部大学(前述大学が改称)国際関係学部教授。1986年『ラクダの文化誌』でサントリー学芸賞受賞。2013年3月に中部大学を定年退職、同年4月に名誉教授となった。 『夜の旅人 研究ブログ』 本人運営ブログ。アラブ世界における星ごよみに関する研究やアラブ文化にまつわる論考など。
長山 藍子(ながやま あいこ、1941年〈昭和16年〉6月2… 長山 藍子(ながやま あいこ、1941年〈昭和16年〉6月21日 - )は、日本の女優。中国内蒙古自治区フフホト市生まれ、静岡県三島市育ちで、3人きょうだいの長女。身長159cm、体重50kg。日本新劇俳優協会理事。夫は俳優の武正忠明(1997年結婚)。 父は同盟通信社記者で東京タイムズ創立に参加した。通信社の記者として父親が赴任していた中国・内蒙古フフホト市で生まれ、幼児期を東北部の新京(現:長春)で過ごした。4歳のとき現地で終戦を迎え、父親と離れてしまい、母・弟とともに引き揚げて、東京に住む。 成蹊小学校・中学校、静岡県立三島北高等学校卒業。小・中学校の同級生に俳優の東野英心がいた。 父親の影響で俳優を目指し、小・中学校時代から演劇部に所属。
重松 森雄(しげまつ もりお、1940年6月21日 - )は… 重松 森雄(しげまつ もりお、1940年6月21日 - )は、日本のマラソン選手。福岡県福岡市早良区(旧・早良郡早良町)出身。1965年に世界最高記録を樹立した。 福岡県立福岡工業高等学校を卒業して、1959年九電工に入社する。 1960年に熊日30キロロードレースで当時の日本記録で優勝。 九州一周駅伝などのレースに出場するが、1961年に病気に襲われ、療養を余儀なくされる。このとき、将来をことを考えて大学を出ておくべきだと決意し、九電工を退社。1962年に福岡大学に入学するという異色の経歴の持ち主である。 1964年1月2・3日、第40回箱根駅伝に立命館大学と共に福岡大学が招待され、エース区間の2区を走った。
井狩 彌介(いかり やすけ、1940年〈昭和15年〉6月21… 井狩 彌介(いかり やすけ、1940年〈昭和15年〉6月21日 - )は、日本のインド哲学者、仏教学者。京都大学名誉教授。
花光 節夫(はなひかり せつお、1940年6月21日 - 没… 花光 節夫(はなひかり せつお、1940年6月21日 - 没年不明)は、岩手県岩手郡松尾村(現在の同県八幡平市)出身で、花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は遠藤 節夫(えんどう せつお)。身長178cm、体重130kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東前頭3枚目(1968年1月場所)。 父、兄とも松尾鉱山の採鉱夫で、松尾鉱山中学校、松尾鉱山高校(定時制)時代は相撲部に所属して岩手県大会などに出場するなど活躍した。 高校時代に岩手県大会定時制の部で優勝したことにより大相撲にスカウトされ、高校を3年生で中退して花籠部屋に入門し、1958年(昭和33年)5月場所で初土俵を踏んだ。 1962年(昭和37年)9月場所で新十両に昇進し、その後19場所を要したが1965年(昭和40年)9月場所にて12勝3敗という好成績を収めて十両優勝を果たし、翌11月場所で新入幕を決めた。
中山 尚三(なかやま しょうぞう、1939年(昭和13年)6… 中山 尚三(なかやま しょうぞう、1939年(昭和13年)6月21日 - )は実業家。豊田自動織機相談役。同社元代表取締役副会長。 1939年、三重県に出生。 明治大学工学部卒業。 1962年、明大を卒業し、トヨタグループの本家にあたる株式会社豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)に入社。後に、同社の事業の中核を形成することになるコンプレッサー事業の立ち上げを担う。同社コンプレッサーは、ダイムラー、フォルクスワーゲン、ゼネラルモーターズなど、国内外の主要自動車メーカーから採用され、世界No.1シェアを獲得するに至り、同社の事業発展に大きな貢献を果たした。
関口 篤(せきぐち あつし、1938年6月21日 - )は、… 関口 篤(せきぐち あつし、1938年6月21日 - )は、日本の俳優、声優。北海道網走市出身。プロダクション・タンク、劇団仲間所属。俳優座付属俳優養成所出身(9期)。身長167cm。北海道札幌東高等学校卒業 。1960年4月、劇団仲間に入団。初舞台は『森は生きている』のカラス役。
近藤 三明(こんどう みつあき、1937年6月21日 - )… 近藤 三明(こんどう みつあき、1937年6月21日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 水戸農業高校、日本鋼管を経て1959年に近鉄バファローへ入団。1962年に引退。
内山 安二(うちやま やすじ、1935年6月21日 - 20… 内山 安二(うちやま やすじ、1935年6月21日 - 2002年9月2日)は、日本の漫画家。熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)出身。代表作に『コロ助の科学質問箱』など。 1953年から1954年にかけて『漫画少年』投稿欄の常連で、つげ義春と文通していた。同誌1954年8月号以降は3号続けて『長屋大平記』(出典ママ)などの作品を依頼されている。 1954年、毎日新聞社に入社。西部本社の毎日小学生新聞西部編集部に配属され、大阪本社から電送された手塚治虫の作品の修正を手掛けたのを切っ掛けに、毎日小学生新聞に自ら漫画を描き始める。 毎日新聞社を退社後は、プロの漫画家に転向し、主に学習漫画をメインとした作品を数多く発表した。
林 彰太郎(はやし しょうたろう、1934年6月21日 - … 林 彰太郎(はやし しょうたろう、1934年6月21日 - 2000年代)は、日本の俳優。京都府京都市北区出身。本名は高橋 徹(たかはし とおる)。別名は池 徹(いけ とおる)。 京都府立山城高校卒業後、同志社大学経済学部に進学するが1958年に中退し、松竹俳優養成所に入る。同年、池 徹の芸名で『七人若衆大いに売り出す』で映画初出演。1960年に東映へ移籍し、林 彰太郎と改名。東映京都撮影所を拠点に活動した。 嶋田景一郎・坂口祐三郎と共に三野郎として売り出されていた。身長180cmの体格を活かし、時代劇・アクション映画・ヤクザ映画などの脇役を演じてきた。晩年は東映太秦映画村の俳優養成所で講師として後進の育成に当たった。
南 弘明(みなみ ひろあき、1934年6月21日 - )は、… 南 弘明(みなみ ひろあき、1934年6月21日 - )は、日本の電子音楽および現代音楽の作曲家。東京藝術大学名誉教授。 山口県生まれ。福岡県立八幡高等学校を卒業後、東京藝術大学音楽学部作曲科、同校専攻科を経て、ドイツのフライブルク音楽大学でヴォルフガング・フォルトナーに学ぶ。帰国後、東京音楽大学、東京藝術大学で教鞭を執りながら、作曲活動を続ける。電子音楽に注目し、5曲の「電子交響曲」を作曲した他、1992年には日本電子音楽協会を設立した。また、若い頃から合唱の分野にも力を注いでおり、大学在学時の1955年、草野心平の詩による男声合唱のための組曲「蛙の歌」を作曲している他、堀口大學の訳詩による男声合唱曲集「月下の一群」(第1集 - 第3集)、高田敏子の詩による混声合唱組曲「飛翔(はばたき)」などがある。
中西 章一(なかにし しょういち、1932年〈昭和7年〉6月… 中西 章一(なかにし しょういち、1932年〈昭和7年〉6月21日 - 2005年〈平成17年〉8月18日)は、日本の北海道を拠点に活動したエッセイスト、ラジオパーソナリティ。 北海道出身。北海道大学総長を務めた丹保憲仁は札幌師範附属小学校(現・北海道教育大学附属小学校)1年からの幼馴染。 旧制北海道庁立第一中学校(現・札幌南高校)在学中に新制高校への移行を経験し、新制札幌北高校を経て、中央大学法学部を卒業。北海道帯広農業高等学校教諭、ホテル三愛(現・札幌パークホテル)勤務を経て、家業である「中西印刷」の社長に就任 。1986年に相談役に就任と同時に、STVラジオ「ジャーナル談話室」に出演を開始。
諸星 澄子(もろほし すみこ、1932年〈昭和7年〉6月21… 諸星 澄子(もろほし すみこ、1932年〈昭和7年〉6月21日 - 1990年代没)は、日本の小説家。 神奈川県平塚市生まれ。本名は加藤澄子。慶應義塾大学経済学部卒。夫は作家の加藤善也。1964年『小説と詩と評論』掲載の「電気計算機のセールスマン等」で直木賞候補。1966年『虫係一件』が第2回作家賞を受賞(候補との資料もある)。 1974年に『蔵王絶唱』が監督山本邦彦、主演高橋洋子で映画化された。 主にジュニアノベル作家として活動。1970年代後半以降は外国文学の再話、推理小説や官能小説も著した。 2000年出版の藤田ミラノの画集『あしたの少女たち〜抒情画家、藤田ミラノの世界』おいて、その時点で既に故人となっている。
井田 恵子(いだ けいこ、1931年(昭和6年)6月21日 … 井田 恵子(いだ けいこ、1931年(昭和6年)6月21日 - 1993年(平成5年)12月1日)は日本の弁護士。元日本弁護士連合会事務総長。北海道釧路市生まれ。 1954年北海道大学法学部卒。1956年同大学院法学研究科民法学専攻修了。1958年(昭和33年)弁護士登録。1968年(昭和43年)独立して弁護士事務所を開く。1970年専修大学法学部非常勤講師( - 1973年)。1975年日本弁護士連合会女性の権利委員会委員。1977年東京女子大学文理学部非常勤講師( - 1980年)。1982年(昭和57年)拘禁二法案反対運動組織を立ち上げる。1984年北海道大学法学部非常勤講師( - 1985年)。
下山 一二三(しもやま ひふみ、1930年6月21日 - 2… 下山 一二三(しもやま ひふみ、1930年6月21日 - 2023年12月16日)は日本の現代音楽の作曲家。 青森県弘前市出身。1945年の第二次世界大戦終戦が一つのきっかけとなり、音楽を独習し始める。青森県立弘前高等学校卒業、弘前大学卒業。大学卒業後の1955年に上京し、松平頼則に師事。1956年「グループ20.5」を結成、第1回作品発表会を開く。1961年の第6回でグループを解散。 1969年、ISCM主催世界音楽祭(ハンブルク)に「3群の弦楽オーケストラのためのリフレクション」が入選。以後、国際的に活躍した。1979年、文化庁主催芸術祭で「管弦楽のための彩響」が芸術祭優秀賞受賞。1992年「6人の奏者とテープのための風紋V」が「ワルシャワの秋92」で世界初演。
石井 稔(いしい みのる、1929年6月21日 - 2021… 石井 稔(いしい みのる、1929年6月21日 - 2021年7月23日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 岡山県出身。1953年に岡山大学教育学部を卒業し、同年4月に山陽放送に入社した。1975年5月に取締役に就任し、1981年6月に常務、1990年6月にを経て、1996年1月に社長に就任。2002年6月に相談役に就任。 2003年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2021年7月23日、死去。92歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大槻 真一郎(おおつき しんいちろう、1926年6月21日 … 大槻 真一郎(おおつき しんいちろう、1926年6月21日 - 2016年1月1日)は、日本の科学史家。明治薬科大学名誉教授。 京都府生まれ。京都大学大学院博士課程(古代ギリシア哲学専攻)満期退学。明治薬科大学教授、1997年定年、名誉教授。古代ギリシアから中世錬金術、近代科学までを研究する。2016年1月1日、満89歳死去。
相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、旧字体: 相澤 忠洋、192… 相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、旧字体: 相澤 忠洋、1926年〈大正15年〉6月21日 - 1989年〈平成元年〉5月22日)は、日本の考古学者。東京府東京市蒲田区羽田(現在の東京都大田区羽田)出身。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現在のみどり市、岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本列島の旧石器時代の存在を証明した。 1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。
金田 常代(かねだ つねよ、1926年〈大正16年〉6月21… 金田 常代(かねだ つねよ、1926年〈大正16年〉6月21日 - 1988年〈昭和63年〉3月30日)は、日本の画家・絵本作家。茨城県古河市生まれ。 小学校・幼稚園の教師を経て、自由で豊かな感性を育む子どものためのアトリエを開設。アジア各地を旅し、長年にわたって子どもをテーマに絵を描き続けた。 代表作「ロミラの夢」(偕成社)は、1982年に絵本にっぽん賞を受賞した作品で、英語および韓国語にも翻訳・出版されている。 1926年(大正16年) - 茨城県古河市に生まれ、4人姉妹の末娘として育つ。 1948年(昭和23年) - 行動美術研究所にて向井潤吉、高井貞二に師事、本格的な絵の勉強を始める。
中村 弘海(なかむら こうかい、1925年(大正14年)6月… 中村 弘海(なかむら こうかい、1925年(大正14年)6月21日 - 2008年(平成20年)11月30日)は、昭和時代後期の日本の政治家、企業経営者。
椿 啓介(つばき けいすけ、男性、1924年6月21日 - … 椿 啓介(つばき けいすけ、男性、1924年6月21日 - 2005年8月18日)は、日本の菌類学者。不完全菌の分類体系を、分生子形成様式に基づいて構築した。東京都出身。 1924年(大正13年)6月21日に東京に生まれ、幼少期を一時北海道函館市で過ごした他は東京で育った。1948年(昭和23年)3月に東京農業大学農学部農芸化学科を卒業した。卒業研究ではカビの生産物を扱ったが、カビそのものへの関心を強め、卒業後は研究の主軸をこちらに移していった。 その年の4月にカビ、酵母のジーンバンク活動を行っていた財団法人長尾研究所に入所し、不完全菌類の研究を開始。ここでは主任研究員にまでなり、また1959年(昭和34年)8月には、1954年から1958年にかけて発表した、不完全菌の分類体系に関する一連の論文に基づき、広島大学から理学博士の学位を授与された。
大崎 映晋(おおさき えいしん、1920年〈大正9年〉6月2… 大崎 映晋(おおさき えいしん、1920年〈大正9年〉6月21日- 2015年〈平成27年〉)は日本の水中写真家・水中考古学者・海女文化研究家。中央大学経済学部卒業、東京藝術大学油絵画科中退。1938年(昭和13年)、トレジャー・ダイバーの第一人者片岡弓八に師事し、海軍水路部勤務などを経て、戦後は名取洋之助の門下に入り、水中写真家として国内外の映画の水中撮影を数多く手掛ける。1960年から1961年(昭和35年-36年)、サンタモニカ国際写真コンクールにてアカデミー賞受賞。1970年(昭和45年)、ジャック・マイヨールが伊豆半島でフリー・ダイビングの世界新記録を出した時に彼をサポートし、以後、ジャックと交遊を続ける。
加藤 隆一(かとう りゅういち、1920年6月21日 - 2… 加藤 隆一(かとう りゅういち、1920年6月21日 - 2011年10月3日)は、元東海銀行頭取、会長。名古屋商工会議所会頭、名古屋銀行協会会長、中経連副会長等を歴任。1996年、英国より大英帝国勲章(司令官CBE)を受勲。愛知県出身。
楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 200… 楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 2000年10月9日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)・コーチ。
酒井 敏夫(さかい としお、1920年6月21日 - 201… 酒井 敏夫(さかい としお、1920年6月21日 - 2012年5月23日)は、日本の医学者・生理学者、東京慈恵会医科大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
頼實 正弘(頼実 正弘、よりざね まさひろ、1919年6月2… 頼實 正弘(頼実 正弘、よりざね まさひろ、1919年6月21日 - 2024年4月7日)は、日本の化学工学者である。広島大学名誉教授。 広島大学学長、広島県立大学学長、比治山大学学長、日本伝熱学会副会長などを歴任した。勲二等旭日重光章受章。 広島県生まれ。1937年広島県立広島第一中学校(のちの広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1941年広島高等工業学校(のちの広島大学工学部)機械工学科卒業。 1943年東京工業大学(のちの東京科学大学)化学工学科卒業。東京工業大学の研究助手などを経て、1951年文部教官任官、広島大学講師。1955年広島大学助教授。 1961年には東京工業大学から工学博士の学位を取得。
原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012… 原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012年3月20日)は、日本の数学史家、フランス文学者、翻訳家。大阪大学名誉教授。 フランス科学思想史、近世ヨーロッパ数学史を専攻し、ルネ・デカルト、ケプラー、ホイヘンス、ロベルヴァル、ライプニッツを軸に研究論文・翻訳を行い、フランス語教育にも長くたずさわった。若き日はスタンダール、アラン、ヴァレリーらの翻訳も行った。 京都市出身。姫路市に育つ。第一高等学校理科乙類を経て、1938年京都帝国大学哲学科入学、1940年退学し1942年東京帝国大学仏文科卒業。1942年入営し少尉で敗戦、1945年8月20日中尉(いわゆるポツダム中尉)で除隊、1947年同志社女子専門学校教授、1949年関東学院大学経済学部助教授。
田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21… 田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21日 - 1987年(昭和62年)1月3日)は、日本の陶芸家。1986年(昭和61年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。 栃木県佐野市富岡町出身。昭和16年(1941年)東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の昭和20年(1945年)京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。昭和23年(1948年)栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、昭和25年(1950年)には濱田庄司の勧めで「栃木県窯業指導所」(現在の「栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター」)技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。
相馬 信夫(そうま のぶお、Aloysius Nobuo S… 相馬 信夫(そうま のぶお、Aloysius Nobuo Soma, 1916年6月21日-1997年10月6日)は、日本のカトリック教会聖職者。洗礼名は「アロイジオ」。カトリック名古屋教区第2代司教を務めた。 相馬又二郎と鈴子の三男として、東京市神田区で生まれた。祖父は専修大学創立者相馬永胤。1921年にカトリック神田教会で受洗し、1934年3月に浦和高等学校を卒業し、1941年3月に東京帝国大学理学部天文学科を卒業。さらに同大学院で学んだ。1942年に応召し、ニューブリテン島現パプア・ニューギニアのラバウルに出征。1946年に帰国。 1953年に東京カトリック神学院入学。1960年3月18日に東京教区司祭として叙階された。
篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 19… 篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 1998年4月16日)は、日本の人口学者。 東京出身。別名・神寺人言(じんげんひとよ)。 第一高等学校、東京帝国大学理学部数学科をへて、1939年長谷部言人によって新設された人類学科に移り第一期生として卒業。 1961年「血族結婚部落に関する生体人類学的研究」で東京大学理学博士。 1943年厚生省に入り、人口問題研究所、同人口資質部長。1984年日本人口学会会長。1984年勲二等瑞宝章受勲。
久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - … 久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - 1954年9月23日)は、日本の漁船員。マグロ漁船第五福竜丸操業中にビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験の被害に遭い半年後に死去した。 1914年6月21日、静岡県志太郡焼津町(現在の焼津市)に生まれる。 1942年1月9日(当時27歳)、久保山はクェゼリン島第四艦隊第6防備隊に配属された特別監視艇(焼津港所属漁船)「第五福吉丸」に乗り組んでいた。1944年1-3月、船は撃沈されたが、久保山は43年5月に虫垂炎で入院・帰国していて助かった。 1954年1月、マグロ漁船第五福竜丸無線長として出航。南太平洋ビキニ環礁付近で操業中の同年3月1日未明、核実験(ブラボー実験)で被曝した。
西尾 光一(にしお こういち、1913年(大正2年)6月21… 西尾 光一(にしお こういち、1913年(大正2年)6月21日 - 1998年(平成10年)3月19日)は、日本の国文学者。 西尾実の長男として長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)に生まれる。1926年、一家で東京府豊多摩郡落合町に移る。旧制浦和高等学校文科を経て、1936年東京帝国大学文学部国文科卒。 1943年陸軍士官学校教授、1946年東京外国語大学教授を経て、1949年山梨大学教授、1979年定年退官、名誉教授、同年清泉女子大学教授、1985年上田女子短期大学学長。1989年11月勲三等旭日中綬章受章。中世説話文学を専門とした。
茂手木 元蔵(もてぎ もとぞう、1912年6月21日 - 1… 茂手木 元蔵(もてぎ もとぞう、1912年6月21日 - 1998年6月25日)は、日本の古代哲学研究者。 山梨県甲府市出身。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。東洋高等学校講師、横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、校名変更で横浜市立大学教授となり、1978年定年退官、名誉教授、大正大学教授を務めた。アリストテレスやルキウス・セネカを専門とする。
水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21… 水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21日 - 1976年(昭和51年)3月6日)は、日本の実業家。三井製糖社長や、初代精糖工業会会長を務めた。 岐阜県出身。1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。台湾製糖入社後、1949年第一物産入社。砂糖部長などを務め、1965年国際連合砂糖会議日本政府代表顧問。1970年三井製糖専務。1972年三井製糖社長。1974年全日本精糖工業会会長。同年全日本精糖工業会と日本精糖工業会が合併した精糖工業会の会長に就任。1976年に死去し、正五位勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年… 塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年)6月21日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、日本の紙芝居師である。 長野県須坂市に生まれ、17歳で上京し、ブリキ問屋に奉公するが後に紙芝居師としての活動を始める。1939年(昭和14年)に大阪市西成区に転居して紙芝居を始める。1947年(昭和22年)に紙芝居を制作・配給する三邑(さんゆう)会を設立する。後に全国に配給する絵元へと発展する。絵元とは、紙芝居を企画し、画家(原画)や作家(文章)に依頼して紙芝居として完成させ全国の紙芝居師に貸し出す仕事です。 1950年代には日本全国で紙芝居を披露し、多くの人々にその観賞に楽しむことに尽力する。
大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 19… 大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 1995年6月20日)は、日本の編集者。講談社の編集者として戦前〜戦後へと活躍した。主な編集誌に幼年クラブ、少年倶楽部などがある。のらくろの作者である、田河水泡と交流があった。 孫に大杉正人(オーストラリアシドニー在住)がいる。 本来大杉家は、地元の大地主であり大きな山林を所有していたが、大正恐慌のあおりを受け没落する。久雄は父より大杉家再興の為医者になることを命じられ、京都大学の受験の為の旅費を渡されるが、幼いころからの夢である文学への思いが立ちきれず京都へ向かう汽車で京都では下車せずそのまま東京へ向かう。 久雄は早稲田大学第一文学部への入学を決めるが、父は立腹しその年の正月の餅を久雄に送らなかったというエピソードが残されている。
島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 19… 島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 1995年12月26日)は、兵庫県神戸市生まれのプロ野球選手・監督・審判員。
渡辺 保(わたなべ たもつ、1908年6月21日 - 197… 渡辺 保(わたなべ たもつ、1908年6月21日 - 1973年1月26日)は、日本史学者。 1929年に児玉幸多、岡田章雄、斎藤忠、豊田武らとともに東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1932年に卒業。卒業論文は「中世武家の檢斷制に就いて」。新潟県高田師範学校教諭、神奈川県師範学校教諭を経て、1940年、明治大学予科教授となり、1949年に新制大学発足にあたり、同大学文学部教授となる」。源平抗争史を専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1… 牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1989年8月6日)は、日本の細胞遺伝学者。癌や染色体の研究で優れた業績を残した。北海道大学名誉教授。 千葉県成田市出身。1930年(昭和5年)北海道帝国大学農学部染色体学科卒業。 1932年(昭和7年)7月、自分の体に縄をつけて船上から倶多楽湖に潜り、エゾサンショウウオの幼形成熟個体を採集した。エゾサンショウウオの幼形成熟は1919年に発見されていたが、標本が残っておらず、牧野が獲たものが2020年の再発見まで唯一の標本となっていた。 1940年(昭和15年)「ハツカネズミ属の細胞学的研究」で理学博士。1947年(昭和22年)北海道帝大教授となり、山階鳥類研究所研究員、のち国立遺伝学研究所研究員を兼任。
苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)… 苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 - 1973年8月5日)は、日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。 岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。 戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。
黒沢 三郎(くろさわ さぶろう、1905年6月21日 - 1… 黒沢 三郎(くろさわ さぶろう、1905年6月21日 - 1996年2月22日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。 長野県南佐久郡八千穂村(現・佐久穂町)出身。1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に第十九銀行(のちの八十二銀行)に入行。1937年に常務を経て、1951年に副頭取に就任し、1973年5月には頭取に昇格。1975年12月に会長、1985年6月に取締役相談役を経て、1989年6月から相談役を務めた。 1977年4月に勲四等瑞宝章を受章し、1987年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1996年2月22日肺炎のために死去。90歳没。
小川 佐助(おがわ さすけ、1905年6月21日 - 198… 小川 佐助(おがわ さすけ、1905年6月21日 - 1987年10月30日)は日本の競馬騎手、調教師。 1934年に京都競馬倶楽部で騎手となったのち、1937年より日本競馬会(後に国営競馬→日本中央競馬会)の調教師となる。以後八大競走2勝を挙げたニューフォードや、皐月賞優勝馬ニホンピローエース、1977年に中央競馬の年度代表馬となったテンポイント(JRA顕彰馬)などの活躍馬を管理した。1982年、黄綬褒章受章。 アイヌ民族の活動家としても著名であり、北海道アイヌ協会が社団法人化された際には組織の中枢を担った。 甥にそれぞれ騎手・調教師の田所稔と田所秀雄、又甥に田所秀孝、田所清広(義理)がいる。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
姜 世馨(カン・セヒョン、朝鮮語: 강세형、1899年6月2… 姜 世馨(カン・セヒョン、朝鮮語: 강세형、1899年6月21日 - 1960年8月5日)は、大韓民国の政治家。第3代韓国国会議員。 妻は菌類学者の金三純で、2人の間に子供がいない。元国会議員の金洪鏞、金汶鏞、金星鏞(朝鮮語版)は妻の兄弟、李会昌は妻の甥である。 全羅北道益山郡(現・全北特別自治道益山市)出身。釜山公立商業高等学校、早稲田大学政経科、上智大学哲学科卒。ベルリン大学(現・フンボルト大学ベルリン)哲学科修了(哲学博士)。ドイツ通信社副社長、東国大学(現・東国大学校)哲学科教授、国防部政訓局長、第3代国会外務委員会委員長(1957年9月6日~1958年5月30日)、大韓学術院委員長を務めた。
菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 197… 菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 1975年7月13日)は、日本の法学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1898年、岩手県遠野で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。卒業後は同大学の副手となった。 1924年、ILO東京支局職員として勤務。1926年より欧米に留学を命じられた。1928年、九州帝国大学助教授に就いた。1929年に教授昇格。1943年から1945年には法文学部長を務めた。 1949年、第9代九州大学総長に就いた。1953年、日本学士院会員に選出された。学界では日本労働法学会の初代代表理事をつとめた。1962年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。
秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1… 秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1982年12月4日)は、日本の高分子化学者。 福岡県出身。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 商工省大阪工業試験所に入り、技手を経て技師となり、1935年学位を受け、同所の第四部長、第二部長を歴任。第二次世界大戦時には、陸軍兵器行政本部からの委嘱により、「重合「エチレン」蝋状物ノ合成ノ研究」を行っている。 1945年九州帝国大学工学部教授に就任。1951年大阪工業試験所および熊本大学教授も兼務。1956年3月九州大学評議員に選ばれ、1959年7月九州大学工学部長も併任する。 1961年帝人の常務取締役に転じ、開発本部長兼中央研究所所長を務め、1965年1月研究管理室長を委嘱され、1966年11月退任する。
渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年… 渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年〈明治31年〉6月21日 - 1967年〈昭和42年〉2月12日)は、日本の実業家。渋沢栄一の次男で後に廃嫡となる篤二の次男として生まれる。渋沢家の傍系に属しつつ、秩父鉄道、東京製綱、秩父セメント、玉村式索道など祖父・栄一関係の企業に関わり、出版・輸入事業「福本書院」でも活動した。兄に渋沢敬三、弟に智雄。 1898年6月21日、子爵・渋沢栄一の次男篤二と妻・敦子の次男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉にて生まれる。 敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。 1913年、父・篤二が廃嫡となる。
桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 -… 桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 - 1980年12月28日)は、日本の陸軍軍人、僧侶。最終階級は陸軍少将。法名、全覚。