加納 嘉徳(かのう よしのり、1928年4月14日 - 19… 加納 嘉徳(かのう よしのり、1928年4月14日 - 1999年5月21日)は、日本の囲碁棋士。京都府出身、日本棋院所属、鈴木秀子五段門下、九段。日大国文科卒。本因坊戦リーグ4期など。大平修三、加田克司とともに、戦後新三羽烏と呼ばれた。日本棋院副理事長、幹事を歴任。 9歳の時に上京して、鈴木秀子に入門。1943年(昭和18年)入段。1948年(昭和23年)青年棋士選手権戦優勝。1952年(昭和27年)五段。1958年(昭和33年)本因坊戦リーグ入り(以後1964年(昭和39年)、1969年(昭和44年)、1970年(昭和45年)にリーグ入り)。1961年(昭和36年)第5期首相杯争奪戦優勝。1964年(昭和39年)八段。
宮井 勝成(みやい かつなり、1926年4月14日 - )は… 宮井 勝成(みやい かつなり、1926年4月14日 - )は、中央大学硬式野球部総監督。元中央大学硬式野球部監督、元早稲田実業学校硬式野球部監督。
亀高 素吉(かめたか そきち、1926年4月14日 - 20… 亀高 素吉(かめたか そきち、1926年4月14日 - 2012年10月1日)は、元神戸製鋼所社長・会長。 神戸市出身。1946年に兵庫県立神戸経済専門学校を卒業、さらに1950年に神戸経済大学(現神戸大学)を卒業後、神戸製鋼所に入社。 1977年に取締役に就任。その後、常務、専務、副社長を経て、1987年に社長に就任した。社長在任時代、USスチール、テキサス・インスツルメンツ(TI)、アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカなどとの合弁事業を展開し、複合経営化を推進した。1996年から1998年までは会長を歴任。 また、秘書室長だった頃から、ラグビー部(現在の神戸製鋼コベルコスティーラーズ)の強化に尽力。
大谷 瑞郎(おおたに みずお、1926年4月14日 - 19… 大谷 瑞郎(おおたに みずお、1926年4月14日 - 1992年1月29日)は、日本の歴史学者。武蔵大学経済学部教授。 東京府荏原郡平塚村(現・東京都品川区)生まれ。東京、函館、静岡、富山に住み、富山高等学校尋常科・高等科を経て、1949年東京大学経済学部経済学科卒。学生時代は大内力のゼミに参加。1951年武蔵大学助手、1953年専任講師、1958年助教授、1960年教授。西洋経済史を担当。在職中に死去。
川野 洋(かわの ひろし、1925年4月14日 − 2012… 川野 洋(かわの ひろし、1925年4月14日 − 2012年12月18日)は、日本の哲学者、美学者。文学博士(大阪大学、1986年)。東京都立科学技術大学名誉教授、東北芸術工科大学名誉教授。 旧満州国撫順市生まれ。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1951年東京大学文学部哲学科卒業、 1955年東京大学助手、1961年東京都立航空工業短期大学講師(1965年助教授)、1971年東京都立工科短期大学教授、1986年東京都立科学技術大学(現・東京都立大学)教授、1990年長野大学教授、1994年東北芸術工科大学教授。 1990年東京都立科学技術大学名誉教授、1996年東北芸術工科大学名誉教授。
松島 茂雄(まつしま しげお、1924年(大正13年)4月1… 松島 茂雄(まつしま しげお、1924年(大正13年)4月14日 -1982年(昭和57年)11月2日)は、日本の実業家、美容指導者、和装教育者、ヨガ指導者、文学士、美容師、僧侶。本名 松嶌茂雄。 関西学院大学卒業後、東宝撮影所・美粧部に勤務。退職後、美容研究会・日本尚美会を発会、会長に就任。和装教育団体・全日本和装協会、ヨガ健康法普及団体・国際ヨガ協会を創立。連合会会長として各会の指導・運営に当たる。株式会社尚美会・代表取締役。宗教法人神通山千光院・院主。 1924年〈大正13年〉4月14日、大阪府豊中市に松嶌伊左衛門の長男として誕生。旧制豊中中学・剣道部で全国制覇するなど活躍。関西学院大学・文学部在学中からスポーツ新聞や美術写真集、雑誌 「文芸復興」などの出版事業を手掛ける。
大塚 達雄(おおつか たつお、1924年4月14日 - 19… 大塚 達雄(おおつか たつお、1924年4月14日 - 1999年7月26日)は、日本の労働経済学者、福祉事業家。 1949年に同志社大学法経学部経済学科卒、1948年-1954年に京都社会福祉研究所、京都府社会福祉協議会、京都市民生局などで社会福祉事業に携わる。1954年に同志社大学文学部社会学科助手、講師、助教授、1964年に教授、1990年に名誉教授。1955年、京都YMCAによって第一回肢体不自由児療育キャンプが琵琶湖畔の佐波江で行われた際に関わった事をきっかけとして、障害児の療育キャンプ(きゅうそキャンプ)を実施。のちに京都障害児福祉協会を設立し、理事長を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。
星野 平壽(ほしの へいじゅ、1924年(大正13年)4月1… 星野 平壽(ほしの へいじゅ、1924年(大正13年)4月14日 - 2005年(平成17年)5月2日)は、第3代東京都小金井市長。 東京府北多摩郡小金井村(小金井町を経て、現在の東京都小金井市)生まれ。1958年(昭和33年)日本大学法学部を卒業。卒業後は小金井町役場に入り、小金井市建設部長、ロータリークラブ役員などを務めた。 1979年(昭和54年)自民党・公明党・民社党・新自由クラブ推薦で市長に初当選。1981年(昭和56年)女性同伴出張問題で市議会の激しい追及を浴びて、同年2月17日市長の星野に対する不信任決議が可決。27日に市議会を解散したが、改選後の市議会でも再度不信任されることが確実になったことから4月15日に辞任を表明、同年5月8日付で市長を辞職した。
伊坂 重孝(いさか しげたか、1923年(大正12年)4月1… 伊坂 重孝(いさか しげたか、1923年(大正12年)4月14日 - 2016年(平成28年)7月22日)は、元学校経営者、元企業経営者。 この他、北海道教育委員や、社団法人日本民間放送連盟副会長、北海道文化財保護協会副会長、財団法人アイヌ無形文化伝承保存会理事なども務めた。1949年に道展に初入選以来、生涯にわたって絵画を趣味とした。 親族に札幌メディアパーク・スピカのデザインを担当した伊坂重春や、学校法人札幌学院大学専務理事を務めた伊坂員維がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白鳥 常男(しらとり つねお、1922年4月14日 - 20… 白鳥 常男(しらとり つねお、1922年4月14日 - 2012年10月16日)は、宮城県出身の医学者。奈良県立医科大学名誉教授。 宮城県築館中学校(現・宮城県築館高等学校)出身。陸軍航空士官学校を経て、東北帝国大学医学部へ進学、1950年に卒業。大学に勤務し、1959年日本平滑筋学会の前身、平滑筋・筋電図研究会の設立発起人となる。1961年東北大学医学部第一外科学講師、1971年同教室助教授となる。翌1972年初代中島佐一教授の後を受けて、奈良県立医科大学第一外科学教室教授。1979年 - 1981年、厚生省特定疾患「炎症性腸管障害」調査研究班班長。1980年同大学附属病院長。1988年同大学定年退職、叙名誉教授。
青木 成文(あおき しげぶみ、1922年(大正11年)4月1… 青木 成文(あおき しげぶみ、1922年(大正11年)4月14日 - 1996年(平成8年)5月10日)は、日本の原子力工学者。東京工業大学名誉教授。東京工業大学原子炉工学研究所所長や、日本伝熱学会会長、原子力委員会放射性物質安全輸送専門部会部会長、運輸省放射性物質等海上輸送技術顧問会会長などを歴任した。 現在の東京都港区出身。1945年東京工業大学機械工学科卒業。工学博士取得後、東京工業大学大学教授、東京工業大学原子炉工学研究所所長を経て、東京工業大学名誉教授、電力中央研究所研究顧問、日本原子力文化振興財団副理事長。日本伝熱学会会長、原子力委員会放射性物質安全輸送専門部会部会長、原子力委員会原子炉安全専門審査会委員、運輸省放射性物質等海上輸送技術顧問会会長なども歴任し、1993年に勲三等旭日中綬章を受章した。
森田 重郎 (もりた じゅうろう、1922年(大正11年)4… 森田 重郎 (もりた じゅうろう、1922年(大正11年)4月14日 - 1990年(平成2年)9月18日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 埼玉県秩父市出身。西武自動車秩父営業所長を務めた森田實太郎の長男として生まれる。 埼玉県立熊谷商業高等学校を経て、1946年(昭和21年)に中央大学経済学部を卒業すると近江鉄道に入社。その後国土計画興業、西武鉄道グループの各社で職を転々としつつ、グループ首脳の堤康次郎の次女・邦子と結婚した(後に離婚)。康次郎が死去すると息子の堤清二、義明兄弟や女婿で西武鉄道社長だった小島清治郎、グループ全体の財務を担当していた西武鉄道専務宮内巌とともにグループの最高意思決定にかかわる立場となり、自らは、西武化学工業、三笠コカ・コーラボトリング、近江鉄道社長などを務めた。
永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 19… 永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 1975年5月17日)は、日本の広告研究者、評論家。 山梨県塩山市郊外に生まれる。山梨県立日川中学校、多摩美術大学卒業。台糖株式会社宣伝課長、日本経済新聞社『日経広告手帖』編集長、中部日本放送「CBCレポート」編集長、「週刊明星」創刊にかかわり、市場調査機関・永田オペレーション・センターを設立、のち電通PRセンターとし、初代社長となる。1970年株式会社ジャパーク(JPRC)を創立。評論家として著書多数を著した。 1960年代、永田が電通PR(現電通パブリックリレーションズ)社長時代提唱したとされる。
長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 - 19… 長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 - 1996年1月5日)は、日本の編集者、実業家。青林堂の創業者で、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。 白土三平、水木しげる、つげ義春、花輪和一、蛭子能収、矢口高雄、滝田ゆう、淀川さんぽ、楠勝平、佐々木マキ、林静一、池上遼一、安部慎一、鈴木翁二、古川益三、ますむらひろし、勝又進、つりたくにこ、川崎ゆきお、赤瀬川原平、内田春菊、丸尾末広、ひさうちみちお、根本敬、南伸坊、渡辺和博、みうらじゅん、杉浦日向子、近藤ようこ、やまだ紫、山田花子、ねこぢる、山野一、泉昌之、西岡兄妹、東陽片岡、魚喃キリコ、など有名作家にもなった異才を多数輩出した編集者の一人。
久保田 美文(くぼた よしふみ、1920年4月14日 - 2… 久保田 美文(くぼた よしふみ、1920年4月14日 - 2005年1月24日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業(現在のダイセル)社長、会長を務めた。和歌山県出身。 1943年に東京商科大学を卒業。大蔵省理財局での勤務を経て、1951年に大日本セルロイドに入社。1967年1月に取締役に就任し、1971年1月に常務、1974年11月に専務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1979年9月には社長に昇格。1988年6月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2005年1月24日くも膜下出血のために死去。
香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991… 香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991年5月13日)は、日本の児童文学作家、教育評論家。 香川県高松市中新町出身。旧制高松中学から日本大学(芸術科)に進むも中退し、香川県師範学校を卒業。 終戦まで北支と満洲で軍隊生活を送る。戦後、高松市内の小・中学校で教鞭をとった。1951年に上京。川越市立富士見中学校を振り出しに、1960年志木市立志木中学校の校長となり、1980年新座市立新座中学校の校長を最後に退職した。 その間作家として活動、1967年「セトロの海」で野間児童文芸賞、1980年「高空10000mのかなたで」で小学館文学賞受賞。 「中学生文学」を創刊し、編集長を務めて文学教育にも取り組んだ。
小池 欣一(こいけ きんいち 1919年4月14日- 200… 小池 欣一(こいけ きんいち 1919年4月14日- 2008年7月4日)は、日本の官僚。元内閣官房副長官(事務担当)。従三位勲一等。東京府出身。
神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986… 神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986年7月13日)は、日本の俳優・声優。東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。本名は神田 澄孝。かかしプロ、アマチプロゼ、北川事務所に所属していた。 東京帝国大学文学部仏文科を卒業。1942年に日本出版文化協会に入った。上司には南條範夫・杉浦明平、同僚に柴田錬三郎がいた。しかし、映画評論家の内田岐三雄に豪快なマスクと雄弁を注目されて、1943年(昭和18年)、松竹大船撮影所に入社した。映画『暖き風』でデビューし、戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得た。 新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』などで主要な役を演じたが、代表作には恵まれなかった。
立田野 邦清(たつたの くにきよ、1918年4月14日 - … 立田野 邦清(たつたの くにきよ、1918年4月14日 - 1971年7月23日)は、石川県石川郡(現白山市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は窪川 清(くぼかわ きよし)。身長173cm、体重115kg。最高位は西前頭7枚目(1945年6月場所)。 出身地の白山市松任から「マットウさん」のあだ名で呼ばれた。右肩から当たって右を差し、そのまま出ていく取り口で、時に投げ技や捻りも見せたが基本は勝ち味の遅い"相撲好き"タイプ。羽黒山の土俵入りでは太刀持ちを務めた。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 200… 楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 2008年9月13日)は、日本の撮影技師である。名の読み「ひろゆき」は誤りである。 1916年(大正5年)4月14日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 旧制・京華中学校(現在の京華高等学校)を卒業する。1934年(昭和9年)、松竹蒲田撮影所に入社、撮影部に配属されて撮影助手となる。小原譲治、厚田雄春らに師事する。1936年(昭和11年)、撮影所が蒲田から新設の松竹大船撮影所に引越し、楠田も異動になる。 1943年(昭和18年)、技師に昇進し、木下恵介監督の第1作『花咲く港』で、木下とともに一本立ちする。また、翌1944年(昭和19年)に木下の妹の芳子(のちに脚本家として活動する)と結婚する。
小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014… 小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014年5月28日)は、日本の教育者、ファッションデザイナー育成者。文化服装学院名誉学院長、文化服装学院10代目学院長、文化女子大学教授、勲四等瑞宝章。 長野県須坂市出身。旧姓は花園。文化裁縫女学校(現:文化服装学院)卒業。 1916年4月14日に長野県須坂市で米穀商を営む父:花園亀(ヒサシ)、母:咲(さく)の第二子長女として生まれる。1933年、須坂高等女学校(現:須坂東高等学校)を卒業後、文化裁縫女学校(現:文化服装学院)本科に入学。1934年に研究科に進み、1935年に研究科卒業と同時に学院に残り教員の道を選び、助手として最年少19歳の「先生」となる。
林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 … 林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本の歴史学者・文化史家。 立命館大学教授・京都大学人文科学研究所教授・京都国立博物館長などを歴任。中世史の研究において大きな足跡を残した。 1914年(大正3年)、石川県金沢市に生まれた。父は茶商を営んでいた四代林屋新兵衛で、四男であったことから生後1年足らずのうちに新兵衛の次兄林屋次三郎の養子となり、生家を離れて東京に移った。 1924年、中華民国・北京に一家で渡航・居留。2年後の1926年、中学校入学準備のため単身帰国した。慶應義塾幼稚舎に入学し1927年に慶應義塾普通部に進学。翌1928年京都に移住し、京都府立京都第一中学校第2学年に編入学した。
吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 199… 吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 1996年5月23日)は、昭和初期に活躍した中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)のエース。甲子園で史上最多となる23勝を記録した。
井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 -… 井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 - 1946年(昭和21年)6月20日<死亡認定日>)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにインドシナ戦争に参加して戦没。ベトナム語の愛称はレチゴ。 茨城県出身。小学校校長・井川省三の二男として生まれる。水戸中学校を経て、1931年(昭和6年)4月に陸軍士官学校予科に入学。1935年(昭和10年)6月、陸軍士官学校本科(47期)を230番/330名で卒業する。同年9月、騎兵少尉に任官し、騎兵第8聯隊附となる。1937年(昭和12年)8月、騎兵中尉に昇進。1938年(昭和13年)7月、騎兵第4旅団戦車隊付となり、1939年(昭和14年)8月、騎兵大尉に進級。
古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 19… 古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 1995年8月29日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史・農業史。東京大学名誉教授。 1912年、長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で生まれた。飯田中学校を経て、1932年3月第八高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。1936年3月に同大学を卒業。 1939年10月、東京帝国大学農学部講師に就任。 1948年10月、東京大学農学部助教授となった。1949年、学位論文『元禄時代に於ける農学の発達とその地盤』を東京大学に提出して農学博士号を取得。 1959年、東京大学農学部教授に昇格。翌1960年から日本経済史講座の担当者が戦死したため空席になっていた一橋大学経済学部教授を併任し、永原慶二とともに中村政則、西田美昭ら多くの後継者を育てた。
澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 … 澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の政治家。初代阿南市長。早稲田大学法学部中退。徳島県阿南市日開野町出身。 早稲田大学法学部を中退後、旧富岡町収入役・町長を歴任。 1958年(昭和33年)5月に阿南市が発足し、初代市長に就任。1970年(昭和45年)まで12年間に渡り阿南市長を務めた。市長在任中は旧神崎製紙、阿南工業高等専門学校、徳島県立阿南工業高等学校等の誘致や各産業の振興に努めた。市長退任後は社会福祉協議会会長、四国治水期成同盟会会長、阿南信用金庫理事長等を歴任した。 1986年(昭和61年)の没日をもって阿南市名誉市民に選定される。
大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月1… 大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月14日 - 1980年(昭和55年)7月12日)は、沖縄県出身の洋画家。二科会会員。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に入学し、在学時に美術教師・比嘉景常の指導を受ける。1934年(昭和9年)、東京美術学校を卒業する。 1936年(昭和11年)、沖縄県の私立開南中学校(沖縄戦により廃校)の美術教師となる。沖縄美術展覧会の創設に参加した。 太平洋戦争後、名渡山愛順・安谷屋正義らと首里儀保町のニシムイ美術村にアトリエを設ける。1950年(昭和25年)には琉球大学助教授に就任した。 代表作に久高島の祭事・イザイホーに取材した『神々の誕生』などがある。
鍋島 綱利(なべしま つなとし、1910年4月14日 - 1… 鍋島 綱利(なべしま つなとし、1910年4月14日 - 1969年9月26日)は、日本の実業家。住友電気工業元社長。佐賀県鹿島市出身。 朝鮮総督府通信技手・鍋島鋼三の長男。1927年(昭和2年)に第五高等学校に入学、弓道部で主将を務めた。 1933年に東京帝国大学法学部を卒業し、住友電気工業に入社した。翌年には、高校の後輩でのち住友ゴム工業社長となる下川常雄も入社し、下宿先を貸し出した。1939年4月1日、第2期経理部甲種幹部候補生として陸軍経理学校に入学し、同年9月23日卒業。歩兵第56連隊(55連隊とも)附主計少尉として太平洋戦争を迎える。淡路山丸よりコタバル上陸作戦に参加。翌年2月のジョホール水道上陸作戦では自ら戦線を志願し、背中に銃創を負う。
鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 20… 鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 2017年9月10日)は、日本の政治家。浮羽町長(6期)を務めた。 1908年4月14日、福岡県浮羽郡浮羽町(現うきは市)に生まれる。1935年、福岡師範学校(現福岡教育大学)専攻科卒業。1941年3月、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験日本史東洋史に合格し、1942年1月より、福岡県学務部社会教育課兼学務課勤務となった。その後、三井地方事務所教育課長、教育庁三井出張所長、糟屋出張所長、福岡県教育委員会社会教育課長を歴任し、1963年8月に福岡県国民健康保険課長在職時に退職した。1969年12月、浮羽町長に無投票で初当選した。1981年11月21日、無投票で6選を果たした。
安田 一(やすだ はじめ、1907年(明治40年)4月14日… 安田 一(やすだ はじめ、1907年(明治40年)4月14日 - 1991年(平成3年)3月26日)は、安田財閥三代目当主。 安田善次郎の長男。旧制学習院高等科卒業。1932年(昭和7年)、東京帝国大学文学部支那文学科卒業。二代目安田善次郎の急逝のあとをうけて、1936年(昭和11年)、29歳で安田保善社総長に就任。後見役には叔父安田善五郎が就いた。以後安田銀行会長、安田生命会長など、安田グループの要職を歴任。1945年(昭和20年)財閥解体にともない、翌年公職追放となるが、日本貯蓄銀行(後の協和銀行)会長を経て、1953年(昭和28年)安田生命会長、安田火災海上相談役に復帰。経団連顧問、日本デンマーク協会会長等を務めた。
田坂 具隆(たさか ともたか、明治35年(1902年)4月1… 田坂 具隆(たさか ともたか、明治35年(1902年)4月14日 - 昭和49年(1974年)10月17日)は、日本の映画監督。広島県出身。
八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 198… 八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 1987年10月26日)は日本の考古学者。 専攻は縄文時代、民具の研究。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
小川 鼎三(おがわ ていぞう、1901年4月14日 - 19… 小川 鼎三(おがわ ていぞう、1901年4月14日 - 1984年4月29日)は、日本の解剖学者・医史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。元日本医史学会理事長。大分県出身。 1901年、大分県杵築町で生まれる。三高、東京帝国大学医学部卒業。東北帝国大学助教授、東京帝国大学助教授、1944年教授。東京大学教授を62年に定年退官、名誉教授、順天堂大学教授、順天堂大学医学部医史学研究室を創設した。1934年、医学博士(東北大学)(学位論文:「水棲哺乳動物の中枢神経系に関する知見補遺 (独文)」)取得。 1951年「小細胞性赤核の機能解剖学研究」で日本学士院賞受賞。1964年『医学の歴史』で毎日出版文化賞受賞。
山中 正夫(やまなか まさお、1901年4月14日 - 19… 山中 正夫(やまなか まさお、1901年4月14日 - 1989年2月3日)は、日本の経営者。三菱セメント社長、三菱鉱業セメント会長を務めた。福岡県築上郡築城町出身。位階は正四位。 1925年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1950年に取締役に就任し、1954年に三菱セメント常務、1957年5月に副社長を経て、1958年5月には社長に就任。1973年5月に三菱鉱業セメント会長に就任し、同年11月には相談役に就任。 1966年4月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年2月3日呼吸不全のために死去87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月… 佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月13日)は、日本の小説家。農民(百姓)の辛さ、愚かさ、悲しさ、したたかさ、美しさを、じっと見据えつづけた作家である。宮城県大崎市の農家出身。鉄道員、小学校の代用教員などののち新潮社に入り、『文学時代』などを編集。加藤武雄に兄事し、新興芸術派に属して猟奇小説、探偵小説などを書き、農民文芸会に属し活動したが早世した。 川端康成は、「農民文学」「農民小説」の旗手の佐左木の夭折を惜しみ、不当に扱われた作家として、その才能の「尊さ」を評し、「(農民作家で)見るに足る作品活動を示してゐたのは、芸術派では、実に佐左木氏たゞ一人だつた」とし、「嘉村礒多氏の全集が出るのに、佐左木俊郎氏の農民小説は忘れられかかつてゐる。
黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 198… 黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 1986年10月21日)は、日本の農民運動家、政治家、弁護士。1948年結成の労働者農民党の初代主席。元衆議院議員。 岡山県津高郡金川村(のち御津郡金川村→金川町→御津町、現・岡山市北区)出身。第六高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。在学中に新人会で活動し、学生連合会を結成、委員長となる。法曹資格を得て後は自由法曹団で労働運動・農民運動を支援。労農党、労農派に参加した。1929年(昭和4年)には東京無産党を結成して書記長に就任、翌年に全国大衆党に合流した。 1936年(昭和11年)に行われた第19回衆議院議員総選挙に岡山県第1区から全国農民組合の支援を受けて出馬。
牧原 源一郎(まきはら げんいちろう、1897年(明治30年… 牧原 源一郎(まきはら げんいちろう、1897年(明治30年)4月14日 - 1986年(昭和61年)8月3日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県北会津郡荒舘村長、同郡北会津村長。 福島県出身。旧会津藩士の家系、牧原長英の長男として生まれる。1917年(大正6年)福島県立会津中学校(現福島県立会津高等学校)を卒業した。 農業を営む。会津銀行監査役、東邦銀行監査役、保証責任福島県信用販売購買利用組合連合会監事、福島県信用組合連合会幹事、農村協同体建設同盟福島県支部本部長、大政翼賛会福島県支部事務局長、福島県翼賛壮年団副団長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け福島県第2区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14… 松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14日 - 1962年(昭和37年)5月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。開拓使の松本十郎の孫にあたる。
相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14… 相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14日 - 1989年(平成元年)10月16日)は、日本の独文学者。 東京大学名誉教授、鶴岡市名誉市民(第一号)、勲二等瑞宝章受章、文化勲章受章。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。山形県鶴岡市出身。幼名は鈇太郎(おのたろう)だったが、鉄太郎(てつたろう)と間違えられることが多かったため、数え23歳の年の瀬に郡長の許可を得て守峯と改めた(『茫々わが歳月』p.7)。 木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。 大独和辞典の編纂やゲーテの研究等でも有名。日本独文学会の創設に貢献した。
湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4… 湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4月14日 - 1978年(昭和53年)12月2日)は、日本の政治家。1959年から1971年まで富山市長を3期務めた。位階は正五位。 富山県上新川郡東岩瀬町(現富山市東岩瀬町)出身。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)卒業。1929年(昭和4年)富山市議会議員に初当選、以後富山市議会議員(3期)、富山県議会議員(3期、自由党(現自由民主党)公認、1952年から1954年まで富山県議会議長)、自由党県連幹事長を歴任。 1959年(昭和34年)富山市長に当選就任。以後1971年まで3期にわたり市長を務めた。 全国市長会理事、加越能鉄道(現加越能バス)取締役、立山黒部貫光取締役を歴任。
矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 197… 矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 1972年3月9日)は日本の医師、医学者、衛生学者。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)生まれ。1917年旧制東京慈恵医院医学専門学校卒業。1922年からドイツのフライブルク大学に留学し、細菌衛生学を学ぶ。帰国後の1925年に東京慈恵会医科大学教授となり、衛生学教室を創設。1956年には学長に就任した。 研究では特に、生物発光に関する研究、日光紫外線に関する研究で知られ、郷里の諏訪湖産のヌカエビの発光の本態が淡水棲発光バクテリアの感染によるものであることを発見(ホタルエビも参照)、また各種魚類における共棲発光の実例を実証した。戦後は日本で最初に蛍光顕微鏡を開発し、結核菌の検出などの実績を上げた。
小岩井 貞夫(こいわい さだお、1893年〈明治26年〉4月… 小岩井 貞夫(こいわい さだお、1893年〈明治26年〉4月14日 - 没年不明)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)、地主、神奈川県多額納税者。早稲田大学評議員。 神奈川県人・小岩井義八の長男。1917年、早稲田大学大学部商科卒業。茂木合名会社機械部に勤務した。県会議員、全関東連盟野球団会長、国民同盟県支部総務をつとめた。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 趣味は運動、政治、釣。宗教は真宗。住所は横浜市中区(現・南区)三春台、同区南太田町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 196… 伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 1961年11月6日) は、日本のダンサー、振付師。 東京府東京市神田区生まれ。伊藤為吉の長男。慶應義塾普通部卒業。1911年に帝国劇場歌劇部に入団し、三浦環との共演でドイツ語のオペラ『釈迦』で初舞台。 1911年11月1日に声楽家を志し19歳でパリに留学、シャトレ座でニジンスキーを見る、ロダンや、ドビッシー等と交流をもつ。1912年にドイツに移住、ベルリンではイザドラ・ダンカンの公演を観る。その後、ライプツィヒに滞在、ドレスデン郊外ヘレラウのエミール・ジャック=ダルクローズ舞踊学校に入団。 1914年 第一次世界大戦の影響で英国に渡る。1915年、ホルストに 舞踊曲『日本組曲』の作曲依頼をした。
宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月… 宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月14日 - 1974年(昭和49年)2月27日)は、大正から昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。屏東市尹、高雄市尹。北海道函館市長。 岡山県久米郡吉岡村(現在の美咲町)出身。1914年(大正3年)から兵庫県で巡査、巡査部長、警部を歴任。1924年(大正13年)に台湾に渡り、警務局勤務、文教局属、新竹市助役、豊原郡守を歴任。1936年(昭和11年)、屏東市尹に就任し、翌年に高雄市尹に転じた。 退官後、台湾製糖株式会社企画部長、同総務部長、高雄州会議員、屏東商業会議所会頭などを務めた。 戦後は函館市助役を経て、坂本森一の急逝をうけて1947年(昭和22年)に市長に選出された。
宮崎 高四(みやざき たかし、1892年4月14日 - 19… 宮崎 高四(みやざき たかし、1892年4月14日 - 1932年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府出身。1917年、東京帝国大学経済科卒。阪堺電鉄、大阪土地建物、高松百貨店各(株)取締役、木津川土地運河、門司築港各(株)監査役となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において熊本2区から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年5月に死去した。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949… 岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鳥取県鳥取市江崎町出身。 岡田資は中尉時代の1916年(大正5年)12月から約1年間半にわたって、第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。岡田は1930年(昭和5年)には秩父宮付武官を務めている。若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した(11名は略式の軍律会議で死刑判決が出たとされ、処刑は6月28日、瀬戸市付近。
岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月… 岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月14日 - 1981年(昭和56年)1月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海兵37期。最終階級は海軍少将。酸素魚雷と特殊潜航艇(甲標的)の開発を成功させた。実兄は岸本信太海軍中将(海軍機関学校10期)。岳父は豊辺新作陸軍中将。 岡山県出身。岡山一中を経て海軍兵学校(37期)を卒業。席次は179人中23番。岸本は海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科、同特修科を修了した水雷専攻の士官で、「夕暮」駆逐艦長、「長良」水雷長、「霧島」水雷長、海軍水雷学校教官、呉海軍工廠魚雷実験部員、第九駆逐隊司令などを歴任した。 他に、第五戦隊参謀、海軍兵学校教官、第三艦隊参謀、連合艦隊参謀などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐に進級。
衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日… 衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日 - 1958年10月13日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。学位は、文学博士。駒澤大学総長(1953年就任)。近代曹洞宗の宗学の確立に尽力。号は不喚。 大分県宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身。雲栖寺・雪洞明につき得度、心月院(兵庫県)にて弘津説三に嗣法して大応寺(山口県)住職となる。1904年曹洞宗大学(現:駒澤大学)、1912年京都帝国大学文学部印度哲学科卒業。曹洞宗大学教授として1921-24年英国、フランス、ドイツに学び、帰国後に駒澤大学教授。1928年京都市安泰寺住職。1937年学寮「道憲寮」を創立。 1944年「宗祖としての道元禅師」で京都大学より文学博士の学位を取得。